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5000文字の駄文がお前らを襲う。暇人以外は帰ったほうがいい。




拍手[3回]

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「ほんと、せっかく君の誕生日なのに、どうしてこうなっちゃうかなあ」

千枝は一緒に作った料理を見て、ちょっと落ち込んでいる。

「いや、唐揚げなんかは味付けは悪くないし食べられる。他のものも、食べられないことはない」

少し前の千枝からすると、すごい進歩だ。そうフォローしたが、千枝の顔は晴れなかった。彼女は自分の作ったものを見ながら、しばらくぐぬぬ、と唸っていた。
俺はそれを横目で見つつ、別に全然気にしなくていいのにな、などと思いながら皿に料理を取り分け始めた。
食べ始めれば、きっと千枝も余計なことは考えなくなるはずだ。今日の料理には、自分の自信作だってたくさんあるのだ。
と、その時の千枝の顔を想像して少しニヤニヤしてしまいながら配膳していると、そうして唸っていた千枝が突然、何かを決心したかのような顔で、俺に言った。

「ちょっと、待ってて」

なぜか真っ赤な顔でそう言ったかと思うと、千枝は2階の俺の部屋へと引っ込んでいってしまった。

一体なんだろうと首を傾げながら、俺は配膳を進めた。
今日はすでにプレゼントをもらっているが、もしかして他にサプライズプレゼントでもあるのだろうか。
そんな暢気な考えを頭の中で展開していると、割とすぐに千枝は階下へと戻ってきた。

配膳の手を止め、彼女にどうしたんだと声をかけようとした瞬間、俺は千枝を見て固まった。
いつもツッコミ役に回ったり、普段は割と常識人の彼女だったが、予想のつかない斜め上の行動をする時というのも、実はあるらしい。
千枝が、とんでもない姿でそこに立っていた。

こんなシチュエーションが本当にあるのかと疑問に思いながらも、やっぱり自分も男だから、ちょっと見てみたいな、ぐらいには思っていた。実際に見てみると、何というか非現実感があって、インパクトがある。
思わず手を伸ばしかけたが、何とか引っ込めた。正面からだと少し分かりづらいが、たぶん千枝は、素肌にエプロンという、いわゆる裸エプロンと呼ばれる姿でそこに立っていた。

「あんまり見ないで……って言うのも、ちょっとおかしいけどさ……」

絶句している俺を見て、あはは、と頬を掻きながら、千枝は弁明した。

「なんか、全然役に立たなくてごめんね。他に何かあたしに出来ることないかなって考えたら、こんなことくらいしか思いつかなくて。男の人って、こういうのが好きなんでしょ?」

どういう所からそういう知識を得ているのだろうか。まあ間違ってはいないのだが、実際に彼女にこういうことをされると、どうにも困ってしまう。
いじらし過ぎるにも程がある。だから、今すぐ手を伸ばして抱きすくめたいと思っても、憚られた。肌の露出が多すぎて、どこをどう触っていいかも分からない。
そうして自分の中の天使と悪魔がせめぎ合ってなんとか耐えているのに、千枝はまた、こんなことを言う。

「でもごめん。ちょっと中途半端かも。上はなんとか脱げたけど、下は……ちょっとやっぱり無理だった。完全再現は恥ずかし過ぎて……」

思わず目頭を手で抑えた。
言い方が生々し過ぎる……。見たところ今日履いてきたはずのスカートは履いていないし、一応下着にまではなってしまっているようだ。かなり恥ずかしがりな千枝なはずなのに。
自分のためにこんなに頑張ってくれた彼女に、やっぱり簡単に手は出せない。そう思った俺は、その小さな形の良い頭の上にポンと手を置いて、言ってやった。

「気にしなくていいのに」

近づいてみると、やっぱり恥ずかしさからか、彼女は熱っぽく涙目になってしまっていた。

「嬉しく……なかった?」

そうして見上げてくる千枝にまた少しぐらついたが、俺は首を振った。

「いや、そんなことないよ。彼女がここまで自分の為にしてくれたって考えたら正直……理性が飛びそう。今も、色んなこと耐えてる」

そう言うと、千枝はやっ、と慌てて腕を交差して、顔を赤らめた。
その顔は逆効果だからやめた方がいいと言おうと思ったが、あまりにそれが可愛かったから、黙っていた。
代わりに、俺は千枝の額を指でつんと小突いた。

「でもそこまでしなくてもさ。誕生日を好きな彼女と過ごして、一緒に楽しく料理してって出来れば、もうそれだけで嬉しいんだよ俺は。そんな頑張らなくたって」
しかしそう言っても、千枝は口を尖らせながら、恨めしそうに俺を見た。
「……その料理に、物体Xがあっても?」
その言葉に、俺は苦笑した。普段はあっけらかんとしているように見えて、実は料理が下手なのを結構気にしていたのかもしれない。
ぶすっとしたその顔も可愛くて、俺はまたその撫でやすいマッシュルーム頭を、優しく撫でてやった。
「今回は、物体Xなんかじゃないから。確かに見た目はよくないかもしれないけど、ちゃんと味見もしたし、大丈夫」

だから早く服を着て、千枝が一生懸命作った料理を食べよう。
そうまで言ったのに、しかし千枝は引き下がらなかった。
なにやら俺をじっと見つめたかと思うと、今度は盛大に溜息をつきながら、千枝は言った。

「……あたしって、魅力ないかな?」
「え?」
急に変なことを言い出す千枝に、思わず気の抜けた返事をしてしまった。
「そりゃありせちゃんとか雪子みたいに女の子っぽくないし、直斗くんみたいにナイスバディじゃないけどさ」
まずい。
「もうちょっと、その……がっついてくれてもいいかなって」
ちょっと変なスイッチが入ったかもしれない。
「そういう風にクールで、落ち着いたところも好きだけどさ。あたしも割と、色々と覚悟してこの格好になったから、ちょっとショックかなって……」

千枝はたまに、こういう風にネガティブになることがある。いつも元気な彼女だったから、最初はてっきり四六時中そうなのかと思っていたのだが、どうもそれは違うらしいのだ。
基本的には、彼女はとても強い人だ。でもそんな彼女にも、やっぱり歳相応の普通の女の子な部分はある。だから当然、自分に自信が持てないところだってあるのだ。

それは分かっていたからはっきり言ったつもりだったが、まだ足らないということだろうか。
じゃあ、もっとはっきり言ってみればいいのだろうか。

「魅力ないとか、本気で言ってるのか?」
「だって」
「俺がクールとか、落ち着いてるとかも、そんなの装ってるだけだから。がっつかないのも、嫌われたくないだけだし。本当は今すぐにでも千枝を抱えて、俺の部屋に放り込みたいと思ってるんだけど」
「え!?」

それは本当のことだ。なんで肉ばかり食べてるとか言ってるのに、そんなに肌が白くて綺麗なのか。男とは絶対的に違う、その彫刻みたいな、あるいは陶器みたいな、きめ細やかで滑らかそうな肌。ここまで肌色をさらされると、触ってみたくてうずうずする。
しかし俺はふるふると頭を振って、その煩悩を散らした。
そうするのは、まだ早い。と言うより、もったいないと思った。
俺は固まっている千枝に寄り、その頬を撫でた。

「でも俺はもっと、ゆっくりでいいんじゃないかと思うんだ」

千枝の頬にうっすらとついていた小麦粉を拭ってやる。俺を喜ばせようと一生懸命やってくれた証みたいで、そんな小さなことでも愛おしくて、胸が温かくなる。
俺は千枝に言った。こんな今を、俺はとても大事にしたいと思っていると。
自由に触れ合えるようになった後も、きっと素晴らしい時間になるのだろうとは思う。だけどそうなる前のこういう時間だって、きっと同じように貴重で大事な時間なんじゃないか。そう思うんだと、俺は彼女に言った。

「最高の料理が目の前にある時に、それを味わわないでガツガツ食べちゃうのは、なんかもったいないだろ?ゆっくり噛みしめるように食べる方が、俺は絶対いいと思う」

ふとした拍子に肌が触れてしまって慌てたり、互いに苦労して繋いだ手の、意外な感触に驚いたり……。
つい最近のことだけでもこれだ。まだまだ他にもたくさんあるだろう。そういう全てを味わわずに、一足飛びに先に行ってしまうのは、もったいない。

「時間はこれからいくらでもある。だから……」

と、続けようとした所で、ふと俺は気付いた。
いつの間にかまた千枝が、宙の一点を見据えながら、固まってしまっていたのだ。

「千枝……?」

名前を呼ぶと、そこでようやく千枝の目の焦点が合う。

「あ……あっはははー……」

そして目が合うと、千枝はびゅん、と結構な勢いで俺から目をそらした。
気付くと彼女の顔は、本当にさっきまで二人で切っていたトマトのように赤くなっていて、耳まで真っ赤だった。普段から照れ屋な所はあるが、これ程の顔は初めて見る。

「どうした?」
なぜこんな顔をするのか分からなくて、率直に訊いた。
「い、いやー……」
それでもまだこちらを向かないまま、千枝は自分の頭を撫でるように掻いた。
「さては、今になって恥ずかしくなってきた?だったら俺はもう十分堪能させてもらったし早く……」
「いや、違くて、さ……」

なぜか煮え切らない彼女に、俺は首を傾げてしまった。
他に何か、彼女がこんな顔になるようなことがあっただろうか。

なんだろうと思って辛抱強く待ってみる。そうしてこちらが完全に待ち体制に入ると、千枝はそれに気付いたのか、何とか話し出そうと努力し始めた。
それでもうー、あーなどとさんざん躊躇したが、しばらくすると、千枝はようやく観念したかのように真っ赤な顔をこちらに向け、言った。

「えっと……ごめん。嬉し過ぎて、頭がショートしちゃってた。……あはは!なんかくすぐった過ぎて、顔がどうしても熱くなっちゃう。誉められ慣れてないせいかなあ。変なの」

千枝はぱたぱたと自分の顔を手で仰ぐが、そう言われても、俺には何が何やら分からない。
何が嬉しいのかと訊いてみる。すると千枝は潤んだ瞳で、俺を真っ直ぐに見据えた。
そして、彼女は遠慮がちにぽそりと呟くように、俺に言った。

「君にとって、あたしは“最高の料理”なんだ?」

それを聞いた瞬間、彼女がついさっき好きだと言ってくれたばかりの『落ち着いた自分』が、もろくも崩れ去ってしまった。
一体何のことだと自分の言葉を反芻してみて、すぐに思い当たったのだ。
今度はこちらが真っ赤なトマトになる番だった。血液が逆流したみたいに、頭の方に血がどんどんと昇っていってしまう。

それは自分にとって、全くの無意識の言葉だった。意識的に言った言葉はさして恥ずかしくもないのだが、より本当っぽくなってしまうからか、これは恥ずかしい。いつも言ってる言葉だって、決して嘘ではないのだけれど。

そうしてもうこれ以上ないくらいに顔が火照っているところに、今までのお返しとばかりに、追い打ちもかけられた。

「え……っ」

思わず俺は、頬を撫でさすった。
もうすでに千枝の顔は元の場所にあったが、確かに自分の頬には、その柔らかな感触が残っていた。
優しく、触れるようなキスだった。だけど痺れるような疼きが、確かにそこには残っていた。

千枝は言葉を失っている俺を見て、頬を染めながら、満足そうににへらと笑った。

「……えへへ。そんな顔もするんだね、君。いつも私ばっかりあわあわさせられてたから、やっとお返し出来たかも」

そして千枝はおもむろに俺に寄り、

「そうだね。まだまだいっぱいこういう初めてがあるのに、急いじゃうのはもったいないね」

びっくりするくらい小さな声でそう言うと、千枝は俺の腰に手を回して、その顔を俺の胸に埋めた。

「ち、千枝……?」

細くて白い肩が目の前にあった。加えて腹の辺りには、何だか柔らかい感触もする。ドキドキと彼女の鼓動も伝わってきて、その余りの近さにおかしくなってしまいそうだった。
どうにも出来なくて、俺の両手は宙に浮いたまま、虚空を彷徨った。

「君の言ってること、すごい分かる。素敵だと思う。あたしもそうしたい。でも今は……」
熱っぽい瞳が、ふいに俺を射抜いた。
「優しく抱きしめてくれると、嬉しいな……」

いつもはどちらかと言うと男っぽいところも確かにある。しかしだからこそと言うべきか、時々こうして出てくる乙女な彼女は、どうしようもないくらい反則的に可愛い。
もはや我慢の限界だったが、それでも俺は、ぐっと自分の中の獣を押さえつけた。
さっきの自分の言葉を、嘘にするわけにはいかないのだ。自分は本当に、彼女のことを大事に思っているのだから。

俺は彼女の頭を優しく自分の胸に寄せ、その素肌の腰を軽く抱いた。
また天使と悪魔のせめぎ合いを堪えなくてはならない。そう思っていたが、いざそうすると、不思議なことが起こった。
彼女の鼓動はいつの間にか穏やかになっていて、祭りの太鼓みたいにどんどん鳴り響いていたはずの自分の鼓動も、彼女のそれに引っ張られるかのように同調して、静かになっていったのだ。

彼女はこんな状況なのに、安心しきっていた。五体全てを母に預ける赤ん坊のように、ただ俺に身を任せていた。
俺はそれが嬉しくて、彼女が愛おしくてたまらなくなってしまった。そのせいで体の中の毒気が全て抜かれて、全ての邪な考えがどこかへと吹き飛んでしまったのだった。
どれだけ俺を信用していたら、こんなことが出来るのか。鳩尾の辺りからどんどん嬉しさの塊があふれ出してきて、叫び出したいくらいだった。

そうしてしばらくすると、千枝は少し名残惜しそうに俺の胸にぐりぐりと顔を押し付けてから、ゆっくりと俺から離れた。

「えへへ……ありがと」

まだ少しだけ赤かったが、もうほとんどいつもの千枝の顔に戻っていた。
少女っぽく、何の裏表もない。女の子特有の打算などとは全く無縁の彼女は、そうしてにいっと、俺に笑いかけた。

「料理、冷めちゃったかな」

周りの状況を見て我に返ったのか、少し気恥ずかしそうに言う千枝に、俺は首を振った。

「大丈夫だよこれくらい。それに俺の料理は、冷めても美味い」

もちろん千枝のだって。そう言うと、千枝は柔らかく微笑んだ。

「あたしもさ、頑張ったら君みたいに料理作れるようになるかな?」
「なるさ。絶対」
「えへへー、だよねえ」

そして彼女は俺の顔を覗きこみながら、いたずらっぽくにひっと笑った。

「“時間はこれからいくらでもある”んだもんね?君がずっと一緒にやってくれるんだもんね?」

だったら絶対出来るようになるよね。私でも。
また俺の言葉尻を捉えて、ニコニコしながら千枝はそう言う。
正直言ってもう、可愛くて仕方がなかった。だけど俺は、今度はすっとそれに返してやった。

「ああ。そうだな」

すると千枝は、つまらなさそうに口を尖らせた。

「あ、何~。もう恥ずかしがんないの~?」

だったら、と千枝は、二人で作った料理が配膳されているテーブルのところまで行って、座布団をバスバスと叩いて俺をそこに座るように促した。
なんだと思って素直にそこに座ると、千枝は置いてあった箸を持ち、

「んっふっふ~」

さすがにこれは恥ずかしいでしょう。そう言って、彼女は俺の口元に唐揚げを持ってくる。
恋人同士がよくやるアレをやろうと言っているのだろう。ん?ん?としてやったりな顔で、千枝は俺にせまってきた。こんなことで恥ずかしがるだろうと思ってしまう、千枝の子供みたいな無邪気さが本当に可愛らしい。
あえて唐揚げを選んだのは、彼女が単純に肉が好きだということと、今日一番の出来だったからだろうな、と多分間違ってない考えに至ってしまうと、俺はこらえることが出来なくて、吹き出してしまった。

「な、なんで笑うの!?」
「いやだって、こんなの何も恥ずかしくないし。むしろありがとうって感じだよ」
「あーー!!とか言いながら今胸の方見たでしょ!もう!!」

と、彼女は乱暴に、俺の口に持っていた唐揚げを押し込んだ。

彼女とのこんな日常は、楽しくて仕方がない。ずっとこんな日々が続けばいい。
そう思ったら、千枝が一生懸命作ったそれを、すぐには飲み込めなかった。隅々まで大事に、噛みしめるようにして味わった。

二人で初めて作ったその唐揚げは、ちょっと焦げ臭かったが、とても美味しかった。





拍手[2回]

 
「きゃぅ!!!」
「うお!?」

小動物のような悲鳴を上げ、目の前で勢い良く後ろに飛び退いたのは、もちろん中に居た直斗だった。

「あ、あ、あ、あ、あ……」

まるで追い詰められた泥棒みたいに壁に背を張り付けながら、呆然と直斗は立ち尽くしていた。
何だかよく分からなかったが、とりあえず俺は、ほっと胸を撫で下ろした。
どうやら大丈夫なようだった。これだけ機敏に動けるのなら、たぶん体に問題は無いはずだ。

「な、な、何で……」

しかし顔は、異常なくらいに紅い。やっぱり少し過呼吸気味なのかもしれない。

熱に浮かされたように、目には少し涙も滲んでいる。
ちょっと尋常じゃないその様子に大丈夫かと声をかけようとしたが、それは隣の大声にかき消されてしまった。

「ああやっぱり!お客様、よくお似合いですよ~!」

普段の俺なら、たぶん怒鳴っていただろうと思う。急に耳元でキンキンした声を上げるんじゃねえ!と。
だけど俺は、言わなかった。と言うより、言えなかった。
気付いてしまったのだ。目の前の光景に。

どうしてこんなに必要以上に顔が赤く見えるのかと思ったら、コントラストのせいなのだった。
そう。直斗はしっかりと試着を終えていたのだ。慌てていたせいで、全然目に入っていなかっただけで。

「ワンピースみたいに単独で使うにはちょっと丈が足りないものなので、こうして下に柄物のスカートを履いたりだとか、あとは、今日お客様がお召しになっていたようなショートパンツや、普通にジーンズを履いたりしてもいいかなと思います。ホントに一着あるだけで、色んな着方が出来て便利ですよ~」

ああ、これワンピースじゃなくてチュニックってやつか?
店員が言った通り、直斗はその白いチュニックの下に濃い目の色で統一された花柄のスカートを穿いていて、裾から少しだけその柄が見える着方をしていた。チュニックのフリルの部分は確かにちょっと透けているので、こうして着る方が良いのだろう。
……つか、ご丁寧にちゃんとタイツまで脱いでやがるのな……。

直斗が固く目を閉じていて良かった。俺はその姿から、しばらく目を離す事が出来なかった。

「どうですか~彼氏さんも。今回はワンピース的な着こなし方なんですけど、いいですよねえ~?」

足……足が……なんか妙に……。

「彼氏さん?」

店員の声にハッとして、俺は直斗に釘付けになってしまっていた目を慌てて逸らした。

「な、なんスか?」

また鼻の奥が熱くなってきていたのを散らそうと、小鼻をぐっと抑える。それに気を取られて、つい返事をしてしまった。いい加減違うと言っておかないと、面倒な事になりそうだ。

「いや俺は彼氏じゃなくて……」

しかし俺が言い終わる前に、店員は何かが気に入らなかったのか、なぜか俺の方に近づいてきて肘で俺の脇腹を割と強めに小突いた。
さっきまでのウソっぽい笑顔はどこかに行って、しかめっ面で、耳を貸せと言わんばかりに指でちょいちょいとジェスチャーする。

(なんスかじゃないでしょあんた)
(ああ?)

ささやき声だが急に馴れ馴れしくなった店員に、俺はついつい凄んでしまった。
何なんだよ急に。

(彼女が不安になってるんだから、ちゃんと褒めてやらなきゃだめじゃないの。何ぼけーっと突っ立ってんのよ)

俺の胸を、拳の裏でトントンと叩きながら睨み上げてくる。女に凄み返されたのは初めてだった。

(ああん?不安だぁ?)

条件反射で睨み返そうとしてしまう俺。……のはずだったが、今自分で発したはずのワードに違和感を覚えて、とりあえずそれは思い留まる。

(……不安?)

また言葉にしてみて、少しその正体がはっきりしてくる。ちょっと待てよ。
何か小さな虫が体を這いずり回っているような、ぞわぞわとした焦燥感に駆られた俺は、再び直斗に方に目を向けた。
涙の滲んだ瞳に、少し紅い顔。それはつい最近、どこかで見たことがあるあいつの顔だった。

(……おいおい)

見た事がある。見たこと事があるじゃねえか、この顔は。
全てを理解して、自分の馬鹿さ加減にため息が漏れた。どうしてすぐに分からなかったのか。直斗は今日ずっとそわそわと、不安そうにしていたというのに。
こいつにとってこういう格好をするという事は、俺が思っているよりもはるかに冒険なのだ。いい加減俺から気付いてやらないでどうする。そりゃこんな服着るんだから、人前に出る時は深呼吸の一つや二つ、あいつならやりたくもなるだろう。

(でも褒める……ったって……)

この状況は正直言ってやばい。困った。直斗を見てすぐに思った事はある。なのにそれを全く言葉に出来る気がしないのだ。頭から口に直結して、相手を攻めるような言い方をしてしまう事があるくせに、こういう時には本当に口が回らない。

(何て言やいい……)

やっぱりだめそうだった。分かっていても難しい。自分はセンパイみたいには、一生なれないのかもしれない……。
誰かに縋りたい気持ちが出てしまったのか、つい情けない言葉を口にしてしまった。それを耳ざとく拾った店員が、仏頂面で言う。

(そんなの、あんたが自分で考えんのよ。当たり前でしょうが……っ!)

すっかりキャラの変わってしまった店員は、「もう1回。やり直し!」と言って俺から離れていき、直斗の方に戻っていった。
何をするかと思ったら、店員は意地が悪そうな顔で俺の方を見ながら、あろうことか、こう言った。

「どうです彼氏さん。可愛いと思いませんか~?」

直斗に聞こえるようにか、殊更大きな声で店員はそう言い、俺はまた半ば無理やりバッターボックスに立たされた。……こいつマジか。
さすがに二度も答えない訳にはいかない。直斗の不安を煽る事になりかねない。

(うぐぐ……)

俺は喉元から飛び出そうになる抗議の声を、なんとか必死に飲み下していた。
これはもしかするといい機会なのかもしれない。そう思い始めていたからだ。

もし俺のこのダメな部分を変えていくすべがあるとすれば、それはもう少しづつ、何とか自分の頭で考えた言葉を、自分の言葉で素直に言うようにするという、ごく当たり前の事をやっていくしかないのかもしれない。どんなに難しいと思っていた事だって、単純に何度も何度も反復していれば、出来るようになっていくはずだ。失敗して怪我するのを恐れていたら、いつまで経っても出来やしない。泥だらけになって膝すりむいて、そうやって最初はよろよろ乗ってた自転車だって、そのうち難なく乗れるようになった。きっとそれと、同じなのだ。

そう考えると、いい機会のような気がしたのだった。どこかで強制されなかったら、このままずるずると何も出来ないまま過ごしていた可能性は大いにある。

「ああ……何だ、その……」

とにかく、何か言ってやらなくちゃならない。

「何つうか……新しい境地?っつうかよ……その……悪く、ないんじゃねえかと……」

言いながらむかむかとしてくる。自分で自分の言葉にいらついて、俺は歯を食いしばってしまっていた。
違う。こんなんじゃ、今日あいつと会った時の言葉と変わらない。俺が本当に思っている事はそれじゃない。

「いやその、よ……」

しかしやはり、怖い。元々口の回る人間ではない上に、こいつとの関係が少しでも変わってしまう可能性のあるような事が、今はどうしても出来そうにない。
何も言えずに時間が経つ。それにつれて、体の緊張がみるみるうちに解けていってしまう。

いつもと同じだった。気持ちがどんどん萎えていって、俺は開きかけた口を引き結び、そのまま……。固い決意で握っていたはずの拳も、最後には開いてしまう。
喧嘩が強いだ何だと言われる事もあるが、そんなのは全然嬉しくない。自分の拳は、本当はこんなにも柔らかいのだから……。

(だめだ……)

やっぱりもう少し、時間が欲しい。次だ。次こそは、絶対。
いつの間にか、そうして心の中で言い訳をし始めている自分に気付く。我ながら情けないが、こうなってしまったらもうだめだ。またしばらくして、気力が湧くまで待つしか無い。
ここは軽い感じでごまかそう。それがこいつのためにもきっといい。それがいい。

と、無理やり結論づけて、再び直斗に向き直した俺を待っていたのは、しかし。
身を固くして、見ているこっちが不安になるくらいに体を小刻みに震わせる、あいつの姿だった。

心臓がひやりとした。今度は冷たい焦燥感が体中を駆け巡って、反射的に何か声をかけようとしてしまったが、それは何とか寸前で止めた。
何と声をかけるつもりだったのか。また大丈夫か?とでも言うつもりだったのか。

(馬鹿か俺は……)

あんなに震えてるじゃねえか。何悠長な事言ってやがるんだ、俺は。
こいつの、この一種の病気みたいなものを和らげてやれるかもしれない薬を、自分は持ってる。なら最初から、やるこた一つじゃねえか。
もしかしたら、と考え始めたら、もう居ても立っても居られなくなった。こいつは今日、俺が来るのを一人で待っていた時も、実はこんな状態だったのかもしれない。自分だけではどうする事も出来ない寒さに、こうしてずっと震えていたのかもしれないのだ。

気付くと俺は、拳を痛むくらい強く、固く握り締めていた。
我慢がならない。それだけは。それは何も、今日だけの話じゃないのだから。
こいつがどこかでこうやって勇気を出して変わろうとする度、また同じように震えるのかもしれないのだ。
独りで。俺の居ない、手の届かない所で。

「……直斗」

そんな事をさせてしまうくらいなら、

「目、開けろ」

今ここで、何かが終わってしまっても、変わってしまっても、

「……巽君?」

構わないと思った。

身を守るように自分の前で腕を交差する直斗に寄って、俺はその手を取ってやった。
そこまでしてようやく、こいつは恐る恐る目を開いた。怖いものでも見るかのように、ゆっくりと、片目ずつ。
瞳が揺れていた。目にはまだ、うっすらと涙が滲んだままだ。
掴んだ手首は細く、極度の緊張状態のせいか、少ししっとりと汗ばんでいた。

「なんでそんなビクビクしてんだ?」

一刻も早くこの状態から抜け出させてやりたい。そう思ったら、もう言葉は自然に出てきてくれた。

「すげー似合ってんのに」

瞬間、目の前の瞳が大きく揺れた。

「え……?」ただでさえ大きな目が殊更見開かれる。「今何て……?」
「ああん?……ったく」

分かってはいたが、俺は頭を掻いた。
俺からこんな言葉が出るなんて、こいつにとっては全くの想像の外なのだ。だから聞き返してくるのも無理は無いのだが、そうは言っても、さすがにもう一度同じ事を言うのは少し恥ずかしかった。

俺は一度、咳払いをした。
それでも、俺は言ってやる。たぶん何となくは聞こえているんだろうし、ここまで来たら、何回言ってもおんなじだ。

「似合ってるっつったんだよ。マジで」

冗談や嘘っぽくならないように、しっかり目を見て言いながら、俺は直斗をその場に立たせてやった。
実際これはお世辞なんかじゃない。ただ単に、俺が素直に思った事をそのまま言っただけなのだ。もう言ってしまった事なのだから、どうせなら正しく伝わってもらわないと困る。

そのまぶしい白のチュニックは、直斗に本当によく似合っていた。ぼわっとしてしまいがちなその色に、落ち着いた色の花柄スカートが入る事で、全体をきりっとしめている。その袖から伸びる腕も嘘みたいに白くて細く、裾から伸びる足はすらりと真っ直ぐで、加えてその肌には、温室で育ったのかよと思うくらい小さな傷の一つすらない。
一言で言えば、無垢。手垢の一つすら付けるのを躊躇してしまう、底抜けの透明感をそのまま具現化したかのような姿。それが、今の直斗だった。

裸足だからなのか、何となく海岸を歩く、静養中のどこかのお嬢様みたいな絵を想像してしまう。これでちょっとおしゃれなサンダルを履いていたり、
「こうですか?」
大きめなストローハットなんか目深に被っていたりしたら、
「こうですかね」
そう。ちょうどこんな感じで、まさに、といった姿になるだろう。

(……ん?)

奇妙な感覚に、俺ははたと我に返った。頭の中の想像と、目の前の映像がシンクロしている。
何かがおかしい。そう思った時には、しかしもう遅かった。

「あの、巽君……」

そのいつの間にか深く被せられたストローハットの奥から、直斗はさっきとは少し毛色の違う恥ずかしそうな声を漏らした。そのツバを握り締める手と腕は真っ赤になっていて、今直斗がどんな顔をしているのかが、何となく想像出来てしまう。

「あ……う……」

全てを理解して、俺は打ち上げられた魚みたいに口をパクパクさせながら呆然と立ち尽くしていた。そこに店員が寄ってきて、また俺に耳打ちした。

(そこまで言えとは言ってないんだけど……でもグッジョブ!)

そうしてぐっと親指を立てる店員を見て、俺はもう耐えられなくなった。


「ぎゃああああああああああああああああ!!!」


いつからか俺の思考は口から漏れていて、周りに丸聞こえだったらしい。あまりの恥ずかしさに、俺は一目散にその場を逃げ出した。さすがにこれは、いくらなんでも恥ずかしすぎる……。

(どっからだ……)

店を出た後、どこまでも走り去りたくなる気持ちだけはなんとか抑えて、俺は店の前にしゃがみこんだ。
一体どこから漏れていたのか。今改めて思い出してみると、ものすごい恥ずかしい表現をしていた気がする。ただでさえセンパイ達に族っぽい感性だのポエム属性だのからかわれてんのに……。
しばらくそうして頭を抱えながらごにょごにょと考えていると、後ろでドアの開く音がした。たぶんあいつが出てきたのだろうが、振り向く気には全然なれなかった。

「巽君」

どういう顔を向ければいいかわからない。やっぱりどこかへ逃げておくべきだったかもしれない。

「……あの、大丈夫ですか?」

続けて声を掛けられると同時に、背中にガサリと何かが当たる。
まったくそうする気など無かったのに、紙袋?と思った瞬間、思わず俺は振り返ってしまっていた。

「…………まさか」

直斗はかなり大きめな紙袋を手に提げ、きょとんとした顔を俺に向けた。

「それ」

俺が紙袋を指差すと、直斗は「ああ、これですか」と頬を掻いて、少し照れくさそうに笑った。

「これは、さっき着ていたものを一式頂いたんです。その、何というか……」

せっかくなので、と直斗は言った。
何がどうせっかくなのか、俺はまた、思考を強いられた。
せっかく沖奈にまで来たので?せっかく店員が頑張って見繕ってくれたので?それとも……?

「……そうかよ」

聞ければ良かったのだが、俺はそこでいじけたガキみたいな返ししか出来なかった。
また元の、柔い拳の巽完二である。まったくもって不甲斐ない。

「はい」

でもこんな、眩しいくらいの満面の笑みをこいつに向けられてしまっては、たぶんきっと、どんな時でも俺は口をつぐむしかないんだろうな。そう思ってもいた。
……まあもう、何でもいいわな。機嫌は良くなったみたいだし。

「次は、どうすんだ?」

こいつが隣で笑ってるだけで、足の裏がムズムズし出す。ふつふつと何とも言えない気持ちが湧いてきて、意味も無く突然走り出したくなったり、叫び出したくなったりする。まるで遊園地を目前にした子供みたいに。
そんな風に俺を少し浮足立たせるニコニコとした顔をこちらに向けながら、直斗は言った。

「お腹空きませんか?」

言われて俺は、時計に目を移した。
時刻は12時少し前。そばの映画館からは、ちょうど上映が終わり際なのか、ちらほらと客が出てきている。
俺は何事もなかったかのようによっこらせとじじくさく伸びをしながら、その場に立ち上がった。

なんかもう、色々あり過ぎて疲れた。学校のマラソン大会の方がまだいくらか楽なんじゃないだろうか。
体の芯に疲れを感じる。確かにそろそろ、どこかで一息ついた方がいいかもしれない。








拍手[1回]

 
「今日は何をお探しですか~?」
奥にいたはずの店員がいつの間にかそばにまで来ていて、直斗に話しかけた。
「あ、はい」
今日は特に探しているものはない。そう直斗が店員に少しぎこちない笑顔を向けると、そいつはそれに営業スマイルで返し、
「そうでしたか~」
事も無げに言い放った。

「今日は、彼氏さんと一緒なんですね~」

俺は、たまたま目の前にあった棚に並んでいた服に、盛大に吹き出してしまった。

「か、かかかかか……っ!」

今まさに、ちょうどどんぴしゃりな内容を考えていたという事もあって、俺は平静を装うべき所を過剰に反応してしまう事となった。目の前の服も、見るも無残に俺の唾まみれとなってしまっている。……ああ、くそ。こりゃ買取だ。

こういう店にありがちな接客なんだろうと思う。フレンドリーさをウリにして仲良くなっていって、さり気なく商品を買わせていく。まあ、商売人としては間違ってないのかもしれない。
でも俺は、やっぱりこういう売り方が好きになれそうにない。ずかずかと土足で家に踏み込まれたような気分になる。
男女が一緒に居るからと言って彼氏とは限らないだろうが。百歩譲ってフレンドリーは良いとしても、ちょっとは考えてものを言えっつうんだ……。

そうしてむかむかとしながらも、俺はとりあえず、直斗に目を移さざるを得なかった。
やっぱり、興味が無いとは言えなかった。こんな踏み込んだ物言いをされたら、さすがの直斗も……

ところがあいつは、その店員の言葉には答えずに、傍にあったマネキンの着ていたものを指差して言った。

「……これ。試着してみていいですか?」
「あ、こちらですか?はい。大丈夫ですよ~」

どうやら試着してみるらしい。直斗に特に変わった様子は見られなかったが、こいつにしては、ちょっと思い切ったチョイスをしたような気はする。

「この形のものは何着持っててもいいですからね~色々使えますし」
「そうですね」

でも少し、上の空のように見えた。同じ商品と思われるものをいそいそと店の奥から持ち出してきた店員に、直斗はなぜか、呆けた顔を向けた。

「えっ」
「試着室はこちらになります」
「ちょ、ちょっと待って下さい」直斗は店員の持ってきたものを見るやいなや、急に慌て出した。「それは……?」
「?お客様が試着されたいとおっしゃったので、同じ物をお持ちしたんですけども……?」

どうも様子がおかしい。

「え……あっ……」

何か恥ずかしかったのか、一瞬だけ俺に目を向けて、慌てて逸らした。遠目から見ても、顔が赤くなっているのがはっきり見てとれた。
やっぱりまだ、こういう所に完全に慣れたという事ではないのかもしれない。

「す、すいません。お願いします」
「ええ。ではこちらに。きっとお似合いになりますよ~」

店員はこういう客にも慣れているのか、直斗のおかしな様子にも至って普通に対応し、ちゃっちゃと手際よく試着室を用意した。なかなかにスピーディな動きだ。忌々しい店員だったが、ここは及第点をやってもいいかもしれない。

「どうぞ~」
「は、はい」

それより直斗は、一体どういうつもりなのだろうか。ここにいる間に、何か心変わりのようなものがあったのだろうか。そんな訳無いだろうに。

俺は、改めて直斗が試着しようとしている、マネキンが着ているワンピースをしげしげと眺めてみた。
…………ちょっと、じゃねえなこれは。あいつにしては、かなり思い切ったチョイスだ。
今日の服装も相当なはずだが、その白のワンピースはもう、『直斗』という人間が持つイメージからは完全にかけ離れた代物であると言わざるを得なかった。

だって、フリフリなのだ。もうどこもかしこも、どういう言い訳をしようとも絶対に覆せないくらい、女子の着るものなのだ。今日くらいの服なら、まだ学校のやつに見られたとしても弁解の余地もあるかもしれないが、これはもう完全に八方塞がりだ。言い訳のしようがない。

「あの、これ下の方ちょっと透けてるんですけど……」

……温かいものが鼻の奥にこみ上げてきた気がして、俺は黙って腕を組み、さり気なく少し上を向いた。
店員は、直斗がなにか言う度にかいがいしく世話をし、しかしその度にここぞとばかりに別の商品を持っていって着させているようだ。全く抜け目がない。

「どうでしょうか?着れました?」
「あ、はい……」

たっぷり10分くらい時間をかけて、ようやく直斗は渡されたものの試着を終えたようだ。

「サイズなどは大丈夫そうですか」

3、4回は商品を追加していたから、もうほとんどトータルコーディネイトのレベルにまで達してしまっていると思う。ここまでされてしまうと後で断りにくくなりそうなものだが、まああいつはこんな感じの服を着るのには慣れていないのだろうし、これはこれで正解なのかもしれない。

しかし直斗は、店員に大丈夫だと告げてから一向に試着室から出てくる気配がなかった。どこか納得のいかない事でもあるのか、何かゴソゴソと中で動き回っているような音がする。気になったが、まさかこちらから開ける訳にもいかないし、ただ待っているしか無い。

すう……はあ……
……すう……はあ……

店内の小さめのBGMが少し途切れた時、耳を澄ませていた訳でもないのに、深い息遣いが聞こえてきた。なぜか、中で直斗は深呼吸をしているようだった。
俺と店員は、思わずどちらともなく顔を見合わせてしまった。
いや、何してんだよマジで。……大丈夫か?

「あの、お客様……?」

見かねた店員が先に直斗に声をかけるが、返事はない。
おいおい。マジでなんか様子変じゃねえか?

そう思った瞬間、頭から一切合切が抜け落ちた。まずい、と思っていたはずだったのに、俺の体はそれを完全に無視して動き出していた。

「直斗!!」

原因は分からないが、過呼吸でも起こしてんじゃねえか、と一瞬頭をよぎってしまった。もしそうなら、早く対処しないと大変な事になるかもしれない。直斗から開けるのを悠長に待っている訳にはいかない。こういうのはとっさの機転が重要なのだ。

試着室のカーテンを強引に、半ば毟り取るように開ける。すると……




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赤くなっているのが自分で分かっているのか、直斗はかぶっていたキャスケットを両手で握りしめ、それで目から下を覆い隠した。
「あ、あの」
体を小さくして、目をぐりぐり泳がせながら見上げてくる。

(おいおいおいおいおい)

俺はそんなこいつに、ほとんど戦慄に近い感情を抱いていた。
……なんだその仕草殺す気か!
直斗は、そうしてまた死にそうになってる俺には当然気付かずに続けた。

「あの、すみません……何か急に変な感じになってしまって……」
「い、や!別に気にしてねえし……っ!」
俺はこの顔をいち早くやめさせるために即答し、無理やり話を進めようとした。
「それより、次はどこ行くんだよ。また駅前に戻ってきちまったけど」

自分でも分かるくらいにわざとらしく目を背けてしまってから、俺はそれをごまかすように、そのまま周りを見回した。

この映画館の隣の交番の先には、その辺によくあるような、何の変哲もない本屋がある。そして逆に向かうと、洒落た感じの茶店があったり、それからいかにも今時の女向けの服屋があったりする。駅前が、やっぱり一番店が集中している。


無いものなんかほとんど無いと言っていい。しかし俺には、どれもピンとこなかった。こいつは一体どこへ行く気なのか。思わず首を傾げたくなる。
推理小説が好きだと言っていたから本屋かと一瞬頭をよぎったが、別にあのくらいの本屋は稲羽にもあるし、わざわざここで行く意味は薄い。とすると、あとはせいぜい茶店くらいだろうか。まさかあんな感じの服屋には、こいつは用はないだろうし。

俺は少し焦りながら、ポケットをまさぐった。
あそこの茶店は、ちっと高いんだよな確か。前にセンパイが『とんでもない味』だったとか言ってたから、たぶんそうだ。こいつもそれを聞いて、行ってみたくなったという可能性は大いにある。

しかしまいった。まだ金あったっけか。さっきちょっと使っちまったからやべえっぽいな……後から金無いとか言ってこいつに払わすとかくそだせえしな……

そうしてどこかに金でも潜んでいないかと俺が体中まさぐっていると、直斗が言った。

「……じゃあ、今度は僕の買い物に付き合ってもらってもいいですか」
「買い物?」

予想していなかった答えに、つい聞き返してしまう。

「買い物って……本とかか?」
「いえ……」

おずおずと、直斗は俺の後ろの方を指差した。本屋とは真逆の方だ。

「あの店です」

まさかそんな。そう思ったが、振り返ってみるとやっぱりだった。
『CROCO*FUR』
直斗が差したのは、こいつの趣味とは全くタイプの違うモノを売りそうな、あの服屋だった。ピンクとか、オレンジとか、原色系のアイテムの多いディスプレイが目を引く。

「……間違いねえのか?」
あまりの違和感に俺がまたそう言ってしまうと、
「まあ、言いたい事は何となく分かります。でも間違いじゃありませんよ」と、直斗はなぜかまた、困ったように笑って答えた。「ダメですか?」
「いや、ダメってこたないけどよ」

確かにまあ、今の直斗の姿だったら全然問題なんか無いのだろうが、普段のこいつを知っている俺からしたら違和感バリバリな訳で。
しかし直斗は、じゃあ行きましょうかと、俺が何か言うより先にさっさと店へと向かって行ってしまった。
あいつはそのまま、全く澱みない足取りで店のガラス戸の前に立ち、躊躇なく店の中へ入っていった。普通に。自然に。一度も振り返ったりする事無く。

周りからしたら、別におかしい所なんて何も無い景色だろう。普通の女が、普通に店に入っていっただけなのだから。
でも、たったそれだけの事が俺にはかなり意外だった。直斗みたいなタイプには結構入りづらい所だと思っていたのに、全くためらわずに入っていった所を見ると、そうでもないらしい。てっきり一緒に入ってくれとか言い出すのかと思っていたから、肩透かしを食らった気分だった。

店のガラス越しに、直斗が店員に軽く挨拶をしている絵が見えてまた驚いた。
自然だ。マジで、自然過ぎる。一体どうなってやがるんだ……

と、直斗がこちらに視線を移した。俺がまだ外にいるのを見て、小さく手招きをして見せる。
俺は溜息を漏らしながら、しぶしぶとそちらに足を向けた。
こうなっては仕方がない。手芸屋に付きあわせてしまった手前、このまま直斗をほうっておく訳にもいかない。正直気乗りはしなかったが、俺は店の中へと入っていった。

「いらっしゃいませー!!」

店内に入り終わるよりも早く、店員は俺に向かって声を張り上げた。その一種金切り声のようなそれに、思わず耳を抑えそうになるのをかろうじてこらえる。しかし分かってはいたが、「やっぱりな」と思ってしまうのは、どうしてもこらえられなかった。

……全く。なんだってこういう店っつうのは、うるさくするのかね。商品に自信があるなら、そんな過剰に声を張り上げなくても自然と売れるだろうに。自分だったら絶対にやらない。店の格が、何となく下がるような気さえする。つかここは、なんか特別うるせえな……

自営業の家に生まれたせいか、外に出るとどうもこういう目線でものを見てしまうことが多い。しかし、入るやいなやそうしてげんなりしている俺とは対照的に、直斗の方は、それなりに嬉しそうに商品の物色を始めていた。

ここはどうやらセレクトショップのようで、一目見ただけで色々なブランドのものがあるのが分かった。モノ的にも、靴や鞄から、財布のような小物まで扱っているようで、なるほど、女には楽しい所だろうなと俺は思った。

そう。普通の女には。
俺は、店を歩きまわるその姿がどうにも腑に落ちなくて、そろそろと直斗に寄り、ささやいてみた。

「なあ」
直斗は、前に置いてあった白シャツを広げながら答えた。
「どうしました?」
目線はそのまま、吟味するように目の前に置かれていた白シャツの細部をチェックしている。
「いや、お前、何。結構こういう店来たりするのか?」
「ええ。ごく最近からですけどね」
そう言われてもまだ俺は、確認せずにはいられなかった。
「……マジで?」
すると直斗は、持っていたシャツをパサリと手から落とし、俺にまん丸な目を向けた。
「?ええ」

今まで、というかほんとに今日そんな格好するまで、こんな趣味の店に来るようになった感じなんて、一切出してなかったじゃねえか。……元々興味あったのか?
さすがに意図が伝わらなかったかと俺は一言加えようとしたが、直斗は丁寧にシャツを元のように折りたたみながら、その途中で何かに気付いたかのようにぷっ、と小さく吹き出して言った。

「ふふ。そう言えば、まだ何も言ってませんでしたね。まあ、そうです。もちろん君が思っているように、僕が自発的に来るようになった……という訳じゃないです」
やっぱりこいつは、頭がいい。
自嘲気味にそう言いはしたが、それから少し嬉しそうに、直斗は話し出した。

「ここには、久慈川さんとよく来るんです」

あの事件が終わってからというもの、俺達は事あるごとに集まったり遊んだりして、まるで昔からのダチみたいに毎日を過ごしていたが、こいつに言わせると、女達の方は俺が思っている以上に仲が良くなっていたらしい。
里中先輩や、天城先輩はもちろんの事。特にりせとは最近かなり仲良くなったらしく、アイツの事を話す時の直斗は、とても楽しそうに顔をほころばせた。

「可愛いですよね彼女。久慈川さんと一緒にいると、本当に楽しいです」

まるで外国の方といるみたいで。と直斗は加えたが、その例えは俺にもよく分かった。くるくる変わる表情と、少し過剰気味なスキンシップがそう思わせる。俺なんかはうっとうしいと思う事もあるが、こいつには、それが逆にいい方に働いているらしい。

それから延々と、こいつはりせの良い所について語り始めた。内容はやれ優しいだの気が付くだの、割と誰にでも当てはまりそうなものばかりだったが、こいつがあいつのことをいかに大事に思っているかは伝わってくる。物凄く嬉しそうに話すので、しばらくそのまま好きに喋らせた。

本当に、こいつだってこの頃は、いろんな表情をするようになった。
少し感慨深く最近の事を思って上の空で聞いていると、しかし途中でこいつの話の大部分に冠がつくのに気付いて、俺はすぐに現実に引き戻された。

「僕とは違って」

すべての話に、こんな言葉が直接的ではないにしろ付されていた。そして俺は、楽しそうに話をする中に、微妙な表情を浮かべる直斗がいるのにも気が付いた。

「実は今日着ている服も、大体彼女が選んでくれたものなんですが……」自分の全身を、体をひねってまで確認しながら直斗は言った。「少し時間が経てば変わるかなと思っていましたが、やっぱり全く慣れません。なんだか気持ちがうわついてしまって、落ち着かない感じです」

そう言ってこいつは俺を見上げた後、恥ずかしそうにふいっ、と視線をはずした。

「巽君はおかしくないと言ってくれましたが、やっぱり僕には、こういう系のものは似合わない気がして。……ほら、この白いシャツにジャケットを着て、スラックスとか細めのジーンズを履いたりだとか。そういう形の方が僕には何となく楽だし、自分に合っている気がするんです。最近頑張ってちょっと勉強してはいるんですが、どうも女性の服は色んなテンプレートがあり過ぎて、これを着ていたら大丈夫、という形が無いせいで難しくて」

あれ、見てくださいと続けて言われ、俺は後ろに向いた。
首からかぶる……あれだ。ポンチョ?アレを着たマネキンを指差して、直斗は言った。

「すごくないですか。あんなの、僕にはどう頑張ってもコーディネートに取り入れられる気がしません。久慈川さんみたいなタイプが着たら可愛いんだろうなあとは思いますけど」

自分を卑下するような言葉が続き、いい加減何か一言言ってやりたくなって俺は口を開いたが、それは続く直斗の言葉にかき消されてしまった。
「スカートの丈にしたって、あれ、何種類あるんですか」などと直斗はブツブツ言い、まるで推理をしている時みたいに、その場で深く考え込み始めてしまったのだ。

もう何度も見た事があるその様子を見て、俺はいつものように呆れながら深く、鼻から息を吐いた。
またか、と俺は少し思っていた。こいつには、結構こういう所がある。
一見どうでもいいような事を、馬鹿正直に考え出す事がままあるのだ。前に俺が『おっとっと』のシークレットを自慢しようと見せた時にも、こいつは興味津々にそれをしげしげと見つめた後、こう言ったのだった。

「これは、確かに珍しいですね。魚介類の中にあえて潜水艦とは。……これは一体、どういう意図で選ばれたものなんでしょうかね?」

どんな時でも共通しているのは、こいつは至って大真面目であるという事だった。探偵業の習性なのかは分からないが、こいつはただ一生懸命に、その場で湧いた疑問を考察しているに過ぎないのだ。
真剣な所を適当に茶化したりする事も出来ない。だからこうなってしまったら、俺は黙ってこいつがまた元通りになるのを、傍らで待っているしかないのだった。

時折素の笑顔をこぼすようになったという他に、こいつがこうなってしまう頻度も、同時に少し上がっていると思う。前者ははっきりと誰かのせいという訳ではなくて、きっとこいつの周りにいる皆のせいだと思うが、後者については、ほとんど考えるまでもなくあいつのせいだと俺は確信を持っていた。

あいつに、りせに色々吹きこまれたせいなのだろう。直斗に向かって何か講釈のようなものを垂れているのを、最近よく見かける。内容についてまでは全然聞く気になれないのだが、それは大体決まってりせの「女の子っていうのはね……」という台詞から始まる所から見るに、直斗にとって最も苦手な部類の話には違いなかった。そのせいで多分こいつは、色々急いで考えなくてもいいような事にまで、思考を取られる事が多くなってしまっているのだと思う。

何となく、心配だった。りせは決して悪いやつじゃないが、ちょっと尖ったステータスの持ち主だから不安なのだ。あいつも、普通にそこらにいる俺達の世代の女とは、やっぱり少し違う。俺なんかがどうこう言う権利なんて無いだろうが、直斗にはもうちょっと段階を踏んでくれる、ソフトに付き合ってやれるような女友達の方が、まず必要なんじゃないだろうかとどうしても思ってしまう。

しかし、そうは言っても、だ。俺は喉元まで来て出かかっていたそれらの懸念を、何とか飲み下した。せっかく仲良くなったと言っている所に水を差すのは、俺としても本意ではないのだ。
さて、どう言ってくれようか。悩みながら黙って直斗を見下ろしていると、こいつはそうしている俺にやっと気づいたのか、ハッとしてこちらを向いた。

「あ……すみません。またやっちゃってましたね」
「ああ……まぁ、気にしてねえから。って言ったけどよ前にも」

もう慣れたし、俺は別にいい。でもこいつは、このままでいいのだろうか。

教室で俺と話している時にも、こいつは何かの拍子でこうなってしまう。その度、少し不自然な絵がそこで展開される事となり、俺はいつも誰かに取り繕う事になるのだった。

黙ってるこいつのそばに、同じように黙ってる俺がいる。何かしてる訳でもなく、話すでもなく。前に教室でそんな状況になってしまった時、クラスの女子達が、急に俺に話しかけてきた。

「あの、たつ、み君?」
「あぁ?」
普通に返事をしたはずだったが、俺がそう言うと、その女子は小さく「ひっ」と声を漏らし、体をビクつかせた。
「なんだ?何か用か?」
声をかけてきた癖に後が続かないそいつに、仕方なく俺からそう言ってやると、そいつはゴクリと音が聞こえてきそうな程の大層な嚥下をして見せてから、ようやく話し出した。

「あの……直斗くんと話したいんだけど……いい?」
「あん?いやいいも何も……」俺は何度も繰り返されるやりとりにいい加減少しめんどくさくなってきていて、直斗の方にあごをしゃくって言ってやった。「別に普通に話せばいいじゃねえか。つかなんで俺に聞くんだよ」

すると、そいつと周りにいたやつらは顔を見合わせ、声を揃えて言ったのだった。

「え?二人って付き合ってるんじゃないの?」と。

マジで耳を疑った。聞いた瞬間、俺はそばに本人がいる事もあって気が気じゃなく、真っ向から否定してやった。
全くどこをどう見たら、そんな話が出てくるというのか。言い出したやつを連れてこい。きゅ、っとシメてやっからよ!本当にそう、その時は思った。

しかし、後で冷静になってよくよく考えてみると、そう思われても仕方ない状況には一応あるんだという事に、馬鹿な俺はそこまで言われてやっと気が付いたのだった。

あえて口に出さないではいるが、もう皆、こいつが女だという事を知っているのだ。そんな中で、例えばちょっと都合が合わないからと言って直斗とだけ一緒にいたり、下校したりなんかしていれば、そういう風に見られてしまう事があるのは当たり前と言えば当たり前なのだ。今日はちょっと特別だが、いつもの服装でだって雰囲気が柔らかくなっていると感じる事もある。周りももう、こいつの事を自然に女として扱い始めていたとしても、全く全然おかしくはないのだ。

「……巽君?」
「ん……ってうお!!」

急にそばで声をかけられて我に返ると、不思議そうな顔をした直斗が、俺の顔を覗き込んでいた。
「どうしました?ぼーっとして。体調でも悪いんですか?」

ちけえちけえちけえちけえ!馬鹿!そんなに顔寄せんな!
どうやら思考に夢中になっているうち、こいつを無意識に凝視してしまっていたらしい。そのせいか、距離がかなり近くなって、しかもこいつが背伸びまでして顔色をうかがってくるもんだから、異常な近さにまで顔が来てしまっていてぎょっとした。
「い、いや……っ!何でもねえ!」

慌てて俺は適当にはぐらかし、せっかく来たんだしいいから服見てろよと直斗に促した。
馬鹿か俺は。これじゃ俺も人の事言えねえじゃねえか……。気をつけねえと。

少し怪訝そうな顔を直斗に向けられたが、他には特に何も言われずに済んだ。今度は、きっちりと直斗が物色を再開するのを見計らって、それから上の空にならないよう慎重に、俺は思考を再開した。

しかしこの件については、注意しなければならない一つの事実があるのだ。
その現象は俺と直斗だけではなくて、俺とりせにまで飛び火する事がある。という所だ。

つまり、何の事はない。それは深く考えて誰かが言い出したものではないのだ。俺と直斗が、特別その、カップルのように見えたからとかそういう訳では無く、最初は本当にただ一緒にいるというだけで出た、ほとんど根拠の無い噂だったのだ。たぶんそれが人づてに伝わって大きくなり、あんな台詞をクラスの女子に言わせた、というのが本当の所なのだろうと思う。

その事には、すぐに気付けた。そしてその解決方法も、至って簡単なはずだった。直斗がさっきみたいな状態になってしまったら、単にその場から離れていればいい。そうすれば、必然的に俺と直斗が無言状態で一緒にいるという一番変な、怪しい状態だけは免れる事が出来る。だからこれさえ無くせば、かなり変わってくるはずだった。

そう。今考えてみても、至って簡単な事だ。
……しかし現実には、俺は何も出来ないでいる。実行に移そうとする所で、いつも俺の足が止まるからだ。どうしても、俺にはそれが出来なかった。
寂しそうに俯く直斗の顔が、頭の中にちらつくせいで。

少し考えると、やっぱりそれはやるべきじゃねえな、と俺は思ったのだった。
だって、それまで二人で普通に話してて、急に片方が黙ったからって声も掛けずに居なくなるのって、変だろ。特に直斗は、多分その時周りが見えていないし、我に返った時いつの間にか俺やりせが居なくなってたら、なんかこう……やだろ。たぶん。それにこいつは結構いろんな事を考えてしまう人間だから、俺やりせがそういう事をしたら、悪い事をしたと思って割と本気で落ち込むだろうし。我に返ってから毎回俺に謝ってくるのが、その良い証拠だ。

結局俺は、そう考えてただ直斗のそばにいる事にしていた。思考の邪魔もしたくないし、落ち込ませたくもない。なら、こうするのが一番なはずだ。その結果人に噂される事になろうと、そんなの自分は慣れてるし、別に構わないのだ。

しかし、俺の思考はいつもここでさっきの問いに戻る事になる。
でも、こいつは?こいつはどう思ってるのだろう。このままでいいのだろうか、と。

ふと気になって、あいつの方を見た。直斗は顎に手を当てながら、じっくりと商品を値踏みしている所だった。

「ん、これは……あれがこうなるからいいかも……いや……」

たぶんこいつは、噂されているその事自体に気付いてないんだろうな、と俺は思っていた。自分の周りの事には無類の頭の良さを発揮するが、どうもこいつの能力は、肝心の自分に関係する事には全く反映されないらしい。まだ一年にも満たない付き合いではあるが、分かってきた。こいつはかなり自分に疎い。過小評価していると言ってもいい。自分を客観的に見れていないのだ。

いい加減教えてやらねえとな、とは思っている。俺はこういう噂をされる事自体嫌でも何でもないが、こいつはたぶん違う。俺なんかとそういう風に見られるのは、きっと嫌だろう。
しかしそう思っても、結局俺はこいつに何も言わないできた。それは全くの俺の、どうしようもないわがままな理由からだった。

前は怖いものなんか全然無かったのに、この一年でそれが一転してしまった。心地いい世界を知ってしまったせいか、今は一人になる事が少し怖くなってしまったのだ。前は全く平気だったというのに。

もし直斗が、この噂に気付いてしまったらどうなるか。
考えるまでもなかった。ゼロにはならないにしろ、そうなったらきっと、こいつと一緒にいる時間は減ってしまう。あの不思議と心地いい時間が、失われてしまうのだ。

他の事はいい。でもそれだけは嫌だった。
こいつと一緒にいると、自分が何となく成長していくのを感じる。一緒に居てそんな風に思えるやつが、そう何人も世間にごろごろいるとは思えない。

幸い、なぜか直斗に直接噂について聞く人間がいないから、このままでいれば、直斗が変に意識するような羽目になる事はないだろう。だからしばらくは、このままでいようと思う。俺から何か言い出さない限りは、たぶんこの状態でずっといられるはず。

しかし、そうして現状を確認し、思考に一応の区切りをつけて安堵した時だった。
最初に入ってきた時よりは大分ボリュームは落ちていたが、あの甲高い声が再び耳を突いた。



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