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「あー……っす」

 熱い湯に身を任せながら、俺は深い息を吐いた。

「いや~まさか異世界でこんなでかくていい風呂に入れるとは思わなんだわ」

 見渡す限りの白亜。その広大な空間に、100人は余裕で入れそうな程のバカでかい風呂がドカンと据えられていた。そしてさらにその中央には、巨大なチョコファウンテンのような三段構えの噴水がこれ見よがしと鎮座している。
 今日本で流行りの巨大スーパー銭湯ですらも、ここまでのものはおそらくない。そんなものを俺は今独占している。贅沢なことこの上ない。

「しかしまあ……さっきはやばかったな……」

 そうして温まる体とは裏腹に、凝り固まった冷たい焦燥が、心の芯に未だにほぐれずに残っている。
 本当に、今思い出しても背筋が凍る。
 俺の初めての就職先が決まったあの瞬間、同時に俺はこの世界での最大の危機を迎えてしまったのである。
 
 固い握手を交わし、満足そうな女王様が玉座に戻るまではよかった。しかしこれから細かい詰めの話が始まるのかなと、輝かしい前途に思いをはせながら思っていたその時だ。
 玉座に座った女王様が頬杖を突こうとした瞬間、なぜか突然糸が切れたようにがくりとうなだれてしまったのである。 

「陛下!?」

 国家元首の一大事だ。唖然とする俺に対して、周囲の反応は早かった。
 貴族的な人達が女王様の周りにわらわらと集まり、その中の一人が女王様の肩をゆする。

「陛下! 陛下! どうされました! ……うっ!?」

 と、ゆすっている最中にその人が何かに気づき、苦悶の声を上げた。

「ぐぅ!? 何だこのほったらかした厩舎のようなひどい臭いは!? 毒の類か!?」

 それを聞いたところで、俺はようやく思い出したのだった。
 女王様の手を取った自分の右手が、リーサル・ウェポン状態のままだったことを……。
 女王様は俺と握手したせいで、その匂いが手に伝染ってしまったのである。そしてそれを直に嗅いだことにより、彼女は失神してしまった。嘘みたいな本当の話である。

 全てを理解したその時の俺は、さぞかし綺麗に顔面蒼白だっただろう。ザーッという頭から血の気が引いていく音を、俺はその時初めて聞いた。
 そして速攻で俺が原因なのがバレて詰め寄られ、マスコミに追求を受ける悪徳弁護士のごとく詰問される俺……。マジで終わったなと思いました。

「マール氏には感謝しないとなあ……」

 しかし結局俺は、こうして事なきを得て、のんきに風呂にまで入れている。それもこれも全て、マール氏のおかげだ。
 マール氏は俺の体をペタペタと触りまくったせいで、俺のあのやばい匂いに気づいていたらしい。早々に事情を察し、間に入って助け舟を出してくれたのだ。

 そして途中で女王様の意識が戻ったこともあり、俺は得意の言い訳を駆使してなんとか無罪を勝ち取った。
 いやほんと危なかった。せっかく職が決まったのに、始まった瞬間に終わるところだったぜ。もうアイドルと握手できたとしても、その手に封印を施すのは絶対にやめておこう……。

「ふいー……」

 そしてまた俺は、凝り固まった緊張を解すように深く息を吐く。もうすでに綺麗になった手で、顔を湯でばしゃりとやった。
 一度思い出して考えを整理したせいか、体の硬さはいくぶんマシになったようだ。

(とりあえず生き残ることはできたけど。さて、どうしますかねこれから)

 今考えてみると、やはり安請け合いをしてしまったかなと思うところはある。あるが、向こうの世界でいろいろ詰んでいた俺からすると、全く悪い話ではないようにも思えるので判断が難しいところだ。

(しかしただの無職デブだった俺が、国を救う、か……)

 本当にそんなことができるのだろうかと、そう思う自分はまだ当然のごとく心の中にいる。
 だがあんな衆目に晒されたところで大々的に引き受けてしまった以上は、もう引き下がる訳にはいかない。諦めて腹をくくるしかない。

(まあ周りのあの反応を見ると、俺にけっこうな力があるっていうのはほぼほぼ間違いなさそうだからな。なるようになるか)

 風呂は命の洗濯とはよく言ったものである。
 そうして早々に頭を切り替えた俺は、とりあえずとばかりに、改めて周囲を見渡してみた。
 切り替えが早いのが俺の数少ないいいところだ。

(ふむう……成金感あふれる景色なはずなんだけど、不思議とそういう下品さはないんだよな。石造りで統一されてるからかしら)

 大理石のような、薄く模様の入った石が全面に張り巡らされていた。つい、っと何気なく風呂のへりに指をはしらせてみて、その滑らかな質感に驚く。
 体に石鹸を塗りたくれば人間カーリングでもできそうなくらいによく磨かれている。やはり技術力はかなり高いようだ。

「……でもまあ、こんなに広くする必要はないわなあ」

 いつも体を折って入らないとならないような貧乏風呂に入っていたせいか、ついつい恨み節のような感想が口から漏れてしまう。
 城の人に聞かれたらまずいわなあ、などとのん気に頭をかこうとすると、しかしふいにそばで声がした。

「それは、ここがわらわ一族にとっての一種の訓練所でもあるからじゃ」

 びっくりして声がした方を見やると、そこにはなぜか一糸纏わぬ姿の彼女が、きょとんとした顔で立っていた。

「? 何じゃその顔は。わらわの顔に何かついておるか?」
「ちょちょちょ! え!? 何してはるんすか!!」

 湯けむりで多少ぼやけてはいるが、俺は可愛い女の子の顔だけは絶対忘れないので、すぐにそれが誰なのか分かった。
 確か、ソフィーリア・ネティス・ファルンレシア……だったか。さっきまで謁見の間で話していた女王様である。

 さすがにタオルのようなもので前は隠しているものの、それでもほぼ全裸だ。嘘みたいに白くて滑らかそうな肌が、見たらまずいとは思いつつもどうしても目に入ってしまう。

「マールからここにいると聞いてな。まだ肝心な話をしていなかったから、浴場は密談にはちょうどよいかと思ったのじゃが……。迷惑じゃったか?」

 そう言いつつも、ちゃぷん、ちゅぷんと音をさせながら、彼女はゆっくりと近づいてくる。
 
「いや別に迷惑じゃないですけど! でもさすがにこれはまずいのでは!?」

 慌てて立ち上がり、自分の視界を遮るように手を振ってみたが、それでも彼女は止まらない。

「ん、何かまずいか?」
「いやいやいやまずいっすよ! あなた様のような綺麗な方がそんな簡単に体を見せたらあかんですって! 急にそんなもの見せられても、俺には払える対価なんてないんスから!!」

 そう。急に異世界に召喚されてしまった俺には、先立つものが何もない。こっちに持ってこられたのは、せいぜいその時着ていたスウェット上下とポケットに入っていたメガネくらいのものだ。
 そんな状態の俺にこんなものを見せてどうするつもりなのか。拝見料いちおくまんえんローンも可とか言い出して奴隷化するつもりなのだろうか。

 内心ブルブル震えていると、遮った手の先で彼女が息を漏らす気配がした。

「綺麗、か」

 それから彼女はふふっと口元に手を当て、控えめに笑う。

「え、何かおかしなことを申し上げたでしょうか……?」

 理由が分からなくてとまどう俺に、彼女がその手を上げて制する。

「いや何、今まであまり外に出ない生活を送ってきたせいか、自分の容姿を客観的に見る機会がなかったのでな。少しびっくりしてしまった」

 彼女は瞑目し、また同じように笑みをこぼした。

「ふふっ、そうか。わらわの容姿は、異世界から来たはずのそなたにもそう言わしめる程のものなのか。そのことが知れただけでも、そなたをこちらに喚んだかいがあったかもしれんの」

 静かに首を振り、ゆっくりと、彼女は目を開く。

「何とも、面映いとはこのことじゃな」

 どこまでも澄み渡る、はるかなる蒼。
 大空を凝縮したかのようなその綺麗な瞳を細めたかと思うと、彼女はそうして少し恥ずかしそうに笑った。

 静かで、淑やかで、それでいて花が咲くように。
 マール氏のものとはまた違う種類のその笑顔に、俺は魅入られたように目が離せなくなった。やっぱりちょっと、妹に似ている。

 最近は全く見ることがなかったけれども、もしかしたら妹も、こんなふうに笑ったりすることが今でもあるのだろうか。
 そう考えたら少し、妹に会いたくなった。

「──ドルオタ?」
「あはい! サーヤセン!!」

 突然声を掛けられ、とっさに謝ってしまった。そんな俺に、彼女は目を丸くする。

「大丈夫か? 急にぼーっとし始めたようじゃが、何か気になることでも?」
「あ、いえ。別に何でもないです。お気になさらず」

 俺がもしリア充男だったら、女王様に見惚れてしまって……くらい言えたのかも知れない。しかし童貞クソデブオタクにはそんなの絶対無理なので、ここはごまかす他ない。
 
「ふうむ……? どうも含みのある言い方じゃが……」

 納得はしていないようだったが、まあよいか、と流してくれた。

「さて、わらわがわざわざここに来たのは、何もそなたに自分の体を見せびらかしに来たわけではない。先程も言ったが、話をするためじゃ。そなたにとってもわらわにとっても、重要な話じゃ」

 そこで彼女は何かを思いついたようにふむ、と俺を見ながら顎に手を当てた。

「せっかくこういう場所なんだ。無粋な敬語はやめにしよう。その方が君も話しやすいだろう」
「えっ、別に僕は構いませんけど」
「まあそう言うな。正直に言うと、私もまだ女王となってから日が浅く、さっきまでの女王然とした喋り方を続けるのがきつくてな。それに、私と君はこれからきっと長い付き合いになる。できるところでなるべく親交を深めておいた方がいい。そうは思わないか?」
「ふむう。まあ確かに」
「では決定だ。これよりこの場所では敬語は禁止。私のこともソフィーと気軽に呼ぶように」
「え、それはさすがに……」

 ちょっと急には難しいなあと思って口を挟もうとしたが、彼女がなぜか予想外にキラキラした顔で俺を見るものだから、言葉が寸前で喉に引っかかって止まった。
 その顔にほだされる形で、俺はそのままその言葉を飲み込んだ。

「分かりまし……分かった、んで」

 彼女はそれを聞くと、満足そうに頷いた。

「よろしい。では早速始めよう。君と、私の話を」

 すると彼女はおもむろに目を瞑り、何かを持ち上げるように右手を上げた。

「たゆたう無垢の者達よ。その静けき心のままに、静寂の礎となれ。ヴァルナ・マーレ」

 その呟きを契機に、異変が起こった。

「うわっ、なになに!?」

 ザザザ、と音を立てながら、周囲の水が噴水のようにせり上がっていく。そしてそれはあっという間に俺の背丈を通り越して、すっぽりと俺達の上面までをも覆ってしまった。
 まるで水のドームだ。揺らめく水面が影となって湯の上に落ち、何とも言えない幻想的な景色を作り出していた。

「ほわぁ……」

 感動から思わずそうして間の抜けた声を漏らしてしまうと、少し嬉しそうな色を帯びた声が耳に届いた。

「ふふ、まるで少年のような目だな。気に入ってもらえたようで何よりだ」
「すごい……ほんとにすごい!」

 ここが異世界だということはとうに信じている俺だったが、やっぱり本物の魔法を見るとテンションが上がる。
 そうして興奮する俺を見て、女王様がふふんとタオルの下でちょっと控えめな胸を張る。

「私の一族は水魔法が得意でな。王族は皆幼少の時より、ここで湯浴みをしながら魔法の訓練をしてきた。先程も言ったが、浴場がこうして広くとられているのはそういうわけなのだ」
「なるほど……。しかし何でまた急にこのような魔法を? これってどういう魔法なの?」

 もしかして観賞用の魔法とかあるのかな? と思ったが、全然違った。

「これは私独自の魔法でな。本来はさまざまな攻撃から身を守るための魔法なのだが、これはそれを応用して密閉空間を作るということに特化させたもの、と言ったところか。これからする話は私達二人の急所にもなりうる話だからな。念には念を……ということだよ」
「急所……?」
 
 思わずこぼれ落ちた俺のその言葉は、彼女にしっかりと届いたはずだった。しかし彼女はただ少し困ったような笑みを一瞬浮かべるのみで、それに答えてはくれなかった。
 何だろう。何だかすごい嫌な予感がする。

「さて、早速だが始めよう。いろいろ話すことはあるのだが、まずはどうしても君に伝えておかなければならないことがあるのだ」
「な、何でつか……?」

 こうやって改まった感じで何かを言われる時は、ろくなことにあった例がない。コンビニの前に働いていたスーパーの店長にクビを言い渡された時も、ちょうどこんな感じで切り出された。

「端的に言うと君の仕事に関する話なのだが、これ以上隠すのは私の良心が痛むし、率直に言うぞ」
「は、はい……」

 まさかホントにクビなのか? やっぱりリーサルウェポンによる一撃がアカンかったんか……?
 嫌だなあ嫌だなあ、と某ホラーの語り手のように戦々恐々としていると、彼女がコホンと咳払いをしてからゆっくりと口を開く。

「君は……」

 しかし彼女はそこで、少しのためらいを見せた。
 せっかく開いた口を引き結び、眉をひそめて困り顔。気まずそうに、視線を湯に落とす。
 謁見の間の時といい、もったいぶる癖でもあるのだろうか。そう思ったが、彼女は胸元のタオルを強く握ると、すぐに俺の方に向き直る。
 その目には、すでに迷いの色はなかった。

 めまぐるしく変わる彼女の表情に、嫌な予感が募る。
 そうして彼女から出てきた言葉は、やはり俺にとってまたしても重い、衝撃的な“宣告”だった。

「君は、私達が課した仕事を全うできなかった場合、命を落とすことになる」
 
 気づけばぎょっとする程強い光を帯びた蒼い瞳が、俺を真っ直ぐに見据えていた。








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