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 何か長くて巨大なものが、物凄いスピードで僕の左横から迫ってきた。身を引いたと言うよりは、そのものが起こす風圧で僕がふっ飛ばされた形だった。そのまま5,6メートル程ごろごろと坂道を転げ落ちて、体中をしこたま地面に打ち付けた。

「ぐうう……いってえええ……っ!」

 久々の感覚だった。よく外で遊んでいた子供の頃なんかは、無茶をやってこういう痛みに襲われる事もあった。おにごっこか何かをやっていて、急いで駆け上がろうとした階段の角にスネを勢い良くぶつけてしまったり、よじ登ったフェンスから真っ逆さまに背中から落ちたりしてしまった事もある。そしてそんな時は、激烈な痛みに悶絶し、その場からしばらく動けなかったのをよく覚えている。

 しかし、今は当然そんな機会はほとんどない。すっかりその辺りの痛さに無縁になった今、この痛みには正直こたえた。

「うぐっ……!」

 無防備に立ち上がろうとして、すぐにそれを後悔した。ついた手の所に小さな石があって、そこに思い切り体重をかけてしまった。畜生。
 悪態を心の中でつきながら、それでも僕は何とかまた這いずってさっきの場所にまで戻った。好奇心とは恐ろしい。ニュースか何かを見ていて、危険を顧みない野次馬が出てくるといつも嘲りの言葉を送っていた自分だったのに。今は好奇心に意識を取られ、馬鹿みたいな事に、幾分痛みが和らいだ気さえしている。

 とにかく今度は、慎重にそうっと首だけ伸ばして、顔の上半分だけを出した。こうすればいつでも引っ込められる。何が来ても大丈夫。いつでも来やがれ。

「!うおお!」

 早速同じように、何かがこちらに向かって勢い良く向かってきた。今度は右から。しかし今回は準備していたから、さっきみたいな大事には至らない。頭を抱えて、その場に伏せた。

「ナツキ君!?」

 聞いた事のある声に名前を呼ばれ、恐る恐る顔を上げた。
 まことさんが、こちらに背を向けて立っていた。彼は右腕を横に伸ばして、空中に浮いている巨大な何かに手を付けている。
 大木が、宙に浮いていた。

「何だあ?……ってうわあっ!」

 不可解な絵に面食らった僕だったが、ふとその奥に目を向けてまた驚いた。仁王像のような巨人が、ものすごい形相でこちらを睨んでいたのだった。
 丸太のような太さの、筋骨隆々の腕に大木が抱えられている。その得体の知れない怪物が大木を抱え上げていたせいで、僕の目にはそれが浮いているように見えたのだった。
 あまりの迫力にひっくり返りそうになりながら、僕は地面を掻き乱した。

「どこへ行くんじゃ」
「ひっ!」

 その場からいち早く退散しようとしていた所に、急に耳元で声をかけられた。僕はまた別の何かがいるのかと思って、小さくではあるが悲鳴を漏らしてしまった。

「ああああ何だやた丸かよ!マジびびったわ馬鹿!」

 見た事のある、ツヤツヤ毛並の黒猫が目に入り、僕はバクバク鳴る胸をとりあえずほっと撫で下ろした。
 喋る猫を見たら普通ビビるが、逆にちょっと安心するってどういう事だ。

「何だよあれ!聞いてねえぞあんなの出るなんて!」
「何を言っとる。ちゃんと言ったじゃろうが」
「言ってねえよ!」

 見知った顔に安心しつつも、まだまだ訳の分からない状況に動転してついやた丸に捲し立ててしまった。すると、

「ぉぐっふぉ……っ!!」
 猫の少し硬めの肉球が、僕の左頬にめり込んだ。
「落ち着け阿呆。いとも簡単に恐怖に支配されるとは、最近の童はやはり軟弱じゃのう」
「いてててて!いてえって!」

 なおもぐりぐりと頬に足をめり込ませてくる。爪が微妙に立ってんだよ爪が!
 こいつ鬼か。やはり物の怪の類か。

「落ち着いたか?この頃の人間は焦ったりした時なんかに、よく頬をつねったり叩いたりして冷静さを取り戻すのじゃろ?本で読んだぞ」

 何とか僕は身体的な痛みで我を取り戻したが、それにしてもやり方がひどかった。ふふんと胸を張るやた丸が腹ただしい。他にいくらでも方法あるだろ……。
「ぐぬぬ……」
 しかし僕は、抜きかけた矛を鞘に収めた。虫の居所の悪い飼い猫にちょっとひっかかれたのだと思えば、まあ飲み下せない事もない。今はそれどころじゃないのだ。
 こみ上げるイライラを噛み殺し、ジンジンする頬をさすりながら、僕はやた丸に訊いた。

「……で?何なのあれ。つかここに居て平気なの俺」

 あまり細部まではよく見えなかったのだが、あの巨人はどう見ても3メートル以上はあった。その時点でどう考えても人間ではない訳で、しかも何かすごい怒っていた。すぐにでも逃げないとまずいだろうと今でも僕は思うのだが、やた丸の方は、全然ちっとも腰を浮かす気配がない。

「まぁ、まことがいるからの」
「!?そうだよまことさん!」

 僕に向かってきた、今さっきそこらで折ってきたかのようなあの大木。あれは、横から来た。……横だぞ?
 状況から察するに、あの何かの怪物は、前方一帯をあの大木でなぎ払ったのだと考えられる。それが至極普通の推理となるはずなのに、そうすると、しかし新たな問題が生まれてくるのだ。
 ……避けられないだろ。あんなの。

 明らかに害意を持って放たれている。当たったらまず即死。そんな考えるのもおぞましい攻撃が、僕の知っている限りでもう二度も行われている。なのに、当の本人はけろっとした顔で立っていた。
 一体何が起こっている?僕の中に性懲りもなく、好奇心が首をもたげ始めた。

 意を決して僕は、暢気にも毛繕いを始めていたやた丸をぐいっと横に押しのけて、またも広場に顔を出した。今度こそ、最低でも何が起こっているのかくらいは絶対見てやる。それに、危険な目にあっている人がいるのに何もしないでいるのは、男が廃る。
 そう息巻いて、そうしたはずだった。

「あ!!!」

 なのに僕は、
 
「ナツキ君危ない!!」

 情けない事に、気付いた時には、腰を抜かしてしまっていた後だった。

「あ……う……」

 瞬間、まるで水揚げされたばかりの魚みたいに、さっきまで普通に出来たはずの呼吸がうまく出来なくなった。体も全然動かない。世界から音が消える。キィン、という耳鳴りだけがし続けて、僕は白い世界に置いてけぼりにされてしまった。

 本当に怖いものを見た時、人はこうなるのか。
 大部分は痺れて役に立たないが、ばかに冷静な部分のある頭で他人事のようにそう思う。
 なるほど。少し分かった。走馬灯とは、きっとこんな状態になってしまった頭で起こる現象なのだろう。

「むう……っ」

 僕が成す術なくどうにも出来ないでいると、くぐもった声が、世界に割り込んできた。
 まことさんが小さく唸った。すると、自分と目の前のもの以外何もなかった世界に、徐々に背景が戻ってくる。
 僕の目の前で、本当にもう、僕の頭からあと1、2メートルという所で、その大木はぴたりと止まっていた。まことさんは右腕を高く掲げるようにして、僕の頭上の大木に手を当てている。

「ちょっとちょっと!危ないって言ってるでしょう!!」

 いや、違う。そうじゃない。まだ頭は少しぼーっとしているが、それは何とか分かる。
 彼は手を当てているんじゃない。それは変な表現だ。

「溜め込むなっていつも言ってるのにさあ……何で言わないかな」

 まことさんが、ぶつぶつと怪物に向かって何か言ったかと思うと、彼は掲げている方の腕を少し曲げるだけで、まるで虫でも払うかのようにして大木を上へと投げ出した。怪物がこれ以上ないくらいにぷるぷる震えて、今にもその振り下ろした大木で、そのまままことさんを押し潰さんとしていたのにも関わらず、だ。

 僕は見ていた。はっきりと。今度こそ事の一部始終を確かに見た。腰を抜かしても目だけは開いていたおかげで、目の前で何が起こっていたのかをやっと理解する事が出来たのだ。
 当たり前と言えば当たり前だが、彼は、単に手を大木に当てていた訳ではなかったのだった。

 僕が広場に顔を出した時、怪物はちょうど僕の真正面にいた。両腕で大木を持ち上げて、まさにそれを振り下ろそうとする瞬間だった。
 まことさんは、当然今度はそれを横に避けるつもりだったのだろう。すでに体を横に向けている状態だった。なぎ払いじゃないなら、それが一番簡単な避け方だから当然だ。

 縦に振り下ろされる大木。順当に避けようとするまことさん。刹那、しかし最悪な事に、僕はこの時まことさんの視界に入ってしまった。だから彼は、その瞬間方針を変えた。たぶん、僕のために。

 彼は一体どうしたか。
 全く、目の当たりにした今でも信じられないのだが、よりにもよって彼は、一番やってはいけないはずの選択をしたのだった。

 怪物の攻撃を、『受け止める』事を選んだのだ。

「ナツキ君ちょっと下がってて。すぐ終わるから」

 まことさんの落ち着いた声に、僕はやっと怪物の方から視線をそらす事が出来た。焦りの色の欠片もない声が、僕を少し安心させてくれた。
 しかし、そうして僕が、緊張しきってしまった体をちょうどふにゃふにゃと弛緩させようとした時だった。またも怪物が、まことさんに向かって攻撃を繰り出してきた。

 全く息つく暇もない。そうしてまたも声なき声を上げてしまう僕とは対照的に、まことさんの方は落ち着いていた。さっきと同じく、怪物は水平に大木を操ってまことさんを薙ぎ払おうとしたが、彼はいとも簡単に、ピタリとその攻撃を止めた。……片腕で。

 何かがおかしいと、ずっと思っていた。しかし今のまことさんの動きで、その疑問の正体も分かった。
 大木が操られる度に、当たり前だが風が発生する。あれだけの質量のものを素早く動かせば、まあそうなるだろう。実際に僕も何度か受けているし、そこには特に疑問はない。
 ……しかしおかしいだろう。その風以外の音が、全くしないのは。

「ほっ」

 まことさんが、また怪物の振り下ろしを止める。無音だ。それを見て頭にきたのか、怪物は何度も何度も彼に攻撃を浴びせたが、全て結果は同じだった。無音だ。

 目の前で起こっている事についてもうほぼ答えは出ていたが、それでも、僕は一応周りを伺ってみた。
 テストなんかで分からない問題があると、僕なんかはなんとか無理やり提供された情報から答えを導き出そうとする。でも、ちょっと論理的に筋が通っている答えがその場で出たとしても、大抵そういうのは間違っているのだ。そういう場合は、あくまでも慎重に。記入欄に書く前に少し深呼吸でもして、よく吟味する事が必要なのだと僕は思う。

 一つの可能性が捨てきれなかった。要するに、この怪物はなんらかの機械で作られた幻で、でかい扇風機か何かで瞬間的に風を発生させて、本物の怪物がその場に本当にいるかのように偽装しているんじゃないかと。『杭全屋』からここに至るまでをも、全てドッキリか何かで、そうなるとあのバイトの募集も、そのピエロを募集するための罠で……

 ふと、上を見る。
 怪物が僕らを見下ろしていた。相変わらず仁王像か、もしくは鬼瓦のような物凄い形相だが、一応パーツは人の顔だ。頭には、2本の猛々しいツノが逆ハの字に伸びて、それがよりいっそう凶悪なイメージを強くしている。首も太すぎて、頭から即体みたいに見える。
 さっきから暑い暑いと思っていたら、その怪物の上下する肩から、湯気が立ち上っている事に気付く。全く恐ろしいと言わざるを得ない。このクソ暑い熱帯雨林みたいな所でそんなものが湧くなんて、一体どれほどの温度だと言うのか。あまりの熱に、周りの空間が少し歪んで見える。

 絵に描いたような体現の仕方だった。その上気した顔と、熱と。歯ぎしりをしながら鼻で大きく息を吐く事により、こいつは体全体で叫んでいるのだ。
 俺は怒っているのだ、と。
 僕は頭を振った。またも渦巻いてしまった下らない考えを、頭の隅に追いやった。
 この迫力は、違う。本当にこの怪物は、今目の前に存在している。絶対に絶対に、幻なんかじゃない。

「ふんっ」

 じゃあそうすると……

「ほい」

 この人はやっぱり本当に……

「よっ」

 この怪物の攻撃を、いとも簡単に止めているという事になるのだが……。

 インパクトの時に音がしないのは、彼がそういう風に受け止めているからだった。腕を伸ばし、攻撃が手に触れた瞬間腕を曲げる。徐々に力を殺して、腕を曲げきる頃には力を相殺している。これを彼は、その場からほとんど動かずにやってのけている。
 何かしらの武道、合気とか古武道とか、そんなようなものに見えなくもないが、あれは相手の力を受け流したり利用したりするものだから、彼のやってる事とは全然違う。彼は単に、受け止めているのだ。こんな事、少なくとも相手と同じような力を持っていなければ、出来ない芸当のはずなのに……。

 ことごとく攻撃を止められる事に焦れたのか、怪物が、今度は直接腕でまことさんを殴りに来た。地球もろともぶち抜くつもりかのように、思い切り後ろまで拳を振り上げる。
 しかし、そうして彼に向かって数発打ち下ろした拳も、全て空を切った。最後の一撃は勢いが余ったのか、僕の数メートル前の地面にめり込んだ。

「うわっ!」

 爆散する土から身を守るのが精一杯の僕と違い、まことさんはすぐ次の行動に移っていた。
 彼はその怪物の腕を素早く肩に抱え、一本背負いのような態勢をとった。

「んんんんんんんん!!」

 さすがに無茶だ。いくら何でも質量差があり過ぎる。そう僕は思ったが……。
 僕の口はすぐに、開いたまま塞がらなくなった。程なく怪物の巨体が宙に浮き始めたのだ。

「それ!!!!」

 柔道技のような綺麗な投げ方ではなく、ただ力任せに投げた感じだった。まことさんは掛け声とともに、怪物を上空に向かって放り出した。まるでぬいぐるみのようにふわりと重量感無く、巨体が空中に綺麗な弧を描く。
 そのまま怪物は、広場を囲んでいた一際大きな一本の大木に向かって飛んで行き、そこに思い切り背中から叩きつけられた。さっきまでの馬鹿でかい音と変わらない轟音が、辺りに響き渡る。
 やっぱり怪物にはちゃんと質量があり、そこに確かに存在しているのだ。彼の暢気な掛け声と、特殊な攻撃の受け止め方のせいで勘違いを強いられたが、それはもう確定と言っていいだろう。

「あ、あんた一体……」

 でも、あんなものを投げ飛ばす事が出来る人間なんて、僕は見た事がない。プロレスラーや相撲取りだって、せいぜい同じくらいの体重の人間をその場に投げ飛ばすくらいが精一杯なのだ。あんな自分の体重の何倍もあるようなデカブツを、あんな風に軽々と投げてのける事は絶対誰にも出来ないはずだ。

 結局、ここに戻ってくるのだった。見た目は普通の人間。だから余計に、ある意味喋る猫や、この怪物よりも不思議な存在。本当に、一体彼は……

「何者……?」

 僕のその呟きに気付いたのか、ぱんぱんと手に付いたホコリを落としながらまことさんは僕の前にやってきて、頬をかいた。
 どう言ったものか……といったように思案する彼だったが、しばらく待ってみて出た言葉は、やっぱり僕の理解力を余裕で超えるものだった。

「えー……その……」

 頭をゆるゆると撫でながら、彼は言った。

「私は杭全まこと。一応この辺りの土地を総括する、テングです。改めてよろしくね、ナツキ君」



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 まことさんに採用だと言われた後、僕は喫茶店の通常業務以外に、別の仕事を頼まれた。やた丸が、まことさんに何か耳打ちした後だった。

「私のもう一つの仕事の方も手伝って欲しい」と、カウンター奥の事務所らしき所に引っ込んでいって、なぜか華麗に山伏に変身して帰ってきたまことさんが言った。「もちろんやるかどうか決めるのはナツキ君だけど、一応これくらいは時給アップ出来るかな」

 そうして提示された条件は、もうほとんど高校生に出すような金額ではなかったが、僕はすぐには飛びつかなかった。

「何やらす気なんですか……」

 簡単に想像出来たからだ。こんな金額は、絶対にまともな仕事じゃない。世間に顔向け出来なくなるような、なにか後ろめたい仕事をやらされるか、もしくはそれどころじゃない、とんでもない悪の片棒でも担がされるに決まっているのだ。
 しかし、彼はそれをすぐに笑って否定した。

「いやいや、そんな大変な事じゃないよ。ただ、一仕事終えて疲れた私を背負って帰ってきて欲しいんだ。それだけ。ほんとにそれだけ」

 やた丸の存在を隠そうとした時とは違って、特に彼に不審な様子は見られなかったけれど、それでもやっぱり、僕はすぐに信じてはいと頷く事は出来なかった。

 どれだけの時間拘束されるのかがまるきり分からないのと、もしこの格好の彼を背負って町中を歩く羽目になったりしたら、周りになんと言えばいいか分からない。僕の住んでる町はそんなに大きくはないし、次の日には学校中で噂になってる可能性だってあるのだ。それが何より、今の僕にはつらい。なるべくしばらくは、学校では大人しく息を殺して過ごしていたいのだ。

 そうやっていつまでも唸りながら熟考している僕をじれったく思ったのか、やた丸が言った。

「実際にやってみた方が早いんじゃないかの。ここで色々説明したって、どうせこやつは信じられないじゃろうし」

 その一言が、全てを決めたのだった。結局僕は、今日の分の日当も払うよ、というまことさんの言葉もあって、のこのこと彼らについて来てしまったのだった。明日の昼の飲み物代も危ない僕にとっては、その申し出は正直魅力的過ぎたのだ。

 まぁ、あんまりきつかったり危なそうだったりしたら、断ればいい。それはどこまで行っても変わらない。喫茶店の仕事だけでも十分美味しいのだ。あくまでも今日はお試しなのだから、深刻に考える事もないのかもしれない。

 そうやって自分の身の上を整理していると、少し気持ちが楽になった気がした。僕は上がってしまっていた顎をくっ、と引いて、体に重く溜まってしまった疲れを逃がすように、深く息を吐いた。

「もう近いんですよね?」
 隣を涼しい顔で歩くまことさんに何となく声をかけると、
「うん。もうすぐそこだよ」
 と、これまた涼やかな笑顔で返された。
 そうして僕がすっかり安心し、もう少しだと自分を奮い立たせて足に力を込めた時。まことさんが上に振り返った時だった。


「いぃ!?」


 僕は、気付いた時にはアルマジロみたいに反射的に身を丸くしていた。
 突如大きな音が辺りに響き、耳をつんざいた。まるで花火大会を間近で見ているかのように、何度も何度も耳を貫く。

「なななな何だぁ!?」

 鈍くて重い迫撃砲のような音と、何かが軋む音が繰り返され、時折ぎしぎしっ、と何かが裂ける音がした。聞いた事がある音だった。それは、自分の家の近くの古くなった木造住宅が取り壊されていた時の音に、よく似ていた。
 まことさんはその音がしてから急に険しい顔になって、いきなり上に向かって駆け出した。

「ごめんナツキ君先に行く!ゆっくり○☓△■※!」
「え!?何です?どこ行くんですか!?」

 腹に響く程の轟音のせいで、よく聞こえない。僕が言い終わる頃には、もうまことさんは遥か先にいた。階段を何段か飛ばしていくみたいに、斜面を駆け上がっていく。

「えっ、はええ!」

 信じられなくて目をゴシゴシ擦っている間に、あっという間に見えなくなってしまった。
 あんな下駄を履くくらいだから、少し運動神経がいいのだろうくらいに思っていたのだが、とんでもない。見間違いじゃなければ、まことさんの身体能力は、人間が本来持てるレベルを余裕で超えていた。映画なんかで誇張表現された、忍者みたいな動きだった。
 やた丸も、それに負けず劣らずの速さでまことさんに付いて行ってしまった。

 開いたままになっていた口にやっと気付いて、慌てて閉じた。呆気にとられているような場合じゃない。こんな所に置いていかれたら、下手すると遭難しかねないぞ……
 よたよたしながら、何とか立ち上がる。見ず知らずの土地に捨て置かれた不安からか、それとも意外に非常時に強い性分だったからなのか。僕の足は、こんな状況でも自然にさっさと動き始めていた。

 音は、一定のリズムではなく、無秩序に鳴り響いている。少し間があったかと思えば、また急に再開する。おまけに地響きまであるもんだから、常に体を強張らせていないと立っていられない。まるで演奏中の太鼓の中にでも放り込まれたみたいだ。
 と言っても、いくらか連続して音が響くと、次の音が鳴るまでに少しのラグがあるようではあった。僕は音が鳴るごとにうずくまって、止むまで待ってから歩く事にした。

 僕は彼らとは対照的に、一歩ずつ着実に上を目指した。両手を耳を塞ぐのに使っているので、どうしてもそうせざるを得なかった。苔のびっしり生えた石に足を取られたり、木の根にけつまずいたりしながらも、何とか斜面を上がっていく。

(…………これが正しいよな?)

 じりじりした歩みを強制されて、つい心の中で呟いてしまった。我ながらおかしな事に不安になるもんだな、と僕は思った。
 やっぱり自分はちょっと心が弱いのだろうか……?と少し落ち込みかけたが、思い直した。誰だって急に少数派にカテゴライズされれば、いくら自信があった事でも、実は自分の方が間違っているんじゃないかと思わされてしまう事だって、きっとあるだろう。常識とは、いつも多数派に決定されてしまうものなのだから。

 自分で言うのもなんだが、僕は決して運動神経が悪い方の人間ではない。50mは7秒を余裕で切っているし、ジャンプ力だって相当ある。学校で運動系の行事があれば、まずひっぱりだこになるのだからそれは間違いない。
 でも、こんな歪な悪路を駆け上がるなんて、僕には到底出来ないのだ。無理してやったとしても、転びまくって全身打撲のアザだらけになるのが目に見えている。僕に出来ないのだから、大多数の普通にそこらにいる人にだって、それは同じのはずだ。
 世界の最前線にいるようなアスリートになら出来るかもしれない。じゃあ、そこらの子供なら出来るか?野生児なら出来るかもだが、このご時世、そんなのはごく少数派だ。答えは否。町のおばさんにあんな事が出来るか?スーパーを往復するだけの足には無理だ。否。サラリーマンは?同じような理由で否。
 否、否、否。そら見ろ。出来ないヤツの方が、断然多い。

 僕は改めて考えて、また思い直した。
 うん。やっぱり僕が変なんじゃない。彼らが変なのだ。

 しかし僕は、とっくに見えなくなってしまった彼らの方を見上げ、ため息をついた。
 別にそんな事が分かった所で、彼らと僕の差が埋まる訳ではないのだ。そんな考えてもどうしようもない事よりも、もっと考えた方がいい問題が目の前にあるだろう。変に負けず嫌いなのも考えものだ。また考察したくなるのをぐっとこらえて、僕は頭を切り替えた。

 彼らは、本当にこんな何も無い山の中に来て、一体何をしようというのだろうか。それに彼のもう一つの仕事とは、一体何なのか。ここに来てから暇さえあれば考えてきたというのに、結局分からないままだ。
 もはやまことさんが青年実業家なのだという、希望的観測に満ちた線はとうに消えてしまっていた。スーツにでも着がえてくれていればまだ望みはあったのに、よりにもよってあの格好では……

 彼の仕事は何かと言うよりも、まず彼は何者か?という方に考えをシフトしなければならないかもしれない。あの身体能力は、絶対普通じゃないのだから。

 と、考えながら歩いていて、また僕は何かに足を取られて前のめりになり、その場に手をついてしまった。

 慌てて手の土を払って、すぐに耳を抑えた。また無防備に耳を晒していると、いい加減潰されかねない。早く彼らに追いつかないとまずい事になるとは思ったが、少しの間僕は、その場で身を縮めてじっとしていた。

 くそ。もうたぶんあと少し登ればって所なのに。この音は一体何なんだ。本当に馬鹿でかい重機で工事でもやってたりするのか?盗伐にしてはちょっと大々的にやりすぎだしな……

(…………って、あれ?)

 一分か、もう少しの間僕はじっとしていた。しかし何だか様子が変だと思い、僕は試しに、恐る恐る耳から手を離してみた。
 大気を揺るがすような音だったはずなのに、気付くと自分の周りは平穏そのものだった。さっきまでブルブル震えていた細めの木に、何事もなかったかのように何かの鳥が枝に留まって、周りをキョロキョロうかがっている。
 そのまましばらく待ってみても、やっぱり音が鳴る気配は無かった。

 もしかして、先行した彼らが何かしたのかもしれない。
 僕は、急いで這い上がるようにして山道を登っていった。好奇心が僕を突き動かした。
 案の定無理が祟って、すぐに膝と手は真っ黒になった。木の根に足を取られ、低木の枝で腕を少し切ってしまう。下ろし立てのジーンズも、見るも無残な程に汚れきってしまった。

 だけど、あと少しだった。あと少しで、僕のこのどうしようもない好奇心を満たす事が出来る。そうするためにはこんなもの、どうという事はない犠牲だ。……ジーンズは少し心配だったが。

 最後の一登り。息も絶え絶えになりながら這いずって、目的地と思われる、一際開けた場所に向かって右手を掛けた。
 そこで勾配は終わっていた。やっぱりどうやら、広場のようなものがあるようだった。

 息を整えながらぐいっと体を上に押し上げ、顔だけそこから出した。
 そして僕は、その瞬間そこから思い切り身を引いた。

「うおおおおおおおおおお!?」



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 散々言ってきたが、夏は基本的には好きだ。特に、今みたいにどしゃぶりの雨が降った後の空気は嫌いじゃない。

 暑かっただけの大気が全て洗い流されて、一度リセットされる。そして草や土の匂いが香る涼しげな風が空気に混じり出して、何とも爽やかな気分になれる。夏の間、クーラーや扇風機以外でとれる自然の最高の涼だと言っていいと思う。僕はそんな時、今時珍しい縁側に一人座って、何となく空を見ていることが好きだったりするのだ。

 だから僕は、何度もため息が出てしまうのを抑える事が出来なかった。今日はその空気を楽しみながら帰れるかなと思っていたのに、珍しく出た僕のくだらない好奇心のせいで、その期待はもろくも崩れさることになってしまったのだった。

「あー気持ち悪い……」

 僕は力なくぼやきながら歩いていた。まさかこの爽やかタイムに例外があったなんて、知らなかったのだ。

 雨が降った後、木々が茂る山の中を歩くと、こうも緑の匂いが濃くなるとは。
 まことさんに連れられて、なぜか僕は、杭全屋の少し先にある山道に足を踏み入れていた。

 周りの木々のせいで異常に湿度が高く感じられた。むわっとしたその空気のせいで、目を閉じるとジャングルにいるかのように錯覚するくらいだ。何事も程々がいいのだということを、僕は今身をもって感じていた。

 そして、またもそうしてうなだれながら歩かされている僕に、追い打ちをかけるように騒音まで襲ってきている。僕がげんなりしながら顔を上げると、相も変わらず二人は口論の真っ最中なのだった。

「でもさぁ……何でよりによって今日来るかなぁほんと。しばらく来るなって言っといたのに」
「わしのせいか!?看板が『くろぉず』の時は来ても良いと言うとったではないか!!」
「それは実際に営業が始まった後の話だから。あんたバカぁ?」
「むう……っ!なんじゃそのおかしな抑揚は!また変なものに影響されおって!!」
「自分だってそうでしょう……来た時何急にジンジャーエールって。何読んだの」

 お互いにそうやってぶつかりながらも、彼らは軽快に山道を上がっていく。僕はそんな二人が、心底不思議で仕方がなかった。春の涼しい陽気の中、ピクニックにでも来てるかのように、彼らはまるで涼しい顔で進んでいくのだ。

 猫は動物だからまあいいとして、まことさんは少しおかしいと言わざるをえない。彼は来る時に山伏みたいな格好に着替えていてすごく暑そうなのだが、汗一つかいていないのだった。
 しかも足元は、妖怪の類が履いていそうな一本歯の下駄なのだ。あんなのですいすい登っていくなんて、一体どういう身体能力をしているのだろうか。これじゃ普通の格好でひいひい言ってる僕の方が、異常みたいじゃないか。

 まことさんはぶつくさ言いながら歩いている僕に気付いたのか、無理やり猫の顔をむぎゅっと掴んでから振り向いた。

「ナツキ君大丈夫?なんか言った?」
「いえ、何も」

 口元でもごもご何か言うくらいなら出来るのだが、この距離で会話をしようとするだけでかなり辛い。僕は彼の問いに、くぐもった声でしか答えることが出来なかった。
 そんな僕に、まことさんはなおも言った。

「そう?なんか辛そうだね。やっぱりこの下駄履く?楽だよ?」
「それはもっときつくなりそうなんでいいです……」

 今日何度かされた勧めを、僕はやんわりと断った。
 間近で見た今でもただ歩きにくそうにしか見えないが、一本歯の下駄は、上手く歩くと上り道が楽になるのだとまことさんは教えてくれた。斜面で前のめりになり、倒れる時の力を利用する。その理屈はまあ理解出来たけれど、慣れない僕には余計疲れるものでしかなさそうなのだった。

「最近の人間に山道はつらいじゃろうなあ。あの自動車とか言うモノが出来てから、特に軟弱になったようじゃし」と、猫はいつの間にかまことさんの拘束を振りほどいて、僕の周囲を回りながらじろじろ見てきた。「本当に大丈夫かのう。こんな貧弱な体で」

 服に足をひっかけながら、猫は器用にするすると僕の体を上がってきて肩の上に乗った。
 僕はちょっとムッとしながらも、猫に答えた。

「別に大丈夫だと思うぞ。こう見えても、一応最近まで部活やってたし」

 もう辞めてしまったけれど。
 僕は力こぶを出して、猫に間近で見せてやった。

「ふうむ。細いけどのお。ちゃんと食っとるのか?それにブカツというのはなんじゃ」

 僕はさすがにうんざりして、その問いにはもう答えなかった。
 猫はどうも最近の言葉に疎いらしく、道中幾度と無くこういう質問をされた僕は、その都度丁寧に答えてやっていた。元々人に何かを教えるというのが好きなのと、喋る猫と話すという物珍しいシチュエーションも手伝って最初はそうしていたのだが、言葉を説明するためのバックグラウンドも説明しなければならないほど物を知らないので、いい加減疲れてしまった。

 僕は最初、何だか年寄りと話しているみたいだなと思っていたのだが、それともちょっと違うような気が今はしてきていた。昔の人がぽっと現代に来てしまったら、ちょうどこんな感じになるんじゃないだろうかと思う。言葉を最近習ったばかりなのかもしれないが、それにしてはちょっと流暢過ぎるし。

 結局我慢出来なくなって、僕は聞いてしまった。

「お前、そんなにうまく話せるのに、何で色んな言葉を知らないんだ?」
「お前とはなんじゃ!わしの方が年上じゃぞ!」

 猫はそう耳元で怒鳴ったが、その言葉に僕は目を丸くせざるを得なかった。
 だって、どう見たって若い猫じゃないか。

「ああ、人間年齢に換算するとってやつか」はたと思いついて僕が言うと、
「違うわ阿呆!!わしはもう齢200を越えておるわ!」
と、肩の上で鼻息荒く猫はふんぞり返った。

「嘘つけよ。200って何だよ200って」

 そう言ったのに、こいつは僕の言葉を完全に無視してため息をついた。

「杭全八咫丸と言えば、昔は皆が敬ったのにのお。最近の者は畏敬の念というものが無さすぎる。全く嘆かわしいことじゃ」
 
 猫はしみじみと言い、殊更大きなため息をついた。

「無視かよ。てか何?くまたのやたまる?」

 僕が首を傾げると、様子を見ていたのか、まことさんがわざわざ降りてきて補足してくれた。

「彼の名前だよ。やた丸って呼んであげれば怒らないから、今度からそう呼んでやって」

 僕の目の前でしゃがんでから、まことさんは苦笑した。下駄の歯がかなり高いものだから、こうしてやっと同じくらいの目線になる。

「猫又とか仙狸《せんり》って聞いたことない?やた丸はそれらしいよ。自分でもよく分かってないみたいだけど」

 まことさんが言うと、やた丸はすぐそれに抗議した。

「猫又という言い方は好きくない。わしの尾は別に裂けてはおらんしの」そう言ってから、僕の肩から軽くトンと飛んで地面に降りた。「そんな事よりよいのか?早くしないとまた奴が暴れだすぞ」

 まねき猫みたいに片足をくいっと上げ、やた丸は上の方を指した。
 言われて僕は、額から滴り落ちる汗を拭いながら、重い首をなんとか動かして上を見上げた。

 見てみると、確かにそこは他の所と少し違うようだった。自分達がいる辺りは割と雑多に生えている樹木が多いのに対して、そこは人の手が入っているのか、少し規則正しく木が植えられているように見える。
 気付くと、木々の葉の間から差す光が何本も地面にまで伸びていて、確かに何かいそうな雰囲気は出てきているのだった。

「何だっけ。なんか、神様が暴れそうなんだっけ?本当かよ」

 それでも、もうやめておけばいいのに、僕は何度繰り返したか分からない確認を未だに添えてしまう。
 案の定、やた丸がすかさず言った。

「まだ言うか。じゃあお前の目の前にいるわしはなんなんじゃ。言うてみい」

 しつこく言うてみい、言うてみい、と僕に迫る。やた丸はわざわざまた肩まで上がって来て、僕の頬を肉球でぐいぐい押した。どちらかと言うと僕は犬派だから、こんなことされてもちっとも嬉しくないというのに。
 嫌々な感じでされるがままになっている僕を見て、さすがにそろそろ助けてくれるかなと期待したけれど、まことさんはそんな僕らの様子を見て、楽しそうに笑っているだけなのだった。
 僕はやた丸から視線を外し、深々とため息をついた。

 いつの間にやら、こんな風にしてすっかり馴染んでしまっている。かのように見える僕だったが、やっぱり人はそう簡単に順応できるものでもないらしい。まだまだふとした瞬間に、僕は我に返る事が多かった。
 会話がふいに途切れた時。今みたいにやた丸と話している時。一種興奮状態だった頭が、これはおかしいと急に冷静になる。その度僕は自分の境遇が信じられなくなって、自分に問うのだった。

 道を一本違えてしまった事くらいは分かる。それは分かっているが、それだけでこうも急に非日常の世界に放り出されてしまうものなのだろうか、と。

 僕はただ閑静な住宅街を歩いていて、少し違う道を歩いてみようとふらっと路地に入ってみた。それくらい些細なことをしただけのはずなのに……
 全く信じるところではなかったSFの世界のように、おかしな事態が自分に降りかかっている。
 路地を抜けた先には、ニューヨークの喧騒が待っていた。あたふたと慌てているうちに、僕はいつの間にかその奔流に巻き込まれ、上も下も分からないくらいにもみくちゃにされてしまった。それ程突拍子もない事が、目の前で起こっている。あるいは、いきなりガンジス川で沐浴する人々に出くわしたとか、ベネチアのだだっ広いサンマルコ広場に出てしまったとかに言い換えてもいい。とにかく、振り返ると今来たはずの道は消えていて、もう僕はそこでどうにか立ち回っていくしかないような状況に置かれているのだった。

 呆けて立ちつくすことさえ許されない。新しい状況は、そうして僕にどんどん振りかかってきたのだ。


 まことさんに採用だと言われた後、僕は喫茶店の通常業務以外に、別の仕事を頼まれた。やた丸が、まことさんに何か耳打ちした後だった。




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「あ!そうだよねえ。そりゃそうだ」と、全く悪びれずに彼はまたカウンターに入っていき、背を向けながら僕の方を指差した。「ちょっと待ってて。そこのほら、角の席にでも座っててよ。用意したらすぐに行くからさ」

 何だかかなりアバウトな人のような気がする。僕は一抹どころじゃない不安を感じつつも、言われた通り指定された席に座った。

 彼はカウンターの奥でごそごそと何かを取り出した後、腕まくりして気合を入れ、また何かをし始めた。
 もう、何なんだ何なんだここは。本当に来ちゃいけない場所に来てしまったような気がしてきたぞ。ただメモ帳とペンでも持って、対面して座るだけじゃないのか……?

 彼は何かに夢中になっている。その間に、馬鹿正直に待っていないで消えてしまおうかと思った。このまま身を任せていると恐ろしいことになるかもしれないと、根拠のない危機感が沸々と湧いてきていたのだ。

  でも、と同時に僕は思っていた。僕ももうそろそろ大人の仲間入りをしてもいい年になる訳だし、こういう所をすっぽかすようでは、僕の嫌いな最近の若者と位 置づけられる者共と大差ない事になってしまうのだ。それに、こんな割のいいバイトは、他にはたぶんない。ここを蹴るとなったら、バイクは諦める事にもな る。もうほとんど目の前にあるも同然なのに。

 頭の中を色々な考えがグルグル回る。そうしてもたもたしている内に、彼の方の準備は終わってしまった。いそいそと何かを持ちながら、カウンターから出てくる。もう覚悟を決めて流れに身を任せるしか無いようだった。

  まあそもそも、面接して採用されたとしても、後でやっぱり無理だと断るくらいの事は出来るはずだ。それならすっぽかしたことにはならないと思うし、僕の体 面もかろうじて保たれるだろう。こっちは天下の高校生なのであって、理由ならいくらでも考えられる。話だけ聞いて、あとはやっぱり学業優先しますだの何だ の理由をつけて断ればいいのだ。

 そうだ。最悪そうしよう。
 そう思っていたら、見事に彼に先手を打たれてしまった。

「はいどうぞ」

 彼が、とんでもないものを持ってきて差し出すのだった。

「え?何ですこれ?」

 そう聞くと、彼が対面に座りながら言った。

「何って、メロンソーダだけど?アイス載せたやつ。なんだっけ。クリームソーダ?これいいよねぇほんと。すごい喫茶店!って感じがしてさ」

  これが何かなんて、そんな事は分かっている。この超が付くほどの不健康そうな色をした、実際ただの一滴も果汁なんて入っていなくて不健康な、でも何とも抗 い難い嗜好性を持つ飲み物。それにアイスまで載ってしまった、ちょっとお洒落なお出かけを気取った外出の時くらいにしか頼んじゃいけない、あの高級な一 品!あぁ……それを、何だ?このクソ暑い中を歩いてきた僕に、どうしろって言うんだ……?

 彼は、おあずけを食らった生唾を飲む犬みたいになってる僕に向かって言った。

「…………どうぞ?アイス溶けちゃうよ?」

 店の中は空調が利いていくらか涼しかったけれど、長い時間外にいたせいで、まだ体の芯には火照りが残っていた。
こんな据え膳、抵抗できるわけはないのだ。僕は促されると同時にそれに手を付け、まずはその綺麗な緑色の液体をすすってやろうと、器用にアイスだけをどかして喉に流し込んだ。

「い いなー。やっぱりこの黒いテーブルに映えるよその透き通った緑。これからの喫茶店は視覚も大事にしていかないと。お菓子とかも絶対そっちのがいいよねえ。 あんこ餅とかも美味しいんだけど、でも色的には草餅とか……桜餅とか!季節ごとにいろんな色を意識してお客さんに出したいなぁ」

 彼はずっと何かを言ってるようだったが、僕の耳にはほとんど入らずに、入った先から右から左へ抜けてしまっていた。
 しかし、僕はさっきもこんな流れで施しを受けたばかりな気がする。何とも人の良い土地柄もあったものだ。世知辛い世の中なのに、こんな人達がまだいるなんて、ちょっとびっくりだ。

「さて、じゃあ一応履歴書見せてもらおうかなあ」

 飲み物からは口を離さずに、僕は素早く懐に忍ばせていたそれを取り出して彼に渡した。カバンを持ち歩く習慣がないから苦肉の策だが、ちゃんと汗だくになることを見越してビニールに入れてきたし、特に問題はないはずだ。

「ふむふむ、藤 夏樹君か。雅な名前だね。春から夏へ、移ろっていく季節を感じるねえ」

 うんうん唸っている彼には目もくれないで、ひたすら僕はクリームソーダを消費し続けていた。
 よし、改めて秘技“飲み物と同時にアイス流し込み”だ。いい具合にアイスが溶けている時にしか出来ないこの荒技。喉越し爽快!胃に到達するまで最高の涼を得ることが出来るそれを、僕はすぐ無くならないようにと、少しづつ少しづつ行なっていった。

  彼は、全くもって最高のものを提供してくれた。誰もが童心に返る事が出来る、楽しい気分になれるこの飲み物を思い出させてくれた。コーヒーだとか紅茶だと かで気取らないで、たまにはこういうのを頼んでみるのもいいのかもしれない。今度他に行っても、ちょっと頼んでみようかな……

 そうやって思考している間にも、自分への品定めはずっと続いていた。僕は全てをかっ喰らった後、ようやく落ち着いて居直り、彼の方に顔を向けた。いや本当、ご馳走様でした。

「へー駒川高校なんだ。結構頭いいとこだよね確か……」

 と、履歴書を見ていた彼がふと顔を上げ、僕の方を見てから突然ピタリと止まった。

「ぷふ……」

 彼は僕を見たかと思うと、口元を抑えながら何かを必死でこらえ始めた。指まで差して何かを教えようとしているが、こらえるのに必死で出来ないらしい。
 何か顔についているのだろうか。仮にも面接の場だから、こういうことをされるとちょっと不安になる。

  寝癖、なわけはなかった。きちんとセットはしてきたつもりだ。汗だってちゃんと拭ってる。基本的な事は問題ないはずだった。じゃあもしかして、来る時 ちょっと整えるのに失敗した眉か?と一瞬頭をよぎったが、それならここに入ってきて顔を合わせた時にこうならなければおかしいわけで。

(んん~?)

 体中まさぐっても分からない。一体彼は、何がそんなにおかしいと言うのだろう。

「ナツキ君。口、口!」彼は結局耐え切れずに、程無く決壊した。「あっはっはっは!ひげ!ひげ生やしてるよ!白ひげー!あーはっはっはっは!」

 容赦なく、遠慮のひとかけらもなく彼は笑った。
 言われて口元を拭ってみると、べたベタした白いものが手に付いたので、すぐに備え付けのペーパータオルに手を伸ばして口を拭った。
 なるほど。久しぶりにあの技をやったせいで、アイスが口元に付いてしまっていたらしい。

「すいません。ちょっとがっつきすぎました。これ、ありがとうございました。すごい美味しかったです」
「あ~……。もう拭いちゃった。残念」

 僕がせっかくお礼を言ったのに、彼はそれを聞き流して、興奮冷めやらぬ様子で涙を拭っていた。
 しかしまぁこんな事でここまで笑えるなんて、幸せな人だと思う。よっぽど娯楽にとぼしい生活だったか、もしくは単に笑い上戸みたいな所があるのかもしれない。何にせよ、やっぱり少し変わった人のようだった。

「すいません。もう落ち着いたので、いくらか詳しい話をしたいんですけど……ええっと……」

 そう言えば、ここまでにもう何度もやりとりしたのに、まだ彼の名前も聞いていないのだった。このままだとちょっとやりにくい場面があるかもしれないので、僕は早めに聞いておくことにした。

「あ、そっか。まだ名前言ってなかったね。ごめんごめん」

 彼はおもむろにペーパータオルを手に取り、そこにボールペンで名前を書いてくれた。


『杭全 まこと』


 ちょっと、いやかなり意外だった。結構適当な人に見えるから、字もそんな感じでへなへなした字を書くかと思ったらとんでもない。彼は書きにくい紙をものともせず、ど綺麗な楷書ですらすらっとそれを書いた。
 それを見て、思わず僕は唸ってしまった。やはり人は一目見ただけじゃ分からないのだ。少し慎重に彼を評価する必要がありそうだった。

「店長兼オーナーの杭全まことです。よろしくナツキ君」

 ニッ、と小学生みたいに笑いながら彼から差し出された手を、僕は握り返した。

 自然と、彼に目が行った。そこでようやく、僕は彼という人間を真正面から見ることになったのだった。
 着物の袖から見える手首は結構細くて、握った手はしっとりして温かかった。身長は僕より少し低いくらいだと思ったが、手の方はかなり小さくて頼りない感じを受ける。しかも、何か異常に白いし柔らかかった。

(…………おいおい)

 自分でしたはずのその表現に、僕は鳥肌が立った。
 何を考えてるんだ僕は。女にフラレて傷心中だからって、いくら何でもそっちに行くのはまずいだろう……
 僕は頃合いを見て、彼のそれから不自然にならないように手を離した。彼も別に、ただ笑ってそうした。

 でも言い訳するわけではないが、一瞬くらいはそんな風な事を考えてしまうのも、仕方のない事だと思うのだ。この着物に下駄という、今時分にはかなり特異な出で立ちでいるせいで気付くのが遅れたが、彼は、かなり整った顔立ちをしていたから。

  ここに入ってきてからずっと、なぜか彼は少し眩しそうな目で僕を見ていた。でもたまに何かの拍子にそれが見開かれると、綺麗な二重の大きな目をしているこ とがすぐに分かった。鼻は控えめな大きさだったが、低いというわけじゃない。唇も厚過ぎないし薄過ぎない。要するに彼の顔は、今巷で増えている、男の女 顔ってやつだった。

 顔は小さいから頭も同じように小さいのだとは思うが、髪の毛が割と多くてボリュームがある。彼は肩までかからないく らいのショートカットではあったが、それでも男にしたら長めだし、前髪は少し伸び過ぎで鬱陶しい。微妙に癖っ毛なのか、毛先がちょっと跳ねていたりもす る。きちんと切れば全然変わってくる所を、放置している感じだ。

 こういう惜しい点もあるにはあったが、全くもって神様は不公平だなと僕 は思っていた。僕だって不細工というわけじゃないが、もしこんな綺麗な顔をしていたら、もっと長く彼女と付き合えていたかもしれないのだ。何も特技なんか 持っていなくたって、これなら連れているだけで箔がつくだろう。

 ……ああ畜生。いい具合に忘れていたのに、また思い出しちゃってるじゃないか。
 男として圧倒的な差を見せつけられた気がして、僕はこれからの詳しい話を聞く前から息も絶え絶えになってしまっていた。

「それで、ええと、ナツキ君。何から話そうかな」

 彼は、僕のその黒い羨望の眼差しには全く気がつかなかったように話し出した。僕もいい加減へこんでばかりもいられないので、椅子に深く座り直し、姿勢を正した。

「まずねー……あれだ。週何日くらい入れるかな?」

 やっとそれっぽい話になった事に、僕はとりあえず安堵した。
 一体ここに来てから話が始まるまで、どれだけの時間を過ごしたのか。カウンター奥の壁に掛かっていた物凄く古そうな時計の針は、けれど僕が来てから、ほんの数分しか進んではいなかった。

「……えーと、4日くらいなら、なんとか」

 学校のある日を1日か2日出て、あとは土日に入れればいい。そう言うと、彼は手を叩いて喜んだ。

「えーほんと?じゃあ君だけでカバー出来ちゃうなあ」
「え?週4日ですよ?」
「うん」まことさんは、頷いてからなぜか少し困った顔で言った。「本当は週6くらいでお店やりたいんだけど、私は他に一応、本業があるからさ。とりあえず週4日くらいでの営業にしようと思ってて。だから、週4日でも大助かり」

  彼のその言葉で、僕は確信した。彼はやはり、お金持ちなのだ。それできっと、お金だけの繋がりしかない人間関係に疲れ、人と直接触れ合えるこの仕事をやろ うと決意したのだ。間違いない。僕の考えは、当たっていたのだ。異様に高い時給も怪しいものではなく、お金持ち特有の金離れの良さが出ているだけなのだ。

  懸念事項が消えて、是が非でもこのバイトを勝ち取りたかった僕は、それからなるべく愛想よく振舞おうとした。でも、ほとんどそんな事をする暇なく、少し細 かい話をしただけで面接はあっさり終わってしまった。バイトの面接というものはもっと色々な事を話すのかと思っていたが、意外にあっけなかった。もっとア ピールしておきたかったが、こうなってしまったらもうしょうがない。あとはただ、結果を待つしかない。

「じゃあ、一応まだ他の人も面接しないといけないから、一通り終わったら合否関係なく連絡するからね。その方が君も動きやすいでしょう?」

 気づくと、テラスから伸びていた光はすっかりなりを潜めていて、代わりにどす黒い雲が空を覆っているのが垣間見えた。いよいよ一雨きそうだ。早く帰った方が良さそうだった。
 僕は、やっぱり雨に降られるのは嫌だったので、ダメ元で傘を借りれないか聞いて見ることにした。

「あの……」
 じゃあ、と席を立とうする彼に僕は頼もうとしたが、その声は、急に入口の方から鳴った鈴の音にかき消された。

 僕とまことさんは、思わず顔を見合わせた。もしかしてもう次の人が来てしまったのか、ちょっと気まずいなあなどと僕は思ったが、とうの彼も不思議そうな顔をしているので、どうやら違うらしかった。

(何だ?)

 チャッチャ、という軽い音が、小刻みにする。何かが歩く音のように聞こえた。

「まことー。みるくくれんかのーみるく。じんじゃーえーるでもいい」

 いくらか低い声で、彼に話しかける声がした。彼はそれに気づくとなぜか慌てだし、そちらに向かって子供を静かにさせる時のようにしーっと口を抑えた。まことさんの視線がおかしいくらい下で、子供どころか這っている人に向かってやっているようなのが不思議だった。

「なんじゃ。また何かの遊びか」

 僕は死角で見えなかったのだが、それはどんどん近づいてきて、目の前に現れた。
 まことさんは、尋常じゃない慌て様でそれに向かってジェスチャーで止まれ、止まれと言っていたけれど、意味をなさなかった。

「え?え?」

 僕は、目の前で起きたことが信じられなくて、ただうろたえるしか無かった。

「え……猫が……」

 口をパクパクさせながらまことさんに視線を送ったが、彼は目頭を抑えて俯いて、それきり黙ってしまった。

「喋った……?」

 あまりの驚きから、僕の声はかすれてしまっていた。それを払うように少しはっきり声を出すと、猫もこちらにやっと気付いたようで、僕を見た瞬間飛び上がった。

「ふに"ゃ"!!」

 全身の毛を逆立てて、四股を伸ばしきった状態のまま猫は固まった。同じように、僕もしばらく固まった。

 漆黒の猫だった。黄金色の瞳で、大きめの三角の耳を持った。
 体はさほど大きく無い。いつもの僕ならこれくらいの猫なんか、もし街で見かけたとしても流し見て終わりだ。どうとも思わない。せいぜい、ああ気楽な野郎達が横切ったな、くらいのものだ。

 でも、そういうのと彼は少し違った。何と言うか、ただの雑種のようには見えない気品があった。毛並みはふわふわで艶があって異常に良いし、僕を警戒して見つめる瞳は、聡明な光を湛えていた。

 猫は、居直って毛繕いを始めていたが、いささか動きがぎこちない。前足を舐めながら、ときどきちらりとこちらを見る。明らかにこちらの様子をうかがっているのが分かった。やっぱり頭は良さそうだった。

「あの、まことさん。今あの猫喋ってましたよね?」

 はっきりと僕が疑惑を口にすると、彼はそこでやっと顔を上げた。

「や、私の最近の趣味の腹話術だよ。猫が喋ったんじゃあないよ」

 ほらほら、うまくない?とか言いながらあからさまに下手な腹話術を彼は披露したが、はっきり言って無理があった。口動きすぎ……

「いやいや、めっちゃあの猫から声がしてましたって」
「ち、違うよ。あれだから。あの子供のさ、名探偵なんとか的なやつのさ、小道具であったじゃない?蝶ネクタイ型のやつ。あれみたいにして音出してるから!」
「いや、あの猫何もしてないじゃないすか……首輪すらないすよ……」

 その後も無理な理論を並べ立て続ける彼だったが、お互いに証明できるものがないので、議論は平行線をたどった。別に意地になる必要もないとは思うのだが、僕の中の何かが追求せよと命じ続けている。このままうやむやにする気には、全然なれなかった。

 僕は、はっきり言ってファンタジーな存在を信じている人とは程遠い所に位置する人間だ。割と一般的な“幽霊”だって、ほとんど信じてない。目の前にある現実こそが僕の世界なのであって、実際に見たもの以外は絶対に信じないようにしているのだ。
  振り回されるのが馬鹿みたいだと思うからだ。ないものをあるように錯覚して、結果それに踊らされて人生を無駄にするなんて、真っ平御免なのだ。夜寝ている 時に幽霊っぽいものが見えたとしよう。その時は、だから僕は全力で確認しにかかる。何もしないでただ怯えて、睡眠不足で夜を明かすなんて馬鹿のやることな のだから。

 そう。今回のこれも、例外ではないのだ。もしこれで帰ってしまったら、今日はもやもやしてうまく眠れないと思う。それに、目の前にUMAがいたかもしれないのにそれを確認せずに帰るなんて、これから未来を担っていく若者にしては好奇心が無さすぎるじゃないか。

 そう思った僕は、少しパワープレイに打って出てみることにした。僕の頭は、こういう時には結構うまく回る。


「あ、無視してごめんなさい猫さん。まことさんから話は聞きましたよ。すごいですね。喋れるんですね?」


 まことさんは急に出た僕のその台詞に、慌てて食い気味に言った。
「な、ナツキ君何言ってるのかな~?おかしいよ~?」

 猫からのリアクションはもうあまり期待できないのだ。さっきから猫に間接的に指示を与えようとしていたのか、まことさんは不自然に大きく声を出しているように見えた。だから猫よりも、むしろこうやって動揺したまことさんが口を滑らしてくれることに僕は期待していた。

 何でもいい。言葉尻を捉えられるような事を言ってくれれば、それがきっかけになる。そう考えていた僕だったが、事実は全く異なることになった。

 聡明そうな顔はどこへやら、尻尾をふりふり、何だか嬉しそうにこちらに近づいてきて、彼は言ったのだった。

「なんじゃまこと!ついに話したのか!」

 ぴょんと軽く飛び上がり、僕らの座っているテーブルの上に乗っかる。そして不思議そうに首を傾げながら、猫はまことさんの顔を覗き込んだ。
 僕は今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。

  目の前で見た今でも信じられなかった。ロボットか何かじゃないかと思って改めて間近で彼を観察してみても、やっぱりどう見てもただの猫だ。しっかりと人の 問いかけに反応して、なおかつこんなにしなやかな動きの出来るロボットは、今の技術じゃたぶん作れない。本当にどうなってるのか触って確かめたりしたいけ れども、得体が知れな過ぎて触れるのはちょっとためらわれた。

 まことさんはもう全てを諦めたのか、頭をテーブルに投げ出すようにして突っ伏してしまっていた。

「どうしたんじゃまこと。腹でも痛いのか?客人が困っておるぞ」

 ほれ起きんか、と言いながら猫はまことさんの頭の上に乗っかった。
 この距離感を見るに、相当この二人(?)は親しい間柄らしい。

「…………」

 猫は、まことさんの多い髪のせいで足を取られてしまって、態勢を維持しようと必要以上に動きまわった。その度小さい足に体重がかかってちょっと痛そうだったが、それでもまことさんは、猫にされるがままになっていた。

 このままだと、何時まで経っても話が進まない。かと言って、自分から何か切り出す心境にはなれなかった。僕は目の前のこれをどう飲み下してくれようかと、ずっとそればかりを考えていたから。

 僕の中の常識を、全て0から積み直さなければならないのだ。そうでもしなければ、この状況を理解する事は絶対に不可能だ。それはとっくに分かっていたが、とてもじゃないけど、それを実際にやる気にはならなかった。
  だって、まだ齢17の僕ではあるけれど、曲がりなりにも積み上げてきたものはあるのだ。そうやって毎日を一生懸命過ごして、やっとのことで積み上げてきた ものを、そんな簡単に崩せる訳がない。どんな環境にもすぐに適応して自分をつくりかえてしまう、スーパーマンなんかじゃないんだから、僕は。

 もういっそのこと、そうするくらいなら見なかったことにして、バイトのことも全部白紙にしてもらおうか。そう思い始めた頃だった。

「あー……えっと……あれだ、ナツキ君」猫を頭に乗せて突っ伏した姿勢のまま、まことさんは深く息を吐きながら言った。
 そして、鶴の首みたいに右腕を伸ばして、まだ全然この状況に答えを見出せていない僕を指差し、彼は言ったのだった。

「君、採用」



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『あんた、何も無いじゃない』

 腐るほど反芻してる言葉が、飽きもせず頭の中に湧いて出てくる。このクソ暑い中、他の思考のほとんどは停 止しているというのに、全くご苦労なことだ。少しはサボってみるっていうのも、可愛げが出ていいんじゃないですか?……などと心の中で嫌味を言ってみて も、もちろん効果は無いわけで。

「はぁ」

 こんな調子で、気分転換にバイトでもしようなどとは聞いて呆れる。頭の中は昨 日と何にも変わっちゃいない。行く先々で、あの言葉が不意に現れては僕の心を抉っていく。本当にこんな調子で、僕は残りの高校生活を元いたラインに戻す事 が出来るのだろうか。このまま何もせずに青春ドロップアウトなんて、考えただけで寒気がする。

 時間は待ってはくれない。その事だけは、親から再三のように言われて育ってきたから、僕はまだぐちゃぐちゃなままの頭で考えて、この現状を打破するための結論をとりあえず出した。それが、当面のバイトだった。

  バイトだったら、動きたくないと思っても動かざるをえない状況なわけだ。仮にも仕事でお金も貰うのだから、フケるわけにもいかない。華の高校生活が、傷が 癒えるまで待っていたらいつの間にか終わっていた、なんて状況には少なくともならない。無理やり出したにしては、この考えは悪くないはずだった。

 学生の縛られた時間の中では、学校だけが生活の全てになってしまいがちだが、それでは見聞は広がらないだろう。……というのは建前で、もちろん本音はあの事を忘れたかったからだった。
  僕みたいに学校で何かやらかしてしまった人間の場合、何か別の場所が必要なのだ。逃げ場が一切無いのはやっぱりまずい。バイトでも課外活動でも、習い事で も、何でもいい。いろいろな顔を持つのが、このストレスフルな現代社会を渡っていく上で重要なメソッドなのだ。そう考えて、今僕はここに立っているのだけ れども……

 新しい環境に入る時の緊張感もなんのその。全部はねのけて、あの言葉は今もどかっと頭の真ん中に陣取って、ふんぞり返っている。この感じだと、もうバイト程度では消えてくれないのかもしれない。と言うより、消える日が来るのかどうかさえも疑わしかった。

 順調だった僕の人生に暗雲が立ち込めている。そう思ったら、計ったかのように空の入道雲が太陽を隠し、辺りを少し暗くした。
 約束の時間まではまだあるから急ぐ必要は無かったが、それを見て、僕は思わず歩を速めた。

 ここの夏の夕立は、太く短く降る。そういうまさにバケツをひっくり返したような降り方の雨の中、自分がそれに降られている様子を頭に描いたら、あまりの展開の安さに愕然とした。
 そんな典型的な傷心野郎のシーンを再現したくはなかった。僕は急いで件の建物を探そうと、躍起になった。

 言われた所を曲がって路地に入ってみると、朝顔の鉢植えが家と家との間にずらりと並んでいた。
 出張った屋根に遮られて行き場をなくしたのだろうか。がむしゃらに成長したつるは、太陽が少しでもあたる方向に向かって伸びに伸びて上で交差し、狭い路地からでも見えるはずの空を覆い隠していた。

 特異なシーンのせいか、異世界に迷い込んでしまったような、変な違和感を感じた。空気も少し変わったような気がしたが、振り払うように一歩強く踏み出したら、その感じは消えた。そのまま朝顔のアーチをくぐって行くと、はたと家が途切れる所があって、広い道に出た。

「おお?」

 思わず、声を漏らした。そこにはちょっとした光景が広がっていたのだった。

「へー、こんなとこあったのか」

 狭かった空が一気に大きくなったせいか、また少し立ち眩みを覚えた。
 左を見ると、自分の住んでいる街が全て見下ろせた。結構勾配のある坂には一切家が建っていなくて、ただ低い背の草が生い茂っている。さすがに自分の家までは分からないが、よく行く最近出来たショッピングモールの頭の部分くらいは分かった。

 しばらくぼーっとその景色を見ていると、遠くの雷の音に正気に戻らせられた。大きな雲が、自分の真上に覆いかぶさらんとしていた。悠長な事を言っている場合ではなかった。このままでは本当に雨に降られてしまう。急がなければ。

 しかし、それらしい建物が見つからない。と言うか、建物が全くと言っていい程無いのだった。
 家を立てるには、この辺りは少し勾配がありすぎるのかもしれない。両サイドにあるのは草と砂利だけで、あとは、なんだかゴミ山みたいなものがあるだけだった。

「えー……?地図だとさっきのとこ曲がったらすぐっぽいように書いてあるのになんでねーんだよ……」

 あるのは本当にこのゴミ山くらいで……
 と思って近くまで来てみて、僕は絶句した。

「ゴミ山…………じゃない?」

 てっきりそうだとばかり思っていたものが、実際には違う事に気付く。それは、目の前に来た今でもちょっと信じられないが、“建物”だった。

「えっ……マジか……」

 何だかよく分からないものが、上から下まで積まれていた。それがそこにあるはずの、嫌だけど、信じたくはないけれど、僕のバイト先になるかもしれない場所を隠してしまっていたのだった。だってもう他には、本当に建物らしいものがないのだ。

 確認するため、僕はそれを端々まで見て歩く事にした。しかし見れば見るほど、何かの間違いだろうという考えが拭えなくなっていった。

 置かれているモノのほとんどが何だか分からなかったが、何となく分かるモノもあった。ただのガラクタ、というわけでもないのかもしれない。
  どれもこれも錆びついて原型を留めていないモノが多かったが、例えばあそこにぶら下がっているのは、今でも有名なお菓子メーカーのシンボルキャラクターの 看板。女の子が舌をぺろっと出しているあれだ。僕が知っているものよりかなり古臭い絵だけれど、確かにあれだ。あとは、そこにどかっと置かれているのは薬 メーカーか何かの象をモチーフとしたキャラクターの置き看板。で、あっちが…………。なんだろう。ランプ?

 とにかく、そんなようなモノが無造作にあちらこちらに置かれていた。悪く言えばゴミ。良く言えば、レトロなもの。僕みたいなゆとり世代や興味のない人間からしたら、ゴミ山と見間違っても仕方がないものだった。

 そして、僕はそれらを流し見ているうちに、とうとう見つけたくなかったものを見つけてしまったのだった。

 野晒しにされてすっかり色褪せたモノの中に、一つだけぽっと綺麗なモノがあった。木彫りに白い文字の看板。意外とポップなフォントで、『杭全屋』と大きく書かれていた。
 杭全《くまた》は、この辺りの土地の名前だ。えらく安易なネーミングだと今も思うが、ここが僕の目指していた場所なのは間違いなさそうだった。

「いやー…………マジか」

 しかし。それにしても、である。 

  僕はどうしても信じられなかったのだった。仮にも食べ物を提供する所が、こんな見るからに不衛生そうでいいはずがないのだ。僕ならこんなの見た瞬間踵を返 すし、間違っても中に入ってみようなどとは思わない。入るのはせいぜい店主自身と、あとは変に冒険心のある馬鹿野郎ぐらいじゃないだろうか。

 でも、そうやってこれから雇われるかもしれない場所を罵倒するだけ罵倒してしまってから、僕ははたと思いついた。

(や、ちょっと待てよ)

 僕は改めて、ここまでの地図が書いてある紙を指で伸ばし直した。
 そう。僕なら店構えを見て二秒で帰る。几帳面とは程遠い僕でもそうするのだ。それなら、普通の客なんかほとんど来ないんじゃないだろうか。立地も悪いし、誰も寄り付きすらしないんじゃないだろうか。そう思った。

 だが、しかしだ。持ってきた地図の傍らに小さくある求人情報には、確かにこう書かれているのだった。


『喫茶店スタッフ募集。
時給1000円~ 高校生以上。
未経験でももちろん大丈夫ですv(*'-^*)』


 時給千円。時給千円である。この不景気に、高校生を時給千円で雇おうという神が、他にいるだろうか。しかもこんな、見るからに人が来なさそうな所での楽なバイトに、だ。

 いいや、そんなのそうそういるわけがない。
  考えてみると、物凄くおいしいバイトのような気がしてきたのだった。客商売はそりゃ難しいだろうが、客が来なけりゃ関係ない。おそらくは、埃がたまらない ようにカップや食器を改めて洗うくらいしか仕事はないはず。そしていよいよやることが無くなったら、あとはもう文庫本でも読んで暇を潰していればいいん じゃないだろうか……

 ものは考えようなのだ。
 そうだよ、自分は客じゃないんだからその方がいいじゃないか。きっとここは、どこかの成金か何かが道楽で始めたぬるい店なのだ。この一見するとただのゴミ山にしか見えないこれも、たぶんその人の趣味で、実は価値があるものだったりするのだろう。

 全ての点が繋がった気がして、いつしか僕の迷いは消えていた。新しい出会いでもあればいいなあとか思っていた当初の予定とは大分変わってしまったが、これはこれでいいように思えた。諦めかけていた新しいバイクも、この時給ならもしかしたら買えるかもしれないのだ。

 壮大な夢を描き出した僕。まずは、入り口を見つけなければ始まらない。このごみごみした中ではまた少し体力が奪われるだろうと覚悟したが、予想に反して、それはすぐに見つけることが出来た。
 『杭全屋』の看板の近くに、階段があるのを見つけたのだ。どうやら店自体は半地下のようになっているらしく、ちゃんと薄暗くなり過ぎないように電球色の灯りがついていた。奥まで覗き込んでみると、『CLOSE』表示のミニ看板の掛かった、入り口らしいドアが目に入った。

(あれ、意外と……)

 僕は少し驚いた。こんな佇まいだからどんなおどろおどろしい所かと思ったら、中は意外にも綺麗で、しっかりした木造の店構えが垣間見えた。手入れもきちんとされているようで、照りのある木壁が結構いい雰囲気を出しているのだった。

(こりゃあてが外れたかな)

 まあ別に、それならそれでいいのだ。結局この立地では、おいしいバイトだという事実にはさして影響はないはずだ。
 時間は少し早かったが、僕は中へと入っていった。なぜかドアの上と下に1つずつ付いている鈴が同時に揺れて、涼しげな音が鳴る。

「すみませーん。バイトの面接に来た藤ですけど」

 第一印象が大事だと思った僕は、いつもよりかなり声色を変えて、無愛想にならないように努めた。時節は男にも愛嬌を求めている。このいろんな事が成熟しきった時代に、男だ女だ言ってられないのだ。

 中は、やっぱり結構おしゃれだった。椅子やテーブル、カウンターまで、全てが木製のもので統一されている。
 正面にはテラスがあるようだった。ちょうど雲の切れ間に入ったのか、そのテラスへと出れるであろうドアのガラスに太陽が反射して、店内を明るくしている。
 思わず眩しくて目を細めている僕に、彼は言った。

「おぉ?君がフジ君?早い到着だね」

 ちょうどコーヒーを淹れていた所だったようで、カウンターの中から高めのハスキーな声で迎えられた。
 コーヒーの香ばしい匂いが、辺りに充満していた。

「あ、はい。一応早めにと思って……」

 彼が目に入った瞬間から、僕はある一点が気になって仕方なくなっていた。あんまり変な風に思われないようにしたかったが、どうしても気になってしまう。

 彼は僕のそのいぶかしげな視線に気付いたのか、言った。

「何?何かついてる?」
「や、そのー……」
「何何?」

 言いながら彼は、体を捻って確認しようとした。その度に、何だか見るからに上等そうな下駄がカラカラ鳴る。いやいや、明らかにちょっとおかしな点が他にあるだろう……

「いや、着物なんですね、と思って」面倒くさいので、僕はもうはっきり言った。「もしかしてここってそれが制服なんですか?」

 僕は全然着物の事なんかよく分からないが、ちょっと現代的なシルエットのようには見える。彼は渋めの紺色の着物を、さも普段から着ていますとでも言うように、きっちりと着こなしていたのだった。
 まさか僕もこれを着る事になるのかと思ったら、確認せずにはいられなかった。少し着てみたい気もするにはするが、水仕事の時なんかはどうにも袖が邪魔になりそうに思える。

「あーなるほど!そういう事ね」

 彼がそう言って軽くポン、と手の平を拳で叩くのを見て、僕はちょっと新鮮さを感じた。本当にこんな仕草をやる人を、実は初めて見たかもしれない。
 彼は、僕のその隠せていないだろう好奇の目にも全く構わず話し出した。

「私はそう思ってるんだけどね。嫌かな?」
「いやー嫌ではないんですけど」
「私はこれでやろうと思っているから、それならいっそ統一しようと思ってたんだよね。まぁ今の若い子には慣れないものだろうし、強制じゃなくてもいいかなぁ……。どうしようか」

 なぜそれを僕に聞く。

「いやー……というか、その前に面接を先に……」

 さっきから俺いやーしか言ってねえんだけども……
 大体、やろうと思ってるってなんなんだ。まだオープンしてないのか?でもそんな事一言も書いてなかったし、それならそれで普通オープニングスタッフとか書くべきだろう。開店は結構大変なんだろうし……

 当然の事をやらずにもう決定事項のように話を進める彼に、僕は多大なる不安を覚え始めていた。これはもしかすると、とんでもない地雷かもしれないぞ……



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