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少し長くこの稼業をやっていると、この案件とは長い付き合いになるだろうな、と何となく分かってしまうことがある。そしてそういう時の仕事はもれなくその通りになって、自分のすべてをもってあたらなければならないことが多い。
きっとこの事件もそうなる。ここに立った瞬間からそうした予感めいたものを感じ、今一度気合を入れ直そうと、僕は背筋を伸ばして、大きく息を吐いた。

久々の緊張感に体の芯から震えが来る。高揚感も少しあったが、それは抑えた。そうするのが、犠牲者のいる現場に入る時の最低限の礼儀だと、最近は思うようになった。

「失礼します」

高級マンションの、とある一室。KEEP OUT表示のあるテープをくぐって中に入ると、早速慌ただしく動く警察関係者と何人もすれ違う。
廊下を通ってリビングに入ると、鑑識と思しき人間が数人と、刑事風の男が数人ある一点を見下ろしている場面に遭遇する。おそらくは、そこが現場なのだろう。

どう切り出してそこに入っていこうかと考えていると、刑事風の男の一人が、こちらに気付く。
おお、と少し驚いたように目を見開くと、その人はたっぷり生やした口ひげを撫でながら、口を開いた。

「これは、有名人のおでましだ」

ともすれば嫌味に聞こえなくもないその言葉だったが、本人の声色と、その柔らかな微笑から全く裏のない言葉なのだということがなんとなく分かる。おそらく悪気は一切ないのだろう。
彼のその声に、現場にいた人間が一斉に振り返る。ちょうどいいので、そのタイミングで自己紹介をした。

「白鐘直斗です。今日は、よろしくお願いします」

そう言うと、目の前の彼はニコニコしながら僕の手を取って、強引に握手をした。
正面に立って対峙すると、彼のその大きさに少し驚かされる。簡単に見積もっても180センチ以上はゆうにあるその身長もさることながら、そのカッチリとした服装の下に隠された、かなり鍛えあげられているだろう肉体に気圧された。
白いものが多く混じるその頭からすると、おそらく年は60前後。腹部は出るには出ているのだが、中年男性特有のあのだらしない感じは全くしない。分厚い筋肉の上に、年齢相応の脂肪が少し載っている。そんな感じだ。

そこにいる人間の中で、彼だけが異質だった。他は見れば警察関係者だとすぐ分かるのに、彼だけは纏っている空気が違う。
なんと言うか、こなれていた。スーツの上着を肩に抱え、グレーのフォーマルなウェストコートをしっかりと着こなしながらも、シャツの袖は捲って粋に着崩している。

彼と向き合った時から、僕は感嘆のため息を漏らしそうになるのを、内で必死にこらえ続けていた。
全てが完璧だったのだ。彼の姿は、自分の理想としていた姿そのものだった。

すでにそれを諦めて、自分なりの道を進もうと決めた所にこんなものを見せつけるように出してくるなんて、神様は本当に意地が悪いと思う。消せない憧れの感情と、その姿の眩しさとで、くらくらと目眩まで覚えるくらいだ。
彼は、そんな僕の心内など全く意に介さずに、にこりと微笑んでから、僕をその輪の中へと招き入れた。

「やあ、これはこれは、探偵王子じゃないですか。こりゃあこの事件が解決されるのも、時間の問題だな」

彼とは打って変わって軽口だと分かるそれを言ってのけたのは、その言葉の通りに軽薄そうな刑事だった。まだおそらく30代だろうに、よれよれのシャツと雑に緩めたネクタイのせいで、かなり老けて見える。本当に彼とは対照的だった。

「ちょうど猫の手も借りたいくらいだったんだ。せっかく来たんだから、ありがたく貸してもらおうか」

さすがに耳障りに思って一言返してやろうと思ったが、隣の彼が窘めるような視線を向けると、その男はバツが悪そうに口を尖らせながら、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
どうやら彼は、やはり一目置かれている存在らしい。何でも彼を通すのが、この現場でうまくやっていく方法となるかもしれない。
僕はこほんと咳払いをしてから、彼に言った。

「実はまだ、何も聞かされていないもので。よければ概要を教えていただけないでしょうか。ええと……」

見上げると、彼は推し量ってくれた。

「そういえば、自己紹介が遅れたかな。私はオノガミ。尾上雄治郎。よろしく頼むよ白鐘君」

そうして彼から名刺を受け取って、ああ、やっぱりな、と僕は思った。自分が彼から受けた印象は、やはり外れていなかったのだ。

尾上雄治郎。職業、探偵。

自分と同じように、一般人からの依頼を受けることはほとんど無く、主に警察だけでは手に余る事件を手がけているらしい。そうした人が自分以外にもいるとは聞いていたが、本来同業と同じ現場で鉢合わせすることはまず無いので、今回はかなり新鮮な仕事になりそうだった。
悪くすると意見がバッティングしたりして、あまりいい結果にならないんじゃないかと少し思ったが、この人が相手ならそれも大丈夫そうだと思い直した。彼の洗練されたその佇まいと、まるで凪の湖のように知的な光を湛えるその瞳が、そう思わせた。

「それじゃあ、何から話そうかな。犠牲者が出たっていうのはさすがに知っているんだろう?」
ビニールの掛けられたふくらみに向かって目で促す彼に、僕は頷いた。
「ええ」
「じゃあ、自殺か他殺かで揺れているというのは?」
その少し深刻そうな声色に、思わず彼を見上げた。
「そうなんですか?」
率直に問うと、彼はあごひげをカリカリと掻きながら、困ったように言った。
「同じような事件がもうこれで3件目なんだが、どうにも特定しづらくてね。普通似た事件が連続したら、他殺でほぼ確定だと言ってもいいはずなんだが……」

彼はそこで、腰に手を当てながら、部屋の奥に視線を送った。
20畳はありそうなその部屋は、以前はさぞ素晴らしく居心地のいい空間だったのだろうが、今は見るも無残に荒らされている状態だった。服が散乱していたり、テーブルや椅子がめちゃくちゃに転がっている。その上上等そうな革のソファには、刃物で何度も切りつけられたかのような跡まであり、この場でかまいたちでも発生したんじゃないかと思ってしまうくらいの、ひどい有様だった。

その部屋を見渡しながら、すごいだろう、と彼は言った。

「3件ともこれと同じように部屋が荒れていたんだが、ぱっと目につく財産に手は付けられていないし、どうも物盗りって感じでもない。誰かが暴れているような音がするという知らせを受けて管理人が部屋に来てみると、すでに部屋はこの状態で、部屋の主も亡くなっていたらしい。その際きっちりと部屋の施錠はされていて、部屋の主以外に誰かが入ったというのもなかなか考えにくい状況だ。階ごとに設置されている防犯カメラにも、居住者以外には何も映っていなかった。3件とも、ほぼその状況に違いは無い。これだけ共通していれば、一応全て関連する事件として捜査せざるを得ない訳だが、肝心の3人に共通するものが今のところ見当たらないから、今は鑑識待ち状態、といった所かな」

彼が奥の方に歩いて行くので、ついて歩いた。テラス前の無残に割られた窓ガラスの前まで来ると、彼は言った。

「どう思うね?」

突然問われて、僕は目を丸くしてしまった。
どう思う、とはどういうことか。単純にこの窓ガラスを見てどう思うか、ということだろうか。

問い返そうと彼を見上げたが、その顔を見て、僕は口を結び直した。
彼は笑っていた。ほんの少し、口角を上げるだけの薄い笑みではあったが、間違いなく彼は少しだけ意地が悪そうに笑っていた。
それを見た瞬間、試されている、と直感的に思った。彼はあえて情報をまばらに与えることで、こちらの実力を試そうとしているのだ。おそらく、自分と組むに値するかどうかを見るために。
僕は、それと分からないようにため息をついてから、帽子を深く被り直した。

そういうことなら、力を示すしか無い。まずはとにかく、目の前のこれから詰めていくこととしよう。

「……内側から割られていますね」
そう言うと、彼は両眉をくい、と上げながら言った。
「その通り。破片の大半がテラスに向かって飛び散っている。それは、見れば分かる」

大事なのはその先。じっと見つめてくる彼の目がそう言っていたので、僕は続けた。

「これは、高層マンションでよく使われている合わせガラスですね。2重の強化ガラスの間に特殊フィルムが挟まっているので、非常に割れにくいか、割れてもそのフィルムによってこうして完全に突き破るのは簡単ではないはずです。それをこうも見事にかち割るなんて、すごい力ですね」

テラスに出るために開閉可能な窓で2枚。それ以外の部分の完全固定のガラスが2枚。4枚とも、全てが見事に割られている。

「……知らせを受けてから、管理人の人がここに来るまでの時間はどれぐらいだったんでしょうか」
「今回は、非常に早かったみたいだな。ものの数分といったところか。他の2件も、10分以内には駆けつけているようだ」

彼のその言葉を受けて、僕は考えこんでしまった。
通常、こうして合わせガラスを完全に割るためには、どんなに頑張っても2、3分はかかる。しかもこうした高層マンションのそれは、通常のものよりもさらに割れにくくなっているはずだ。4枚ものこれをここまで破壊するためには、いささか時間が足らないように思えた。

「鈍器のようなものはありましたか?」
「無いな。一応別の部屋にゴルフのクラブセットがあったが、使われたような形跡はない」

僕は気付くと、いつものように口元に手を当て、考えこむ体制をとってしまっていた。

一体どういうことなのか。やはり何か爆発のようなものでも起きたのかと一瞬考えたが、部屋の状況からしてそういう感じではない。その場合は均等に部屋が荒れる感じになるはずだが、この部屋はどちらかと言うと、人が自らで局所的な破壊行動をしたようにしか見えなかった。

そもそも、この事件はおかしな所が多い。居住者以外の誰かならともかく、なぜ居住者自身が自分の部屋を破壊するような事をしなければならないのか。そのあたりが上手く頭に入ってこない。

「この部屋には、管理人の人以外誰も来ていないんですよね?」
そう訊くと、彼は頷きだけをよこした。
僕はますます考えこんでしまった。そうなると後は……。

「……あの方は、何か薬でもやっていたんですか?」
警察関係者に囲まれるその人の所に視線を送ると、彼は言った。
「その可能性はあるようだね。彼の寝室から、何かの錠剤が見つかっている。薬手帳などの処方記録書みたいなものは見つかっていないがね」

彼のその言葉で、少し事件の形が見えてきた気がした。

「その薬、他の事件でも?」
「似たようなものが見つかっているね」

なるほど、そういうことか。
そう難しいものではない。おそらく、この事件の概要はこうだ。
何らかの薬によって錯乱状態に陥った被害者が、幻覚か何かを見て、部屋をしこたま荒らす。そして被害者はそのまま薬の作用で亡くなってしまうか、もしくは、錯乱して暴れまわっているうちに頭を打つなどして亡くなってしまう。単純にこういう構図だろうと思われる。

「なぜ自殺か他殺か断定出来ないかは、彼らがその薬を自らの意志で得たのかどうかが現状分からないからでしょう。どこかから自殺できる薬を得て、自ら飲んだのか。それとも、それと知らずに悪意のある者にどこかで処方されて、飲んでしまったのか。それは薬の成分や、入手経路などを詳しく調べてみないと分からない。だからあなたは、鑑識待ち状態だと言った。そういうことかと僕は考えます」

大筋は間違えていないだろうと思う。しかし、依然としてこのガラスの不可思議さは残る。どうしてもここだけが、上手くパズルのピースとしてはまってくれない。
しかしとにかく、そうして自分の考えの全てを伝えると、彼はいつからか組んでいた腕を解き、

「……なるほど」

と、少し嬉しそうに頷きながら笑った。

「今そこにある情報、状況から、考えられる全てを頭の中で描き、そこから蓋然性の高いものを選り抜いていく。その時には、あくまで優先順位をつけるのみで、これはまずないだろうという考えも頭の片隅には残しておく。それが正しい推理の方法だと私は思うが、なかなかどうして」
彼はそこで、にいっと子供のように笑った。
「やるじゃないか探偵王子。もちろんこれが全てじゃあないだろうが、余裕の及第点だよ。ほぼ一瞥でこのガラスの異様さに気付く知識、そして明かされていない情報へと辿り着くその推理力。共に素晴らしい。その年で、よくもまあここまでやるものだ」

そこまで言うと、彼は胸に手を当てながら、試すような真似をして悪かったといささか仰々しく僕に謝った。やはりどうしても、どこまで出来るのかが知りたかったらしい。
年上の人間に頭を下げさせるのはどうにも落ち着かない。僕は慌てて彼に頭を上げるように言った。一緒に仕事をする人間の実力を知りたいという気持ちはよく分かるので、何も問題はないのだ。むしろ、そうしてしかるべきだとさえ僕は思う。

「そう言ってもらえると救われるよ。結構嫌われるタチだからね。私は」

しかし彼がそこで言った、結びの言葉が少し気になった。

「……本当に、よくもここまでになったものだ」

彼はそうして、何か愛おしいものでも見るかのように目を細め、僕を眩しそうに見るのだった。

なぜ彼がこんな表情をするのかと考えてみても、理由は分からなかった。それを推理するには、まだ少し与えられている情報が少なすぎると思う。じっと僕が不思議そうに見つめてみても、彼はただにこりと笑い返してくるだけだったので、その理由を考えるのは早々に諦めた。最初からぽんぽんと自分のことをあけすけに話す人もまあなかなかいないと思うので、気にはなったが、ひとまずそれは頭の隅に追いやることにする。一緒に仕事をするうちに、話してくれることもあるかもしれない。

「さて、偉そうにテストをするのはもう終わりだ。これからはきちんと仕事をしよう」
軽くパン、と手を叩くと、彼は言った。
「早速だが、君の唯一の疑問。このガラスについて、少し補足をしたい」

と、彼がまた歩き出すのでついていく。関係者の間を縫うようにしてリビングから廊下に出ると、彼はいくつかある部屋の中の一つの前で立ち止まり、僕を促した。

「見てみなさい」

言われるまま、僕はそのドアのノブに手をかけた。
いきなり凄惨な現場にでくわす場合もあるので少し慎重にドアを開いたが、取り越し苦労だということにすぐに気が付く。
荒れているには荒れているが、そこは特に派手な現場でも何でも無く、ただ少しものが散らかっている程度の寝室だった。大きなベッドが中央に一つあるが、部屋自体が6畳ほどしかないため、他に大きな家具はない。本当に寝るためだけの部屋といった感じだ。

そうして見てみると、一見何の変哲もないその部屋。
しかし、一つ気になる所があった。

「これは、姿見ですか」

部屋の片隅に、長さは2メートル弱、幅は50センチ程の細長い木製の枠のようなものがあり、その下にバラバラに砕かれた鏡が散乱していた。木枠には一切の鏡部分が残っていなくて、全て綺麗に地面に落ちてしまっている。そしてその鏡自体には、いくつか血が付いているものが散見された。
部屋の中は至って普通。しかしその鏡だけが、異様だった。

「どうも、明確な意思を感じますね。普通はこんなに粉々になるまで割らないでしょう」
同じように思っていたのか、彼は然りと頷いた。
「他の部屋にも同じようなものがあったんだが、こうやって割られていたよ。洗面所の鏡なんかはもっとひどくて、後ろの壁がへこむくらい、まるで憎い敵でも相手にしているかのように、執拗なまでに割られていた」
言いながら、彼はまたごしごしと自分の髭を擦る。どうやらこれは、彼の癖のようだ。
「他の事件でも、ガラスや鏡のような、自分を映すものの類がことごとく壊されている。これは一体、なぜだと思う?」

それについては、すでにあたりがついていた。
僕は少し頭の整理も兼ねながら、彼に答えた。

何かしらの薬の中毒に陥った者は、多くの場合、幻覚を見る。その中には楽しげな幻覚もあるようだが、何か恐ろしい、得体のしれないものを見てしまう場合も多いらしい。過剰に他人を怖がったり攻撃的になったりするのはこのためで、日常生活ではなんとも思わないようなモノにでも、彼らは怯えるようになる。小動物のような精神状態と言ってもいいかもしれない。自分以外の動く何かに、過敏に反応してしまうのだ。

代表的なモノで言うと、テレビ。普通の人にとっては何も怖い所などあるはずもないものだが、そのめまぐるしく画面が切り替わる様は、彼らにとっては恐怖の対象でしかない。ただでさえ怖い化け物が、次々とその形を変えていくのだからたまったものではない。これは悪夢を見た経験のある者であれば、誰でも何となく想像がつくと思う。
そして、今回の姿見の類。これも同様なのだと思われる。鏡に映った自分の姿が、自分以外の恐ろしい何かに見えてしまう。だから彼らは執拗にそれを破壊して回った。とりあえずの心の平穏を得るために。

そう答えると、彼はまた頷いた。

「その通り。彼らは薬によって心神耗弱状態となり、結果、ガラスや鏡に映る自分を敵だと思い込み、それらを割った。私もそう思う」

それでほぼ間違いないはずなのだが、どうしても問題は残ってしまう。
彼もそれは重々分かっているようで、僕が視線を向けると、彼は困ったように眉をひそめて言った。

「最初はそれだけの事件なのだと私も思っていた。しかしさっき君が言った通り、あのテラス前のガラスだけはどうにもおかしい。私はあのてのガラスの耐久実験を実際に見たことがあるが、そうそう簡単に割れるものじゃあない。素手では突き破るのはほぼ無理な代物だよ」
彼はしかし、幾分険しい表情になりながら、次ににわかには信じられないことを言ってのけた。
「なのにあのガラスは、おそらく素手で割られている。被害者の手には、何かを殴ったような傷と、そのガラスの破片が付着していた。私としても未だに信じられないことだが……ほぼ間違いなく、彼は素手であのガラスを割ったという結論に、私は至った」

あのガラスを、素手で割った?
信じられなくて、彼に一応確認した。

「……あの方は、何か格闘技でも?」

すると彼は、明確に首を横に振る。
至って普通の、どこにでもいる体型の人だったと、彼は言った。

「信じられません」

自分の推理が間違っているとは思えなかった。なのにその糸を手繰っていくと、その先はきつく玉止めされた行き止まりだった。自分が手繰り寄せた確かな糸はそれだけで、あとに残されたものは何もない。

(……いや)

あるには、あった。

自分の手に残されたのは、あと一本のか細い糸。少し風でも吹けば、すぐにどこかへと飛んでいってしまうようなその頼りない糸は、しかしうっすらと、どこかへと繋がっていた。
しかしだからと言って、この糸を安易に選択するということは避けなければならない。ある意味では、それは推理の放棄に繋がっていると言えなくもないからだ。

通常考えられることを、通常の範囲で推理すること。それは探偵が物事を推理する上で守らなければならない、大事な決まり事の一つだと思う。少しうまく説明出来ないことがあったからといって、すぐにやれお化けの仕業だの、プラズマの仕業だのと言ってしまっていては、探偵という仕事は務まらないからだ。そんな考え方は、どこかのオカルト好きのジャーナリストにでも任せておけばいい。少なくともそれは探偵の領分ではないと、僕は思う。

でも、と僕は、自分の手のひらをじっと見つめた。
この細い糸は、そういう探偵の通常の領分を超えた所に伸びている糸だ。普通の探偵なら、たとえそれしか掴めるものがなかったとしても、決して選ばない。少し前の自分であれば、こんなものは真っ先に捨てていただろう。推理をする上では、なるべくノイズになるようなものは排除してきた自分だから。

だけど僕は、もう知っているのだった。そんな通常ではありえないことも、確かに世の中には存在しているのだということを。
かの地で僕は、それを嫌というほど味わった。そういう自分だからこそ、この糸をかろうじて離さないで持っていることが出来る。僕でギリギリそうなのだから、普通の探偵ではまず持ち続けているのは不可能な代物のはずだ。

「……少し、突飛なことを言ってもいいかな」

だからこそ僕は、驚きを隠せなかった。
彼がまさか、その糸を放さず持っているだなんて、思わなかったのだ。

「もしかしたら、幻覚などではないのかもしれない」
「……と言うと?」
「つまり、その……」

きっちり前置きまでしたのに、彼は迷った。
たっぷり数十秒程そうして逡巡しはしたが、彼は結局、僕の目を真っ直ぐに見て、こう言った。

「鏡に写った自分が、幻覚で恐ろしいものに見えた。そうではなく、実際に彼は、なってしまったのかもしれないということだよ」
「何にです?」
一応訊いたが、想像した通りの答えが返ってきた。
「化け物に、だよ」

彼の目は冗談を言っているようなものでは全く無く、むしろ僕には、複雑に感情が入り混じった、ひどく険しいものに見えた。

彼はきっと、今来たばかりの僕よりも、考え抜いてるはずなのだ。なのに考えた末に、それしか選ぶことが出来なかった。そういう悔しさが、彼の表情からありありと伝わってくる。
彼は拳を握り締め、その負の感情に懸命に堪えている。僕にはそう見えた。

「天井を」

ふいに彼が上を見上げたので、それに倣う。

「擦り傷のようなものが無数に残っているだろう。見えるかな」

3~4m程の、少し高めの天井。彼に促されて見てみると、そこには確かに何かで擦ったような傷がいくつもあった。

「どうやってついたんだろうねこの傷は」

そう言ったかと思うと、彼はおもむろに靴を脱ぎ、傍にあったベッドに乗った。

「……結構背は高いつもりなんだが、やっぱり届かんな、これは」

十分巨漢と言ってもいいはずの彼でも、伸ばした手は空を切る。そうなると、天井にこのような傷を残すためには、やはり何かしらの得物か、脚立でもなければ無理ということになる。この部屋の主は標準的な体型と言っていたから、なおさらだ。

「認めたくはないがね」
彼はベッドから降りてそこに座り、その大きな靴を履き直しながら言った。
「超人ハルクにでもなってしまったかね。彼は」
長い溜息をつきながら立ち上がり、彼は僕を見た。

「君はどう思う?白鐘君」

今度はこちらを試す質問などではなく、おそらく彼の心からの問いだった。

「……被害者の方を拝見させてもらっても?」
「もちろん」

だからこそ、すぐに返答するのはためらわれた。とりあえず確認したいこともある。
そろそろ司法解剖にまわされてしまうだろうから早いほうがいいと彼が言ったので、僕らはすぐにその部屋を後にし、リビングへと足を向けた。







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