「あの、すみません」
真っ白な小さい頭が、こちらを向いた。
「はいはい?」
振り返った彼女は、予想よりもかなり若々しかった。顔の皺は相応にあるものの、目には力があり、背も一切曲がっていない。むしろ、この暑さにうだった自分よりもしっかり立っているくらいだった。
何となく、武家の女性みたいな凛とした空気を感じる。釣られるように背を伸ばしてから、僕は言った。
「ここに行きたいんですけど、どこだか分からなくて」
地図を親指で伸ばして手渡す。すると彼女は、懐から眼鏡を取り出してそれをじっと見つめた。
「……これはー……」
クシャクシャな上にかなり小さめの印刷のせいで、彼女はそれをほとんど目に入れるくらいに近づけなければ見る事ができないようだった。老体に鞭打つようで少し悪い気もしたが、もう彼女に頑張ってもらうしか道がない。しばらく黙って、僕は彼女が話し出すのを待つ事にした。
とは言っても、そう悠長なことは言っていられない。僕はもう先程からずっと、暑さに膝を付きそうになるのをこらえている状態なのだ。
動くと倒れそうだからとじっとしていると、じりじりと、まだ少し温度の低い鉄板焼きのような音が聞こえた気がした。耳のてっぺんが焼けてるよと誰かに言われても、もう大して僕は驚かない。髪の毛が燃え始めたら少し慌てるかな、くらいのものだ。
うなだれながらふと下を見ると、もはやフライパン状態になっているアスファルトが目に入った。
もう、本当に限界だった。
たとえ鉄板の上の焼肉よろしく、アスファルトと降り注ぐ地獄太陽の業火に焼かれようとも、もう僕は大の字になって思い切りそこに寝転んでしまいたかった。そうすれば苦痛はほとんど一瞬で、気持ちよく昇天できるんじゃないかと思った。
そんな風に考えて、まさにもう膝を落とそうとした時だった。
彼女が、やっと僕が渡した地図から目を離す。それを見て、僕はすんでの所で膝を落とすのを止めた。
しかし、せっかく口を開きかけた彼女は、僕を見てから直前で話す事を変えてしまった。
「あなた、ここ登ってきたの?汗ビッショリだけど」
「?はい。そうです、けど……なぜです?」
「ちょっと待ってて」
「え?あの……っ」
少し眩しそうに微笑んでから、彼女は家に引っ込んでいってしまった。長く時間がかかるような事があっては困るのだが、聞く暇もなかった。最悪本当にこのまま帰ろうかと頭をよぎったが、予想に反して、彼女はすぐに戻ってきてくれた。
そして、その彼女の手には、僕が喉から手が出るほど欲しい物が載っていたのだった。
「はい、どうぞ」
喉が、ごくりと鳴った。
丸いお盆の上に、これでもかと汗をかいたガラスの容器に入っている茶色い飲み物と、コップが載っている。コップには、たぶんその麦茶か何かが、ごろっとした氷とともに注がれていた。
「“中”の子でしょう?こんな暑い中にこんな所まで、日傘も帽子もなしで歩いてきたら倒れちゃうわ」
目でそれを取るように促され、ほとんど迷わず僕はそれを手に取った。
がっつくと格好悪いからと慎重にコップを取ったものの、でもやっぱり我慢できずに、取った先からコップを派手に傾けて一気にそれを飲み下してしまった。
「あらあら。お腹壊しますよ」
彼女の声が、さっきよりも耳の奥に響いた。
熱に浮かされていた頭が急激に冷やされて、微妙にぼやけていた世界が急にクリアになる。立ちくらみを起こしたかのようにクラクラきて、思わず一歩後ずさってしまった。
僕はしばらく動けずに、ただ目頭を抑えていた。この癒しが細胞の全てに行き渡るまで、じっと待つしかなかった。五臓六腑にしみ渡るとはまさにこの事を言うのだ。体中が歓喜の声を上げているのが分かる。
「昨日までだったらジュースなんかもあったんだけど、遊びに来た孫たちにあらかた飲まれちゃったの。本当に何にもなかったから、麦茶しかなくて悪いんだけど」
僕は喜びに打ち震えているというのに、なぜか横でそうして彼女は謝った。
いやいや、十分です。本当に、最高のオアシスにたどり着いた気分です。とは全然言えずに、僕は手探りで彼女の持っているお盆にコップを置き、目を抑えながらもう片方の手でなんとか彼女を制した。
「いえ、そんな。ほんとに。凄い、助かりました」
顔を上げ、搾り出すように僕がお礼を言うと、彼女はまた目だけで笑い、玄関先にお盆を置いてからいそいそとこちらに戻ってきた。
「それでねえ、その場所なんだけど」
皺の幾分少なくなった紙を手渡される。そう言えば、僕は道を聞いていたのだった。
「もう、過ぎてるのよ」
「え?」
気の毒そうに僕を見ながら、彼女は驚愕の事実を述べた。
「ちょっと登り過ぎたみたいね。もう少し下った所にあるのよ。そこ」
「ええええええええええええ!?」
聞いた瞬間、今度こそ僕はがっくりとそこに崩れ落ちてしまった。足から空気が抜けたみたいに、へなへなとして力が入らない。
僕はこんな、お遍路さん並の苦行に挑戦した覚えはない。ただバイトの面接に来ただけだというのに……
「どれぐらいですか……」せっかく回復したと思ったのに、また声がかすれてしまう。「結構戻らないとダメですかね……」
「そんなでもないわ。ほら、あそこを曲ってちょっと行ったところにあるから」
ゆっくりと坂下の方を彼女は指差した。やっぱり少し、良家の子女のような所作だった。
僕は、なんとかゆるゆると立ち上がった。言い方からすると、それ程遠くはなさそうだ。
屈伸しながら体の調子を見ると、今しがたもらったばかりの命の水の力が効いているのか、力はすぐに戻ってきてくれた。
彼女が示した先は、すぐに分かった。
「あの、育ちまくった朝顔が並んでる家の横道ですかね」
「そうそうそう」
少し遠いが、曲がり角はそこにしかないからもう迷うこともないだろう。
「じゃあ、一応待ち合わせ時間もあるので、俺行きます。すみません、本当に助かりました」
「いいえぇ。気をつけなさいね。もしまたこの辺りに来るなら、今度はもうちょっとお天道様対策をして来るのよ」
僕は自分が思ってる限りの一番爽やかな笑顔で彼女にお礼を言い、その場を後にした。もしまたここに来る事があるようなら、改めて彼女にお礼を言いにこなければなるまい。
人の優しさに触れ、足取り軽く、再び僕は目的地を目指した。
「世の中には良い人がいるもんなんだなあ……」
未だに彼女がしてくれたことが信じられなくて、ついそんな言葉を漏らしてしまう。
「うまかったなぁ麦茶」
嬉しいせいもあって、僕には珍しく独り言が多くなっていた。
「何にも無くなんか無いよな。麦茶最高じゃん」
むしろ至高じゃん、などと馬鹿な事まで言ってしまってから、はたと僕の足は止まった。
……やはりいつもやらない事は、安易にやるべきではないのだ。
「………………うるせーよ」
頭の中が、また波立ちだした。いつだって、何をしてたって、きっかけさえあればそれは起こり出す。せっかくあった今の心温まるエピソードも、もうその波に飲まれて、ほとんど無かった事になってしまった。
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真っ白な小さい頭が、こちらを向いた。
「はいはい?」
振り返った彼女は、予想よりもかなり若々しかった。顔の皺は相応にあるものの、目には力があり、背も一切曲がっていない。むしろ、この暑さにうだった自分よりもしっかり立っているくらいだった。
何となく、武家の女性みたいな凛とした空気を感じる。釣られるように背を伸ばしてから、僕は言った。
「ここに行きたいんですけど、どこだか分からなくて」
地図を親指で伸ばして手渡す。すると彼女は、懐から眼鏡を取り出してそれをじっと見つめた。
「……これはー……」
クシャクシャな上にかなり小さめの印刷のせいで、彼女はそれをほとんど目に入れるくらいに近づけなければ見る事ができないようだった。老体に鞭打つようで少し悪い気もしたが、もう彼女に頑張ってもらうしか道がない。しばらく黙って、僕は彼女が話し出すのを待つ事にした。
とは言っても、そう悠長なことは言っていられない。僕はもう先程からずっと、暑さに膝を付きそうになるのをこらえている状態なのだ。
動くと倒れそうだからとじっとしていると、じりじりと、まだ少し温度の低い鉄板焼きのような音が聞こえた気がした。耳のてっぺんが焼けてるよと誰かに言われても、もう大して僕は驚かない。髪の毛が燃え始めたら少し慌てるかな、くらいのものだ。
うなだれながらふと下を見ると、もはやフライパン状態になっているアスファルトが目に入った。
もう、本当に限界だった。
たとえ鉄板の上の焼肉よろしく、アスファルトと降り注ぐ地獄太陽の業火に焼かれようとも、もう僕は大の字になって思い切りそこに寝転んでしまいたかった。そうすれば苦痛はほとんど一瞬で、気持ちよく昇天できるんじゃないかと思った。
そんな風に考えて、まさにもう膝を落とそうとした時だった。
彼女が、やっと僕が渡した地図から目を離す。それを見て、僕はすんでの所で膝を落とすのを止めた。
しかし、せっかく口を開きかけた彼女は、僕を見てから直前で話す事を変えてしまった。
「あなた、ここ登ってきたの?汗ビッショリだけど」
「?はい。そうです、けど……なぜです?」
「ちょっと待ってて」
「え?あの……っ」
少し眩しそうに微笑んでから、彼女は家に引っ込んでいってしまった。長く時間がかかるような事があっては困るのだが、聞く暇もなかった。最悪本当にこのまま帰ろうかと頭をよぎったが、予想に反して、彼女はすぐに戻ってきてくれた。
そして、その彼女の手には、僕が喉から手が出るほど欲しい物が載っていたのだった。
「はい、どうぞ」
喉が、ごくりと鳴った。
丸いお盆の上に、これでもかと汗をかいたガラスの容器に入っている茶色い飲み物と、コップが載っている。コップには、たぶんその麦茶か何かが、ごろっとした氷とともに注がれていた。
「“中”の子でしょう?こんな暑い中にこんな所まで、日傘も帽子もなしで歩いてきたら倒れちゃうわ」
目でそれを取るように促され、ほとんど迷わず僕はそれを手に取った。
がっつくと格好悪いからと慎重にコップを取ったものの、でもやっぱり我慢できずに、取った先からコップを派手に傾けて一気にそれを飲み下してしまった。
「あらあら。お腹壊しますよ」
彼女の声が、さっきよりも耳の奥に響いた。
熱に浮かされていた頭が急激に冷やされて、微妙にぼやけていた世界が急にクリアになる。立ちくらみを起こしたかのようにクラクラきて、思わず一歩後ずさってしまった。
僕はしばらく動けずに、ただ目頭を抑えていた。この癒しが細胞の全てに行き渡るまで、じっと待つしかなかった。五臓六腑にしみ渡るとはまさにこの事を言うのだ。体中が歓喜の声を上げているのが分かる。
「昨日までだったらジュースなんかもあったんだけど、遊びに来た孫たちにあらかた飲まれちゃったの。本当に何にもなかったから、麦茶しかなくて悪いんだけど」
僕は喜びに打ち震えているというのに、なぜか横でそうして彼女は謝った。
いやいや、十分です。本当に、最高のオアシスにたどり着いた気分です。とは全然言えずに、僕は手探りで彼女の持っているお盆にコップを置き、目を抑えながらもう片方の手でなんとか彼女を制した。
「いえ、そんな。ほんとに。凄い、助かりました」
顔を上げ、搾り出すように僕がお礼を言うと、彼女はまた目だけで笑い、玄関先にお盆を置いてからいそいそとこちらに戻ってきた。
「それでねえ、その場所なんだけど」
皺の幾分少なくなった紙を手渡される。そう言えば、僕は道を聞いていたのだった。
「もう、過ぎてるのよ」
「え?」
気の毒そうに僕を見ながら、彼女は驚愕の事実を述べた。
「ちょっと登り過ぎたみたいね。もう少し下った所にあるのよ。そこ」
「ええええええええええええ!?」
聞いた瞬間、今度こそ僕はがっくりとそこに崩れ落ちてしまった。足から空気が抜けたみたいに、へなへなとして力が入らない。
僕はこんな、お遍路さん並の苦行に挑戦した覚えはない。ただバイトの面接に来ただけだというのに……
「どれぐらいですか……」せっかく回復したと思ったのに、また声がかすれてしまう。「結構戻らないとダメですかね……」
「そんなでもないわ。ほら、あそこを曲ってちょっと行ったところにあるから」
ゆっくりと坂下の方を彼女は指差した。やっぱり少し、良家の子女のような所作だった。
僕は、なんとかゆるゆると立ち上がった。言い方からすると、それ程遠くはなさそうだ。
屈伸しながら体の調子を見ると、今しがたもらったばかりの命の水の力が効いているのか、力はすぐに戻ってきてくれた。
彼女が示した先は、すぐに分かった。
「あの、育ちまくった朝顔が並んでる家の横道ですかね」
「そうそうそう」
少し遠いが、曲がり角はそこにしかないからもう迷うこともないだろう。
「じゃあ、一応待ち合わせ時間もあるので、俺行きます。すみません、本当に助かりました」
「いいえぇ。気をつけなさいね。もしまたこの辺りに来るなら、今度はもうちょっとお天道様対策をして来るのよ」
僕は自分が思ってる限りの一番爽やかな笑顔で彼女にお礼を言い、その場を後にした。もしまたここに来る事があるようなら、改めて彼女にお礼を言いにこなければなるまい。
人の優しさに触れ、足取り軽く、再び僕は目的地を目指した。
「世の中には良い人がいるもんなんだなあ……」
未だに彼女がしてくれたことが信じられなくて、ついそんな言葉を漏らしてしまう。
「うまかったなぁ麦茶」
嬉しいせいもあって、僕には珍しく独り言が多くなっていた。
「何にも無くなんか無いよな。麦茶最高じゃん」
むしろ至高じゃん、などと馬鹿な事まで言ってしまってから、はたと僕の足は止まった。
……やはりいつもやらない事は、安易にやるべきではないのだ。
「………………うるせーよ」
頭の中が、また波立ちだした。いつだって、何をしてたって、きっかけさえあればそれは起こり出す。せっかくあった今の心温まるエピソードも、もうその波に飲まれて、ほとんど無かった事になってしまった。
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盆地の嫌な所。暑さ。
「ぶへー……」
額の汗を腕で拭おうとしても、とうの腕が汗だくで全く意味を為さない。もうとっ くに慣れてもいいはずの年月をここで過ごしているはずなのに、僕の体は一向にこの暑さに慣れてくれる気配がない。アスファルトからの照り返しにうなだれな がら、僕はこのゆるくて長い坂道を歩くしかなかった。
(何もこんな日に指定してくれなくともいいだろうに……)
頭の中でそうぼやきながら俯くと、照り返しがむわっともろに顔に当たり、思わず勢い良く顔を上に背ける。真夏のアスファルト恐るべし。これなら太陽に向かって顔を向けていたほうがまだマシなくらいだ。僕はしばらく、そのまま空を仰ぎながら歩いた。
いつの間にか、空にはでっかい入道雲が久しぶりに姿を現していて、それがまた信じられないほどの青い空と相まって、綺麗なコントラストを作り出していた。連なる山も加えれば、そのまま油絵か何かになりそうだった。
あの雲がこちらに来れば、おそらく夕立になる。それがもたらすだろう天然のシャワーを思うと、少し暑さが和らいだ気がした。
僕は、歩を進めた。
小高い山に囲まれてすり鉢状になっているこの盆地は、中心に発展した街がある。そこから外側に向かっていくと、昔ながらの家屋が立ち並ぶ、下町風情の住宅街になっていく。
僕は生まれてからの殆どを中心部で過ごしてきたから、こんなはずれまで来たのは初めてだった。学校は近くにあるし、スーパーやデパート、娯楽施設など、お よそ生活に必要な要素は全て中心部に揃っているから、特に用事がなければこんな所まで普通は来ない。僕にとって、ここは生活する分には全く関係のないはず の場所だった。
じゃあ、一体なぜ僕はこんな所にいるのか。
あまりの暑さに朦朧として自分でも分からなくなりかけてたが、それにはちゃんとした理由がある。そうでもなければ、こんなクソ暑い時間に、わざわざクソ暑い所を通ったりはしないのだ。
いい加減、僕はポケットからすっかりくしゃくしゃになってしまった地図を取り出し、広げた。このとおりに歩いてきているはずなのに、一向に目的地らしい建物が無いのだった。
「っかしーな。この辺のはずなんだけど……」
ペットボトルの飲み物に口をつけ、しかしとっくに中身が無くなっていることに気付いて愕然とする。マジかよ……と僕は力なく一人ごちり、もう少しだけ登って見つからなかったら帰ろうという、目先のネガティブな目標を掲げることで自我を保とうとした。
全くもって、この暑さは異常なのだった。理由もなく人を殴ってしまいたい衝動にまで駆られるが、それはさすがに人としてまずいと、僕は握ってしまっていた拳を開いた。
そうしてやっとの事で、僕はまた重たい足を引き摺るように歩き出した。
のたのた。もたもた。今自分の歩き方に効果音をつけるとしたら、きっとこうなる。
しかしそんな歩みでも、きちんと人は前へと進んで行けるのだ。僕の周りの景色はすっかり変わって、脇には木造の低い建屋の家々が軒を連ねていた。
瓦の屋根に、白く塗られた壁。天井の低い2階。そしてそんな家々の軒下には、朝顔だとかカラスウリだとかが置かれていて、大正か、もしくは明治時代にでも タイムスリップしたような気分になる。青いバケツに小ぶりのスイカと、あとトマトとキュウリがぷかぷか浮んでいる所まである。
ああ……もうこれで打ち水とかやってたら完璧だな……などとすっかり霞のかかったようになってしまった頭でそう考えていると、着物の品のいい老婆が、これまた絵に描いたようにいそいそとじょうろで鉢に水をやっている所にでくわした。
朝顔の大きな葉に水滴がきらきら光り、湿った土の匂いがここまで香ってくる。
こうやって道すがら少しずつ涼をもらっているにも関わらず、僕の重くなった足にはもうほとんど効果が無い。飲み物も無くなった今、悪くすると熱中症にもなってしまいかねない状況だ。そう思って、僕はちょうどいいので彼女に道を聞くことにした。
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「ぶへー……」
額の汗を腕で拭おうとしても、とうの腕が汗だくで全く意味を為さない。もうとっ くに慣れてもいいはずの年月をここで過ごしているはずなのに、僕の体は一向にこの暑さに慣れてくれる気配がない。アスファルトからの照り返しにうなだれな がら、僕はこのゆるくて長い坂道を歩くしかなかった。
(何もこんな日に指定してくれなくともいいだろうに……)
頭の中でそうぼやきながら俯くと、照り返しがむわっともろに顔に当たり、思わず勢い良く顔を上に背ける。真夏のアスファルト恐るべし。これなら太陽に向かって顔を向けていたほうがまだマシなくらいだ。僕はしばらく、そのまま空を仰ぎながら歩いた。
いつの間にか、空にはでっかい入道雲が久しぶりに姿を現していて、それがまた信じられないほどの青い空と相まって、綺麗なコントラストを作り出していた。連なる山も加えれば、そのまま油絵か何かになりそうだった。
あの雲がこちらに来れば、おそらく夕立になる。それがもたらすだろう天然のシャワーを思うと、少し暑さが和らいだ気がした。
僕は、歩を進めた。
小高い山に囲まれてすり鉢状になっているこの盆地は、中心に発展した街がある。そこから外側に向かっていくと、昔ながらの家屋が立ち並ぶ、下町風情の住宅街になっていく。
僕は生まれてからの殆どを中心部で過ごしてきたから、こんなはずれまで来たのは初めてだった。学校は近くにあるし、スーパーやデパート、娯楽施設など、お よそ生活に必要な要素は全て中心部に揃っているから、特に用事がなければこんな所まで普通は来ない。僕にとって、ここは生活する分には全く関係のないはず の場所だった。
じゃあ、一体なぜ僕はこんな所にいるのか。
あまりの暑さに朦朧として自分でも分からなくなりかけてたが、それにはちゃんとした理由がある。そうでもなければ、こんなクソ暑い時間に、わざわざクソ暑い所を通ったりはしないのだ。
いい加減、僕はポケットからすっかりくしゃくしゃになってしまった地図を取り出し、広げた。このとおりに歩いてきているはずなのに、一向に目的地らしい建物が無いのだった。
「っかしーな。この辺のはずなんだけど……」
ペットボトルの飲み物に口をつけ、しかしとっくに中身が無くなっていることに気付いて愕然とする。マジかよ……と僕は力なく一人ごちり、もう少しだけ登って見つからなかったら帰ろうという、目先のネガティブな目標を掲げることで自我を保とうとした。
全くもって、この暑さは異常なのだった。理由もなく人を殴ってしまいたい衝動にまで駆られるが、それはさすがに人としてまずいと、僕は握ってしまっていた拳を開いた。
そうしてやっとの事で、僕はまた重たい足を引き摺るように歩き出した。
のたのた。もたもた。今自分の歩き方に効果音をつけるとしたら、きっとこうなる。
しかしそんな歩みでも、きちんと人は前へと進んで行けるのだ。僕の周りの景色はすっかり変わって、脇には木造の低い建屋の家々が軒を連ねていた。
瓦の屋根に、白く塗られた壁。天井の低い2階。そしてそんな家々の軒下には、朝顔だとかカラスウリだとかが置かれていて、大正か、もしくは明治時代にでも タイムスリップしたような気分になる。青いバケツに小ぶりのスイカと、あとトマトとキュウリがぷかぷか浮んでいる所まである。
ああ……もうこれで打ち水とかやってたら完璧だな……などとすっかり霞のかかったようになってしまった頭でそう考えていると、着物の品のいい老婆が、これまた絵に描いたようにいそいそとじょうろで鉢に水をやっている所にでくわした。
朝顔の大きな葉に水滴がきらきら光り、湿った土の匂いがここまで香ってくる。
こうやって道すがら少しずつ涼をもらっているにも関わらず、僕の重くなった足にはもうほとんど効果が無い。飲み物も無くなった今、悪くすると熱中症にもなってしまいかねない状況だ。そう思って、僕はちょうどいいので彼女に道を聞くことにした。
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-序-
きっかけと言えば、何の事はない。その時付き合っていた彼女に言われた言葉が原因だった。
「は?何?何で?」
付き合ってちょうど1ヶ月くらい経った頃だった。僕は初めて出来た彼女に浮かれていて、まさに人生で最も幸せな時間を享受している真っ最中だった。あれもしたいこれもしたい。そう思っていたのに、突然とうの彼女が言った。
「別れよ」
彼女は急に立ち止まって振り返り、ただ一言そう言ってのけた。しかも何だか軽いノリで、今さっき決めた、みたいな感じで。
僕はその突然の言葉に動揺してしまって、何度も問いただした。なぜ?昨日まで隣で笑っていたじゃないか。それがいきなりどうして、そんな言葉が口から出るんだ。納得のいく説明をしろ、と。
今になって冷静に考えると、それがいけなかった。何でもずけずけモノを言う彼女が、言いあぐねていたのだ。普段通りの僕だったらきっと聞かなかったはずだ。
それなのに、ああそれなのに。
僕は、聞いてしまった。無理やり彼女の肩を持って、前後に揺らしまでした。すると、
「だって」
幾分迷いはしたものの、彼女は言いやがったのだった。
「あんた、何も無いじゃない」
一瞬文節が理解できなくて、僕にはそれが一つの言葉のように思えた。体が敵意ある何かに敏感に反応し、頭のどこかの回路を止めたらしかった。すぐに再起動 をかけようとしてもなかなか起動しない。まるで金がなくて仕方なく乗ってる、親父からもらった中古のポンコツバイクみたいだった。そのせいで何度も何度も キックして、再起動をかける羽目になってしまった。そうしてやっとの事で、僕はその言葉を理解した。
時折優しい風に波立つ湖面。ただその程度であった、幸せの最中の僕の頭の中。そこに突然投じられた言葉の大岩は、あまりに無骨で、それでいて無慈悲だった。
湖でのんきにひなたぼっこしていた鳥たちは、突然降って湧いたそれに場所替えを余儀なくされ、同じくいつものように平和に水の中で泳いでいた魚たちは、慌てて霧散していった。平和なその世界は、一気に様変わりしたのだ。
そしてまた、その破壊的な大きさの大岩によって生じた波が、僕を苦しめている。頭が良くないせいか、それはあっという間に頭の中の端っこにまで到達し、反 射する。反射する。また、反射する。跳ね返ってきた波同士が合わさって、どんどん大きな波になる。それがガツンと頭の端にぶつかる度、鈍い痛みを伴って僕 を苦しめる。もうあれから大分時間が経ったはずの、今でもだ。
この言葉さえ無ければ、今僕は平和な時間を、それこそ部屋でお茶でもしば きながら漫画でも読んで過ごしていただろう。馬鹿みたいに執着しないで、さっさと次の女の事でも考えておけばよかったのだ。そうすればまた、前と同じく何 も知らなかった自分でいることができ、学校に行って彼女に向かって見えないように後ろから唾を吐くなりして決別し、また日常に戻ることが出来たのだ。
それがどうして、一体どうしてこんな事になってるのだろう。僕は目の前の光景が信じられず、自分に降り注ぐ眩しい木漏れ日を仰ぎ見つつ、今更ながらにそう思ってみるしかないのだった。
>>次へ
時間にしてほんの数分しか経っていないはずだったが、すでにそこは様変わりし始めていた。
先程までいた多くの人間はどこかへとはけて、リビングには必要最小限の人員が残るだけとなっている。人の往来もほぼ無くなった所を見ると、検視がある程度終わったのだと思われる。やはり急いで来て正解だった。
リビングに残っていたのは、先程のよれよれ刑事と、若い刑事の二人だった。二人は部屋の片隅で何かをしきりに話しており、こちらに気付いていないようだった。
隣の彼がいれば、特に彼らに断ることも無いだろう。早速僕は手袋を取り出し、彼に言った。
「では、失礼します」
一応彼が頷くのを待ってから、まずは彼の言っていたことが本当か確かめるため、被害者の手を確認しようと、僕はその部分のシートを開いた。
捲った先から凄惨なものが目に飛び込んでくる……というようなことは全然無く、そこには特に目立った外傷も無い、綺麗な青白い腕があった。確かに彼の言う通り、その腕は一般的な太さで、特に鍛えあげられているという印象は受けなかった。
大したことはなさそうだ。そう思ったが、視線を滑らせて手まで来ると、その様子が一変する。
その腕の綺麗さも相まって、そこは否が応でも目に留まる。特に手の甲側の裂傷はひどかった。固まった血のせいか、全体が赤黒く変色してしまっているのだ。見ているだけで痛みが伝わってくるかのようで、思わず僕は、顔をしかめた。
そうして実際に確認してみたが、やはり全てが彼の言う通りだった。これは確かに、拳で何かを殴った結果である可能性が高い。よく見るとガラスのようなキラキラしたものも付着していて、なるほど、彼がああいう推理を一つの可能性として言及してしまうのも、無理からぬことだと思った。
「一応全体も見ておくかい?」
「ええ、お願いします」
彼が、“彼”に掛かっていたシートをゆっくりと取り去っていくのに合わせ、僕は目を閉じて、手を合わせた。
たっぷりと数秒程そうしてからゆっくり眼を開くと、すぐに“彼”の強張った死に顔が、目に入ってきた。
「……手以外は、綺麗なものですね」
「そうだね」
年の頃は35、6。仕事あがりだったのか、彼はワイシャツ姿のままで、そこに横たわっていた。
苦悶の表情とまではいかない。でも安らかな死に顔とも、また言えなかった。硬直前に誰かにそうされたのか目は閉じられていたが、微妙にしかめられた眉が、やはり少し苦しそうに見えた。
彼は今日、死ぬ気だったのだろうか。それとも全然そんな気なんか無くて、明日の仕事のことを考えていたり、休日に思いを馳せていたりなんかしたのだろうか。すでにモノを言えなくなってしまった彼には、もうどうしたって聞くことは出来ない。
と、ふいにフラッシュバック。
まだ幼い女の子を、自分の力の足り無さのせいで死の淵まで追いやってしまったことがあった。あの時の彼女の苦悶の表情が、彼のそれと重なった。
時間の経った今でも、思い出すと身が震える。結果的に助かったからいいものの、一歩間違えれば彼女も、この彼と同様物言わぬ骸になってしまっていただろう。あんなに可愛いらしくて、頑張って生きている子が、恋人の一つも作る前にその生涯を終えてしまう。そんなことにならなくて、本当に本当に良かったと心から思う。
大事な人が急に目の前からいなくなる。それがどんなに痛いことなのか、当時の僕は分かっていたつもりで、全く分かっていなかった。それは内臓を直接火で炙られるかのような、想像を絶する痛みを伴うもの。すまし顔でやり過ごすことなんか、到底出来ないものなのだ。
そしてその、地獄の業火に焼かれた後は何も残らない。自分の中身が全て失くなってしまったかのような、圧倒的な空虚が襲ってくる。そのくせどこから湧いてきたのか、涙はどんどん湧いてくる。
他人のはずの自分でさえ、ああなったのだ。もしそれが身内となったら、もうどうなるか想像がつかない。止めどなく溢れ出る涙に堪えきれずに、自分なら心が壊れてしまうかもしれない。
涙を流し続け、溢れさせていれば大丈夫というものでもないはずなのだ。どこかに必ず、ひずみは生じてくる。膨れ上がった水風船に構わず水を注ぎ続けたら、いつかは割れてしまうのだ。どんなものにも、限界はどうしたってあるのだから。
目の前の彼にも、きっとそうして心を痛めている家族がいるのだった。親はもちろん、友達や仲間もきっといる。ただの独りで生きている人間なんか、世界中探してもそうはいない。誰もが皆何らかのコミュニティをもち、その中心に立っているのだ。
「ん……っ!?」
と、考えを巡らせながら彼を見ていて、僕は自分にびっくりさせられた。
鳩尾の辺りから、すごい勢いでこみ上げてくるものがあった。
突然のそれに僕は慌てて口を抑え、踵を返した。
「ちょっと、失礼します!」
どうした?という顔をした尾上氏が目の端に入ったが、僕はそれ以上何も言うことが出来ずに、足早にその現場を後にするしかなかった。
現場のものは、さすがに使えない。
(はやく……)
廊下に出ると、僕は辺りを見回し、その気持ち悪さに堪えながら歩を進めた。
こういった高級マンションには、居住者同士で歓談するためのラウンジが用意されている。このマンションにも例外なくそれはあるので、そうすると、必然的にあってもおかしくないものがある。
僕は息も絶え絶えになりながらもなんとかそれを見つけ、そこに駆け込んだ。
「……うっ!」
もう大丈夫、と思ったら一瞬だった。僕は共同トイレの個室に転がり込むと、そこで今日食べたものを全部戻してしまった。文字通り、本当に全部だ。
「ぐっ……はあ、はあ……ごほっ」
胃液が喉を焼いたせいで咳き込み、その咳のせいでまた喉を痛める。胃がせり上がってくるかのような不快感もあり、僕はしばらくそこを動けなかった。ぐるぐると腹が鳴り続け、体の中をミキサーにでもかけられているみたいだった。
一体どうして、急にこんなことになってしまったのか。
出すものは出したせいか、頭だけはすっきりとしていた。少し考えれば、その理由には簡単に辿りつけた。
命というものに、正面から向き合ったせいなのだ。どんな人間にも、家族がいて、友人がいて、仲間がいて。そんな風に被害者の背景を思った瞬間、急にその青白い顔が生々しく見えて、僕はこうなってしまったのだ。
今まで自分はこういった事件と関わる時に、特に身構えたり深く考えたりしてこなかった。亡くなった人を見る時もそうだった。そこに横たわっている人をほとんど人形か何かと同様に見ていて、その人の背景などには、全く関心を示してこなかった。
だからずっと、平気でいられた。人一人がいなくなるということは、本当は途方もなく寂しくて、悲しいことだというのに。
「ふ……」
僕は、弱くなってしまったのだろうか。実は探偵としての資質が、大きく欠けているのだろうか。
感情に引っ張られるより、ただ冷静に、客観的に事実を事実として見つめていく。僕が目指してきた推理小説に出てくるような探偵は、そんな人物達ではなかったか。
「ふふ……」
僕はよろよろと立ち上がりながら、しかし笑みをこぼしてしまった。不謹慎だとは思いつつも、こみ上げてくる高揚感にうまく抗うことが出来なかったのだ。
なぜこんな簡単なことに気付けなかったのかと、今更ながらに僕は思っていた。
たぶん彼らは、違うのだ。彼らは確かに冷静沈着そのものだが、心の中は全く穏やかではないはずなのだ。
彼らも、故人の姿に胸を痛める。悲しむ。時には加害者にだって、同情することもある。そういう人間でなければ、人の気持ちを理解して、人間の思考をトレースするなんてことが出来る訳がない。つまり探偵にとって大事なことは、一切の熱を排除した機械的な感情を持つことではないのだ。何よりもまず、“人”であらなければならないのだ。
この道を歩いて行くのはきっと辛い。大きな十字架を背負いながら、頂上の見えない山道を延々と歩いて行くようなものだ。今回のことでそれがよく分かったが、それと同時に、僕は嬉しかった。
自分はようやく、スタート地点に立てた。“探偵白鐘直斗”は、今ここから始まる。そんな気がしたのだ。
水道で手を洗い、軽くうがいをしてからふと顔を上げる。するとそこには、綺麗に磨かれた鏡に映る、いつもの自分の顔があった。
少し休んだおかげか、顔色は悪くなかった。青ざめた顔で戻る訳にはいかないが、これならもう大丈夫だろう。
頬をパチンと叩いてから、そこを出た。そう長い時間現場を離れる訳にはいかない。
そうして現場に戻ろうと、早足で廊下を通ってラウンジの前を通り過ぎようとした時だった。
突然僕は、どこかから声をかけられた。
「大丈夫かね?」
見ると、いつの間にやらラウンジの一人がけのソファに、尾上氏が座っているのだった。
どう言って戻ろうかと考えていた所だったので少し驚いたが、とりあえず僕は、それに大丈夫だと答えた。彼は、僕がどんな状態になってしまったのかに、とっくに気付いていたのだ。
「やはり、女性には刺激が強すぎるのかな」
しかも彼がこんなことを言い出すものだから、僕は数瞬、絶句してしまった。
「……女性?」
我ながらとぼけるのが下手だなと思う。急に周りの酸素が薄くなったような気がして、なんとか声を絞り出して彼に訊き返すくらいしか、僕には出来なかった。
「おや、間違ったかね?君は女性だろう?」
向かいのソファに座るように促されたので、僕は仕方なく、そこに腰を下ろした。
「……なぜ」
「なぜ女性だと思ったか?」
かぶせるように言う彼に、思わず僕は怪訝な顔を向けてしまったが、彼は構わず続けた。
「それはね、白鐘君。君は細すぎるんだ。探偵という仕事をしているにしては、ね」
「細すぎる?」
馬鹿にされたような気がして、今度は敵意に満ちた目でじろりと彼を見てしまったが、それでも彼は全く動じずに、ひょいと肩を上げて言った。
「そうさ。探偵なんて仕事を生業にしていると、普通は不安になるものだよ。危険と隣合わせでいるうちに、自分を鍛えておかなければ気がすまなくなっていくんだ。私のように警察くずれの探偵で、元々鍛えている方でも、そうしなくては落ち着かない。とんでもない胆力を持った豪の者であれば別だが、私はそんな人間を今まで見たことがない。なのに、君は細い。本当に細すぎると言っていい。加えて、そんな圧倒的胆力を持った豪傑にも見えない。とすれば、自ずと答えは見えてくる」
彼は最後に、どうかね?と言ってこちらを見たが、僕はそれに簡単に頷くことは出来なかった。
彼になら不当に扱われることはないだろうし、別に女であることを認めてしまうこと自体はもう構わない。でもその推理をすぐに認めてしまうのは、何だか負けた気がして嫌だった。いささか乱暴な推理に思えなくもなかったのだ。
しかし僕は、自分以外の現実の探偵をしっかりと見たことがないので、それに対しての反論を持ち合わせていないのだった。実は探偵とはそういうものなのかもしれないと思う他ない。物語に出てくる探偵達も、何かしら武道の心得がある者が多かった。あれはそういうことだったのだろうかと、想像することくらいしか出来ない。
もうほとんど負け戦のようなものだったが、それでも僕は、思考を止めなかった。なんとか彼に一矢報いたいその一心で、考え続けた。
結果、こちらも暴論といえば暴論だが、何とか反論の糸口になるようなものは見つけられた。
彼の座っている位置。その位置だ。
彼が座っているソファからは、共同トイレの入り口がかろうじて見えるはずだった。少なくともどちらから出てきたかくらいは、なんとか分かるだろう。僕はさっき慌てていて、そこまで頭が回らなかったせいで、“本当の性別”の方に入ってしまっていたのだ。彼はそこから出てくる僕をちゃっかり見ていて、何食わぬ顔で僕に声をかけた。先程の推理は、この事実を確認してからの後付け。そういう可能性だって、ゼロじゃないのだ。
そうして僕が反論しようとして、顔を上げた時だった。
気付くと彼は、腹部を両手で抑えながらうずくまっていた。何やら小刻みに震えて、必死に何かに耐えている。
「くっく……っ」
彼はまた、なぜか笑っていた。よほど面白いことでもあったのか、僕を試した時とは違って、今度はもうはっきりと笑ってしまっている。
「……何を笑っているんです」
僕が思い切り棘を含んだ声でそう言っても、彼はそれには全く取り合わず、笑い続けた。僕は訳が分からず、黙るしかなかった。
最初は寡黙な人のようなイメージを受けたが、これ程容赦なく笑われると、その認識を改めざるを得ない。実はかなりおおらかな性格の人なのかもしれないと、僕は思い直した。
と言うかその前に、だ。人の顔を見てこんなに笑うなんて、いくら年上の人だと言っても失礼なんじゃないだろうか。僕はそんなに笑われるようなことはしていないはずだし、そんなに面白い顔でもないはずだ。
そうして冷ややかな視線を送り続けていると、彼はようやくその笑いを収め始め、
「やあ、すまないすまない。君があんまり可愛いものだから、つい」
と、頭を掻きながら僕に謝った。
「君が一生懸命考えているのが可愛くてね。つい昔を思い出してしまった」
ふるふると頭を振ってソファに居直る彼に対して、僕の頭の上には、大きなクエスチョンマークが浮かんでしまっていた。
文脈に合わない単語がぽろぽろと出て来て困惑する。また僕は、彼にテストでもされているのだろうか。
「まだ分からないのかね?」
そう言われても返す言葉が見つからない僕に、彼は少しだけショックを受けたような顔を見せた。何やらまた腹部をさすり、そんなに太った訳でも無いんだが、と深く溜息をつく。
「……お祖父さんは元気かい?」
「え?」
急に身内の心配をされて、僕は目を丸くしてしまった。
「あと、薬師寺君も。若手だった彼も、今じゃもういい年だろう」
頭の中のクエスチョンマークがどんどん大きくなっていく。
何だ?彼は何を言っている?
なぜ自分の身内のことを知っているのだろうか。僕のことも、元々知っているかのような口ぶりだ。
それでも分からなくてじっと見つめていたら、やれやれとばかりに呆れる彼から、思いもよらない言葉が出てきた。
その瞬間、僕は鮮明なセピア色の景色に包まれた。
答えは、もうずっと僕の目の前にあったのだ。
「まだ君は、高い所が好きなのかな」彼は感慨深そうに目を瞑り、耳の奥にまで響く、とても優しい声色で言った。「下りられなくなるからやめなさいと言っても、君は私の目を盗んでは木に登って遊んでいたけど、まさか今もじゃないだろうね?」
驚きのあまり、まだ焼かれたままの喉が引っかかった。
「まさか……」
どうして気付かなかったのか。思わず指まで差してしまいそうになって、慌てて引っ込めた。
「ユージ……おじさん?」
眩しそうに細められた、優し気な光の灯るその瞳と、そうして不敵に笑う口元とに。
僕は見覚えがあった。蓄えられたひげは増え、直線ばかりだった体つきは少し丸くなり、目元の皺は増えていたけれど。よくよく見てみるとその姿は、何度も何度も見たことがある、懐かしい彼のそれなのだった。
どうして一見で、こうも彼に憧れを抱いたのか。その理由が、今分かった。
そうして声が掠れてしまう程驚いている僕に、彼はまたひげの奥でニヤリと笑い、言ったのだった。
「やっと気付いたか。このおてんば娘め」
先程までいた多くの人間はどこかへとはけて、リビングには必要最小限の人員が残るだけとなっている。人の往来もほぼ無くなった所を見ると、検視がある程度終わったのだと思われる。やはり急いで来て正解だった。
リビングに残っていたのは、先程のよれよれ刑事と、若い刑事の二人だった。二人は部屋の片隅で何かをしきりに話しており、こちらに気付いていないようだった。
隣の彼がいれば、特に彼らに断ることも無いだろう。早速僕は手袋を取り出し、彼に言った。
「では、失礼します」
一応彼が頷くのを待ってから、まずは彼の言っていたことが本当か確かめるため、被害者の手を確認しようと、僕はその部分のシートを開いた。
捲った先から凄惨なものが目に飛び込んでくる……というようなことは全然無く、そこには特に目立った外傷も無い、綺麗な青白い腕があった。確かに彼の言う通り、その腕は一般的な太さで、特に鍛えあげられているという印象は受けなかった。
大したことはなさそうだ。そう思ったが、視線を滑らせて手まで来ると、その様子が一変する。
その腕の綺麗さも相まって、そこは否が応でも目に留まる。特に手の甲側の裂傷はひどかった。固まった血のせいか、全体が赤黒く変色してしまっているのだ。見ているだけで痛みが伝わってくるかのようで、思わず僕は、顔をしかめた。
そうして実際に確認してみたが、やはり全てが彼の言う通りだった。これは確かに、拳で何かを殴った結果である可能性が高い。よく見るとガラスのようなキラキラしたものも付着していて、なるほど、彼がああいう推理を一つの可能性として言及してしまうのも、無理からぬことだと思った。
「一応全体も見ておくかい?」
「ええ、お願いします」
彼が、“彼”に掛かっていたシートをゆっくりと取り去っていくのに合わせ、僕は目を閉じて、手を合わせた。
たっぷりと数秒程そうしてからゆっくり眼を開くと、すぐに“彼”の強張った死に顔が、目に入ってきた。
「……手以外は、綺麗なものですね」
「そうだね」
年の頃は35、6。仕事あがりだったのか、彼はワイシャツ姿のままで、そこに横たわっていた。
苦悶の表情とまではいかない。でも安らかな死に顔とも、また言えなかった。硬直前に誰かにそうされたのか目は閉じられていたが、微妙にしかめられた眉が、やはり少し苦しそうに見えた。
彼は今日、死ぬ気だったのだろうか。それとも全然そんな気なんか無くて、明日の仕事のことを考えていたり、休日に思いを馳せていたりなんかしたのだろうか。すでにモノを言えなくなってしまった彼には、もうどうしたって聞くことは出来ない。
と、ふいにフラッシュバック。
まだ幼い女の子を、自分の力の足り無さのせいで死の淵まで追いやってしまったことがあった。あの時の彼女の苦悶の表情が、彼のそれと重なった。
時間の経った今でも、思い出すと身が震える。結果的に助かったからいいものの、一歩間違えれば彼女も、この彼と同様物言わぬ骸になってしまっていただろう。あんなに可愛いらしくて、頑張って生きている子が、恋人の一つも作る前にその生涯を終えてしまう。そんなことにならなくて、本当に本当に良かったと心から思う。
大事な人が急に目の前からいなくなる。それがどんなに痛いことなのか、当時の僕は分かっていたつもりで、全く分かっていなかった。それは内臓を直接火で炙られるかのような、想像を絶する痛みを伴うもの。すまし顔でやり過ごすことなんか、到底出来ないものなのだ。
そしてその、地獄の業火に焼かれた後は何も残らない。自分の中身が全て失くなってしまったかのような、圧倒的な空虚が襲ってくる。そのくせどこから湧いてきたのか、涙はどんどん湧いてくる。
他人のはずの自分でさえ、ああなったのだ。もしそれが身内となったら、もうどうなるか想像がつかない。止めどなく溢れ出る涙に堪えきれずに、自分なら心が壊れてしまうかもしれない。
涙を流し続け、溢れさせていれば大丈夫というものでもないはずなのだ。どこかに必ず、ひずみは生じてくる。膨れ上がった水風船に構わず水を注ぎ続けたら、いつかは割れてしまうのだ。どんなものにも、限界はどうしたってあるのだから。
目の前の彼にも、きっとそうして心を痛めている家族がいるのだった。親はもちろん、友達や仲間もきっといる。ただの独りで生きている人間なんか、世界中探してもそうはいない。誰もが皆何らかのコミュニティをもち、その中心に立っているのだ。
「ん……っ!?」
と、考えを巡らせながら彼を見ていて、僕は自分にびっくりさせられた。
鳩尾の辺りから、すごい勢いでこみ上げてくるものがあった。
突然のそれに僕は慌てて口を抑え、踵を返した。
「ちょっと、失礼します!」
どうした?という顔をした尾上氏が目の端に入ったが、僕はそれ以上何も言うことが出来ずに、足早にその現場を後にするしかなかった。
現場のものは、さすがに使えない。
(はやく……)
廊下に出ると、僕は辺りを見回し、その気持ち悪さに堪えながら歩を進めた。
こういった高級マンションには、居住者同士で歓談するためのラウンジが用意されている。このマンションにも例外なくそれはあるので、そうすると、必然的にあってもおかしくないものがある。
僕は息も絶え絶えになりながらもなんとかそれを見つけ、そこに駆け込んだ。
「……うっ!」
もう大丈夫、と思ったら一瞬だった。僕は共同トイレの個室に転がり込むと、そこで今日食べたものを全部戻してしまった。文字通り、本当に全部だ。
「ぐっ……はあ、はあ……ごほっ」
胃液が喉を焼いたせいで咳き込み、その咳のせいでまた喉を痛める。胃がせり上がってくるかのような不快感もあり、僕はしばらくそこを動けなかった。ぐるぐると腹が鳴り続け、体の中をミキサーにでもかけられているみたいだった。
一体どうして、急にこんなことになってしまったのか。
出すものは出したせいか、頭だけはすっきりとしていた。少し考えれば、その理由には簡単に辿りつけた。
命というものに、正面から向き合ったせいなのだ。どんな人間にも、家族がいて、友人がいて、仲間がいて。そんな風に被害者の背景を思った瞬間、急にその青白い顔が生々しく見えて、僕はこうなってしまったのだ。
今まで自分はこういった事件と関わる時に、特に身構えたり深く考えたりしてこなかった。亡くなった人を見る時もそうだった。そこに横たわっている人をほとんど人形か何かと同様に見ていて、その人の背景などには、全く関心を示してこなかった。
だからずっと、平気でいられた。人一人がいなくなるということは、本当は途方もなく寂しくて、悲しいことだというのに。
「ふ……」
僕は、弱くなってしまったのだろうか。実は探偵としての資質が、大きく欠けているのだろうか。
感情に引っ張られるより、ただ冷静に、客観的に事実を事実として見つめていく。僕が目指してきた推理小説に出てくるような探偵は、そんな人物達ではなかったか。
「ふふ……」
僕はよろよろと立ち上がりながら、しかし笑みをこぼしてしまった。不謹慎だとは思いつつも、こみ上げてくる高揚感にうまく抗うことが出来なかったのだ。
なぜこんな簡単なことに気付けなかったのかと、今更ながらに僕は思っていた。
たぶん彼らは、違うのだ。彼らは確かに冷静沈着そのものだが、心の中は全く穏やかではないはずなのだ。
彼らも、故人の姿に胸を痛める。悲しむ。時には加害者にだって、同情することもある。そういう人間でなければ、人の気持ちを理解して、人間の思考をトレースするなんてことが出来る訳がない。つまり探偵にとって大事なことは、一切の熱を排除した機械的な感情を持つことではないのだ。何よりもまず、“人”であらなければならないのだ。
この道を歩いて行くのはきっと辛い。大きな十字架を背負いながら、頂上の見えない山道を延々と歩いて行くようなものだ。今回のことでそれがよく分かったが、それと同時に、僕は嬉しかった。
自分はようやく、スタート地点に立てた。“探偵白鐘直斗”は、今ここから始まる。そんな気がしたのだ。
水道で手を洗い、軽くうがいをしてからふと顔を上げる。するとそこには、綺麗に磨かれた鏡に映る、いつもの自分の顔があった。
少し休んだおかげか、顔色は悪くなかった。青ざめた顔で戻る訳にはいかないが、これならもう大丈夫だろう。
頬をパチンと叩いてから、そこを出た。そう長い時間現場を離れる訳にはいかない。
そうして現場に戻ろうと、早足で廊下を通ってラウンジの前を通り過ぎようとした時だった。
突然僕は、どこかから声をかけられた。
「大丈夫かね?」
見ると、いつの間にやらラウンジの一人がけのソファに、尾上氏が座っているのだった。
どう言って戻ろうかと考えていた所だったので少し驚いたが、とりあえず僕は、それに大丈夫だと答えた。彼は、僕がどんな状態になってしまったのかに、とっくに気付いていたのだ。
「やはり、女性には刺激が強すぎるのかな」
しかも彼がこんなことを言い出すものだから、僕は数瞬、絶句してしまった。
「……女性?」
我ながらとぼけるのが下手だなと思う。急に周りの酸素が薄くなったような気がして、なんとか声を絞り出して彼に訊き返すくらいしか、僕には出来なかった。
「おや、間違ったかね?君は女性だろう?」
向かいのソファに座るように促されたので、僕は仕方なく、そこに腰を下ろした。
「……なぜ」
「なぜ女性だと思ったか?」
かぶせるように言う彼に、思わず僕は怪訝な顔を向けてしまったが、彼は構わず続けた。
「それはね、白鐘君。君は細すぎるんだ。探偵という仕事をしているにしては、ね」
「細すぎる?」
馬鹿にされたような気がして、今度は敵意に満ちた目でじろりと彼を見てしまったが、それでも彼は全く動じずに、ひょいと肩を上げて言った。
「そうさ。探偵なんて仕事を生業にしていると、普通は不安になるものだよ。危険と隣合わせでいるうちに、自分を鍛えておかなければ気がすまなくなっていくんだ。私のように警察くずれの探偵で、元々鍛えている方でも、そうしなくては落ち着かない。とんでもない胆力を持った豪の者であれば別だが、私はそんな人間を今まで見たことがない。なのに、君は細い。本当に細すぎると言っていい。加えて、そんな圧倒的胆力を持った豪傑にも見えない。とすれば、自ずと答えは見えてくる」
彼は最後に、どうかね?と言ってこちらを見たが、僕はそれに簡単に頷くことは出来なかった。
彼になら不当に扱われることはないだろうし、別に女であることを認めてしまうこと自体はもう構わない。でもその推理をすぐに認めてしまうのは、何だか負けた気がして嫌だった。いささか乱暴な推理に思えなくもなかったのだ。
しかし僕は、自分以外の現実の探偵をしっかりと見たことがないので、それに対しての反論を持ち合わせていないのだった。実は探偵とはそういうものなのかもしれないと思う他ない。物語に出てくる探偵達も、何かしら武道の心得がある者が多かった。あれはそういうことだったのだろうかと、想像することくらいしか出来ない。
もうほとんど負け戦のようなものだったが、それでも僕は、思考を止めなかった。なんとか彼に一矢報いたいその一心で、考え続けた。
結果、こちらも暴論といえば暴論だが、何とか反論の糸口になるようなものは見つけられた。
彼の座っている位置。その位置だ。
彼が座っているソファからは、共同トイレの入り口がかろうじて見えるはずだった。少なくともどちらから出てきたかくらいは、なんとか分かるだろう。僕はさっき慌てていて、そこまで頭が回らなかったせいで、“本当の性別”の方に入ってしまっていたのだ。彼はそこから出てくる僕をちゃっかり見ていて、何食わぬ顔で僕に声をかけた。先程の推理は、この事実を確認してからの後付け。そういう可能性だって、ゼロじゃないのだ。
そうして僕が反論しようとして、顔を上げた時だった。
気付くと彼は、腹部を両手で抑えながらうずくまっていた。何やら小刻みに震えて、必死に何かに耐えている。
「くっく……っ」
彼はまた、なぜか笑っていた。よほど面白いことでもあったのか、僕を試した時とは違って、今度はもうはっきりと笑ってしまっている。
「……何を笑っているんです」
僕が思い切り棘を含んだ声でそう言っても、彼はそれには全く取り合わず、笑い続けた。僕は訳が分からず、黙るしかなかった。
最初は寡黙な人のようなイメージを受けたが、これ程容赦なく笑われると、その認識を改めざるを得ない。実はかなりおおらかな性格の人なのかもしれないと、僕は思い直した。
と言うかその前に、だ。人の顔を見てこんなに笑うなんて、いくら年上の人だと言っても失礼なんじゃないだろうか。僕はそんなに笑われるようなことはしていないはずだし、そんなに面白い顔でもないはずだ。
そうして冷ややかな視線を送り続けていると、彼はようやくその笑いを収め始め、
「やあ、すまないすまない。君があんまり可愛いものだから、つい」
と、頭を掻きながら僕に謝った。
「君が一生懸命考えているのが可愛くてね。つい昔を思い出してしまった」
ふるふると頭を振ってソファに居直る彼に対して、僕の頭の上には、大きなクエスチョンマークが浮かんでしまっていた。
文脈に合わない単語がぽろぽろと出て来て困惑する。また僕は、彼にテストでもされているのだろうか。
「まだ分からないのかね?」
そう言われても返す言葉が見つからない僕に、彼は少しだけショックを受けたような顔を見せた。何やらまた腹部をさすり、そんなに太った訳でも無いんだが、と深く溜息をつく。
「……お祖父さんは元気かい?」
「え?」
急に身内の心配をされて、僕は目を丸くしてしまった。
「あと、薬師寺君も。若手だった彼も、今じゃもういい年だろう」
頭の中のクエスチョンマークがどんどん大きくなっていく。
何だ?彼は何を言っている?
なぜ自分の身内のことを知っているのだろうか。僕のことも、元々知っているかのような口ぶりだ。
それでも分からなくてじっと見つめていたら、やれやれとばかりに呆れる彼から、思いもよらない言葉が出てきた。
その瞬間、僕は鮮明なセピア色の景色に包まれた。
答えは、もうずっと僕の目の前にあったのだ。
「まだ君は、高い所が好きなのかな」彼は感慨深そうに目を瞑り、耳の奥にまで響く、とても優しい声色で言った。「下りられなくなるからやめなさいと言っても、君は私の目を盗んでは木に登って遊んでいたけど、まさか今もじゃないだろうね?」
驚きのあまり、まだ焼かれたままの喉が引っかかった。
「まさか……」
どうして気付かなかったのか。思わず指まで差してしまいそうになって、慌てて引っ込めた。
「ユージ……おじさん?」
眩しそうに細められた、優し気な光の灯るその瞳と、そうして不敵に笑う口元とに。
僕は見覚えがあった。蓄えられたひげは増え、直線ばかりだった体つきは少し丸くなり、目元の皺は増えていたけれど。よくよく見てみるとその姿は、何度も何度も見たことがある、懐かしい彼のそれなのだった。
どうして一見で、こうも彼に憧れを抱いたのか。その理由が、今分かった。
そうして声が掠れてしまう程驚いている僕に、彼はまたひげの奥でニヤリと笑い、言ったのだった。
「やっと気付いたか。このおてんば娘め」
少し長くこの稼業をやっていると、この案件とは長い付き合いになるだろうな、と何となく分かってしまうことがある。そしてそういう時の仕事はもれなくその通りになって、自分のすべてをもってあたらなければならないことが多い。
きっとこの事件もそうなる。ここに立った瞬間からそうした予感めいたものを感じ、今一度気合を入れ直そうと、僕は背筋を伸ばして、大きく息を吐いた。
久々の緊張感に体の芯から震えが来る。高揚感も少しあったが、それは抑えた。そうするのが、犠牲者のいる現場に入る時の最低限の礼儀だと、最近は思うようになった。
「失礼します」
高級マンションの、とある一室。KEEP OUT表示のあるテープをくぐって中に入ると、早速慌ただしく動く警察関係者と何人もすれ違う。
廊下を通ってリビングに入ると、鑑識と思しき人間が数人と、刑事風の男が数人ある一点を見下ろしている場面に遭遇する。おそらくは、そこが現場なのだろう。
どう切り出してそこに入っていこうかと考えていると、刑事風の男の一人が、こちらに気付く。
おお、と少し驚いたように目を見開くと、その人はたっぷり生やした口ひげを撫でながら、口を開いた。
「これは、有名人のおでましだ」
ともすれば嫌味に聞こえなくもないその言葉だったが、本人の声色と、その柔らかな微笑から全く裏のない言葉なのだということがなんとなく分かる。おそらく悪気は一切ないのだろう。
彼のその声に、現場にいた人間が一斉に振り返る。ちょうどいいので、そのタイミングで自己紹介をした。
「白鐘直斗です。今日は、よろしくお願いします」
そう言うと、目の前の彼はニコニコしながら僕の手を取って、強引に握手をした。
正面に立って対峙すると、彼のその大きさに少し驚かされる。簡単に見積もっても180センチ以上はゆうにあるその身長もさることながら、そのカッチリとした服装の下に隠された、かなり鍛えあげられているだろう肉体に気圧された。
白いものが多く混じるその頭からすると、おそらく年は60前後。腹部は出るには出ているのだが、中年男性特有のあのだらしない感じは全くしない。分厚い筋肉の上に、年齢相応の脂肪が少し載っている。そんな感じだ。
そこにいる人間の中で、彼だけが異質だった。他は見れば警察関係者だとすぐ分かるのに、彼だけは纏っている空気が違う。
なんと言うか、こなれていた。スーツの上着を肩に抱え、グレーのフォーマルなウェストコートをしっかりと着こなしながらも、シャツの袖は捲って粋に着崩している。
彼と向き合った時から、僕は感嘆のため息を漏らしそうになるのを、内で必死にこらえ続けていた。
全てが完璧だったのだ。彼の姿は、自分の理想としていた姿そのものだった。
すでにそれを諦めて、自分なりの道を進もうと決めた所にこんなものを見せつけるように出してくるなんて、神様は本当に意地が悪いと思う。消せない憧れの感情と、その姿の眩しさとで、くらくらと目眩まで覚えるくらいだ。
彼は、そんな僕の心内など全く意に介さずに、にこりと微笑んでから、僕をその輪の中へと招き入れた。
「やあ、これはこれは、探偵王子じゃないですか。こりゃあこの事件が解決されるのも、時間の問題だな」
彼とは打って変わって軽口だと分かるそれを言ってのけたのは、その言葉の通りに軽薄そうな刑事だった。まだおそらく30代だろうに、よれよれのシャツと雑に緩めたネクタイのせいで、かなり老けて見える。本当に彼とは対照的だった。
「ちょうど猫の手も借りたいくらいだったんだ。せっかく来たんだから、ありがたく貸してもらおうか」
さすがに耳障りに思って一言返してやろうと思ったが、隣の彼が窘めるような視線を向けると、その男はバツが悪そうに口を尖らせながら、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
どうやら彼は、やはり一目置かれている存在らしい。何でも彼を通すのが、この現場でうまくやっていく方法となるかもしれない。
僕はこほんと咳払いをしてから、彼に言った。
「実はまだ、何も聞かされていないもので。よければ概要を教えていただけないでしょうか。ええと……」
見上げると、彼は推し量ってくれた。
「そういえば、自己紹介が遅れたかな。私はオノガミ。尾上雄治郎。よろしく頼むよ白鐘君」
そうして彼から名刺を受け取って、ああ、やっぱりな、と僕は思った。自分が彼から受けた印象は、やはり外れていなかったのだ。
尾上雄治郎。職業、探偵。
自分と同じように、一般人からの依頼を受けることはほとんど無く、主に警察だけでは手に余る事件を手がけているらしい。そうした人が自分以外にもいるとは聞いていたが、本来同業と同じ現場で鉢合わせすることはまず無いので、今回はかなり新鮮な仕事になりそうだった。
悪くすると意見がバッティングしたりして、あまりいい結果にならないんじゃないかと少し思ったが、この人が相手ならそれも大丈夫そうだと思い直した。彼の洗練されたその佇まいと、まるで凪の湖のように知的な光を湛えるその瞳が、そう思わせた。
「それじゃあ、何から話そうかな。犠牲者が出たっていうのはさすがに知っているんだろう?」
ビニールの掛けられたふくらみに向かって目で促す彼に、僕は頷いた。
「ええ」
「じゃあ、自殺か他殺かで揺れているというのは?」
その少し深刻そうな声色に、思わず彼を見上げた。
「そうなんですか?」
率直に問うと、彼はあごひげをカリカリと掻きながら、困ったように言った。
「同じような事件がもうこれで3件目なんだが、どうにも特定しづらくてね。普通似た事件が連続したら、他殺でほぼ確定だと言ってもいいはずなんだが……」
彼はそこで、腰に手を当てながら、部屋の奥に視線を送った。
20畳はありそうなその部屋は、以前はさぞ素晴らしく居心地のいい空間だったのだろうが、今は見るも無残に荒らされている状態だった。服が散乱していたり、テーブルや椅子がめちゃくちゃに転がっている。その上上等そうな革のソファには、刃物で何度も切りつけられたかのような跡まであり、この場でかまいたちでも発生したんじゃないかと思ってしまうくらいの、ひどい有様だった。
その部屋を見渡しながら、すごいだろう、と彼は言った。
「3件ともこれと同じように部屋が荒れていたんだが、ぱっと目につく財産に手は付けられていないし、どうも物盗りって感じでもない。誰かが暴れているような音がするという知らせを受けて管理人が部屋に来てみると、すでに部屋はこの状態で、部屋の主も亡くなっていたらしい。その際きっちりと部屋の施錠はされていて、部屋の主以外に誰かが入ったというのもなかなか考えにくい状況だ。階ごとに設置されている防犯カメラにも、居住者以外には何も映っていなかった。3件とも、ほぼその状況に違いは無い。これだけ共通していれば、一応全て関連する事件として捜査せざるを得ない訳だが、肝心の3人に共通するものが今のところ見当たらないから、今は鑑識待ち状態、といった所かな」
彼が奥の方に歩いて行くので、ついて歩いた。テラス前の無残に割られた窓ガラスの前まで来ると、彼は言った。
「どう思うね?」
突然問われて、僕は目を丸くしてしまった。
どう思う、とはどういうことか。単純にこの窓ガラスを見てどう思うか、ということだろうか。
問い返そうと彼を見上げたが、その顔を見て、僕は口を結び直した。
彼は笑っていた。ほんの少し、口角を上げるだけの薄い笑みではあったが、間違いなく彼は少しだけ意地が悪そうに笑っていた。
それを見た瞬間、試されている、と直感的に思った。彼はあえて情報をまばらに与えることで、こちらの実力を試そうとしているのだ。おそらく、自分と組むに値するかどうかを見るために。
僕は、それと分からないようにため息をついてから、帽子を深く被り直した。
そういうことなら、力を示すしか無い。まずはとにかく、目の前のこれから詰めていくこととしよう。
「……内側から割られていますね」
そう言うと、彼は両眉をくい、と上げながら言った。
「その通り。破片の大半がテラスに向かって飛び散っている。それは、見れば分かる」
大事なのはその先。じっと見つめてくる彼の目がそう言っていたので、僕は続けた。
「これは、高層マンションでよく使われている合わせガラスですね。2重の強化ガラスの間に特殊フィルムが挟まっているので、非常に割れにくいか、割れてもそのフィルムによってこうして完全に突き破るのは簡単ではないはずです。それをこうも見事にかち割るなんて、すごい力ですね」
テラスに出るために開閉可能な窓で2枚。それ以外の部分の完全固定のガラスが2枚。4枚とも、全てが見事に割られている。
「……知らせを受けてから、管理人の人がここに来るまでの時間はどれぐらいだったんでしょうか」
「今回は、非常に早かったみたいだな。ものの数分といったところか。他の2件も、10分以内には駆けつけているようだ」
彼のその言葉を受けて、僕は考えこんでしまった。
通常、こうして合わせガラスを完全に割るためには、どんなに頑張っても2、3分はかかる。しかもこうした高層マンションのそれは、通常のものよりもさらに割れにくくなっているはずだ。4枚ものこれをここまで破壊するためには、いささか時間が足らないように思えた。
「鈍器のようなものはありましたか?」
「無いな。一応別の部屋にゴルフのクラブセットがあったが、使われたような形跡はない」
僕は気付くと、いつものように口元に手を当て、考えこむ体制をとってしまっていた。
一体どういうことなのか。やはり何か爆発のようなものでも起きたのかと一瞬考えたが、部屋の状況からしてそういう感じではない。その場合は均等に部屋が荒れる感じになるはずだが、この部屋はどちらかと言うと、人が自らで局所的な破壊行動をしたようにしか見えなかった。
そもそも、この事件はおかしな所が多い。居住者以外の誰かならともかく、なぜ居住者自身が自分の部屋を破壊するような事をしなければならないのか。そのあたりが上手く頭に入ってこない。
「この部屋には、管理人の人以外誰も来ていないんですよね?」
そう訊くと、彼は頷きだけをよこした。
僕はますます考えこんでしまった。そうなると後は……。
「……あの方は、何か薬でもやっていたんですか?」
警察関係者に囲まれるその人の所に視線を送ると、彼は言った。
「その可能性はあるようだね。彼の寝室から、何かの錠剤が見つかっている。薬手帳などの処方記録書みたいなものは見つかっていないがね」
彼のその言葉で、少し事件の形が見えてきた気がした。
「その薬、他の事件でも?」
「似たようなものが見つかっているね」
なるほど、そういうことか。
そう難しいものではない。おそらく、この事件の概要はこうだ。
何らかの薬によって錯乱状態に陥った被害者が、幻覚か何かを見て、部屋をしこたま荒らす。そして被害者はそのまま薬の作用で亡くなってしまうか、もしくは、錯乱して暴れまわっているうちに頭を打つなどして亡くなってしまう。単純にこういう構図だろうと思われる。
「なぜ自殺か他殺か断定出来ないかは、彼らがその薬を自らの意志で得たのかどうかが現状分からないからでしょう。どこかから自殺できる薬を得て、自ら飲んだのか。それとも、それと知らずに悪意のある者にどこかで処方されて、飲んでしまったのか。それは薬の成分や、入手経路などを詳しく調べてみないと分からない。だからあなたは、鑑識待ち状態だと言った。そういうことかと僕は考えます」
大筋は間違えていないだろうと思う。しかし、依然としてこのガラスの不可思議さは残る。どうしてもここだけが、上手くパズルのピースとしてはまってくれない。
しかしとにかく、そうして自分の考えの全てを伝えると、彼はいつからか組んでいた腕を解き、
「……なるほど」
と、少し嬉しそうに頷きながら笑った。
「今そこにある情報、状況から、考えられる全てを頭の中で描き、そこから蓋然性の高いものを選り抜いていく。その時には、あくまで優先順位をつけるのみで、これはまずないだろうという考えも頭の片隅には残しておく。それが正しい推理の方法だと私は思うが、なかなかどうして」
彼はそこで、にいっと子供のように笑った。
「やるじゃないか探偵王子。もちろんこれが全てじゃあないだろうが、余裕の及第点だよ。ほぼ一瞥でこのガラスの異様さに気付く知識、そして明かされていない情報へと辿り着くその推理力。共に素晴らしい。その年で、よくもまあここまでやるものだ」
そこまで言うと、彼は胸に手を当てながら、試すような真似をして悪かったといささか仰々しく僕に謝った。やはりどうしても、どこまで出来るのかが知りたかったらしい。
年上の人間に頭を下げさせるのはどうにも落ち着かない。僕は慌てて彼に頭を上げるように言った。一緒に仕事をする人間の実力を知りたいという気持ちはよく分かるので、何も問題はないのだ。むしろ、そうしてしかるべきだとさえ僕は思う。
「そう言ってもらえると救われるよ。結構嫌われるタチだからね。私は」
しかし彼がそこで言った、結びの言葉が少し気になった。
「……本当に、よくもここまでになったものだ」
彼はそうして、何か愛おしいものでも見るかのように目を細め、僕を眩しそうに見るのだった。
なぜ彼がこんな表情をするのかと考えてみても、理由は分からなかった。それを推理するには、まだ少し与えられている情報が少なすぎると思う。じっと僕が不思議そうに見つめてみても、彼はただにこりと笑い返してくるだけだったので、その理由を考えるのは早々に諦めた。最初からぽんぽんと自分のことをあけすけに話す人もまあなかなかいないと思うので、気にはなったが、ひとまずそれは頭の隅に追いやることにする。一緒に仕事をするうちに、話してくれることもあるかもしれない。
「さて、偉そうにテストをするのはもう終わりだ。これからはきちんと仕事をしよう」
軽くパン、と手を叩くと、彼は言った。
「早速だが、君の唯一の疑問。このガラスについて、少し補足をしたい」
と、彼がまた歩き出すのでついていく。関係者の間を縫うようにしてリビングから廊下に出ると、彼はいくつかある部屋の中の一つの前で立ち止まり、僕を促した。
「見てみなさい」
言われるまま、僕はそのドアのノブに手をかけた。
いきなり凄惨な現場にでくわす場合もあるので少し慎重にドアを開いたが、取り越し苦労だということにすぐに気が付く。
荒れているには荒れているが、そこは特に派手な現場でも何でも無く、ただ少しものが散らかっている程度の寝室だった。大きなベッドが中央に一つあるが、部屋自体が6畳ほどしかないため、他に大きな家具はない。本当に寝るためだけの部屋といった感じだ。
そうして見てみると、一見何の変哲もないその部屋。
しかし、一つ気になる所があった。
「これは、姿見ですか」
部屋の片隅に、長さは2メートル弱、幅は50センチ程の細長い木製の枠のようなものがあり、その下にバラバラに砕かれた鏡が散乱していた。木枠には一切の鏡部分が残っていなくて、全て綺麗に地面に落ちてしまっている。そしてその鏡自体には、いくつか血が付いているものが散見された。
部屋の中は至って普通。しかしその鏡だけが、異様だった。
「どうも、明確な意思を感じますね。普通はこんなに粉々になるまで割らないでしょう」
同じように思っていたのか、彼は然りと頷いた。
「他の部屋にも同じようなものがあったんだが、こうやって割られていたよ。洗面所の鏡なんかはもっとひどくて、後ろの壁がへこむくらい、まるで憎い敵でも相手にしているかのように、執拗なまでに割られていた」
言いながら、彼はまたごしごしと自分の髭を擦る。どうやらこれは、彼の癖のようだ。
「他の事件でも、ガラスや鏡のような、自分を映すものの類がことごとく壊されている。これは一体、なぜだと思う?」
それについては、すでにあたりがついていた。
僕は少し頭の整理も兼ねながら、彼に答えた。
何かしらの薬の中毒に陥った者は、多くの場合、幻覚を見る。その中には楽しげな幻覚もあるようだが、何か恐ろしい、得体のしれないものを見てしまう場合も多いらしい。過剰に他人を怖がったり攻撃的になったりするのはこのためで、日常生活ではなんとも思わないようなモノにでも、彼らは怯えるようになる。小動物のような精神状態と言ってもいいかもしれない。自分以外の動く何かに、過敏に反応してしまうのだ。
代表的なモノで言うと、テレビ。普通の人にとっては何も怖い所などあるはずもないものだが、そのめまぐるしく画面が切り替わる様は、彼らにとっては恐怖の対象でしかない。ただでさえ怖い化け物が、次々とその形を変えていくのだからたまったものではない。これは悪夢を見た経験のある者であれば、誰でも何となく想像がつくと思う。
そして、今回の姿見の類。これも同様なのだと思われる。鏡に映った自分の姿が、自分以外の恐ろしい何かに見えてしまう。だから彼らは執拗にそれを破壊して回った。とりあえずの心の平穏を得るために。
そう答えると、彼はまた頷いた。
「その通り。彼らは薬によって心神耗弱状態となり、結果、ガラスや鏡に映る自分を敵だと思い込み、それらを割った。私もそう思う」
それでほぼ間違いないはずなのだが、どうしても問題は残ってしまう。
彼もそれは重々分かっているようで、僕が視線を向けると、彼は困ったように眉をひそめて言った。
「最初はそれだけの事件なのだと私も思っていた。しかしさっき君が言った通り、あのテラス前のガラスだけはどうにもおかしい。私はあのてのガラスの耐久実験を実際に見たことがあるが、そうそう簡単に割れるものじゃあない。素手では突き破るのはほぼ無理な代物だよ」
彼はしかし、幾分険しい表情になりながら、次ににわかには信じられないことを言ってのけた。
「なのにあのガラスは、おそらく素手で割られている。被害者の手には、何かを殴ったような傷と、そのガラスの破片が付着していた。私としても未だに信じられないことだが……ほぼ間違いなく、彼は素手であのガラスを割ったという結論に、私は至った」
あのガラスを、素手で割った?
信じられなくて、彼に一応確認した。
「……あの方は、何か格闘技でも?」
すると彼は、明確に首を横に振る。
至って普通の、どこにでもいる体型の人だったと、彼は言った。
「信じられません」
自分の推理が間違っているとは思えなかった。なのにその糸を手繰っていくと、その先はきつく玉止めされた行き止まりだった。自分が手繰り寄せた確かな糸はそれだけで、あとに残されたものは何もない。
(……いや)
あるには、あった。
自分の手に残されたのは、あと一本のか細い糸。少し風でも吹けば、すぐにどこかへと飛んでいってしまうようなその頼りない糸は、しかしうっすらと、どこかへと繋がっていた。
しかしだからと言って、この糸を安易に選択するということは避けなければならない。ある意味では、それは推理の放棄に繋がっていると言えなくもないからだ。
通常考えられることを、通常の範囲で推理すること。それは探偵が物事を推理する上で守らなければならない、大事な決まり事の一つだと思う。少しうまく説明出来ないことがあったからといって、すぐにやれお化けの仕業だの、プラズマの仕業だのと言ってしまっていては、探偵という仕事は務まらないからだ。そんな考え方は、どこかのオカルト好きのジャーナリストにでも任せておけばいい。少なくともそれは探偵の領分ではないと、僕は思う。
でも、と僕は、自分の手のひらをじっと見つめた。
この細い糸は、そういう探偵の通常の領分を超えた所に伸びている糸だ。普通の探偵なら、たとえそれしか掴めるものがなかったとしても、決して選ばない。少し前の自分であれば、こんなものは真っ先に捨てていただろう。推理をする上では、なるべくノイズになるようなものは排除してきた自分だから。
だけど僕は、もう知っているのだった。そんな通常ではありえないことも、確かに世の中には存在しているのだということを。
かの地で僕は、それを嫌というほど味わった。そういう自分だからこそ、この糸をかろうじて離さないで持っていることが出来る。僕でギリギリそうなのだから、普通の探偵ではまず持ち続けているのは不可能な代物のはずだ。
「……少し、突飛なことを言ってもいいかな」
だからこそ僕は、驚きを隠せなかった。
彼がまさか、その糸を放さず持っているだなんて、思わなかったのだ。
「もしかしたら、幻覚などではないのかもしれない」
「……と言うと?」
「つまり、その……」
きっちり前置きまでしたのに、彼は迷った。
たっぷり数十秒程そうして逡巡しはしたが、彼は結局、僕の目を真っ直ぐに見て、こう言った。
「鏡に写った自分が、幻覚で恐ろしいものに見えた。そうではなく、実際に彼は、なってしまったのかもしれないということだよ」
「何にです?」
一応訊いたが、想像した通りの答えが返ってきた。
「化け物に、だよ」
彼の目は冗談を言っているようなものでは全く無く、むしろ僕には、複雑に感情が入り混じった、ひどく険しいものに見えた。
彼はきっと、今来たばかりの僕よりも、考え抜いてるはずなのだ。なのに考えた末に、それしか選ぶことが出来なかった。そういう悔しさが、彼の表情からありありと伝わってくる。
彼は拳を握り締め、その負の感情に懸命に堪えている。僕にはそう見えた。
「天井を」
ふいに彼が上を見上げたので、それに倣う。
「擦り傷のようなものが無数に残っているだろう。見えるかな」
3~4m程の、少し高めの天井。彼に促されて見てみると、そこには確かに何かで擦ったような傷がいくつもあった。
「どうやってついたんだろうねこの傷は」
そう言ったかと思うと、彼はおもむろに靴を脱ぎ、傍にあったベッドに乗った。
「……結構背は高いつもりなんだが、やっぱり届かんな、これは」
十分巨漢と言ってもいいはずの彼でも、伸ばした手は空を切る。そうなると、天井にこのような傷を残すためには、やはり何かしらの得物か、脚立でもなければ無理ということになる。この部屋の主は標準的な体型と言っていたから、なおさらだ。
「認めたくはないがね」
彼はベッドから降りてそこに座り、その大きな靴を履き直しながら言った。
「超人ハルクにでもなってしまったかね。彼は」
長い溜息をつきながら立ち上がり、彼は僕を見た。
「君はどう思う?白鐘君」
今度はこちらを試す質問などではなく、おそらく彼の心からの問いだった。
「……被害者の方を拝見させてもらっても?」
「もちろん」
だからこそ、すぐに返答するのはためらわれた。とりあえず確認したいこともある。
そろそろ司法解剖にまわされてしまうだろうから早いほうがいいと彼が言ったので、僕らはすぐにその部屋を後にし、リビングへと足を向けた。
きっとこの事件もそうなる。ここに立った瞬間からそうした予感めいたものを感じ、今一度気合を入れ直そうと、僕は背筋を伸ばして、大きく息を吐いた。
久々の緊張感に体の芯から震えが来る。高揚感も少しあったが、それは抑えた。そうするのが、犠牲者のいる現場に入る時の最低限の礼儀だと、最近は思うようになった。
「失礼します」
高級マンションの、とある一室。KEEP OUT表示のあるテープをくぐって中に入ると、早速慌ただしく動く警察関係者と何人もすれ違う。
廊下を通ってリビングに入ると、鑑識と思しき人間が数人と、刑事風の男が数人ある一点を見下ろしている場面に遭遇する。おそらくは、そこが現場なのだろう。
どう切り出してそこに入っていこうかと考えていると、刑事風の男の一人が、こちらに気付く。
おお、と少し驚いたように目を見開くと、その人はたっぷり生やした口ひげを撫でながら、口を開いた。
「これは、有名人のおでましだ」
ともすれば嫌味に聞こえなくもないその言葉だったが、本人の声色と、その柔らかな微笑から全く裏のない言葉なのだということがなんとなく分かる。おそらく悪気は一切ないのだろう。
彼のその声に、現場にいた人間が一斉に振り返る。ちょうどいいので、そのタイミングで自己紹介をした。
「白鐘直斗です。今日は、よろしくお願いします」
そう言うと、目の前の彼はニコニコしながら僕の手を取って、強引に握手をした。
正面に立って対峙すると、彼のその大きさに少し驚かされる。簡単に見積もっても180センチ以上はゆうにあるその身長もさることながら、そのカッチリとした服装の下に隠された、かなり鍛えあげられているだろう肉体に気圧された。
白いものが多く混じるその頭からすると、おそらく年は60前後。腹部は出るには出ているのだが、中年男性特有のあのだらしない感じは全くしない。分厚い筋肉の上に、年齢相応の脂肪が少し載っている。そんな感じだ。
そこにいる人間の中で、彼だけが異質だった。他は見れば警察関係者だとすぐ分かるのに、彼だけは纏っている空気が違う。
なんと言うか、こなれていた。スーツの上着を肩に抱え、グレーのフォーマルなウェストコートをしっかりと着こなしながらも、シャツの袖は捲って粋に着崩している。
彼と向き合った時から、僕は感嘆のため息を漏らしそうになるのを、内で必死にこらえ続けていた。
全てが完璧だったのだ。彼の姿は、自分の理想としていた姿そのものだった。
すでにそれを諦めて、自分なりの道を進もうと決めた所にこんなものを見せつけるように出してくるなんて、神様は本当に意地が悪いと思う。消せない憧れの感情と、その姿の眩しさとで、くらくらと目眩まで覚えるくらいだ。
彼は、そんな僕の心内など全く意に介さずに、にこりと微笑んでから、僕をその輪の中へと招き入れた。
「やあ、これはこれは、探偵王子じゃないですか。こりゃあこの事件が解決されるのも、時間の問題だな」
彼とは打って変わって軽口だと分かるそれを言ってのけたのは、その言葉の通りに軽薄そうな刑事だった。まだおそらく30代だろうに、よれよれのシャツと雑に緩めたネクタイのせいで、かなり老けて見える。本当に彼とは対照的だった。
「ちょうど猫の手も借りたいくらいだったんだ。せっかく来たんだから、ありがたく貸してもらおうか」
さすがに耳障りに思って一言返してやろうと思ったが、隣の彼が窘めるような視線を向けると、その男はバツが悪そうに口を尖らせながら、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
どうやら彼は、やはり一目置かれている存在らしい。何でも彼を通すのが、この現場でうまくやっていく方法となるかもしれない。
僕はこほんと咳払いをしてから、彼に言った。
「実はまだ、何も聞かされていないもので。よければ概要を教えていただけないでしょうか。ええと……」
見上げると、彼は推し量ってくれた。
「そういえば、自己紹介が遅れたかな。私はオノガミ。尾上雄治郎。よろしく頼むよ白鐘君」
そうして彼から名刺を受け取って、ああ、やっぱりな、と僕は思った。自分が彼から受けた印象は、やはり外れていなかったのだ。
尾上雄治郎。職業、探偵。
自分と同じように、一般人からの依頼を受けることはほとんど無く、主に警察だけでは手に余る事件を手がけているらしい。そうした人が自分以外にもいるとは聞いていたが、本来同業と同じ現場で鉢合わせすることはまず無いので、今回はかなり新鮮な仕事になりそうだった。
悪くすると意見がバッティングしたりして、あまりいい結果にならないんじゃないかと少し思ったが、この人が相手ならそれも大丈夫そうだと思い直した。彼の洗練されたその佇まいと、まるで凪の湖のように知的な光を湛えるその瞳が、そう思わせた。
「それじゃあ、何から話そうかな。犠牲者が出たっていうのはさすがに知っているんだろう?」
ビニールの掛けられたふくらみに向かって目で促す彼に、僕は頷いた。
「ええ」
「じゃあ、自殺か他殺かで揺れているというのは?」
その少し深刻そうな声色に、思わず彼を見上げた。
「そうなんですか?」
率直に問うと、彼はあごひげをカリカリと掻きながら、困ったように言った。
「同じような事件がもうこれで3件目なんだが、どうにも特定しづらくてね。普通似た事件が連続したら、他殺でほぼ確定だと言ってもいいはずなんだが……」
彼はそこで、腰に手を当てながら、部屋の奥に視線を送った。
20畳はありそうなその部屋は、以前はさぞ素晴らしく居心地のいい空間だったのだろうが、今は見るも無残に荒らされている状態だった。服が散乱していたり、テーブルや椅子がめちゃくちゃに転がっている。その上上等そうな革のソファには、刃物で何度も切りつけられたかのような跡まであり、この場でかまいたちでも発生したんじゃないかと思ってしまうくらいの、ひどい有様だった。
その部屋を見渡しながら、すごいだろう、と彼は言った。
「3件ともこれと同じように部屋が荒れていたんだが、ぱっと目につく財産に手は付けられていないし、どうも物盗りって感じでもない。誰かが暴れているような音がするという知らせを受けて管理人が部屋に来てみると、すでに部屋はこの状態で、部屋の主も亡くなっていたらしい。その際きっちりと部屋の施錠はされていて、部屋の主以外に誰かが入ったというのもなかなか考えにくい状況だ。階ごとに設置されている防犯カメラにも、居住者以外には何も映っていなかった。3件とも、ほぼその状況に違いは無い。これだけ共通していれば、一応全て関連する事件として捜査せざるを得ない訳だが、肝心の3人に共通するものが今のところ見当たらないから、今は鑑識待ち状態、といった所かな」
彼が奥の方に歩いて行くので、ついて歩いた。テラス前の無残に割られた窓ガラスの前まで来ると、彼は言った。
「どう思うね?」
突然問われて、僕は目を丸くしてしまった。
どう思う、とはどういうことか。単純にこの窓ガラスを見てどう思うか、ということだろうか。
問い返そうと彼を見上げたが、その顔を見て、僕は口を結び直した。
彼は笑っていた。ほんの少し、口角を上げるだけの薄い笑みではあったが、間違いなく彼は少しだけ意地が悪そうに笑っていた。
それを見た瞬間、試されている、と直感的に思った。彼はあえて情報をまばらに与えることで、こちらの実力を試そうとしているのだ。おそらく、自分と組むに値するかどうかを見るために。
僕は、それと分からないようにため息をついてから、帽子を深く被り直した。
そういうことなら、力を示すしか無い。まずはとにかく、目の前のこれから詰めていくこととしよう。
「……内側から割られていますね」
そう言うと、彼は両眉をくい、と上げながら言った。
「その通り。破片の大半がテラスに向かって飛び散っている。それは、見れば分かる」
大事なのはその先。じっと見つめてくる彼の目がそう言っていたので、僕は続けた。
「これは、高層マンションでよく使われている合わせガラスですね。2重の強化ガラスの間に特殊フィルムが挟まっているので、非常に割れにくいか、割れてもそのフィルムによってこうして完全に突き破るのは簡単ではないはずです。それをこうも見事にかち割るなんて、すごい力ですね」
テラスに出るために開閉可能な窓で2枚。それ以外の部分の完全固定のガラスが2枚。4枚とも、全てが見事に割られている。
「……知らせを受けてから、管理人の人がここに来るまでの時間はどれぐらいだったんでしょうか」
「今回は、非常に早かったみたいだな。ものの数分といったところか。他の2件も、10分以内には駆けつけているようだ」
彼のその言葉を受けて、僕は考えこんでしまった。
通常、こうして合わせガラスを完全に割るためには、どんなに頑張っても2、3分はかかる。しかもこうした高層マンションのそれは、通常のものよりもさらに割れにくくなっているはずだ。4枚ものこれをここまで破壊するためには、いささか時間が足らないように思えた。
「鈍器のようなものはありましたか?」
「無いな。一応別の部屋にゴルフのクラブセットがあったが、使われたような形跡はない」
僕は気付くと、いつものように口元に手を当て、考えこむ体制をとってしまっていた。
一体どういうことなのか。やはり何か爆発のようなものでも起きたのかと一瞬考えたが、部屋の状況からしてそういう感じではない。その場合は均等に部屋が荒れる感じになるはずだが、この部屋はどちらかと言うと、人が自らで局所的な破壊行動をしたようにしか見えなかった。
そもそも、この事件はおかしな所が多い。居住者以外の誰かならともかく、なぜ居住者自身が自分の部屋を破壊するような事をしなければならないのか。そのあたりが上手く頭に入ってこない。
「この部屋には、管理人の人以外誰も来ていないんですよね?」
そう訊くと、彼は頷きだけをよこした。
僕はますます考えこんでしまった。そうなると後は……。
「……あの方は、何か薬でもやっていたんですか?」
警察関係者に囲まれるその人の所に視線を送ると、彼は言った。
「その可能性はあるようだね。彼の寝室から、何かの錠剤が見つかっている。薬手帳などの処方記録書みたいなものは見つかっていないがね」
彼のその言葉で、少し事件の形が見えてきた気がした。
「その薬、他の事件でも?」
「似たようなものが見つかっているね」
なるほど、そういうことか。
そう難しいものではない。おそらく、この事件の概要はこうだ。
何らかの薬によって錯乱状態に陥った被害者が、幻覚か何かを見て、部屋をしこたま荒らす。そして被害者はそのまま薬の作用で亡くなってしまうか、もしくは、錯乱して暴れまわっているうちに頭を打つなどして亡くなってしまう。単純にこういう構図だろうと思われる。
「なぜ自殺か他殺か断定出来ないかは、彼らがその薬を自らの意志で得たのかどうかが現状分からないからでしょう。どこかから自殺できる薬を得て、自ら飲んだのか。それとも、それと知らずに悪意のある者にどこかで処方されて、飲んでしまったのか。それは薬の成分や、入手経路などを詳しく調べてみないと分からない。だからあなたは、鑑識待ち状態だと言った。そういうことかと僕は考えます」
大筋は間違えていないだろうと思う。しかし、依然としてこのガラスの不可思議さは残る。どうしてもここだけが、上手くパズルのピースとしてはまってくれない。
しかしとにかく、そうして自分の考えの全てを伝えると、彼はいつからか組んでいた腕を解き、
「……なるほど」
と、少し嬉しそうに頷きながら笑った。
「今そこにある情報、状況から、考えられる全てを頭の中で描き、そこから蓋然性の高いものを選り抜いていく。その時には、あくまで優先順位をつけるのみで、これはまずないだろうという考えも頭の片隅には残しておく。それが正しい推理の方法だと私は思うが、なかなかどうして」
彼はそこで、にいっと子供のように笑った。
「やるじゃないか探偵王子。もちろんこれが全てじゃあないだろうが、余裕の及第点だよ。ほぼ一瞥でこのガラスの異様さに気付く知識、そして明かされていない情報へと辿り着くその推理力。共に素晴らしい。その年で、よくもまあここまでやるものだ」
そこまで言うと、彼は胸に手を当てながら、試すような真似をして悪かったといささか仰々しく僕に謝った。やはりどうしても、どこまで出来るのかが知りたかったらしい。
年上の人間に頭を下げさせるのはどうにも落ち着かない。僕は慌てて彼に頭を上げるように言った。一緒に仕事をする人間の実力を知りたいという気持ちはよく分かるので、何も問題はないのだ。むしろ、そうしてしかるべきだとさえ僕は思う。
「そう言ってもらえると救われるよ。結構嫌われるタチだからね。私は」
しかし彼がそこで言った、結びの言葉が少し気になった。
「……本当に、よくもここまでになったものだ」
彼はそうして、何か愛おしいものでも見るかのように目を細め、僕を眩しそうに見るのだった。
なぜ彼がこんな表情をするのかと考えてみても、理由は分からなかった。それを推理するには、まだ少し与えられている情報が少なすぎると思う。じっと僕が不思議そうに見つめてみても、彼はただにこりと笑い返してくるだけだったので、その理由を考えるのは早々に諦めた。最初からぽんぽんと自分のことをあけすけに話す人もまあなかなかいないと思うので、気にはなったが、ひとまずそれは頭の隅に追いやることにする。一緒に仕事をするうちに、話してくれることもあるかもしれない。
「さて、偉そうにテストをするのはもう終わりだ。これからはきちんと仕事をしよう」
軽くパン、と手を叩くと、彼は言った。
「早速だが、君の唯一の疑問。このガラスについて、少し補足をしたい」
と、彼がまた歩き出すのでついていく。関係者の間を縫うようにしてリビングから廊下に出ると、彼はいくつかある部屋の中の一つの前で立ち止まり、僕を促した。
「見てみなさい」
言われるまま、僕はそのドアのノブに手をかけた。
いきなり凄惨な現場にでくわす場合もあるので少し慎重にドアを開いたが、取り越し苦労だということにすぐに気が付く。
荒れているには荒れているが、そこは特に派手な現場でも何でも無く、ただ少しものが散らかっている程度の寝室だった。大きなベッドが中央に一つあるが、部屋自体が6畳ほどしかないため、他に大きな家具はない。本当に寝るためだけの部屋といった感じだ。
そうして見てみると、一見何の変哲もないその部屋。
しかし、一つ気になる所があった。
「これは、姿見ですか」
部屋の片隅に、長さは2メートル弱、幅は50センチ程の細長い木製の枠のようなものがあり、その下にバラバラに砕かれた鏡が散乱していた。木枠には一切の鏡部分が残っていなくて、全て綺麗に地面に落ちてしまっている。そしてその鏡自体には、いくつか血が付いているものが散見された。
部屋の中は至って普通。しかしその鏡だけが、異様だった。
「どうも、明確な意思を感じますね。普通はこんなに粉々になるまで割らないでしょう」
同じように思っていたのか、彼は然りと頷いた。
「他の部屋にも同じようなものがあったんだが、こうやって割られていたよ。洗面所の鏡なんかはもっとひどくて、後ろの壁がへこむくらい、まるで憎い敵でも相手にしているかのように、執拗なまでに割られていた」
言いながら、彼はまたごしごしと自分の髭を擦る。どうやらこれは、彼の癖のようだ。
「他の事件でも、ガラスや鏡のような、自分を映すものの類がことごとく壊されている。これは一体、なぜだと思う?」
それについては、すでにあたりがついていた。
僕は少し頭の整理も兼ねながら、彼に答えた。
何かしらの薬の中毒に陥った者は、多くの場合、幻覚を見る。その中には楽しげな幻覚もあるようだが、何か恐ろしい、得体のしれないものを見てしまう場合も多いらしい。過剰に他人を怖がったり攻撃的になったりするのはこのためで、日常生活ではなんとも思わないようなモノにでも、彼らは怯えるようになる。小動物のような精神状態と言ってもいいかもしれない。自分以外の動く何かに、過敏に反応してしまうのだ。
代表的なモノで言うと、テレビ。普通の人にとっては何も怖い所などあるはずもないものだが、そのめまぐるしく画面が切り替わる様は、彼らにとっては恐怖の対象でしかない。ただでさえ怖い化け物が、次々とその形を変えていくのだからたまったものではない。これは悪夢を見た経験のある者であれば、誰でも何となく想像がつくと思う。
そして、今回の姿見の類。これも同様なのだと思われる。鏡に映った自分の姿が、自分以外の恐ろしい何かに見えてしまう。だから彼らは執拗にそれを破壊して回った。とりあえずの心の平穏を得るために。
そう答えると、彼はまた頷いた。
「その通り。彼らは薬によって心神耗弱状態となり、結果、ガラスや鏡に映る自分を敵だと思い込み、それらを割った。私もそう思う」
それでほぼ間違いないはずなのだが、どうしても問題は残ってしまう。
彼もそれは重々分かっているようで、僕が視線を向けると、彼は困ったように眉をひそめて言った。
「最初はそれだけの事件なのだと私も思っていた。しかしさっき君が言った通り、あのテラス前のガラスだけはどうにもおかしい。私はあのてのガラスの耐久実験を実際に見たことがあるが、そうそう簡単に割れるものじゃあない。素手では突き破るのはほぼ無理な代物だよ」
彼はしかし、幾分険しい表情になりながら、次ににわかには信じられないことを言ってのけた。
「なのにあのガラスは、おそらく素手で割られている。被害者の手には、何かを殴ったような傷と、そのガラスの破片が付着していた。私としても未だに信じられないことだが……ほぼ間違いなく、彼は素手であのガラスを割ったという結論に、私は至った」
あのガラスを、素手で割った?
信じられなくて、彼に一応確認した。
「……あの方は、何か格闘技でも?」
すると彼は、明確に首を横に振る。
至って普通の、どこにでもいる体型の人だったと、彼は言った。
「信じられません」
自分の推理が間違っているとは思えなかった。なのにその糸を手繰っていくと、その先はきつく玉止めされた行き止まりだった。自分が手繰り寄せた確かな糸はそれだけで、あとに残されたものは何もない。
(……いや)
あるには、あった。
自分の手に残されたのは、あと一本のか細い糸。少し風でも吹けば、すぐにどこかへと飛んでいってしまうようなその頼りない糸は、しかしうっすらと、どこかへと繋がっていた。
しかしだからと言って、この糸を安易に選択するということは避けなければならない。ある意味では、それは推理の放棄に繋がっていると言えなくもないからだ。
通常考えられることを、通常の範囲で推理すること。それは探偵が物事を推理する上で守らなければならない、大事な決まり事の一つだと思う。少しうまく説明出来ないことがあったからといって、すぐにやれお化けの仕業だの、プラズマの仕業だのと言ってしまっていては、探偵という仕事は務まらないからだ。そんな考え方は、どこかのオカルト好きのジャーナリストにでも任せておけばいい。少なくともそれは探偵の領分ではないと、僕は思う。
でも、と僕は、自分の手のひらをじっと見つめた。
この細い糸は、そういう探偵の通常の領分を超えた所に伸びている糸だ。普通の探偵なら、たとえそれしか掴めるものがなかったとしても、決して選ばない。少し前の自分であれば、こんなものは真っ先に捨てていただろう。推理をする上では、なるべくノイズになるようなものは排除してきた自分だから。
だけど僕は、もう知っているのだった。そんな通常ではありえないことも、確かに世の中には存在しているのだということを。
かの地で僕は、それを嫌というほど味わった。そういう自分だからこそ、この糸をかろうじて離さないで持っていることが出来る。僕でギリギリそうなのだから、普通の探偵ではまず持ち続けているのは不可能な代物のはずだ。
「……少し、突飛なことを言ってもいいかな」
だからこそ僕は、驚きを隠せなかった。
彼がまさか、その糸を放さず持っているだなんて、思わなかったのだ。
「もしかしたら、幻覚などではないのかもしれない」
「……と言うと?」
「つまり、その……」
きっちり前置きまでしたのに、彼は迷った。
たっぷり数十秒程そうして逡巡しはしたが、彼は結局、僕の目を真っ直ぐに見て、こう言った。
「鏡に写った自分が、幻覚で恐ろしいものに見えた。そうではなく、実際に彼は、なってしまったのかもしれないということだよ」
「何にです?」
一応訊いたが、想像した通りの答えが返ってきた。
「化け物に、だよ」
彼の目は冗談を言っているようなものでは全く無く、むしろ僕には、複雑に感情が入り混じった、ひどく険しいものに見えた。
彼はきっと、今来たばかりの僕よりも、考え抜いてるはずなのだ。なのに考えた末に、それしか選ぶことが出来なかった。そういう悔しさが、彼の表情からありありと伝わってくる。
彼は拳を握り締め、その負の感情に懸命に堪えている。僕にはそう見えた。
「天井を」
ふいに彼が上を見上げたので、それに倣う。
「擦り傷のようなものが無数に残っているだろう。見えるかな」
3~4m程の、少し高めの天井。彼に促されて見てみると、そこには確かに何かで擦ったような傷がいくつもあった。
「どうやってついたんだろうねこの傷は」
そう言ったかと思うと、彼はおもむろに靴を脱ぎ、傍にあったベッドに乗った。
「……結構背は高いつもりなんだが、やっぱり届かんな、これは」
十分巨漢と言ってもいいはずの彼でも、伸ばした手は空を切る。そうなると、天井にこのような傷を残すためには、やはり何かしらの得物か、脚立でもなければ無理ということになる。この部屋の主は標準的な体型と言っていたから、なおさらだ。
「認めたくはないがね」
彼はベッドから降りてそこに座り、その大きな靴を履き直しながら言った。
「超人ハルクにでもなってしまったかね。彼は」
長い溜息をつきながら立ち上がり、彼は僕を見た。
「君はどう思う?白鐘君」
今度はこちらを試す質問などではなく、おそらく彼の心からの問いだった。
「……被害者の方を拝見させてもらっても?」
「もちろん」
だからこそ、すぐに返答するのはためらわれた。とりあえず確認したいこともある。
そろそろ司法解剖にまわされてしまうだろうから早いほうがいいと彼が言ったので、僕らはすぐにその部屋を後にし、リビングへと足を向けた。
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