「あ!そうだよねえ。そりゃそうだ」と、全く悪びれずに彼はまたカウンターに入っていき、背を向けながら僕の方を指差した。「ちょっと待ってて。そこのほら、角の席にでも座っててよ。用意したらすぐに行くからさ」
何だかかなりアバウトな人のような気がする。僕は一抹どころじゃない不安を感じつつも、言われた通り指定された席に座った。
彼はカウンターの奥でごそごそと何かを取り出した後、腕まくりして気合を入れ、また何かをし始めた。
もう、何なんだ何なんだここは。本当に来ちゃいけない場所に来てしまったような気がしてきたぞ。ただメモ帳とペンでも持って、対面して座るだけじゃないのか……?
彼は何かに夢中になっている。その間に、馬鹿正直に待っていないで消えてしまおうかと思った。このまま身を任せていると恐ろしいことになるかもしれないと、根拠のない危機感が沸々と湧いてきていたのだ。
でも、と同時に僕は思っていた。僕ももうそろそろ大人の仲間入りをしてもいい年になる訳だし、こういう所をすっぽかすようでは、僕の嫌いな最近の若者と位 置づけられる者共と大差ない事になってしまうのだ。それに、こんな割のいいバイトは、他にはたぶんない。ここを蹴るとなったら、バイクは諦める事にもな る。もうほとんど目の前にあるも同然なのに。
頭の中を色々な考えがグルグル回る。そうしてもたもたしている内に、彼の方の準備は終わってしまった。いそいそと何かを持ちながら、カウンターから出てくる。もう覚悟を決めて流れに身を任せるしか無いようだった。
まあそもそも、面接して採用されたとしても、後でやっぱり無理だと断るくらいの事は出来るはずだ。それならすっぽかしたことにはならないと思うし、僕の体 面もかろうじて保たれるだろう。こっちは天下の高校生なのであって、理由ならいくらでも考えられる。話だけ聞いて、あとはやっぱり学業優先しますだの何だ の理由をつけて断ればいいのだ。
そうだ。最悪そうしよう。
そう思っていたら、見事に彼に先手を打たれてしまった。
「はいどうぞ」
彼が、とんでもないものを持ってきて差し出すのだった。
「え?何ですこれ?」
そう聞くと、彼が対面に座りながら言った。
「何って、メロンソーダだけど?アイス載せたやつ。なんだっけ。クリームソーダ?これいいよねぇほんと。すごい喫茶店!って感じがしてさ」
これが何かなんて、そんな事は分かっている。この超が付くほどの不健康そうな色をした、実際ただの一滴も果汁なんて入っていなくて不健康な、でも何とも抗 い難い嗜好性を持つ飲み物。それにアイスまで載ってしまった、ちょっとお洒落なお出かけを気取った外出の時くらいにしか頼んじゃいけない、あの高級な一 品!あぁ……それを、何だ?このクソ暑い中を歩いてきた僕に、どうしろって言うんだ……?
彼は、おあずけを食らった生唾を飲む犬みたいになってる僕に向かって言った。
「…………どうぞ?アイス溶けちゃうよ?」
店の中は空調が利いていくらか涼しかったけれど、長い時間外にいたせいで、まだ体の芯には火照りが残っていた。
こんな据え膳、抵抗できるわけはないのだ。僕は促されると同時にそれに手を付け、まずはその綺麗な緑色の液体をすすってやろうと、器用にアイスだけをどかして喉に流し込んだ。
「い いなー。やっぱりこの黒いテーブルに映えるよその透き通った緑。これからの喫茶店は視覚も大事にしていかないと。お菓子とかも絶対そっちのがいいよねえ。 あんこ餅とかも美味しいんだけど、でも色的には草餅とか……桜餅とか!季節ごとにいろんな色を意識してお客さんに出したいなぁ」
彼はずっと何かを言ってるようだったが、僕の耳にはほとんど入らずに、入った先から右から左へ抜けてしまっていた。
しかし、僕はさっきもこんな流れで施しを受けたばかりな気がする。何とも人の良い土地柄もあったものだ。世知辛い世の中なのに、こんな人達がまだいるなんて、ちょっとびっくりだ。
「さて、じゃあ一応履歴書見せてもらおうかなあ」
飲み物からは口を離さずに、僕は素早く懐に忍ばせていたそれを取り出して彼に渡した。カバンを持ち歩く習慣がないから苦肉の策だが、ちゃんと汗だくになることを見越してビニールに入れてきたし、特に問題はないはずだ。
「ふむふむ、藤 夏樹君か。雅な名前だね。春から夏へ、移ろっていく季節を感じるねえ」
うんうん唸っている彼には目もくれないで、ひたすら僕はクリームソーダを消費し続けていた。
よし、改めて秘技“飲み物と同時にアイス流し込み”だ。いい具合にアイスが溶けている時にしか出来ないこの荒技。喉越し爽快!胃に到達するまで最高の涼を得ることが出来るそれを、僕はすぐ無くならないようにと、少しづつ少しづつ行なっていった。
彼は、全くもって最高のものを提供してくれた。誰もが童心に返る事が出来る、楽しい気分になれるこの飲み物を思い出させてくれた。コーヒーだとか紅茶だと かで気取らないで、たまにはこういうのを頼んでみるのもいいのかもしれない。今度他に行っても、ちょっと頼んでみようかな……
そうやって思考している間にも、自分への品定めはずっと続いていた。僕は全てをかっ喰らった後、ようやく落ち着いて居直り、彼の方に顔を向けた。いや本当、ご馳走様でした。
「へー駒川高校なんだ。結構頭いいとこだよね確か……」
と、履歴書を見ていた彼がふと顔を上げ、僕の方を見てから突然ピタリと止まった。
「ぷふ……」
彼は僕を見たかと思うと、口元を抑えながら何かを必死でこらえ始めた。指まで差して何かを教えようとしているが、こらえるのに必死で出来ないらしい。
何か顔についているのだろうか。仮にも面接の場だから、こういうことをされるとちょっと不安になる。
寝癖、なわけはなかった。きちんとセットはしてきたつもりだ。汗だってちゃんと拭ってる。基本的な事は問題ないはずだった。じゃあもしかして、来る時 ちょっと整えるのに失敗した眉か?と一瞬頭をよぎったが、それならここに入ってきて顔を合わせた時にこうならなければおかしいわけで。
(んん~?)
体中まさぐっても分からない。一体彼は、何がそんなにおかしいと言うのだろう。
「ナツキ君。口、口!」彼は結局耐え切れずに、程無く決壊した。「あっはっはっは!ひげ!ひげ生やしてるよ!白ひげー!あーはっはっはっは!」
容赦なく、遠慮のひとかけらもなく彼は笑った。
言われて口元を拭ってみると、べたベタした白いものが手に付いたので、すぐに備え付けのペーパータオルに手を伸ばして口を拭った。
なるほど。久しぶりにあの技をやったせいで、アイスが口元に付いてしまっていたらしい。
「すいません。ちょっとがっつきすぎました。これ、ありがとうございました。すごい美味しかったです」
「あ~……。もう拭いちゃった。残念」
僕がせっかくお礼を言ったのに、彼はそれを聞き流して、興奮冷めやらぬ様子で涙を拭っていた。
しかしまぁこんな事でここまで笑えるなんて、幸せな人だと思う。よっぽど娯楽にとぼしい生活だったか、もしくは単に笑い上戸みたいな所があるのかもしれない。何にせよ、やっぱり少し変わった人のようだった。
「すいません。もう落ち着いたので、いくらか詳しい話をしたいんですけど……ええっと……」
そう言えば、ここまでにもう何度もやりとりしたのに、まだ彼の名前も聞いていないのだった。このままだとちょっとやりにくい場面があるかもしれないので、僕は早めに聞いておくことにした。
「あ、そっか。まだ名前言ってなかったね。ごめんごめん」
彼はおもむろにペーパータオルを手に取り、そこにボールペンで名前を書いてくれた。
『杭全 まこと』
ちょっと、いやかなり意外だった。結構適当な人に見えるから、字もそんな感じでへなへなした字を書くかと思ったらとんでもない。彼は書きにくい紙をものともせず、ど綺麗な楷書ですらすらっとそれを書いた。
それを見て、思わず僕は唸ってしまった。やはり人は一目見ただけじゃ分からないのだ。少し慎重に彼を評価する必要がありそうだった。
「店長兼オーナーの杭全まことです。よろしくナツキ君」
ニッ、と小学生みたいに笑いながら彼から差し出された手を、僕は握り返した。
自然と、彼に目が行った。そこでようやく、僕は彼という人間を真正面から見ることになったのだった。
着物の袖から見える手首は結構細くて、握った手はしっとりして温かかった。身長は僕より少し低いくらいだと思ったが、手の方はかなり小さくて頼りない感じを受ける。しかも、何か異常に白いし柔らかかった。
(…………おいおい)
自分でしたはずのその表現に、僕は鳥肌が立った。
何を考えてるんだ僕は。女にフラレて傷心中だからって、いくら何でもそっちに行くのはまずいだろう……
僕は頃合いを見て、彼のそれから不自然にならないように手を離した。彼も別に、ただ笑ってそうした。
でも言い訳するわけではないが、一瞬くらいはそんな風な事を考えてしまうのも、仕方のない事だと思うのだ。この着物に下駄という、今時分にはかなり特異な出で立ちでいるせいで気付くのが遅れたが、彼は、かなり整った顔立ちをしていたから。
ここに入ってきてからずっと、なぜか彼は少し眩しそうな目で僕を見ていた。でもたまに何かの拍子にそれが見開かれると、綺麗な二重の大きな目をしているこ とがすぐに分かった。鼻は控えめな大きさだったが、低いというわけじゃない。唇も厚過ぎないし薄過ぎない。要するに彼の顔は、今巷で増えている、男の女 顔ってやつだった。
顔は小さいから頭も同じように小さいのだとは思うが、髪の毛が割と多くてボリュームがある。彼は肩までかからないく らいのショートカットではあったが、それでも男にしたら長めだし、前髪は少し伸び過ぎで鬱陶しい。微妙に癖っ毛なのか、毛先がちょっと跳ねていたりもす る。きちんと切れば全然変わってくる所を、放置している感じだ。
こういう惜しい点もあるにはあったが、全くもって神様は不公平だなと僕 は思っていた。僕だって不細工というわけじゃないが、もしこんな綺麗な顔をしていたら、もっと長く彼女と付き合えていたかもしれないのだ。何も特技なんか 持っていなくたって、これなら連れているだけで箔がつくだろう。
……ああ畜生。いい具合に忘れていたのに、また思い出しちゃってるじゃないか。
男として圧倒的な差を見せつけられた気がして、僕はこれからの詳しい話を聞く前から息も絶え絶えになってしまっていた。
「それで、ええと、ナツキ君。何から話そうかな」
彼は、僕のその黒い羨望の眼差しには全く気がつかなかったように話し出した。僕もいい加減へこんでばかりもいられないので、椅子に深く座り直し、姿勢を正した。
「まずねー……あれだ。週何日くらい入れるかな?」
やっとそれっぽい話になった事に、僕はとりあえず安堵した。
一体ここに来てから話が始まるまで、どれだけの時間を過ごしたのか。カウンター奥の壁に掛かっていた物凄く古そうな時計の針は、けれど僕が来てから、ほんの数分しか進んではいなかった。
「……えーと、4日くらいなら、なんとか」
学校のある日を1日か2日出て、あとは土日に入れればいい。そう言うと、彼は手を叩いて喜んだ。
「えーほんと?じゃあ君だけでカバー出来ちゃうなあ」
「え?週4日ですよ?」
「うん」まことさんは、頷いてからなぜか少し困った顔で言った。「本当は週6くらいでお店やりたいんだけど、私は他に一応、本業があるからさ。とりあえず週4日くらいでの営業にしようと思ってて。だから、週4日でも大助かり」
彼のその言葉で、僕は確信した。彼はやはり、お金持ちなのだ。それできっと、お金だけの繋がりしかない人間関係に疲れ、人と直接触れ合えるこの仕事をやろ うと決意したのだ。間違いない。僕の考えは、当たっていたのだ。異様に高い時給も怪しいものではなく、お金持ち特有の金離れの良さが出ているだけなのだ。
懸念事項が消えて、是が非でもこのバイトを勝ち取りたかった僕は、それからなるべく愛想よく振舞おうとした。でも、ほとんどそんな事をする暇なく、少し細 かい話をしただけで面接はあっさり終わってしまった。バイトの面接というものはもっと色々な事を話すのかと思っていたが、意外にあっけなかった。もっとア ピールしておきたかったが、こうなってしまったらもうしょうがない。あとはただ、結果を待つしかない。
「じゃあ、一応まだ他の人も面接しないといけないから、一通り終わったら合否関係なく連絡するからね。その方が君も動きやすいでしょう?」
気づくと、テラスから伸びていた光はすっかりなりを潜めていて、代わりにどす黒い雲が空を覆っているのが垣間見えた。いよいよ一雨きそうだ。早く帰った方が良さそうだった。
僕は、やっぱり雨に降られるのは嫌だったので、ダメ元で傘を借りれないか聞いて見ることにした。
「あの……」
じゃあ、と席を立とうする彼に僕は頼もうとしたが、その声は、急に入口の方から鳴った鈴の音にかき消された。
僕とまことさんは、思わず顔を見合わせた。もしかしてもう次の人が来てしまったのか、ちょっと気まずいなあなどと僕は思ったが、とうの彼も不思議そうな顔をしているので、どうやら違うらしかった。
(何だ?)
チャッチャ、という軽い音が、小刻みにする。何かが歩く音のように聞こえた。
「まことー。みるくくれんかのーみるく。じんじゃーえーるでもいい」
いくらか低い声で、彼に話しかける声がした。彼はそれに気づくとなぜか慌てだし、そちらに向かって子供を静かにさせる時のようにしーっと口を抑えた。まことさんの視線がおかしいくらい下で、子供どころか這っている人に向かってやっているようなのが不思議だった。
「なんじゃ。また何かの遊びか」
僕は死角で見えなかったのだが、それはどんどん近づいてきて、目の前に現れた。
まことさんは、尋常じゃない慌て様でそれに向かってジェスチャーで止まれ、止まれと言っていたけれど、意味をなさなかった。
「え?え?」
僕は、目の前で起きたことが信じられなくて、ただうろたえるしか無かった。
「え……猫が……」
口をパクパクさせながらまことさんに視線を送ったが、彼は目頭を抑えて俯いて、それきり黙ってしまった。
「喋った……?」
あまりの驚きから、僕の声はかすれてしまっていた。それを払うように少しはっきり声を出すと、猫もこちらにやっと気付いたようで、僕を見た瞬間飛び上がった。
「ふに"ゃ"!!」
全身の毛を逆立てて、四股を伸ばしきった状態のまま猫は固まった。同じように、僕もしばらく固まった。
漆黒の猫だった。黄金色の瞳で、大きめの三角の耳を持った。
体はさほど大きく無い。いつもの僕ならこれくらいの猫なんか、もし街で見かけたとしても流し見て終わりだ。どうとも思わない。せいぜい、ああ気楽な野郎達が横切ったな、くらいのものだ。
でも、そういうのと彼は少し違った。何と言うか、ただの雑種のようには見えない気品があった。毛並みはふわふわで艶があって異常に良いし、僕を警戒して見つめる瞳は、聡明な光を湛えていた。
猫は、居直って毛繕いを始めていたが、いささか動きがぎこちない。前足を舐めながら、ときどきちらりとこちらを見る。明らかにこちらの様子をうかがっているのが分かった。やっぱり頭は良さそうだった。
「あの、まことさん。今あの猫喋ってましたよね?」
はっきりと僕が疑惑を口にすると、彼はそこでやっと顔を上げた。
「や、私の最近の趣味の腹話術だよ。猫が喋ったんじゃあないよ」
ほらほら、うまくない?とか言いながらあからさまに下手な腹話術を彼は披露したが、はっきり言って無理があった。口動きすぎ……
「いやいや、めっちゃあの猫から声がしてましたって」
「ち、違うよ。あれだから。あの子供のさ、名探偵なんとか的なやつのさ、小道具であったじゃない?蝶ネクタイ型のやつ。あれみたいにして音出してるから!」
「いや、あの猫何もしてないじゃないすか……首輪すらないすよ……」
その後も無理な理論を並べ立て続ける彼だったが、お互いに証明できるものがないので、議論は平行線をたどった。別に意地になる必要もないとは思うのだが、僕の中の何かが追求せよと命じ続けている。このままうやむやにする気には、全然なれなかった。
僕は、はっきり言ってファンタジーな存在を信じている人とは程遠い所に位置する人間だ。割と一般的な“幽霊”だって、ほとんど信じてない。目の前にある現実こそが僕の世界なのであって、実際に見たもの以外は絶対に信じないようにしているのだ。
振り回されるのが馬鹿みたいだと思うからだ。ないものをあるように錯覚して、結果それに踊らされて人生を無駄にするなんて、真っ平御免なのだ。夜寝ている 時に幽霊っぽいものが見えたとしよう。その時は、だから僕は全力で確認しにかかる。何もしないでただ怯えて、睡眠不足で夜を明かすなんて馬鹿のやることな のだから。
そう。今回のこれも、例外ではないのだ。もしこれで帰ってしまったら、今日はもやもやしてうまく眠れないと思う。それに、目の前にUMAがいたかもしれないのにそれを確認せずに帰るなんて、これから未来を担っていく若者にしては好奇心が無さすぎるじゃないか。
そう思った僕は、少しパワープレイに打って出てみることにした。僕の頭は、こういう時には結構うまく回る。
「あ、無視してごめんなさい猫さん。まことさんから話は聞きましたよ。すごいですね。喋れるんですね?」
まことさんは急に出た僕のその台詞に、慌てて食い気味に言った。
「な、ナツキ君何言ってるのかな~?おかしいよ~?」
猫からのリアクションはもうあまり期待できないのだ。さっきから猫に間接的に指示を与えようとしていたのか、まことさんは不自然に大きく声を出しているように見えた。だから猫よりも、むしろこうやって動揺したまことさんが口を滑らしてくれることに僕は期待していた。
何でもいい。言葉尻を捉えられるような事を言ってくれれば、それがきっかけになる。そう考えていた僕だったが、事実は全く異なることになった。
聡明そうな顔はどこへやら、尻尾をふりふり、何だか嬉しそうにこちらに近づいてきて、彼は言ったのだった。
「なんじゃまこと!ついに話したのか!」
ぴょんと軽く飛び上がり、僕らの座っているテーブルの上に乗っかる。そして不思議そうに首を傾げながら、猫はまことさんの顔を覗き込んだ。
僕は今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。
目の前で見た今でも信じられなかった。ロボットか何かじゃないかと思って改めて間近で彼を観察してみても、やっぱりどう見てもただの猫だ。しっかりと人の 問いかけに反応して、なおかつこんなにしなやかな動きの出来るロボットは、今の技術じゃたぶん作れない。本当にどうなってるのか触って確かめたりしたいけ れども、得体が知れな過ぎて触れるのはちょっとためらわれた。
まことさんはもう全てを諦めたのか、頭をテーブルに投げ出すようにして突っ伏してしまっていた。
「どうしたんじゃまこと。腹でも痛いのか?客人が困っておるぞ」
ほれ起きんか、と言いながら猫はまことさんの頭の上に乗っかった。
この距離感を見るに、相当この二人(?)は親しい間柄らしい。
「…………」
猫は、まことさんの多い髪のせいで足を取られてしまって、態勢を維持しようと必要以上に動きまわった。その度小さい足に体重がかかってちょっと痛そうだったが、それでもまことさんは、猫にされるがままになっていた。
このままだと、何時まで経っても話が進まない。かと言って、自分から何か切り出す心境にはなれなかった。僕は目の前のこれをどう飲み下してくれようかと、ずっとそればかりを考えていたから。
僕の中の常識を、全て0から積み直さなければならないのだ。そうでもしなければ、この状況を理解する事は絶対に不可能だ。それはとっくに分かっていたが、とてもじゃないけど、それを実際にやる気にはならなかった。
だって、まだ齢17の僕ではあるけれど、曲がりなりにも積み上げてきたものはあるのだ。そうやって毎日を一生懸命過ごして、やっとのことで積み上げてきた ものを、そんな簡単に崩せる訳がない。どんな環境にもすぐに適応して自分をつくりかえてしまう、スーパーマンなんかじゃないんだから、僕は。
もういっそのこと、そうするくらいなら見なかったことにして、バイトのことも全部白紙にしてもらおうか。そう思い始めた頃だった。
「あー……えっと……あれだ、ナツキ君」猫を頭に乗せて突っ伏した姿勢のまま、まことさんは深く息を吐きながら言った。
そして、鶴の首みたいに右腕を伸ばして、まだ全然この状況に答えを見出せていない僕を指差し、彼は言ったのだった。
「君、採用」
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何だかかなりアバウトな人のような気がする。僕は一抹どころじゃない不安を感じつつも、言われた通り指定された席に座った。
彼はカウンターの奥でごそごそと何かを取り出した後、腕まくりして気合を入れ、また何かをし始めた。
もう、何なんだ何なんだここは。本当に来ちゃいけない場所に来てしまったような気がしてきたぞ。ただメモ帳とペンでも持って、対面して座るだけじゃないのか……?
彼は何かに夢中になっている。その間に、馬鹿正直に待っていないで消えてしまおうかと思った。このまま身を任せていると恐ろしいことになるかもしれないと、根拠のない危機感が沸々と湧いてきていたのだ。
でも、と同時に僕は思っていた。僕ももうそろそろ大人の仲間入りをしてもいい年になる訳だし、こういう所をすっぽかすようでは、僕の嫌いな最近の若者と位 置づけられる者共と大差ない事になってしまうのだ。それに、こんな割のいいバイトは、他にはたぶんない。ここを蹴るとなったら、バイクは諦める事にもな る。もうほとんど目の前にあるも同然なのに。
頭の中を色々な考えがグルグル回る。そうしてもたもたしている内に、彼の方の準備は終わってしまった。いそいそと何かを持ちながら、カウンターから出てくる。もう覚悟を決めて流れに身を任せるしか無いようだった。
まあそもそも、面接して採用されたとしても、後でやっぱり無理だと断るくらいの事は出来るはずだ。それならすっぽかしたことにはならないと思うし、僕の体 面もかろうじて保たれるだろう。こっちは天下の高校生なのであって、理由ならいくらでも考えられる。話だけ聞いて、あとはやっぱり学業優先しますだの何だ の理由をつけて断ればいいのだ。
そうだ。最悪そうしよう。
そう思っていたら、見事に彼に先手を打たれてしまった。
「はいどうぞ」
彼が、とんでもないものを持ってきて差し出すのだった。
「え?何ですこれ?」
そう聞くと、彼が対面に座りながら言った。
「何って、メロンソーダだけど?アイス載せたやつ。なんだっけ。クリームソーダ?これいいよねぇほんと。すごい喫茶店!って感じがしてさ」
これが何かなんて、そんな事は分かっている。この超が付くほどの不健康そうな色をした、実際ただの一滴も果汁なんて入っていなくて不健康な、でも何とも抗 い難い嗜好性を持つ飲み物。それにアイスまで載ってしまった、ちょっとお洒落なお出かけを気取った外出の時くらいにしか頼んじゃいけない、あの高級な一 品!あぁ……それを、何だ?このクソ暑い中を歩いてきた僕に、どうしろって言うんだ……?
彼は、おあずけを食らった生唾を飲む犬みたいになってる僕に向かって言った。
「…………どうぞ?アイス溶けちゃうよ?」
店の中は空調が利いていくらか涼しかったけれど、長い時間外にいたせいで、まだ体の芯には火照りが残っていた。
こんな据え膳、抵抗できるわけはないのだ。僕は促されると同時にそれに手を付け、まずはその綺麗な緑色の液体をすすってやろうと、器用にアイスだけをどかして喉に流し込んだ。
「い いなー。やっぱりこの黒いテーブルに映えるよその透き通った緑。これからの喫茶店は視覚も大事にしていかないと。お菓子とかも絶対そっちのがいいよねえ。 あんこ餅とかも美味しいんだけど、でも色的には草餅とか……桜餅とか!季節ごとにいろんな色を意識してお客さんに出したいなぁ」
彼はずっと何かを言ってるようだったが、僕の耳にはほとんど入らずに、入った先から右から左へ抜けてしまっていた。
しかし、僕はさっきもこんな流れで施しを受けたばかりな気がする。何とも人の良い土地柄もあったものだ。世知辛い世の中なのに、こんな人達がまだいるなんて、ちょっとびっくりだ。
「さて、じゃあ一応履歴書見せてもらおうかなあ」
飲み物からは口を離さずに、僕は素早く懐に忍ばせていたそれを取り出して彼に渡した。カバンを持ち歩く習慣がないから苦肉の策だが、ちゃんと汗だくになることを見越してビニールに入れてきたし、特に問題はないはずだ。
「ふむふむ、藤 夏樹君か。雅な名前だね。春から夏へ、移ろっていく季節を感じるねえ」
うんうん唸っている彼には目もくれないで、ひたすら僕はクリームソーダを消費し続けていた。
よし、改めて秘技“飲み物と同時にアイス流し込み”だ。いい具合にアイスが溶けている時にしか出来ないこの荒技。喉越し爽快!胃に到達するまで最高の涼を得ることが出来るそれを、僕はすぐ無くならないようにと、少しづつ少しづつ行なっていった。
彼は、全くもって最高のものを提供してくれた。誰もが童心に返る事が出来る、楽しい気分になれるこの飲み物を思い出させてくれた。コーヒーだとか紅茶だと かで気取らないで、たまにはこういうのを頼んでみるのもいいのかもしれない。今度他に行っても、ちょっと頼んでみようかな……
そうやって思考している間にも、自分への品定めはずっと続いていた。僕は全てをかっ喰らった後、ようやく落ち着いて居直り、彼の方に顔を向けた。いや本当、ご馳走様でした。
「へー駒川高校なんだ。結構頭いいとこだよね確か……」
と、履歴書を見ていた彼がふと顔を上げ、僕の方を見てから突然ピタリと止まった。
「ぷふ……」
彼は僕を見たかと思うと、口元を抑えながら何かを必死でこらえ始めた。指まで差して何かを教えようとしているが、こらえるのに必死で出来ないらしい。
何か顔についているのだろうか。仮にも面接の場だから、こういうことをされるとちょっと不安になる。
寝癖、なわけはなかった。きちんとセットはしてきたつもりだ。汗だってちゃんと拭ってる。基本的な事は問題ないはずだった。じゃあもしかして、来る時 ちょっと整えるのに失敗した眉か?と一瞬頭をよぎったが、それならここに入ってきて顔を合わせた時にこうならなければおかしいわけで。
(んん~?)
体中まさぐっても分からない。一体彼は、何がそんなにおかしいと言うのだろう。
「ナツキ君。口、口!」彼は結局耐え切れずに、程無く決壊した。「あっはっはっは!ひげ!ひげ生やしてるよ!白ひげー!あーはっはっはっは!」
容赦なく、遠慮のひとかけらもなく彼は笑った。
言われて口元を拭ってみると、べたベタした白いものが手に付いたので、すぐに備え付けのペーパータオルに手を伸ばして口を拭った。
なるほど。久しぶりにあの技をやったせいで、アイスが口元に付いてしまっていたらしい。
「すいません。ちょっとがっつきすぎました。これ、ありがとうございました。すごい美味しかったです」
「あ~……。もう拭いちゃった。残念」
僕がせっかくお礼を言ったのに、彼はそれを聞き流して、興奮冷めやらぬ様子で涙を拭っていた。
しかしまぁこんな事でここまで笑えるなんて、幸せな人だと思う。よっぽど娯楽にとぼしい生活だったか、もしくは単に笑い上戸みたいな所があるのかもしれない。何にせよ、やっぱり少し変わった人のようだった。
「すいません。もう落ち着いたので、いくらか詳しい話をしたいんですけど……ええっと……」
そう言えば、ここまでにもう何度もやりとりしたのに、まだ彼の名前も聞いていないのだった。このままだとちょっとやりにくい場面があるかもしれないので、僕は早めに聞いておくことにした。
「あ、そっか。まだ名前言ってなかったね。ごめんごめん」
彼はおもむろにペーパータオルを手に取り、そこにボールペンで名前を書いてくれた。
『杭全 まこと』
ちょっと、いやかなり意外だった。結構適当な人に見えるから、字もそんな感じでへなへなした字を書くかと思ったらとんでもない。彼は書きにくい紙をものともせず、ど綺麗な楷書ですらすらっとそれを書いた。
それを見て、思わず僕は唸ってしまった。やはり人は一目見ただけじゃ分からないのだ。少し慎重に彼を評価する必要がありそうだった。
「店長兼オーナーの杭全まことです。よろしくナツキ君」
ニッ、と小学生みたいに笑いながら彼から差し出された手を、僕は握り返した。
自然と、彼に目が行った。そこでようやく、僕は彼という人間を真正面から見ることになったのだった。
着物の袖から見える手首は結構細くて、握った手はしっとりして温かかった。身長は僕より少し低いくらいだと思ったが、手の方はかなり小さくて頼りない感じを受ける。しかも、何か異常に白いし柔らかかった。
(…………おいおい)
自分でしたはずのその表現に、僕は鳥肌が立った。
何を考えてるんだ僕は。女にフラレて傷心中だからって、いくら何でもそっちに行くのはまずいだろう……
僕は頃合いを見て、彼のそれから不自然にならないように手を離した。彼も別に、ただ笑ってそうした。
でも言い訳するわけではないが、一瞬くらいはそんな風な事を考えてしまうのも、仕方のない事だと思うのだ。この着物に下駄という、今時分にはかなり特異な出で立ちでいるせいで気付くのが遅れたが、彼は、かなり整った顔立ちをしていたから。
ここに入ってきてからずっと、なぜか彼は少し眩しそうな目で僕を見ていた。でもたまに何かの拍子にそれが見開かれると、綺麗な二重の大きな目をしているこ とがすぐに分かった。鼻は控えめな大きさだったが、低いというわけじゃない。唇も厚過ぎないし薄過ぎない。要するに彼の顔は、今巷で増えている、男の女 顔ってやつだった。
顔は小さいから頭も同じように小さいのだとは思うが、髪の毛が割と多くてボリュームがある。彼は肩までかからないく らいのショートカットではあったが、それでも男にしたら長めだし、前髪は少し伸び過ぎで鬱陶しい。微妙に癖っ毛なのか、毛先がちょっと跳ねていたりもす る。きちんと切れば全然変わってくる所を、放置している感じだ。
こういう惜しい点もあるにはあったが、全くもって神様は不公平だなと僕 は思っていた。僕だって不細工というわけじゃないが、もしこんな綺麗な顔をしていたら、もっと長く彼女と付き合えていたかもしれないのだ。何も特技なんか 持っていなくたって、これなら連れているだけで箔がつくだろう。
……ああ畜生。いい具合に忘れていたのに、また思い出しちゃってるじゃないか。
男として圧倒的な差を見せつけられた気がして、僕はこれからの詳しい話を聞く前から息も絶え絶えになってしまっていた。
「それで、ええと、ナツキ君。何から話そうかな」
彼は、僕のその黒い羨望の眼差しには全く気がつかなかったように話し出した。僕もいい加減へこんでばかりもいられないので、椅子に深く座り直し、姿勢を正した。
「まずねー……あれだ。週何日くらい入れるかな?」
やっとそれっぽい話になった事に、僕はとりあえず安堵した。
一体ここに来てから話が始まるまで、どれだけの時間を過ごしたのか。カウンター奥の壁に掛かっていた物凄く古そうな時計の針は、けれど僕が来てから、ほんの数分しか進んではいなかった。
「……えーと、4日くらいなら、なんとか」
学校のある日を1日か2日出て、あとは土日に入れればいい。そう言うと、彼は手を叩いて喜んだ。
「えーほんと?じゃあ君だけでカバー出来ちゃうなあ」
「え?週4日ですよ?」
「うん」まことさんは、頷いてからなぜか少し困った顔で言った。「本当は週6くらいでお店やりたいんだけど、私は他に一応、本業があるからさ。とりあえず週4日くらいでの営業にしようと思ってて。だから、週4日でも大助かり」
彼のその言葉で、僕は確信した。彼はやはり、お金持ちなのだ。それできっと、お金だけの繋がりしかない人間関係に疲れ、人と直接触れ合えるこの仕事をやろ うと決意したのだ。間違いない。僕の考えは、当たっていたのだ。異様に高い時給も怪しいものではなく、お金持ち特有の金離れの良さが出ているだけなのだ。
懸念事項が消えて、是が非でもこのバイトを勝ち取りたかった僕は、それからなるべく愛想よく振舞おうとした。でも、ほとんどそんな事をする暇なく、少し細 かい話をしただけで面接はあっさり終わってしまった。バイトの面接というものはもっと色々な事を話すのかと思っていたが、意外にあっけなかった。もっとア ピールしておきたかったが、こうなってしまったらもうしょうがない。あとはただ、結果を待つしかない。
「じゃあ、一応まだ他の人も面接しないといけないから、一通り終わったら合否関係なく連絡するからね。その方が君も動きやすいでしょう?」
気づくと、テラスから伸びていた光はすっかりなりを潜めていて、代わりにどす黒い雲が空を覆っているのが垣間見えた。いよいよ一雨きそうだ。早く帰った方が良さそうだった。
僕は、やっぱり雨に降られるのは嫌だったので、ダメ元で傘を借りれないか聞いて見ることにした。
「あの……」
じゃあ、と席を立とうする彼に僕は頼もうとしたが、その声は、急に入口の方から鳴った鈴の音にかき消された。
僕とまことさんは、思わず顔を見合わせた。もしかしてもう次の人が来てしまったのか、ちょっと気まずいなあなどと僕は思ったが、とうの彼も不思議そうな顔をしているので、どうやら違うらしかった。
(何だ?)
チャッチャ、という軽い音が、小刻みにする。何かが歩く音のように聞こえた。
「まことー。みるくくれんかのーみるく。じんじゃーえーるでもいい」
いくらか低い声で、彼に話しかける声がした。彼はそれに気づくとなぜか慌てだし、そちらに向かって子供を静かにさせる時のようにしーっと口を抑えた。まことさんの視線がおかしいくらい下で、子供どころか這っている人に向かってやっているようなのが不思議だった。
「なんじゃ。また何かの遊びか」
僕は死角で見えなかったのだが、それはどんどん近づいてきて、目の前に現れた。
まことさんは、尋常じゃない慌て様でそれに向かってジェスチャーで止まれ、止まれと言っていたけれど、意味をなさなかった。
「え?え?」
僕は、目の前で起きたことが信じられなくて、ただうろたえるしか無かった。
「え……猫が……」
口をパクパクさせながらまことさんに視線を送ったが、彼は目頭を抑えて俯いて、それきり黙ってしまった。
「喋った……?」
あまりの驚きから、僕の声はかすれてしまっていた。それを払うように少しはっきり声を出すと、猫もこちらにやっと気付いたようで、僕を見た瞬間飛び上がった。
「ふに"ゃ"!!」
全身の毛を逆立てて、四股を伸ばしきった状態のまま猫は固まった。同じように、僕もしばらく固まった。
漆黒の猫だった。黄金色の瞳で、大きめの三角の耳を持った。
体はさほど大きく無い。いつもの僕ならこれくらいの猫なんか、もし街で見かけたとしても流し見て終わりだ。どうとも思わない。せいぜい、ああ気楽な野郎達が横切ったな、くらいのものだ。
でも、そういうのと彼は少し違った。何と言うか、ただの雑種のようには見えない気品があった。毛並みはふわふわで艶があって異常に良いし、僕を警戒して見つめる瞳は、聡明な光を湛えていた。
猫は、居直って毛繕いを始めていたが、いささか動きがぎこちない。前足を舐めながら、ときどきちらりとこちらを見る。明らかにこちらの様子をうかがっているのが分かった。やっぱり頭は良さそうだった。
「あの、まことさん。今あの猫喋ってましたよね?」
はっきりと僕が疑惑を口にすると、彼はそこでやっと顔を上げた。
「や、私の最近の趣味の腹話術だよ。猫が喋ったんじゃあないよ」
ほらほら、うまくない?とか言いながらあからさまに下手な腹話術を彼は披露したが、はっきり言って無理があった。口動きすぎ……
「いやいや、めっちゃあの猫から声がしてましたって」
「ち、違うよ。あれだから。あの子供のさ、名探偵なんとか的なやつのさ、小道具であったじゃない?蝶ネクタイ型のやつ。あれみたいにして音出してるから!」
「いや、あの猫何もしてないじゃないすか……首輪すらないすよ……」
その後も無理な理論を並べ立て続ける彼だったが、お互いに証明できるものがないので、議論は平行線をたどった。別に意地になる必要もないとは思うのだが、僕の中の何かが追求せよと命じ続けている。このままうやむやにする気には、全然なれなかった。
僕は、はっきり言ってファンタジーな存在を信じている人とは程遠い所に位置する人間だ。割と一般的な“幽霊”だって、ほとんど信じてない。目の前にある現実こそが僕の世界なのであって、実際に見たもの以外は絶対に信じないようにしているのだ。
振り回されるのが馬鹿みたいだと思うからだ。ないものをあるように錯覚して、結果それに踊らされて人生を無駄にするなんて、真っ平御免なのだ。夜寝ている 時に幽霊っぽいものが見えたとしよう。その時は、だから僕は全力で確認しにかかる。何もしないでただ怯えて、睡眠不足で夜を明かすなんて馬鹿のやることな のだから。
そう。今回のこれも、例外ではないのだ。もしこれで帰ってしまったら、今日はもやもやしてうまく眠れないと思う。それに、目の前にUMAがいたかもしれないのにそれを確認せずに帰るなんて、これから未来を担っていく若者にしては好奇心が無さすぎるじゃないか。
そう思った僕は、少しパワープレイに打って出てみることにした。僕の頭は、こういう時には結構うまく回る。
「あ、無視してごめんなさい猫さん。まことさんから話は聞きましたよ。すごいですね。喋れるんですね?」
まことさんは急に出た僕のその台詞に、慌てて食い気味に言った。
「な、ナツキ君何言ってるのかな~?おかしいよ~?」
猫からのリアクションはもうあまり期待できないのだ。さっきから猫に間接的に指示を与えようとしていたのか、まことさんは不自然に大きく声を出しているように見えた。だから猫よりも、むしろこうやって動揺したまことさんが口を滑らしてくれることに僕は期待していた。
何でもいい。言葉尻を捉えられるような事を言ってくれれば、それがきっかけになる。そう考えていた僕だったが、事実は全く異なることになった。
聡明そうな顔はどこへやら、尻尾をふりふり、何だか嬉しそうにこちらに近づいてきて、彼は言ったのだった。
「なんじゃまこと!ついに話したのか!」
ぴょんと軽く飛び上がり、僕らの座っているテーブルの上に乗っかる。そして不思議そうに首を傾げながら、猫はまことさんの顔を覗き込んだ。
僕は今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。
目の前で見た今でも信じられなかった。ロボットか何かじゃないかと思って改めて間近で彼を観察してみても、やっぱりどう見てもただの猫だ。しっかりと人の 問いかけに反応して、なおかつこんなにしなやかな動きの出来るロボットは、今の技術じゃたぶん作れない。本当にどうなってるのか触って確かめたりしたいけ れども、得体が知れな過ぎて触れるのはちょっとためらわれた。
まことさんはもう全てを諦めたのか、頭をテーブルに投げ出すようにして突っ伏してしまっていた。
「どうしたんじゃまこと。腹でも痛いのか?客人が困っておるぞ」
ほれ起きんか、と言いながら猫はまことさんの頭の上に乗っかった。
この距離感を見るに、相当この二人(?)は親しい間柄らしい。
「…………」
猫は、まことさんの多い髪のせいで足を取られてしまって、態勢を維持しようと必要以上に動きまわった。その度小さい足に体重がかかってちょっと痛そうだったが、それでもまことさんは、猫にされるがままになっていた。
このままだと、何時まで経っても話が進まない。かと言って、自分から何か切り出す心境にはなれなかった。僕は目の前のこれをどう飲み下してくれようかと、ずっとそればかりを考えていたから。
僕の中の常識を、全て0から積み直さなければならないのだ。そうでもしなければ、この状況を理解する事は絶対に不可能だ。それはとっくに分かっていたが、とてもじゃないけど、それを実際にやる気にはならなかった。
だって、まだ齢17の僕ではあるけれど、曲がりなりにも積み上げてきたものはあるのだ。そうやって毎日を一生懸命過ごして、やっとのことで積み上げてきた ものを、そんな簡単に崩せる訳がない。どんな環境にもすぐに適応して自分をつくりかえてしまう、スーパーマンなんかじゃないんだから、僕は。
もういっそのこと、そうするくらいなら見なかったことにして、バイトのことも全部白紙にしてもらおうか。そう思い始めた頃だった。
「あー……えっと……あれだ、ナツキ君」猫を頭に乗せて突っ伏した姿勢のまま、まことさんは深く息を吐きながら言った。
そして、鶴の首みたいに右腕を伸ばして、まだ全然この状況に答えを見出せていない僕を指差し、彼は言ったのだった。
「君、採用」
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