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「ほれほれ。こっちぢゃこっち」

ムカイのその言葉に、彼は躍起になってその懐に飛び込んでいく。だがそれでも彼の攻撃は、空を切り続けた。

「……はは!すげえ!」

彼は生来負けず嫌いの気質だったはずだが、こうまで自分の攻撃をうまくかわされると、もはや感心を通り越して笑ってしまう。

「マジで当たんねえ!なんぞこれわろたwwwwww」

ここは遺跡都市バンガローに無数にある遺跡の一つ。東の遺跡。
至るところから水蒸気が吹き出し、硫黄の匂いが鼻を突く。都市を取り囲むようにある火山の中でも、最も活発な活動が観測される場所。そこに、その遺跡はあった。

そんな場所で、先刻彼は、ムカイから組手をやらないかと誘われた。
シノとウォンは黙々と発掘作業をしているだけで、何も起こらない。それなら、お互いの力量を確かめて連携を強化するためにも、やっておくべきだと言われたのだった。

そうして始められた組手だったが、どうにも。

「ふん!」
「ほい」

彼の攻撃は面白いほどに空を切る。もちろん彼もムカイも本気ではなかったが、力はともかく、技術については天と地程の差があることは明白だった。彼の攻撃はことごとくかわされ、ムカイの攻撃はことごとく彼の身体をとらえた。

「どうも、おかしなやつじゃのおおぬしは」

その攻防の中で、ムカイがぼそりと呟いた。

「何がだ?」

ムカイの正拳が彼の胸に当たる。彼はそれを筋肉で弾き返しながら答えた。

「なんで攻撃を避けないんじゃ?」

組手をやり始めて数刻。彼の戦闘スタイルにいち早く気付いたムカイは、彼にそう疑問を呈した。

「別に避けなくても大丈夫だからぞ」

彼はそれにしれっとそう答えたが、ムカイの方は、やはり納得がいかないようだった。

「まあ、そうなんじゃろうけど……」

それだと組手の意味があんまりないんじゃけどのお……。
と、ムカイはぼやいた。
実戦では攻撃を実際にその身に受けて相手の力を知ることが出来、なおかつ自分の本当の実力は隠すことが出来るという彼の戦闘スタイル。しかしそれは、お互いの実力を知るという目的の組手には、やはり適さない。ムカイが不満を漏らすのも、仕方のないことだった。

ムカイはしばらくそのまま黙って彼と組み合っていたが、その状態は長くは続かなかった。
ムカイが、突然しびれを切らしたかのように動きを見せたのである。

「うお!……っと」

ふいにムカイの動きが鋭くなり、凄まじい勢いを持った何かが、彼の頬をかすめた。
彼はそれを間一髪で何とか避け、とっさに体制を整えようと、ムカイから距離を取った。
正体は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた貫手だった。攻撃を受けた頬に違和感を感じて、彼が何となくそこを撫でてみると、ぬるりとした感触があった。

彼の目が見開かれる。
かすっただけのはずである。なのに、そこは鋭利な刃物で切られたかのようにぱっくりと割れて、出血していたのだ。

「おいおい爺さん!危ねえな!」ごしごしと頬を撫でながら彼は言った。「当たってたら死んでたんじゃねえか今の」

幸いにもそう深い傷ではなく、そうして拭うとすぐに血は止まった。だがこの切れ味を見ると、やはり楽観視は出来ない。彼が思わず引いてしまうくらいの、凄まじい一撃だったのだ。

しかしムカイは、その貫手の形を維持した右手と彼を見比べながら、

「……やっぱりのお」

と、悪びれる様子もなく言った。

「おぬし、何か隠してるじゃろ?」
「隠す?」

何をだよ、と彼は言った。
急に何を言い出すのか。

「わしは何回か今みたいな攻撃をおぬしに撃っとるんじゃが、そういうおぬしの防御力を突き抜けられるような一撃の時だけ、なぜかきっちり逃げられるんじゃよなあ。しかも相当にいい動きで」

ムカイはおそらく、誉めたつもりだった。
彼も、それは分かっていた。しかしあの言葉が出ると、やはり彼はそちらに気を取られ、過剰に反応してしまうのだった。

「……逃げてねえ」
「なんじゃって?」

ムカイにけげんな顔を向けられると、彼は繰り返し言った。

「逃げてねえ。ちょっと、かわしただけだ」

彼のその台詞に、ムカイは何かを理解したかのように腕を組み、頷いた。

「……なるほどの。少しおぬしのことが分かったような気がするのお」

でも分からんのお……とムカイは続け、またも。

「!おい!じいさん!」

長い前髪の奥で、ムカイの目がギラリと光る。その瞬間、数十メートルは離れていた二人の距離が、一気に縮められた。
ムカイの猛烈な連打が、彼を襲った。

「ぐっ……ぬ……」

一撃一撃が、自分の分厚いはずの筋肉の鎧を突き抜ける威力であることは、見ればすぐに分かった。彼はその全てを避けることを、余儀なくされた。

彼らのような強者の攻防は、よく将棋に例えられる。適度な攻撃と防御の配分を取らないと、一気に勝負が決まってしまうというとても奥の深い遊戯であるが、それは盤上の戦いではない現実の武闘においても、同じようなことが言える。
ある程度の達人の戦いになると、攻めているだけではだめだし、防御しているだけでもだめなのだ。今の彼にように、攻撃をかわし続けているだけではすぐにジリ貧になってしまう。いつかは詰まされてしまうだろう。

彼も、それは重々分かっていた。
だから彼は、不本意ながら、その一撃をムカイに放つしかなかった。


「!?ほほお!!」


彼のその一撃に、ムカイは顔色を変えた。
その正拳は、ムカイの右肩の辺りにえぐるように突き刺さった。そしてその突きの威力により、ムカイは大きく地面を擦るようにして、後退させられる。
硫黄の匂いに混じって、少し焦げ臭い匂いが周囲に漂う。ムカイの右肩からは、薄く煙のようなものも上がっていた。

彼の攻撃が、初めてムカイに当たった瞬間だった。

「……やっぱり、そうじゃの」

ムカイから発せられていた殺気は、そこでついと消えた。

「すまんの急に。ちょっと、どうしても確かめたかったからの」

ムカイはそう言って、近くにあったちょうどいい高さの岩に腰を下ろした。

何を確かめたかったと言うのか。ここまでする必要があったのか。
しかしとにかく、謝られると文句は言いづらかった。仕方なく彼は、自身もその場に座り、ムカイの次の言葉を待った。

「“逃げる”という言葉が、どうもおぬしには重いようじゃな」彼がしばらく息を整えていると、ムカイが口ひげを撫でながら言った。「まあどうしても通したい意地があるというのは、分かるんじゃがの。わしにもそういうものはある。じゃが、おぬしのは意味あるのかのお……」

やはりムカイは、達人の域にいる人間なのだった。一回の組手で、彼の持つ力がどの程度なのか、彼がどういう人間なのかを、しっかりと看破してきた。

「攻撃をかわすことは、確かに厳密には逃げることとは違う。しかしそれが分かっているのに、なぜおぬしは最初から今のような動きをしなかったんじゃろうか」

それもそのはず。会った当初はただの好々爺だと思っていたムカイだが、実はとんでもない人物なのだった。
今は暇をもらって大陸を気ままに旅しているが、普段は門下生が100人程いる道場の最高師範をやっている。組手を始める前に、彼はムカイから事もなげにそう打ち明けられていた。

そんな肩書を持つ男だから、さすがの彼も、ムカイのその意見を聞き流すことは出来なかった。

「避けられるのであれば、敵の攻撃は避けるもんじゃ。おぬしの戦闘スタイルには限界があるんじゃないかのお。今のわしの攻撃のように、見ればすぐに当たったらまずいものだと分かるものじゃったらいいが、当たってみないとそれが分からないようなものにあったらどうするつもりなんじゃ?当たった瞬間ゲームオーバーなんてこともあるかもしれんのに」

ムカイの言っていることは正論である。現に彼は、先の戦いで似たような場面に遭遇している。助かったのはただ単に、相手の攻撃に打開方法がたまたまあっただけ。運が良かっただけだ。

理屈では、彼も分かっている。だから彼は、ムカイのそれに少し詰まりながら屁理屈を返すしかなかった。

「……避けるってことは、逃げることに繋がるんぞ。心が負けることになりかねねえ」
「さっきそれは違うことだと自分で言うたばっかりじゃぞ?」
「ぬっ……」
「今のお主の動きは、よく練られたいーい動きじゃった。一朝一夕で出来たものではない。それを訳の分からない意地で封印するのは、ちょっともったいないんじゃないかのお」

まるであの人みたいなことを言う。
よくこんな風にして、教えを説かれたことがあった。彼はそれが少し懐かしくて、ムカイのその説教をなんとか我慢して聞いていた。
しかし、次にムカイからふいに出てきたその言葉には、どうしても堪えられなかった。

「何より、一介の賊ですら大きな力を持っていることもあるこの大陸では、いつ死んでもおかしくない。そんな言葉遊びのようなまねは、即刻やめるべきじゃ」

その瞬間、彼の全身の毛が逆立った。

自分が一人の男として、一人の武人として命を賭けて守ろうとしている誓約。それに対して、よりにもよって、“言葉遊び”とはどういうことか。自分にも守っているものがあると言うのだから、もう少し言葉を選ぶべきじゃないのか……?

二人の間に、再び緊張が走る。
ムカイは彼のその負の感情を感じ取ったのか、おもむろに立ち上がり、再び構えを取った。
彼もゆっくりと、全身に怒気を纏いながら、立ち上がった。

お互いに、自分の考えを曲げるつもりはないらしい。どうやらこの先は、拳を交えての語り合いとなりそうである。


と、そんな時だった。



「くまたそーーー!!」



突如クライアントの声が、天井の高いドーム状になっているその洞窟に、大きく響き渡った。その声に、二人はすぐに自身の構えを解いた。

彼女に何かあったのか。一瞬彼はそうして慌てたが、すぐにそれを思い直した。
その声に、焦りなどは感じられなかった。おそらく、雑用か何かで呼ばれただけだろう。

「くまたそーー!!どこーーー??」

場に似つかわしくない暢気な声色のそれに、二人は顔を見合わせる。
どちらともなく、鼻からふっと息を吐いた。すると、彼らの間にあった張り詰めた空気は、それを合図に次第に綻んでいった。

「……一時休戦、じゃな」

ムカイがそう言うと、彼もやれやれと首を撫でつつ言った。

「……そうだな」

彼の頭が急速に冷めていく。彼は頬を掻きつつ、さっきまでの自分を反省した。

ムカイは、自分に仇なす敵などではない。よかれと思って意見を言ってくれているのだ。そんな人間に対して肩をいからせて向かっていくのは、どう考えても間違っている。
誰にでもつっかかっていってしまうのは、もうやめよう。彼はそう思いつつ、幾分柔らかい声で、ムカイに言った。

「ちょっと、行ってくるわ。爺さんは一応ウォンの方頼む」

彼のそれに、ムカイは別段気にした様子も見せず、うむ、とだけ答えた。



後に大陸を大きく揺るがす二人。彼らの最初の手合わせは、そうして少々の禍根を残しつつ、終わりを告げたのだった。






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「ったく! きりがねえなこいつら!」

隣で走っていた仲間が、ひいひいと肩で息をしながら不満を漏らした。

「一体何体いるんだよこいつのペルソナはよお!!」

せわしなく走り続ける俺達に向かって、次々と襲ってくる異形の生物。人型なのに馬の頭をしたやつや、古い絵巻物に描かれた餓鬼みたいなやつ。一見悪魔のようにも見えるそれらが、俺達の行く手を何度も阻んでくる。

「だー! もう疲れたってー!!」

しかしそれは仕方のないことだった。こいつらからすれば俺達こそが異形の生物なのであり、異物なのだ。排除しようとするのは、至極まっとうな反応だ。人体にウイルスが入ればたちまちわらわらと動き出す白血球。それと全く同じようなものなのだから。

その理屈を分かっているはずなのに、しかし仲間は延々とぼやき続けた。確かにいつもより多いと言えば多いので、まあ、気持ちは分からなくもない。

一体こいつらは何なのか。疑問に思って色々調べてみたが、結局正体は分からないままだ。だが、どういう存在なのかは何となく分かってきた。
俺達も今まさに行使しているこのペルソナという力と、同じくペルソナと呼ばれるこの異形の生物達は、おそらく本質的には同じものだ。『人の心から生み出される』という点において、全く同じだからだ。

本来その言葉は心理学の用語であるらしく、“人が社会の中で生きるために持つ色々な顔”のことを、ペルソナと呼ぶらしい。いつでも変えたい時に変えられ、着脱可能という点から、仮面のようなものと言うことも出来る……と、本やネットの記述にはあった。

その心理学上の用語であるところのペルソナと、俺達が目にしているこれらとを結びつけていいかはまだ微妙なところだが、その性質は似ているものがあると言っていいと俺は考えている。
なぜなら、この異形の生物達はおそらくその仮面だからだ。こいつらはその、人が持つ色々な顔が具現化したものなのだ。

だからこいつらは必死になって向かってくる。奥に隠しているものを、俺達に暴かれないように……。











「ごめーん! 今日もノート貸してもらっていい? 最近部活キツ過ぎてどうしても授業中うたた寝しちゃって」

放課後。俺の前の席では、今日も今日とて同じようなやりとりが行われていた。

「あー……うん。いいよ」

黒髪ポニーテールで少し地味目の女子。高巻杏は、そうしていつものように別のクラスの3人の女子に詰め寄られ、その申し出をあっさり了承した。

「ありがとう! いつも助かるよ~」

彼女がノートを差し出すと、詰め寄った方の女子はすぐにパッとそのノートを受け取り、笑顔でおざなりの礼を言った。
まるで返答があらかじめ分かっているかのような、スムーズなやりとり。見ていて辟易するくらい、いつもと同じだった。

「じゃあ、私達部活行くから。ノートは明日返すね」

バイバイと手を振って踵を返す3人組に、前の席の彼女も小さく手を振る。それも、いつもと同じだった。
こんなことを続けていて疲れないのだろうかと思う。俺は窓の外を見ているようにしながら、彼女がどんな顔をしているのかを盗み見てみた。すると、案の定だった。

「……はあ」

彼女の顔は、張り付いたような笑顔から乾いた笑顔へと変わっていき、最後には心底疲れたような顔で、小さく溜息をついた。
その顔を見たらさすがに一言言いたくなってしまって、俺は予定を早めて彼女に声を掛けた。

「……いいのか?」
「え?」

思い切ってそうしてみたものの、とうの彼女はどこから声を掛けられたのか分からなかったようで、周りをきょろきょろと窺った。
彼女に俺から声を掛けるのは初めてだから、それは仕方ないと言えば仕方のないことだった。せいぜい授業中でプリントをやりとりする時くらいしか顔も合わせて来なかったし、まあ、当然の反応だ。

「……えっと、今の君? 私に声掛けたの」

放課後の教室に残っているのは、自分と高巻と、あと数人だけ。廊下側でだべっているグループがいるだけだから、窓際の高巻に話しかける人間は、今俺くらいしかいない。
つまり、俺と彼女の距離感はそういうものだった。この状況を確認してやっと、高巻は今話し掛けてきたのが俺“かもしれない”と考えるに至る。仮にも近い席にいるのに、まだ俺だとは断定しない。

この辺りの、いわゆる都会という場所ではこういう人間が多い。人に深く踏み込まないし、踏み込ませない。うわべだけ取り繕って、ことなかれ主義。もしそれを嫌だと思っている人間がいたとしても、周りのそういう雰囲気に流されて結局同じように振る舞うようになってしまう。

そういう人生の過ごし方は、まあ楽だとは思う。他人と見た目や振る舞いが違わなければ、人との関係で無駄に悩むこともなくなる。そうすれば自分がやりたいことにリソースを割けるようにもなるし、合理的と言えば合理的だ。

でも俺みたいなやつは、どうしても思ってしまうのだ。
そんなのつまらないじゃないか、と。

「何? どうかした?」

彼女もそして、そういう人間の一人だった。体のいい、見た目だけは綺麗な言葉を使って他人とうまくやろうとする。典型的な八方美人だ。

(いいよ)
(ありがとう)

俺から見ると、彼女達のような人間がする言葉のやりとりは、まるでバラの花束の応酬のようだった。
これでもかという程たくさんのバラが盛られた、絢爛豪華なその花束を、彼女達は惜しげもなく贈り合っている。日がな一日、飽きもせずに。

しかし彼女達のような人間は、もらったそれを家に帰って喜び勇んで花瓶にいけようとした時、小さな悲鳴をあげることがあるはずだ。そしてその手に突然出来た傷を見て、ようやく気付かされるのだ。
『ああ、これは棘のあるものだったんだ』と。

そういった類のやりとりを見る時、俺はどうしても身震いをしてしまう。薄ら寒い。心底気持ちが悪いと思ってしまう。
そんなごてごてと装飾されたものは、自分なら絶対人に贈らない。裸のバラ一輪を、堂々と差し出す。棘があるのが一目瞭然な状態で渡された方が、後で知らずに怪我をするより納得がいくし、気持ちがいいはずだからだ。

棘があるからこそ、バラというものは美しい。だからきっと、何の処理も、飾り立てもしていない生のバラこそ、人に贈るにふさわしい。言葉もそれと同じなのだと、俺は思うのだ。

「ノート。いいのか?」

すまし顔の高巻にそう訊いてみると、彼女は不審な顔一つせずに、何くわぬ顔で「何が?」と薄く俺に笑いかけた。
普段話さないやつ、ましてよく知らない男子にいきなり話し掛けられれば普通警戒するものだが、彼女はそれをうまく隠してきた。
しかし俺は、そんな顔が見たいのではないのだ。

「……いつもあいつらにノート貸してるだろ? だから、いいのかと思って。帰ってからないと困るんじゃないか?」

そうはっきり言ってみると、やっと彼女はその顔を曇らせながら言った。

「……別に。友達だから」

そう言って、がさがさと机の中のモノをカバンに詰めて帰り支度をし始めてしまう彼女。
埒が明かないので、今度は少し棘のある質問をぶつけてみた。

「友達なのか? あれが?」

そこで彼女の動きがピタリと止まる。
俺はそれを見て、笑みがこぼれそうになるのを必死にこらえた。
もう少しだと思った。

「高巻があいつらと楽しそうに話してるとこって見たことないんだけど。放課後ノート借りに来る時だけしか」
「やめて」
「うまく使われてるだけじゃないのか? 友達だったらもっと」

言いながら、どうしたらより彼女の本音を引き出せるかを考えていた。
しかし、もうその必要はなかった。

「やめてって言ってるでしょ!!」

彼女は唐突に爆発した。
窓から斜光が差し、気だるい雰囲気に包まれていた教室。そこに突然降って湧いたその大きな声に、教室に残っていた面々がなんだなんだとこちらに視線を向ける。叫び声に近いレベルだったからか、廊下からも首だけ出して様子を窺って来るやつらが居るくらいだった。

こうなるように仕向けたのは自分だが、陥落が想定よりも早かった。やはり相当溜め込んでいるものがあった、ということになるだろうか。
これ以上何か言うのはさすがにまずい。そう思って呆けたふりをしていると、彼女は周囲から自分に向けられるその好奇の視線にやっと気が付き、そそくさとまた帰り支度を始めた。

「何よ……関係ないじゃないあんたに」と、彼女はそうしながら俺にぶつぶつと文句を言った。「そんなの、知ってるし……。でも仕方ないじゃない」
「仕方ない?」

なるべく刺激しないように静かに返すと、彼女は不機嫌そうに乱暴にカバンにモノを詰めながら、「そうよ」と言った。

「だってそうしなきゃ、私の居場所がなくなっちゃうじゃない……!」

言葉に棘が混じり出し、だんだんと、彼女の本当の姿が垣間見えてくる。
彼女の方は、そうして自分の仮面が剥がれ落ちそうになっていることに、全く気が付いていないようだった。
彼女はその顔のままカバンのチャックを荒っぽく引き上げ、それを肩に掛けた。そして。

「私だって、こんなのやだよ」

キッと俺を睨んでそう言ったかと思ったら、もう彼女は遠くに居た。つかつかとヒステリックな足音を立てながら、そのままさっさと教室を出て行ってしまった。

あれだけ無秩序に会話をしていたクラスメイト達は、その足音が遠ざかって聞こえなくなるまで、一様に押し黙っていた。決して不用意に話し出すことはせず、嵐が収まるのを、小動物のようにただじっと待っていた。
彼らはこんな時にも、一人では動かなかった。誰かが率先して口火を切ることはなく、まるで合唱の歌い出しのように同時に息を吸い、同時に話し始めた。そうしてようやく、教室は元の夕刻のけだるい空気に戻っていった。

彼らにとって、他人より一歩前に出ること、目立つことは悪なのだった。彼らは“個”を排除しようとすることに躍起になっていた。問題が起こらないように、無駄にエネルギーを使わなくていいように、努めていた。
しかし彼女は、そんな彼らとはやはり少し違っていた。彼女は自分を偽ることに確かに疑問を覚えている。それはもう、間違いない。

それなら、俺のやることは決まっていた。その足元を縛る鎖とおもりを断ち切ってやり、彼女を自由な大空に還してやるのだ。俺達になら、それが出来るのだから。
彼女への意思確認はこれで済んだ。あとは俺達が、それを実行するだけだ。

俺はちらちらと好奇の目が周りから飛んでくるのに少々の睨みをきかせながら、ため息混じりに廊下の方を見やった。
しかしその計画を一緒に実行するはずの男が、ホームルームが終わった途端に教室を飛び出してどこかへと消えてしまっているのだった。これが済んだらすぐに細かい部分を打ち合わせようと思っていたのに、全くもって落ち着きがないやつだ。

と思っていたら、ちょうど彼女が立ち去った方とこちらを見比べながら、ひょっこりとあいつが廊下から顔を出した。
制服の下に校則違反丸出しの原色Tシャツを着込み、前をだらしなく開けている。しかし不良というにはあまりにも人が良さそうで、人懐っこそうなそいつ。
その男――坂本竜司――は、俺の前まですたすたと歩いてくると、腰に手を当てながら言った。

「……何か、やり過ぎたんじゃね?」

竜司の問いに、俺は頭を振った。

「いや、これでいい」

大事なのは、その人間の本質を曝け出させることだ。そうしなければ、俺達にはどこにそれがあるか分からない。分からなければ、そこに辿り着くことは出来ない。だからこれでいい。
そう言ってやったのに、「ふうん、そんなもんか」と、竜司に軽く流された。

「しかしひっでーよな。あんだけ世話になっといて、裏で高巻のこと“便利屋”呼ばわりだもんな。よく我慢してるよなあ。女はこええよマジで……」

やけに実感のこもった部分には触れないでおき、そうだな、とだけ言って俺は頷いた。
たとえいいように使われようとも、誰かに頼られるのであれば何でも構わないという人間はいるだろう。自分はここにいらない人間ではない。誰かに必要とされている。そう思えれば、それは何かとしんどい人付き合いの中で、支えにはなる。
だが、確かに彼女は俺に言ったのだ。こんなのはいやだと。

「そういや、あいつの元中のやつが言ってたんだけどさあ。高巻って勉強は昔から出来たけど、前はあんなにバリバリ優等生~、みたいな感じじゃなかったみたいだぜ。ここ入ってからあんな感じになったんだと」

へえ、と適当に返事をすると、竜司は腕を組みながら瞑目し、今度はやけにしみじみとした声で言った。

「分かるなあ。マジ、分かるわ」
「何が」
「いや、自分で入っといてなんなんだけどさ。な~んかここのやつら俺とも合わねんだよな~。大人しいというか、自分を殺してるって言うかさ。殴り合えとまでは言わねえけど、もっと真っ直ぐ周りと付き合えばいいのになあ」

細かい言葉の違いはあっても、俺と竜司のその考え方は一致している。それのせいで俺達は周りから少し浮いてしまっているが、そんなことはどうでもいい。
自分が自分であること。それ以上に大事なことなど、俺達にはないのだ。

「で? やっぱやるのか?」

竜司の問いに、俺は頷いた。
今夜決行。計画に変更なし。
そう告げると、竜司はにひっといたずらっぽく笑った。

「そう言うと思って、もう入れてきちまったぜ」
「入れてきた?」

何を? どこに?
そう訊くと、竜司はポケットから何か小さな紙のようなものを出した。

(……名刺?)

と、一瞬思ったが、それとは少し規格が違う。もうちょっと大きい。何より白地じゃなくて、黒地だ。
何か書いてあると思ってよく見てみると、『Take Your Heart』と筆記体で書かれた白い文字が、洒落た感じで斜めに印字されていた。
しかしこれだけじゃ何だか分からない。俺が首を傾げていると、竜司が言った。

「分かんねえ?」
「分からないな。何だそれ」

正直にそう言うと、竜司は俺にその紙を裏返しにして見せた。

『今宵、あなたの心を頂きに上がります』

また洒落たフォントで書いてあるその文字を見て、思わず俺は竜司を見上げた。

「どうよ」

やってやったぜとばかりにふふんと鼻の下をこする竜司に、俺は苦笑を禁じ得なかった。
それを見て気を良くしてしまったのか、ますます竜司は胸を張って言った。

「すげーいいだろ? それっぽくて」

こう見えて、意外に凝り性なのかもしれない。
竜司はつまり、いつの間にか作ってしまっていたのだ。小説や映画なんかの中で、いわゆる怪盗がお約束のように犯行前の現場に送りつける手紙。“予告状”を。

「……で、これをどうしたって?」

もはや答えは分かりきっていたが、一応訊いてみた。
するとやはり、思っていた通りの答えが返って来た。

「ん? 高巻の下駄箱に入れてきたけど?」

竜司はしれっとそう言い、屈託なく笑った。
俺は言葉が出なかった。普段怠惰で通ってるくせに、こういう風に自分が楽しめそうなものと対峙した時には、本当に行動が早い。
だが竜司のこういう所は、下手をすると自分達を窮地に陥らせるかもしれないので、一応釘は差しておかなければならない。

もうやってしまったものはしょうがない。でもこの文面ではストーカーじみたラブレターのようにも見える。最悪通報される可能性もゼロではないし、今後はやめておいた方がいい。
そう言ったのに、しかし竜司にそれを笑い飛ばされた。

「だあいじょうぶだって。一応ただのいたずらっぽくも見えるように、一緒にいれといたものもあるし」

ほら、これ。
と、竜司はまたポケットから何かをつまみ出し、俺に見せた。

「……花びら?」
「おう」

赤い、ひらひらした何か。
メガネを外して間近で見てみると、やっと分かった。

「バラ……? バラの花びらを散らしておいたのか?」

そんな結婚式の演出じゃあるまいし。そう思っていたら、少し違った。

「いやいや、もちろんちゃんとバラの花を入れといたぜ。一輪だけだけど」

その言葉に、思わず俺はまた竜司を見上げてしまっていた。

「……何だよ?」
「いや……」

『もし人に花を贈るなら、見せかけだけの豪華な花束よりも、棘がついたままの一輪のバラがいい』
ついさっきまでしていた思考をなぞるようなことをされたので、面食らってしまった。
竜司のことだから、分かってやっている訳はない。訳はないのだが、一応俺は訊いてみた。

「何でバラなんだ?」

すると竜司は、また子供みたいな笑顔でこう答えた。

「いやだって、その方がぽいだろ?」

やはりそうだった。竜司はただ連想しただけなのだ。
俺達のやっていることは、端から見ればフィクションに出てくる怪盗とほとんど変わりない。となれば、予告状とバラの花は必要だろう。たぶん、そう考えただけだ。

俺はしかし、こみ上げてくる笑いをこらえることが出来なかった。予告状と一緒にそんなものまで入れたら、逆に余計本気度が増してしまうんじゃないかとも思ったが、そんなことはどうでも良くなってしまった。
釣られて同じように笑い出した竜司に、俺はまた訊いてみた。

「棘はどうした? 女子に怪我させたらことだぞ?」

すると竜司は、あー、と頭を掻きながら言った。

「俺も取った方がいいかなと思ったんだけど、なんかそうすると長持ちしなくなるんだってよ。だから一応そのままにしてもらった」

それを聞いて、俺はいよいよ笑いを収められなくなった。ここまでなぞられると、ちょっとスピリチュアル的な何かさえ感じてくる。前世は兄弟だったとか、何とか。

予告状に添えられた、棘のある一輪のバラ。本当にこれは、俺達にぴったりな組み合わせだろう。このバラは社会という鎖にがんじがらめに繋がれてしまっている、迷える囚人達への無言のメッセージとなる。
解き放たれる時は確かに痛みをともなうだろう。だがその先にある、どこまででも羽ばたいていけるような自由は、何ものにも代え難い。

万人には理解されない考え方かもしれない。だけど俺は祈った。
まずはとにかく、この一輪のバラの精神が、どうか彼女へ伝わりますように……と。











  しかし彼女の仮面達は相も変わらず、苛烈極まりない猛攻をもって俺達の進行を妨害し続ける。やっぱりそう簡単には、受け入れてはもらえないらしい。

「おいおいどんどん増えてんだけど!? 大丈夫なのかこれ!?」

彼女が創り出した心の迷宮を、俺達は静かに忍びつつ進んでいた。しかしどうやらいよいよその場所は近いらしく、わらわらと仮面達が湧いてくる。そのせいでさすがに隠れながら進むのが難しくなってきて、隣の仲間が焦り出した。

俺はそうして慌てふためく竜司の肩を軽く叩き、大丈夫だとなだめてやった。
これだけの数が居るということはつまり、こいつらの守りたいものが近くにあるということだ。お宝の近くに厳重な警備があるのは当然のこと。むしろ、喜ぶべきことだ。

そう言ってやると、なるほどなあなどと竜司はのんきに頷いた。が、その目線がふと横に向いた時、一気にその顔が険しくなる。

「おい……これはさすがに……」

その視線を追って、ぎょっとした。

「……でけえよ!!」

竜司が大きな声を上げる。大抵のことには慣れつつあった竜司だったが、今回はどうも騒がしい。
しかしそれも仕方のないことだった。気付くと俺達の目の前には、女性のようなシルエットをした3メートルはあろうかという巨人が立ちはだかっていたのだ。
明らかに道中にいたものとは違う。そいつは俺達に気付くと、すぐさまこちらに向けて攻撃を開始した。

その大きな腕で一帯をなぎ払う。しかしまだ距離があったため、俺達はそれを何とか後ろに下がることでやり過ごす。
先手を取られた形となったが、何だかんだで竜司はもう状況に順応していた。軽やかな動きで続く攻撃を避け、持っていた鉄パイプで巨人の足を思い切り殴る。
俺は持っていた銃でそいつを撃った。これだけの巨体相手にはパチンコ玉のようなものかもしれないが、それでも注意くらいは引ける。

「よっ!!」

しかし見たところ、竜司の攻撃の方はちゃんと通っているようだった。足元で攻撃を続ける竜司をうざったそうに追い払おうとするのがその証拠。これならしばらくこうしてちくちく叩いていれば、いずれはこいつも倒れるはずだ。
だがまだ奥があるのなら、こんなところでぐずぐずしてはいられない。さっさと倒して、本来の仕事をしに行かなければならない。

と、そう思っていた時。
フロア一帯に『こないで!』と大きな声が響き、同時に巨人の拳が地面を深くえぐった。

「え!?」

それをなんとかすんでのところで避けると、竜司は不思議そうに俺と巨人とを交互に見た。
巨人が高い声を発した。やはりこいつは、さっきまでの有象無象とは違う。
目を白黒させてこちらを見る竜司に、俺は頷きだけを返した。

状況的に見て、おそらくこいつは彼女だ。今までにうろついていたものも彼女なのだろうが、あれらは彼女の断片的な精神から生まれたもので、本質的には彼女自身と呼べるものではない。今目の前にいるこれこそが、彼女の心がそのまま具現化した姿なのだ。だからはっきりとした意思があって、話すことが出来る。
つまり、こいつが俺達のターゲットということになる。竜司は俺が頷くだけでも何となくそれを察したようで、なるほどこいつか、とニヤリと笑った。

そうと分かるや竜司は彼女に向かって走り、鉄パイプでその巨体に打ち込みを入れながら、言葉を浴びせた。

「よーよー高巻! 辛気くせー顔してんな!」

こんな時にもかかわらず、俺は竜司のそれに思わず笑みをこぼしてしまった。
彼女の顔はのっぺらぼうのようになっていて顔色なんて全然分からないはずなのだが、確かに俺にも、そんな風に見える。

「ま、学校であんな扱いされてりゃそれも仕方ねえか!」

もうちょっと上品に出来ないものかとも思ったが、その軽い口調の方が逆に功を奏したのか、彼女が動揺し始めた。

『誰よあんた! あんたに何が分かるのよ!』

図星を突かれたせいか、彼女の動きの激しさが増す。竜司は慌てて攻撃を止め、動きを回避主体に切り替えた。
仮面をかぶっているせいで、やはり彼女は俺達が誰だか分からないらしい。それをいいことに、竜司はどんどん捲し立てた。

「でもお前にも問題あるよな。裏で便利屋扱いされるの分かってていい顔してるんだもんな」
『うるさい!』
「つかお前の笑顔、傍から見ると愛想笑い丸出しで気持ち悪いし! そういうのもう止めた方がいいんじゃね?」
『うるさい!だまれ!』

足で俺達を踏み潰そうとしながら、彼女は耳の辺りを両手でふさぐ。彼女にとってはさぞかし痛い言葉だろうと思うが、俺も竜司のそれを止める気はなかった。
棘はある。しかしだからこそ、バラのように真っ赤で熱い言葉。
そんな言葉でないと、彼女の心にはきっと届かない。

「なぜもっと自由でいようとしない? 今のお前は、籠の中の鳥ですらない」

竜司のようには声を張らなかったが、それでもきっちりと聞こえたようで、彼女は上から俺を睨みつけた。
だが俺は、そんなことでは怯まない。俺は堂々と彼女の前に立ち、言った。

「お前は自分から籠に入っているだけで、いつでもそこから出てどこへでも飛んでいけるのに、そうしない。捕らえられた鳥でさえ、常に飛ぶ意思は持ち続けているというのに」

そんなものはもう鳥じゃない。人間じゃない。
そう突きつけるように言ってやると、彼女は目に見えてうろたえ始めた。頭を抱え、苦しそうにしながらわめき出した。

『うるさいうるさいうるさい!!』

自分を出し過ぎればすぐに誰かと対立して、最後にはきっと独りになる。それは何より怖い。だったら自分が自分でなくてもいい。それで居場所が出来るなら、それでいい。
彼女は苦しそうにしながらも、そう言い訳した。

確かに、周りを気にせず自由に振る舞っていれば、独りになってしまうこともあるだろう。彼女が言うその不安は、別に間違ってはいない。世の中はそういう人間に厳しいのだということは、少し人の中で生活していれば分かることだ。人との繋がりこそが何より尊ばれ、和を乱すやつは悪だと断ぜられる。確かに今は、そういう世の中だから。

しかし俺は、はっきりと聞いたのだ。

「お前は俺に、“いやだ”と言った。だからそれは、お前の本音じゃない」

たとえ孤独になろうとも、もっと自分らしくいたい。
直接口にはしなかったが、お前は全身で、そう言っていた。

ならば。

「“アルセーヌ”」

俺がそこから、出してやる。

お前が自分を出し過ぎないように、独りにならないようにと作り上げてきたその仮面。自らを守るはずだったそれらは、しかし自分を騙し、偽っているうちにおびただしい数にまで膨れ上がった。そして最後には、逆に主の心を縛る檻と化し、お前を苦しめ始めた。

それに堪えられないと言うのなら、何も難しいことをやる必要はない。その全てを徹底的にぶち壊してやればいい。お前がそうしなければ飛び立てないと言うのなら、俺がそうしてやる。このアルセーヌの炎で、全部燃やし尽くしてやる。

『Take Your Heart』。俺がお前の心を、自由の空に解き放ってやる。



















「俺さあ、あいつの前の感じ嫌いじゃなかったんだよね」

教室の後ろに陣取って、だるそうにそばの壁にもたれかかりながら、竜司はぼそぼそとささやくように言った。

「いや、あれな?性格とかじゃなくて、単に見た目な?あのちょっと地味なんだけど、よく見てみると結構可愛い?みたいな状態。黒髪ポニーとか今じゃもはやレアだし、あれ結構好きだったんだけどなあ」

竜司はそうして、彼女の方を残念そうな顔をしながら見やった。

「それがどうして、あそこまでになっちゃうかねえ」

竜司の視線の先。カーテンがゆるくなびいているその窓際の席には、教室の視線を一身に集める高巻の姿があった。
あれからしばらく学校を休んでいた彼女だったが、今日になって体調が良くなったのか、やっと戻ってきたのだ。

「まあいいんじゃないかアレも。俺は嫌いじゃないけど」

ただ、やはり俺達以外の教室の面々はかなり驚いたようだった。復帰した彼女は、前の彼女とは全く違っていたのだ。

彼女は、黒かった髪色をベージュ色に染め上げていた。そしてきちんと着ていたはずの制服も派手に着崩してしまっていて、一目では誰か分からないレベルにまで変わってしまっていた。
スカートにまでかかる大きめの白いジップアップパーカーを着込み、足には派手な赤いタイツ。遠目に見ると完全に私服で、ほとんど制服を着ているようには見えない。この変わり様だと、おそらく近しい人であってもすぐに彼女だとは気付けないだろう。

こうなってしまうと当然、普段彼女と交流のないクラスメイト達はおろおろするばかりだ。一体何があったのかと、彼らは今日一日ずっと彼女の方をチラチラと伺い見てばかりいた。放課後になったおかげでそれはますます露骨になりつつあり、今教室は、一種異様な雰囲気となってしまっている。

そして、いつものように彼女を囲んだ3人の女子も、彼女のそれを見てから一様に口をつぐんでいた。いつもと違って堂々とした顔でそこに座っている彼女とは対照的で、3人共心中複雑そうな顔をして彼女を見ていた。

それでも、今まで彼女に対してイニシアチブを取ってきた矜持のようなものがあるのか、ようやく3人の中の一人が、意を決したように口を開いた。

「杏……あんた、どしたの?」

その一人に追随して、固まっていた他の二人も口々に言った。

「そ、そうだよ……! 急に何でそんな……」
「何か嫌なことでもあったの……?」

しかし、3人がそう訊いても、彼女は動かなかった。彼女はただ腕と足を組みながら、前を向いているだけだ。
こちらからは彼女の顔は見えないが、俺には何となく、彼女が今どんな顔をしているか分かった。
たぶん、不機嫌そうに眉根を寄せている。

「ねえちょっと杏、聞いてんの?」

その様子に痺れを切らして、リーダー格っぽい女子が彼女に詰め寄った。
するとようやく、彼女はそれに深くため息をつきつつ言った。

「……別に。めんどくさいことをやめようと思っただけよ」
「めんどくさいこと?」

3人の女子の方がそう返したが、彼女はそれには答えなかった。
代わりに身体を横に向け、3人に正面から刺々しい言葉を浴びせた。

「てか、何?何か用?」

その遠目からでも分かる彼女の鋭い視線にたじろいだ様子の3人だったが、すぐにリーダー格っぽい女子が、その状態を嫌うかのように一歩前に出た。そしてその女子は、殊更彼女を上から見下ろすようにして言った。

「別に、いつもと同じよ? ノートを借りに来ただけ」

貸してくれるでしょ? とまた詰め寄るその女子に、しかし彼女は一言、冷たく言い放った。

「イヤ」

そして彼女は俺の時と同じように、話しながら鞄に物を詰め、帰り支度を始めた。

「あんた達、成績落ちてるんでしょ? 部活で忙しいからってあたしからノート借りてばっかいるからそうなるのよ。ちょっとは自分でやりなさいよ」
「なっ……!」

その返答に意表を突かれたのか、リーダー格の女子が驚いたような声を漏らした。
クラスメイト達はその様子をはらはらしながら見ているようだったが、俺と竜司は、口元を抑えたり別方向を向いたりして、笑いをこらえるのに必死だった。
自分の思い通りに動いてきた人間に急に拒否された上に、説教までされればそうもなる。俺達にとっては、その様子はただただ痛快でしかなかった。

だがあの3人にとっては気が気じゃないだろう。ここでこの狼藉を許せば、彼女に主導権を渡すことになってしまう。当然、見過ごすことはないだろう。
そう思っていたら、案の定リーダー格の女子が動いた。

「何あんた。ちょっと見た目変えたからって気が大きくなってんの?」と、必死なのか興奮しているのか、鼻息混じりにその女子は言った。「友達が困ってるって言ってるのに、ちょっと冷たいんじゃない?」

その言葉に、彼女の耳が大きくなったのが遠目にも分かった。俺達は固唾を呑みながら、彼女達の様子を見守った。
いよいよ核心だった。俺達のやったことがちゃんと彼女に伝わったのかどうか、ここで分かる。

「友達……。そうね、友達よね」彼女は静かに言った。「でも、あんた達にとってあたしは“便利屋”なんでしょ?」

彼女はそう言いつつ、また3人をキッと睨み上げた。
ここが勝負とばかりに、今度は3人共その視線にたじろぐことはなかった。しかしその後、すぐに表情を変化させた彼女を見て、結局3人共唖然として言葉を失った。

「まあ、最悪それでもいいよ?」と、彼女はいからせていた肩の力を抜き、柔らかい表情で言った。「少なくとも、あたしはあんた達を友達だと思ってるし。だからあたしは、あんた達にとって良くないと思ったことをはっきり言っただけ。ちゃんとあんた達のことを考えて言ってるんだから、別に冷たくはないでしょ?」

思わず俺は、ニヤリと笑ってしまった。竜司も同じだったようで、俺達は周りにばれないように笑い合った。
伝わったと思った。俺達が彼女に伝えたかった精神が、ちゃんと伝わっている。そのことが、単純に嬉しかった。

だがやはりと言うべきなのか、彼女の考え方は、3人には伝わらなかったようだ。

「杏……それでいいの?」
「それでいい?」
「あんたはあたしらと友達ではいたくない。それって、そういうことよね?」

彼女はそれを聞くと少し、いやかなり、複雑な表情をした。
優しげな表情でいて、しかし何かを諦めたかのように寂しげで、困ったような顔。
彼女はここに来て、何を言うべきか迷っているようだった。今日一日ずっと彼女の瞳に宿っていた強い光も、少し陰ったように見えた。

多少そうして逡巡はした。しかし彼女は、結局俺達と同じ選択をした。

「違うけど……。あんたがそう思うなら、そうなんじゃない?」

彼女はもちろん、そうするつもりはなかっただろう。だが3人には伝わらなかった。結局これが、彼女達の訣別の言葉となった。

「……そっ。分かった」

一人がそう言って背を向けると、他の二人も戸惑いながら彼女に背を向け、そのまま静かに教室を出て行った。
その捨て台詞も何もない別れ方が、かえって教室に深い余韻を残す。また誰かが教室の再生ボタンを押すまでずっと、それは教室の中をじわじわと漂い続けた。

こうなったのは少なからず俺達のせいなので、罪悪感がないと言えば嘘になる。しかし最終的な選択をしたのはあくまで彼女で、俺達は背中を少し押してやっただけに過ぎない。彼女は自分らしくいることを、自分で選んだ。それだけだ。俺達が萎縮する必要は全くない。
とは言え、彼女が今どういう心境なのか、気にならないという訳ではない。後悔しているのかしていないのか。それくらいは聞いておきたかった。

そんなことを思っていたら、帰りの準備が終わった彼女が、どういうわけかこちらにくるりと振り返り、真っ直ぐに俺達を見た。急にビタリと合ってしまったその視線に、竜司が小さく「げっ」と漏らした。
彼女はつかつかとこちらまで歩いてきて、そのまま無遠慮に距離を詰め、俺達を壁にまで追いやった。同時に周りの人間はモーゼの十戒のように彼女を避け、そのまま触らぬ神に祟りなしとばかりに、どこかへと行ってしまった。
しかし俺達の方は、突然過ぎて逃げることが出来なかった。女子のくせにやたらと顔を寄せてくるものだから不用意に動けず、とりあえず顔を逸らすことくらいしか出来なかった。

「あ、あのー……何? どうかした?」

追い詰められた泥棒よろしく、すぐに両手を上げて降参ポーズを取った竜司が、おそるおそる言った。

「何か、怒ってる? 俺達別に何もしてないけど……っておーーっと!?」

機嫌を損ねないように言ったつもりだったのだろうが、どうにもしらじらし過ぎた。竜司は彼女にドンと押されて、蚊帳の外に追い出された。

「あんたは後」

そして彼女は、また俺に詰め寄った。少しふいを突かれたせいで俺は壁にもたれる形となってしまい、それをいいことに、彼女はずいと殊更俺に顔を寄せた。

「笑い過ぎなんだけどあんた達」
「いや、俺達は別に……」

演技っぽさを消せばどうにかなるかと思い、とぼけようとした。しかし彼女は、そうしようとした瞬間俺の顔のすぐ横にドンと手をついて、俺を睨み上げた。

「いやバレバレだから。あんた達だけだから、笑ってたの」

ごまかしは通用しないらしい。彼女はやはり、覚えているのだ。

「それと、この前はずいぶんと好き勝手言ってくれたわね。あたしのことなんかほとんど何も知らないくせに、何なのあの言い草は」

人差し指で俺の胸を小突きながら、彼女はそう言った。
何か返した方がいいのだろうが、どこまで彼女が覚えているのかが分からなくて、下手に話し出すことが出来なかった。もう少し彼女が何か話すまで、俺はとりあえず黙ったままでいることにした。

あの日、彼女との戦いは壮絶を極めた。彼女の心は俺達の言葉によって揺らいでいたが、それでも彼女は、激しく抵抗した。おかげで俺達もぼろぼろになってしまい、自分達のかぶっていた仮面がいつの間にか剥がれ落ちてしまっていたことに、最後まで気付けなかった。
つまり俺達は、顔を見られてしまった。だから彼女は、ある程度確信して俺達に話しかけてきている。この状況は、おそらくそういうことだろう。

そうして何も言えずに、沈黙が重くのしかかってきた頃。彼女は黙り続ける俺を見て、ふっと呆れたように鼻から息を吐いた。

「何よ。だんまり?」

近くにあった空いている机に腰掛けながら、彼女は言った。

「あれ、絶対あんた達よね。あの世界がなんなのかはよく分からないけど、あんた達の顔ははっきり見えたんだから、今更ごまかさないでよ。あんたはちょっと自信なかったけど、そこのド金髪が目立ち過ぎで、分かりやす過ぎ。二人でいるの見たらすぐ分かった」

あれは夢ではなく現実。彼女はもう、そう断定して話をしていた。どうやらかなりはっきりとあの日のことを覚えているようだった。

「あんた達なんでしょ? あれ」

少し迷ったが、俺は頷いた。

「……ああ。そうだ」

そもそも目の前であれ程強い意思表示を見せられたら、とぼける理由など最初からなかった。彼女は俺達と同じ考えを持つ、同士なのだ。
俺のその返答に満足したのか、彼女はそこでようやく表情を緩めた。

「でしょ? 何で隠すのよ。怒られるとでも思った?」
「いや、そういうわけじゃない。説明するのが難しいから、何も覚えてなかったら放っておこうと思ってただけだ」

俺がそう言うと、彼女はむっと顔をしかめた。

「何よそれ。あれだけ好き勝手しといて、それはないんじゃない?」

しかしそうして咎めるようなことを言いつつも、その顔は本気で怒っているような顔ではなかった。
なぜだか少し、楽しそうに見えた。

「で? どうしてくれるの? これ。あんた達にそそのかされたせいで、あたし居場所なくなっちゃったんだけど」

あの真面目一辺倒に見えた彼女とは、やはり少し違う。意地悪そうにニヤニヤと俺に笑いかける彼女は、すごく普通の女子っぽくて、前よりも生き生きとしているように見えた。

「なんだ。そこまで自分でやっておいて、後悔してるのか?」

この分だと、彼女はもう色々と吹っ切れているのだろう。
そう思って訊いてみたが、実際はちょっと違うようだった。

「……ん。後悔って言うか」

打って変わって、彼女は少し疲れたような顔で言った。

「たぶん、正解じゃないよね。これって」

そうして彼女は地面に目を落とし、ぽつぽつと話し始めた。

「こうやって自分に嘘をつかないで、他人にも真っ直ぐに接して……ってさ。これって他人との面倒な駆け引きとか色々考えなくて良くて、すごい気持ちいいことだとは思うんだけど……。それだけじゃダメな場面って、たぶんあると思う」
彼女は足をぶらぶらとさせながら続けた。
「直球だけじゃ、それを受け止められない人もいるんだよね。だからそういう人にはもっと緩く投げてあげたり、色々相手のこと考えて投げたりしてあげた方が、ホントはいいんだと思う。あたしみたいに、誰かに背中押してもらわないと変われないような、そういう弱い人間だって、世の中にはいっぱいいると思うし」

彼女はゆっくりとした口調でそう言った後、小さくふう、と溜息をついた。
やはり少し後悔してるのだろうか。そう思って俺が口を開こうとすると、しかし彼女にそれを手で制された。

「あたしもね、やっぱり今日家ですごい迷ったんだ。こんな頭で、こんな服で学校行ったらどうなっちゃうんだろうって。親にはもちろん心配されたし、こんなんだと先生にも根掘り葉掘り聞かれるだろうし、クラスの人には変な目で見られるんだろうなとか色々考えちゃって、身支度しながらちょっと足が震えてた」

「でもね」と、彼女はゆっくりと目を閉じながら言った。

「誰かに見られたら、もうこの自分で通すしかないって覚悟が出来ただけなのかもしれないけど……いつもみたいに靴を履いて、親にいってきますって言って、震える手で何とかドアを開けたら、もう大丈夫だった。外に出たら、嘘みたいに空が高く見えた。その空を見上げながら、ぐうって1回伸びをしたら、急にふっと体が軽くなった。もうホント、どこへでも飛んでいけそうなくらい、一気に」

彼女はそこで目を開き、俺を真っ直ぐに見据えた。

「だからとりあえず、今はそれでいい」

その瞬間、俺は思わず目を見開いてしまっていた。彼女ははっきりとした口調でそう言った後、とても柔らかい微笑みを俺達に見せた。
その笑顔は、前に彼女がしたあの張り付いたような笑顔ではなかった。誰かに見せるために無理やり作ったものでも、乾いたものなどでもなかった。それはどこまでも自然なものだった。
彼女のその赤いタイツのせいなのか、あるいは最近した思考のせいなのかは分からない。とにかく俺は、彼女のその笑顔を見た瞬間に、すぐにそれを心の中で形容してしまった。
まるでバラの花のようだと思った。固く閉じていたつぼみが朝露と陽の光に刺激され、美しい真っ赤な花を開く。そんな一種神聖な瞬間に立ち会ってしまったかのように、彼女から目が離せなかった。

竜司も同じように、何か思ったのかもしれない。ずっと黙っていたが、ここでようやく口を開いた。

「何だよ。普通に笑えるんじゃん」

その横槍に、急に今までの色々が恥ずかしくなったか、彼女は竜司に向かって思い切り毒づいた。

「うっさい! あんたのことはまだ許してないんだからね!」

普通なら尻込みしてしまいそうなものだが、元々ツッコミ気質の竜司は、負けじとそれに返した。

「何でだよ! てかこいつのことはもう許したのかよ!」

そうしてやいのやいのと言い合いを始めてしまった二人に、今度は俺が蚊帳の外に出される。

「こいつを許すんなら俺も許してくれたっていいじゃんかよ! 同じ金髪のよしみだろ!」
「は~? あんたの下品な金髪と一緒にしないでよ! あたしのはベージュです。べ・え・じゅ!」

彼女は竜司と言い争いながらも、やっぱりどこか楽しそうに見えた。
たぶん、言葉が真っ直ぐに飛び交うのが心地いいのだ。その気持ちは良く分かる。
変化球ばかりで捕球出来ないキャッチボールより、ただ真っ直ぐに飛んでくる球を捕り、それをただ真っ直ぐに何度も投げ返していく……そんなごく普通のキャッチボールの方が、楽しいに決まっている。

やがて、そうしてひとしきりお互いを罵倒し合った後。彼女はふんと鼻を鳴らし、くしくしとツインテールの片方を梳きながら言った。

「てか、そんな許すとか許さないとかどうでもいいことは置いといて」
「お前が言い始めたのに!?」
「……うっさいなー。ちょっとあんたホント黙っててよ」

まるで虫でも払うかのようにしっしっと竜司に手を振った後、彼女は俺の方に向き、改めて言った。

「で、どうしてくれるの? まさかあそこまでやっといて、あたしをほっぽって行く気じゃないでしょうね」

彼女の言いたいことは、とっくに分かっていた。俺はもう、何が言いたい? などとは訊かなかった。
彼女もそして、もう回りくどいことは言わなかった。

「とりあえず、あたしもあんた達のやってることに混ぜなさいよ。それくらいの責任はあるんじゃない?」

彼女は俺にそう迫った。もはや俺がどう答えるのか分かっているかのような、自信満々な顔で。

「……そうだな」

彼女と俺の考え方は、少し違う。いやもしかすると、根本的な部分から違うのかもしれない。
俺は俺達の考え方こそが正しいと信じている。でも彼女は、『間違っているのかもしれない』と思いながら、今の自分に身を委ねている。この違いは、小さいようでとても大きい。
でも俺は、その彼女の申し出に、結局首を縦に振った。

「確かに、責任がゼロという訳じゃないしな」

すると彼女は、ぴょんと机から小さく飛び跳ねるように立ち、「やたっ」と、嬉しそうにガッツポーズをした。
しかしそれを傍で見ていた竜司は、俺が勝手に決めたのが不満だったのか、すぐに難癖をつけてきた。

「え~? そんな簡単に決めていいのか~?」

するとやはりと言うべきか、彼女は俺が何か言うよりも早くそこに突っかかっていった。

「ぷっ。あんたリーダー様に信用されてないんじゃない?」
「んなこたねえし! ……つか何だよ。リーダーは俺かもとは一切思わねえのかよ!」
「え? だってあんた、見るからに手下Aって感じだし、絶対違うでしょ」

ぐぬぬ、と旗色の悪い竜司が助けを求めるような目で俺を見たが、俺はそれからすっと目を逸らした。
確かにまあ、安易に決めてしまったかなと思う俺もいる。でもたぶん、よく考えても結果は一緒だったと思う。

「てか早速で悪いけど、今からあんた、手下Bに即格下げだから。あたしの方が断然頭いいし、色んなとこで役に立つと思うし」
「いやいやいや! 俺だってそんな悪くねえし! あの予告状とかも作ったの俺だし!」
竜司がそう言うと、彼女は心底意外そうな顔で竜司を見た。
「え、あれあんたが作ったの……? 無駄に器用ね……」
「無駄じゃねえし! すげえ人生において役に立ってるし!!」
「……てかあんた、さっきから必死過ぎじゃない? こんなことで……」

ついに地団駄まで踏み始めた竜司を、彼女は「子供みたい」とくすくす笑った。でも俺にはその彼女の顔も、子供のように無邪気で、無垢なものに見えた。
やっぱりな、と思ってしまった。たぶん俺はどう考えようと、結局最後には彼女を仲間に入れただろう。
彼女と俺の考え方はたぶん違う。でもこうして明け透けに笑う彼女の顔を見たら、すぐにそんなことはどうでもいいという気になってしまう。花が咲いたようなその笑顔は、俺達の持つ心  バラの精神  を、何より体現しているように見えるから……。

だからきっと、今はこれでいい。
そうして俺は、ぞんざいに扱われ過ぎてもはや涙目になっている竜司に心の中で言い訳しつつ、もうすでに旧知の仲のようにお互いを茶化し合う二人の輪の中へと入って行った。
たぶん、いや必ず、こいつらとは長い付き合いになる。そんな風に、らしくないことを思いながら。







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「ほんと、せっかく君の誕生日なのに、どうしてこうなっちゃうかなあ」

千枝は一緒に作った料理を見て、ちょっと落ち込んでいる。

「いや、唐揚げなんかは味付けは悪くないし食べられる。他のものも、食べられないことはない」

少し前の千枝からすると、すごい進歩だ。そうフォローしたが、千枝の顔は晴れなかった。彼女は自分の作ったものを見ながら、しばらくぐぬぬ、と唸っていた。
俺はそれを横目で見つつ、別に全然気にしなくていいのにな、などと思いながら皿に料理を取り分け始めた。
食べ始めれば、きっと千枝も余計なことは考えなくなるはずだ。今日の料理には、自分の自信作だってたくさんあるのだ。
と、その時の千枝の顔を想像して少しニヤニヤしてしまいながら配膳していると、そうして唸っていた千枝が突然、何かを決心したかのような顔で、俺に言った。

「ちょっと、待ってて」

なぜか真っ赤な顔でそう言ったかと思うと、千枝は2階の俺の部屋へと引っ込んでいってしまった。

一体なんだろうと首を傾げながら、俺は配膳を進めた。
今日はすでにプレゼントをもらっているが、もしかして他にサプライズプレゼントでもあるのだろうか。
そんな暢気な考えを頭の中で展開していると、割とすぐに千枝は階下へと戻ってきた。

配膳の手を止め、彼女にどうしたんだと声をかけようとした瞬間、俺は千枝を見て固まった。
いつもツッコミ役に回ったり、普段は割と常識人の彼女だったが、予想のつかない斜め上の行動をする時というのも、実はあるらしい。
千枝が、とんでもない姿でそこに立っていた。

こんなシチュエーションが本当にあるのかと疑問に思いながらも、やっぱり自分も男だから、ちょっと見てみたいな、ぐらいには思っていた。実際に見てみると、何というか非現実感があって、インパクトがある。
思わず手を伸ばしかけたが、何とか引っ込めた。正面からだと少し分かりづらいが、たぶん千枝は、素肌にエプロンという、いわゆる裸エプロンと呼ばれる姿でそこに立っていた。

「あんまり見ないで……って言うのも、ちょっとおかしいけどさ……」

絶句している俺を見て、あはは、と頬を掻きながら、千枝は弁明した。

「なんか、全然役に立たなくてごめんね。他に何かあたしに出来ることないかなって考えたら、こんなことくらいしか思いつかなくて。男の人って、こういうのが好きなんでしょ?」

どういう所からそういう知識を得ているのだろうか。まあ間違ってはいないのだが、実際に彼女にこういうことをされると、どうにも困ってしまう。
いじらし過ぎるにも程がある。だから、今すぐ手を伸ばして抱きすくめたいと思っても、憚られた。肌の露出が多すぎて、どこをどう触っていいかも分からない。
そうして自分の中の天使と悪魔がせめぎ合ってなんとか耐えているのに、千枝はまた、こんなことを言う。

「でもごめん。ちょっと中途半端かも。上はなんとか脱げたけど、下は……ちょっとやっぱり無理だった。完全再現は恥ずかし過ぎて……」

思わず目頭を手で抑えた。
言い方が生々し過ぎる……。見たところ今日履いてきたはずのスカートは履いていないし、一応下着にまではなってしまっているようだ。かなり恥ずかしがりな千枝なはずなのに。
自分のためにこんなに頑張ってくれた彼女に、やっぱり簡単に手は出せない。そう思った俺は、その小さな形の良い頭の上にポンと手を置いて、言ってやった。

「気にしなくていいのに」

近づいてみると、やっぱり恥ずかしさからか、彼女は熱っぽく涙目になってしまっていた。

「嬉しく……なかった?」

そうして見上げてくる千枝にまた少しぐらついたが、俺は首を振った。

「いや、そんなことないよ。彼女がここまで自分の為にしてくれたって考えたら正直……理性が飛びそう。今も、色んなこと耐えてる」

そう言うと、千枝はやっ、と慌てて腕を交差して、顔を赤らめた。
その顔は逆効果だからやめた方がいいと言おうと思ったが、あまりにそれが可愛かったから、黙っていた。
代わりに、俺は千枝の額を指でつんと小突いた。

「でもそこまでしなくてもさ。誕生日を好きな彼女と過ごして、一緒に楽しく料理してって出来れば、もうそれだけで嬉しいんだよ俺は。そんな頑張らなくたって」
しかしそう言っても、千枝は口を尖らせながら、恨めしそうに俺を見た。
「……その料理に、物体Xがあっても?」
その言葉に、俺は苦笑した。普段はあっけらかんとしているように見えて、実は料理が下手なのを結構気にしていたのかもしれない。
ぶすっとしたその顔も可愛くて、俺はまたその撫でやすいマッシュルーム頭を、優しく撫でてやった。
「今回は、物体Xなんかじゃないから。確かに見た目はよくないかもしれないけど、ちゃんと味見もしたし、大丈夫」

だから早く服を着て、千枝が一生懸命作った料理を食べよう。
そうまで言ったのに、しかし千枝は引き下がらなかった。
なにやら俺をじっと見つめたかと思うと、今度は盛大に溜息をつきながら、千枝は言った。

「……あたしって、魅力ないかな?」
「え?」
急に変なことを言い出す千枝に、思わず気の抜けた返事をしてしまった。
「そりゃありせちゃんとか雪子みたいに女の子っぽくないし、直斗くんみたいにナイスバディじゃないけどさ」
まずい。
「もうちょっと、その……がっついてくれてもいいかなって」
ちょっと変なスイッチが入ったかもしれない。
「そういう風にクールで、落ち着いたところも好きだけどさ。あたしも割と、色々と覚悟してこの格好になったから、ちょっとショックかなって……」

千枝はたまに、こういう風にネガティブになることがある。いつも元気な彼女だったから、最初はてっきり四六時中そうなのかと思っていたのだが、どうもそれは違うらしいのだ。
基本的には、彼女はとても強い人だ。でもそんな彼女にも、やっぱり歳相応の普通の女の子な部分はある。だから当然、自分に自信が持てないところだってあるのだ。

それは分かっていたからはっきり言ったつもりだったが、まだ足らないということだろうか。
じゃあ、もっとはっきり言ってみればいいのだろうか。

「魅力ないとか、本気で言ってるのか?」
「だって」
「俺がクールとか、落ち着いてるとかも、そんなの装ってるだけだから。がっつかないのも、嫌われたくないだけだし。本当は今すぐにでも千枝を抱えて、俺の部屋に放り込みたいと思ってるんだけど」
「え!?」

それは本当のことだ。なんで肉ばかり食べてるとか言ってるのに、そんなに肌が白くて綺麗なのか。男とは絶対的に違う、その彫刻みたいな、あるいは陶器みたいな、きめ細やかで滑らかそうな肌。ここまで肌色をさらされると、触ってみたくてうずうずする。
しかし俺はふるふると頭を振って、その煩悩を散らした。
そうするのは、まだ早い。と言うより、もったいないと思った。
俺は固まっている千枝に寄り、その頬を撫でた。

「でも俺はもっと、ゆっくりでいいんじゃないかと思うんだ」

千枝の頬にうっすらとついていた小麦粉を拭ってやる。俺を喜ばせようと一生懸命やってくれた証みたいで、そんな小さなことでも愛おしくて、胸が温かくなる。
俺は千枝に言った。こんな今を、俺はとても大事にしたいと思っていると。
自由に触れ合えるようになった後も、きっと素晴らしい時間になるのだろうとは思う。だけどそうなる前のこういう時間だって、きっと同じように貴重で大事な時間なんじゃないか。そう思うんだと、俺は彼女に言った。

「最高の料理が目の前にある時に、それを味わわないでガツガツ食べちゃうのは、なんかもったいないだろ?ゆっくり噛みしめるように食べる方が、俺は絶対いいと思う」

ふとした拍子に肌が触れてしまって慌てたり、互いに苦労して繋いだ手の、意外な感触に驚いたり……。
つい最近のことだけでもこれだ。まだまだ他にもたくさんあるだろう。そういう全てを味わわずに、一足飛びに先に行ってしまうのは、もったいない。

「時間はこれからいくらでもある。だから……」

と、続けようとした所で、ふと俺は気付いた。
いつの間にかまた千枝が、宙の一点を見据えながら、固まってしまっていたのだ。

「千枝……?」

名前を呼ぶと、そこでようやく千枝の目の焦点が合う。

「あ……あっはははー……」

そして目が合うと、千枝はびゅん、と結構な勢いで俺から目をそらした。
気付くと彼女の顔は、本当にさっきまで二人で切っていたトマトのように赤くなっていて、耳まで真っ赤だった。普段から照れ屋な所はあるが、これ程の顔は初めて見る。

「どうした?」
なぜこんな顔をするのか分からなくて、率直に訊いた。
「い、いやー……」
それでもまだこちらを向かないまま、千枝は自分の頭を撫でるように掻いた。
「さては、今になって恥ずかしくなってきた?だったら俺はもう十分堪能させてもらったし早く……」
「いや、違くて、さ……」

なぜか煮え切らない彼女に、俺は首を傾げてしまった。
他に何か、彼女がこんな顔になるようなことがあっただろうか。

なんだろうと思って辛抱強く待ってみる。そうしてこちらが完全に待ち体制に入ると、千枝はそれに気付いたのか、何とか話し出そうと努力し始めた。
それでもうー、あーなどとさんざん躊躇したが、しばらくすると、千枝はようやく観念したかのように真っ赤な顔をこちらに向け、言った。

「えっと……ごめん。嬉し過ぎて、頭がショートしちゃってた。……あはは!なんかくすぐった過ぎて、顔がどうしても熱くなっちゃう。誉められ慣れてないせいかなあ。変なの」

千枝はぱたぱたと自分の顔を手で仰ぐが、そう言われても、俺には何が何やら分からない。
何が嬉しいのかと訊いてみる。すると千枝は潤んだ瞳で、俺を真っ直ぐに見据えた。
そして、彼女は遠慮がちにぽそりと呟くように、俺に言った。

「君にとって、あたしは“最高の料理”なんだ?」

それを聞いた瞬間、彼女がついさっき好きだと言ってくれたばかりの『落ち着いた自分』が、もろくも崩れ去ってしまった。
一体何のことだと自分の言葉を反芻してみて、すぐに思い当たったのだ。
今度はこちらが真っ赤なトマトになる番だった。血液が逆流したみたいに、頭の方に血がどんどんと昇っていってしまう。

それは自分にとって、全くの無意識の言葉だった。意識的に言った言葉はさして恥ずかしくもないのだが、より本当っぽくなってしまうからか、これは恥ずかしい。いつも言ってる言葉だって、決して嘘ではないのだけれど。

そうしてもうこれ以上ないくらいに顔が火照っているところに、今までのお返しとばかりに、追い打ちもかけられた。

「え……っ」

思わず俺は、頬を撫でさすった。
もうすでに千枝の顔は元の場所にあったが、確かに自分の頬には、その柔らかな感触が残っていた。
優しく、触れるようなキスだった。だけど痺れるような疼きが、確かにそこには残っていた。

千枝は言葉を失っている俺を見て、頬を染めながら、満足そうににへらと笑った。

「……えへへ。そんな顔もするんだね、君。いつも私ばっかりあわあわさせられてたから、やっとお返し出来たかも」

そして千枝はおもむろに俺に寄り、

「そうだね。まだまだいっぱいこういう初めてがあるのに、急いじゃうのはもったいないね」

びっくりするくらい小さな声でそう言うと、千枝は俺の腰に手を回して、その顔を俺の胸に埋めた。

「ち、千枝……?」

細くて白い肩が目の前にあった。加えて腹の辺りには、何だか柔らかい感触もする。ドキドキと彼女の鼓動も伝わってきて、その余りの近さにおかしくなってしまいそうだった。
どうにも出来なくて、俺の両手は宙に浮いたまま、虚空を彷徨った。

「君の言ってること、すごい分かる。素敵だと思う。あたしもそうしたい。でも今は……」
熱っぽい瞳が、ふいに俺を射抜いた。
「優しく抱きしめてくれると、嬉しいな……」

いつもはどちらかと言うと男っぽいところも確かにある。しかしだからこそと言うべきか、時々こうして出てくる乙女な彼女は、どうしようもないくらい反則的に可愛い。
もはや我慢の限界だったが、それでも俺は、ぐっと自分の中の獣を押さえつけた。
さっきの自分の言葉を、嘘にするわけにはいかないのだ。自分は本当に、彼女のことを大事に思っているのだから。

俺は彼女の頭を優しく自分の胸に寄せ、その素肌の腰を軽く抱いた。
また天使と悪魔のせめぎ合いを堪えなくてはならない。そう思っていたが、いざそうすると、不思議なことが起こった。
彼女の鼓動はいつの間にか穏やかになっていて、祭りの太鼓みたいにどんどん鳴り響いていたはずの自分の鼓動も、彼女のそれに引っ張られるかのように同調して、静かになっていったのだ。

彼女はこんな状況なのに、安心しきっていた。五体全てを母に預ける赤ん坊のように、ただ俺に身を任せていた。
俺はそれが嬉しくて、彼女が愛おしくてたまらなくなってしまった。そのせいで体の中の毒気が全て抜かれて、全ての邪な考えがどこかへと吹き飛んでしまったのだった。
どれだけ俺を信用していたら、こんなことが出来るのか。鳩尾の辺りからどんどん嬉しさの塊があふれ出してきて、叫び出したいくらいだった。

そうしてしばらくすると、千枝は少し名残惜しそうに俺の胸にぐりぐりと顔を押し付けてから、ゆっくりと俺から離れた。

「えへへ……ありがと」

まだ少しだけ赤かったが、もうほとんどいつもの千枝の顔に戻っていた。
少女っぽく、何の裏表もない。女の子特有の打算などとは全く無縁の彼女は、そうしてにいっと、俺に笑いかけた。

「料理、冷めちゃったかな」

周りの状況を見て我に返ったのか、少し気恥ずかしそうに言う千枝に、俺は首を振った。

「大丈夫だよこれくらい。それに俺の料理は、冷めても美味い」

もちろん千枝のだって。そう言うと、千枝は柔らかく微笑んだ。

「あたしもさ、頑張ったら君みたいに料理作れるようになるかな?」
「なるさ。絶対」
「えへへー、だよねえ」

そして彼女は俺の顔を覗きこみながら、いたずらっぽくにひっと笑った。

「“時間はこれからいくらでもある”んだもんね?君がずっと一緒にやってくれるんだもんね?」

だったら絶対出来るようになるよね。私でも。
また俺の言葉尻を捉えて、ニコニコしながら千枝はそう言う。
正直言ってもう、可愛くて仕方がなかった。だけど俺は、今度はすっとそれに返してやった。

「ああ。そうだな」

すると千枝は、つまらなさそうに口を尖らせた。

「あ、何~。もう恥ずかしがんないの~?」

だったら、と千枝は、二人で作った料理が配膳されているテーブルのところまで行って、座布団をバスバスと叩いて俺をそこに座るように促した。
なんだと思って素直にそこに座ると、千枝は置いてあった箸を持ち、

「んっふっふ~」

さすがにこれは恥ずかしいでしょう。そう言って、彼女は俺の口元に唐揚げを持ってくる。
恋人同士がよくやるアレをやろうと言っているのだろう。ん?ん?としてやったりな顔で、千枝は俺にせまってきた。こんなことで恥ずかしがるだろうと思ってしまう、千枝の子供みたいな無邪気さが本当に可愛らしい。
あえて唐揚げを選んだのは、彼女が単純に肉が好きだということと、今日一番の出来だったからだろうな、と多分間違ってない考えに至ってしまうと、俺はこらえることが出来なくて、吹き出してしまった。

「な、なんで笑うの!?」
「いやだって、こんなの何も恥ずかしくないし。むしろありがとうって感じだよ」
「あーー!!とか言いながら今胸の方見たでしょ!もう!!」

と、彼女は乱暴に、俺の口に持っていた唐揚げを押し込んだ。

彼女とのこんな日常は、楽しくて仕方がない。ずっとこんな日々が続けばいい。
そう思ったら、千枝が一生懸命作ったそれを、すぐには飲み込めなかった。隅々まで大事に、噛みしめるようにして味わった。

二人で初めて作ったその唐揚げは、ちょっと焦げ臭かったが、とても美味しかった。





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「さて、まずは何から話そうかな」
ウォンのそれに、ムカイが早速手を上げて言った。
「わしほとんど何も聞かないできたんぢゃけど、一体おぬしらを何から守ればええんかの?」
ウォンはふむ、と頷き、それに答えた。
「じゃあその辺りも含めて、僕らのことを少し話しておこうかな。全体的な説明にもなるし」

そもそも考古学者とは何なのか。それが分かれば、この仕事の大半の説明はつく。そう前置きをして、ウォンは話し始めた。

「まず、僕ら。僕とシノは、一般的に考古学者と呼ばれている人間なんだけど、どういうことをやっているかはさすがに分かるよね?」
「発掘とか、研究だろ?」と彼。
ウォンが頷く。
「そう。じゃあ、何で僕らに護衛が必要なのかは分かるかい?」

そう問われて、彼は答えた。今までに二人に降りかかったような状況に陥るからだろうと。例えば、岩が頭上から降ってくるなど。発掘時における地形的な危険から、二人を守ればいいのだろうと彼は言った。

するとウォンは、「うん、それもあるね」と答えた。「だけどそれは、どちらかと言うと副次的なものだね。本来はもっと違うものから守ってもらっているんだ」
「もっと違うもの?」

彼がそう訊くと、ウォンは少し困ったように笑って言った。「人間さ」
「人間?」
「そう、ふいに頭上に降ってくる大岩なんかよりもっと恐ろしい、人間さ」

そこで彼は、ああ、と何か思い出したように言った。

「そういや、遺跡を盗掘してるやつがいるって話あったな。そいつらとかに鉢合わせした時にも守れってことか。武装してそうだもんな」

しかしウォンは、それに首を振った。

「今回は確かにそれもあるんだけど、普段は別の人間から守ってもらっているんだ」

分からなくて眉根を寄せた彼に、ウォンは少し険しい顔で続けて言った。

「人攫いだよ」

彼とムカイは、顔を見合わせた。
突然出てきたその穏やかではない言葉。彼の方は単純に外界の情報不足だったが、ムカイの方も、ピンと来ないようだった。

一体どういうことなのか。この地方では、人攫いが横行しているのだろうか。
しかしウォンの口ぶりからすると、考古学者は特別人攫いに狙われやすい。彼にはそういうふうに聞こえた。
彼がそのままその疑問をウォンにぶつけてみると、

「さすがくまたそ。理解が早いね」と、ウォンはにこやかに答えた。「その通り。僕らは人攫いに狙われやすい。その立場的にね」
「立場的?」
「そう」
「考古学者って、そんなにすげえのか?」

その彼の言葉を聞いて、今まで黙って聞いていたシノが、我慢出来なくなったかのように口を開いた。

「あんたって、ほんっと何も知らないのね」
「ああん?」
「いい?この地方では、生きていくのに最高に有利な職業が二つあるの。一つは私達みたいな、考古学者。もう一つは料理人。専門的な知識が必要になるから人数が少なくて貴重なの。常識よこんなの」

シノは彼にそう言ったが、彼の方は首を傾げていた。
そう言われても、どうも彼にはピンと来ないのだった。もっと他に良さそうな職はいくらでもありそうなのに、なぜその二つが特別扱いされているのかが分からないのだ。
彼がそう言うと、

「はは。そうだよね。余所から来た人にはちょっと分かりづらいよね」と、ウォンが笑って言った。「でも、ほんとなんだ。僕らはかなり優遇されてる。今泊まってるここの宿代だってタダ同然だし、君達への報酬も僕らからじゃなくて、国から出るしね。ほとんどVIPみたいなものだよ」

ウォンはわざわざ紙とペンを取り出し、彼に分かりやすいように説明してくれた。

「料理人なんかは、特に分かりづらいかもね。彼らは普通他の地方だと、かなり一般的な職業だから。特別な知識はあんまり必要なくて、技術の方が大事な仕事だからね。でもここらだと、ちょっと違うんだ。彼らはこの地方では、どちらかというと栄養士という意味合いの方が強い。どうすれば少ない食材で栄養の偏りが無く、かつなるべく美味しい料理が出来るのか。そういうことを考える人達なのさ。元はもちろん違ったんだろうけど、今は食糧難の土地が多いからそうなっちゃったんだろうね」

彼はそれを聞いて、なるほど、と思った。
確かに、栄養学は奥が深い。彼もその肉体維持のためにいくらかの知識が必要だったので、少しその辺りの学問にも手を出したことがあったが、とても修めきれるようなものではなかった。そう考えると、この地方で料理人が特別扱いされるのも、納得がいく。
彼がそうして理解したのを確認すると、ウォンは続けた。

「それから、僕ら考古学者の厚遇のことだけど。これはもうちょっと簡単な話で、単純に僕らのやっていることが、そのまま国の発展に繋がるからなんだ」

彼はまた、首を傾げた。
考古学で国が発展?一体どういうことだろうか。

「この都市は、なぜ国から自治を許されているか知っているかい?」

と、急に話がそれたような気がしたが、彼は黙って答えた。
それはすでに知っている。この都市が、国にとって戦略的に重要な都市だからだ。歴史が始まり、技術が生まれる。そういう場所だからだ。
そう答えると、ウォンは言った。

「そう。でもこの都市がただそのまま存在してるだけじゃ、そうはならないのさ。僕ら考古学者がいて、初めてこの都市はそういう特別な都市になれる。なぜなら僕らが発掘をしなければ、この都市で技術が生まれるなんてことにはならないから」

ウォンは彼に紙で図示しながら続ける。

「遺跡には、僕らの知らない技術で作られたものが多く眠っている。つまり単純に、僕らが発掘で得たもの。そこから技術が生まれることが多いのさ。そしてそれを見つけるための、古代文字で書かれた文献なんかを解読出来る可能性があるのは、高度な教育を受けた考古学者しかいない。僕らが優遇されてるのは、そういう訳さ」

学者というのは、どうも人に何かを教えるのが好きな人種らしい。そうして嬉々として色々なことを話してくれるウォンに、彼は興味深そうに耳を傾けていた。

里を出て、まだ数週間程。最初はどうなることかと思っていたが、徐々にこうして世界の形があらわになっていくにつれて、漠然とあった不安感はすでになくなりつつあった。
ただ純粋に、世界を歩くのが楽しい。彼は今、そう思えるようにまでなっていた。

「なるほどなあ」

彼の溢れる知識欲とウォンの教えたい欲は、相性が良かった。“知らない人間”と、“知っている人間”。両者はよく出来た生態系のように互いの欲を埋め合い、循環する良い関係にある。
しかし、それは当人達にとってしかそうなり得ない。周りの“知っている人間”からすると、ウォンのそれは厄介なものとなる可能性も秘めていた。

「そんなすげえのが発掘されるんだな。具体的にはどういうもんが出てくるんぞ?」

彼がそう言った瞬間、

「ばっか……」

横でシノがぼそりと呟き、目頭を手で抑えた。

「馬鹿?」

どうして急に罵られたのか。彼は小首を傾げた。
しかし、シノから視線を戻してみると、すぐにその理由は分かった。
彼はそれに気付いた途端、思わずギョッとして身を引いてしまった。
ウォンが、目をこれでもかとキラキラさせながら、こちらを見つめていたのだ。

「いや、やっぱ……」

嫌な予感がして、彼が反射的に話を断ろうとしてみても、もう遅かった。

「よくぞ聞いてくれました!」

ウォンはそうして急に立ち上がり、まるで大きなステージに立った舞台俳優のような大仰な振る舞いで、話し始めてしまった。

「時は遡ること数百年。それはある国と、ある種族の不和から始まった物語……」

そうなると、彼が話しかけても無駄だった。助けを求めてシノに顔を向けてみたが、その彼女も首を振って、諦めろと目で言ってきた。ムカイはムカイで、面白い人ぢゃのおなどと暢気な事を言って、まるで咎める気が無さそうだった。

「その種族の力を欲した、今のギアース国の前身。神聖ギアース帝国は、彼らの技術力を欲し、彼らを傘下に収めようとした。しかし誇りある彼らは、その国に従属することを良しとしなかった……」

どうやらこれは、ウォンの悪い癖のようである。自分の好きなことについては、無尽蔵に話をしてしまう。学者とはやはり、こういう人種なのだ。

しかしこうなってしまったのは自分のせいなので、さほど興味がなくとも、もはや黙って聞くしかない。
そう思って苦笑いしながら話を聞いていた彼の顔が、しかし次にウォンから出てきたある単語により、一変した。


「ああ、タソ族。彼らは本当に素晴らしい!」


突然話に現れた自分の種族の名前。
彼は目を見開いた。思わず声が出そうになったのは、なんとかこらえた。

「支配出来ないことが分かると、ギアースは一転、彼らを迫害する政策を取った。そうすればいずれ音を上げて、従属する道を選択するだろうと考えた訳だ」

彼は少し険しい顔で話を聞いていたが、ウォンはそれに全く気付かずに話し続けた。

「しかし、そうはならなかった。彼らはただ飄々とこの大地で生き続けた。そこで帝国は、彼らが土地にある程度根付くと、彼らをその土地から他に移るように厳しく追い立てた。そうすれば完全に支配しなくとも、その土地に彼らの技術の一部が残る。それを繰り返すことにより、帝国は彼らの技術を無理やり吸収しようとしたんだ」

気付くと彼は、拳を強く握り締めていた。
まさか自分の種族のことだとは、思ってもみなかった。彼は複雑な気持ちで、ウォンの話を聞いていた。

誉められていると言えなくもなかったが、彼にとってこの史実は、あまり誇れるものではなかったのだ。幼い頃に自らの種族の歴史を学ぶ機会があった際も、彼はこうした表層的な部分だけは聞いたものの、後のことは聞きたくないと耳を塞いできた。だから実際にタソ族の名前が出るまで、自分の種族のことを話しているということに気付かなかったのだ。

今回のこれは、その知識を補完するいい機会ではある。だがそれでもやはり、彼はこの話を詳しく聞く気になれなかった。

誇りを守るためであったとしても、彼らはそうして逃げ続けたのだ。その事実は、どうしたって変わらない。
彼は、ウォンになんとか話を切り上げさせようと口を開きかけた。やはり聞いていて楽しいものではない。早々に打ち切って、別の話に持っていったほうがいい。

しかし彼は、そのまま何も言わずに口を閉じることとなった。
なぜか隣で、自分よりも険しい顔でこの話を聞いている人間が居たのが気になったのだ。

「……どうしたんぞ」

シノが、まるで怖いものでも見たかのような真っ青な顔で、地面を見つめていた。自分自身が幽霊にでもなってしまいそうなほどの、蒼白い顔だった。
彼がそうして小声で話しかけてみても、彼女は眉をひそめて、

「……何でもない」

と、ぼそりと力なく返してくるだけだった。後はもう何も言わず、押し黙ってしまった。
彼はその様子を見ると、とりあえずいつものように「そうか」とだけ返し、自身も同じように黙った。

実は彼女は、こういう顔をしている時がたまにある。今日目の前で子供が転んだ時のあれもそうだが、どうも何か、彼女は腹に含んでいるものがありそうだった。
彼女のそういう顔が現れた時、彼は基本的に黙って静かに彼女から離れ、そっとしておくことにしていた。少し経てば、また元のシノに戻るからだ。

だが今回のこれは、なぜかどうにも気になった。単純に聞き飽きた話にうんざりしたような顔ではなかったのだ。
「なぜそんな顔をするのか」と、率直に訊いてみたかった。例え彼女に嫌われてでも、なぜか訊いておかなければならないような気がした。自分の種族の話の中でそうなったから、気になるのかもしれない。

しかし、ウォンの話は続いていた。そうした込み入った話は、まだまだ出来そうもない。

「ギアースが追い立てを行うと、彼らは脱兎のごとく逃げた。そのうち厳しい追い立てに遭っても落ちのびられるように、あらかじめ彼らは逃げ道を用意するようになった。そうしてだんだんと造られていったのが、今の逃亡街道という訳だ。だから街道沿いには、彼らが遺した遺跡が至る所に存在している。今でもその素晴らしい技術の結晶を内包したまま、ね」

この話は彼にとって急所であったが、彼は今、シノの方が気になって仕方がなかった。

その、はずだった。しかし次の瞬間にはもう、彼の頭からは彼女のことが吹き飛んでしまっていた。
彼が危惧していた、最も危険な世界の形。それがまさに今のこの世界の形なのだと、はっきりと分かってしまった。
ウォンの口から、出てはならない単語が出てきてしまったのだ。

「そう。つまり主に僕らが発掘しているのは、そんな彼らの技術が生んだ最高傑作。通称……」

聞き違えるはずもなかった。そうしてウォンは今日一番の大仰な振る舞いで、高らかにその言葉を、確かに口にしたのだった。

兵器、と。





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男にそう言われても、シノは彼の後ろから出ることが出来ずにいた。ネズミだと思っていたものが急に目の前でライオンになったら、だれでも普通は驚く。彼女のこの反応は、仕方ないことと言っていい。
しかしそうしてとまどいを隠せずにいるシノに対して、彼の方は冷静だった。しっかりとその一挙一動を観察し、男を分析していたのである。

放たれた凄まじい拳そのものもそうだが、注目すべきは地面に残った男の足跡の方だ。男の履いている靴の形そのままに、深く抉られたように地面がへこんでいる。
拳に力を効率よく載せるためには、上半身の動きを練る必要がある。そう考えてしまいそうなものだが、実際はそうではない。足の踏ん張り、踏み込みが最も重要な要素となる。
男はこの点において、恐るべき程に秀でていた。足から腕へ力を伝える。もしそれが拙いものであれば、力の分散によって地面は広範囲にわたって抉られてしまうはず。こんなにくっきりとした靴跡などは残らないはずなのだ。力の集約のさせ方が半端ではない。

「……じいさん。あんた一体……」

そして最も恐るべきことは、これ程の圧倒的な力を見せておきながら、この男は……。

と、そうして彼が、男にその確信を投げかけようとした時だった。
そばにあった階段から慌てたそぶりで顔を覗かせた人物が、彼の言葉を遮った。

「うひゃあ、何だったんだ今の突風は」

それに気付いたシノが声を上げる。

「あ、先生!」

彼女が持つ考古学の知識は、ほとんどが彼の元で修められたものである。
ウォン・ホァン。彼女の考古学の師にして、確かな遺跡発掘実績のある人間にのみ与えられる称号、“プロフェッサー”の称号を持つ考古学の第一人者である。

「やあ、シノ。新しい護衛の人とは合流出来たかい?」

小レンズの丸メガネの奥から、彼はニコリとシノに笑いかけた。
そうしていつもニコニコとしている柔らかな物腰と、その広い額を晒したオールバックの髪型のせいで、年齢より少し老けて見える。彼自身は特に気にしていないが、実際は、シノより一回り上程度の年である。

「ああ、くまたそも一緒なんだね」彼はメガネの中央をくいと上げながら言った。「そちらは?」

彼の視線が、二人の奥にいる老齢の男に行く。シノがその視線を追って、ああ、と困ったように答えた。

「あの、何か……あの人が今日来る護衛の人だったみたいなんですけど」

と、なぜかもごもごとはっきりしないシノに、彼は首を傾げた。

「何か問題が?」
「いえ、特に問題はない……とは思うんですけど」
その答えに、ますますウォンは首を傾げた。
「一体何なんだい?」

シノは、今あったことと、自身が迷っている理由を彼に話した。
さっきの突風はあの人が起こしたもので、護衛が出来るような力はありそうに見える。しかしどうにも浮世離れした力なので、本当に彼が力を持っているのか分からない。彼女はそう正直に、彼に言った。

「ふむ。なるほど」
ウォンは顎に手を当て思案した後、彼に言った。
「くまたそ。君はどう思う?」
「ん?」
じっと二人の会話を見ていた彼は、突然そう問われて、組んでいた腕を解いた。
「どうって何ぞ?」
「君から見て、あの人はどう思う?実際護衛は出来そうなのかい?」
「……んー」

彼は男に目を移す。その視線に気付いた男がニッと白い歯を見せると、彼は頭をぽりぽりと掻いてから視線を戻し、ウォンに答えた。

「まあ……問題ねえと思うぜ。ぶっちゃけ、こっちから頼みたいくらいだな」

正直な所、得体は知れない。しかし、興味がある。
見せかけの力なら、見れば分かる。彼には男の実力が確かなものであることはすでに分かっていた。だがその力の“源泉”が、どうしても分からなかった。
それならいっそ、護衛としてそばに置いて、様子を見てみたい。彼はそう思い、一応その辺りの懸念は伏せて、ウォンに男をとりあえず雇ってみることを勧めた。

「……ふむ」ウォンはまた顎に手を当てたが、今度は特に迷うそぶりも見せず、すぐに言った。「まあ、くまたそがそう言うなら大丈夫なんだろうね」

実際には、彼がシノとウォンに会ってからというもの、彼らが圧倒的に危険な事態に陥る、といったことはまだなかった。それでも彼は、二人から護衛として高く評価されていた。
シノの頭上に落ちそうだった岩を排除したり、発掘に邪魔な障害物を除去したりで、単純な腕力の高さを示す機会は何度かあった。それが功を奏して、何とか彼はシノにもかろうじて認められている。

「じゃあ、採用ってことでいいか?」

彼がそう訊くと、ウォンがうん、と頷く。
それを確認すると、彼は男の方に向き直り、手を差し出した。

「よかったな爺さん。採用だ。しばらくの間よろしく頼むぜ」

すると男は、嬉しそうに彼の手を取って、朗らかに笑った。
その乾いた手は意外にも分厚く、まるで幾多の戦をくぐり抜けてきたかのように、いくつもの傷跡があった。
何となく男の持つ力が伝わってくるようで、彼はその男の手を、力強く握り返した。

「俺は護衛のくまたそ。で、あれが考古学者のシノとウォンだ。爺さんはなんて言うんだ?」

そう訊くと、なぜか少し逡巡するような間があったが、男は彼に答えた。

「リ……ムカイ・リぢゃ」

そうしてふっと男が顔を上げた時、彼が何かに気付く。

「あれ?爺さん……」じろじろと男を見回して、彼は言った。「どっかで会ったことねえか……?」

男はそう言われて、んん?っと前髪を上げて、彼を見た。

「…………はて?」
「ああ、あれだ。ほら、ここから近い村の。あのシスターに給料もらう場所で、俺に話しかけてきたじゃねえか。頑張ってるんじゃのおとか言って」

亜人の労働者が珍しいと、場がどよめいたあの時のことだ。男が話しかけてくれたおかげで、その妙な空気が少しの間で済んで助かったのを、彼は覚えていた。
彼のそれに、男はしばらく首を捻っていたが、やがて。

「ああ!あの時の!」と、ようやく合点がいったようにポンと手を叩く。「お前さんぢゃったか。何とも偶然ぢゃのお」
「え?知り合いだったの?」と、そこにシノが不機嫌そうな顔をしながら割って入った。「先に言ってよ」
それを見て、慌てて彼は弁解した。
「いや俺も今気付いたんぞ。しかも知り合いっちゃあ知り合いって程度だし」
そのやりとりを見て、ウォンはへえ、と嬉しそうに頷いた。
「それはいいね。全く知らない人よりはやりやすいんじゃないかな。何が起こるかわからないし、うまく連携してくれると助かるよ」

さてさて、と今度はウォンが手を叩き、自身に注目を促した。

「じゃあ皆揃った所で、今度の発掘についてとか色々教えておかないといけないし、どこかで話そうか」

そのウォンの一声で、互いの自己紹介もそこそこにして、落ち着いて話せるところに移動することにする。ひとまず、宿に戻ることになった。

そうして一行が宿のロビーに戻ってみると、先程の騒動のせいか、そこはすっかり様変わりしてしまっていた。
客はもちろん、洗濯物を干していたのだろう従業員があらかた出払ってしまったようで、宿の運営に響くのではないかと彼が心配になるくらい、閑散としていたのだ。

しかし護衛任務という性質上、あまり会話の内容を他人に聞かれるのは避けたいところであったので、好都合ではある。
彼がそう思っていると、ウォンもこれはちょうどいいとばかりにロビー中央の大きなソファに陣取った。
そして、他の三人も同じようにそこに腰を下ろし、早速会議が始まった。







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