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(くまたそブログ)
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「くまたそ。聞いてる?」

彼は複雑な顔のまま、その彼女の言葉に曖昧に返事をする。そしてそれをごまかすように、彼女の前をゆっくりと歩き出した。
彼はもちろん、最初からフリーであった。だから彼女の言う苦労というのは、微塵もしていない。それが少し後ろめたくて、彼は言葉を濁した。

彼女はそれを少し訝しんだようだったが、デリケートなことだからか、それ以上彼に追求することはしなかった。

「……ていうか、あんたって結局何の亜人なの?たぬきかなんか?あんたみたいなのって全然見たことないんだけど」


彼は幾度かの人との邂逅を経て、自分がタソ族であるということは周りに伏せておくことにしていた。これだけ亜人に風当たりが強いとなると、具体的に種族名を言った場合にどれだけのやぶへびになるか分からなかったからだ。
少なくとも、この世界のことをもっと深く知るまでは伏せておく方が良い。彼はそう考え、この頃では元の姿にも戻っていない。

質問を変えてもそうして黙る彼をさすがに変に思ったのか、彼女は彼の隣に並んで、その顔を覗きこんだ。
彼女の促されるような目線に晒されると、彼は気付かれないように小さく嘆息し、やっと重い口を開いた。

「……分からねえ。気付いたら一人だったしな。でも少なくともたぬきじゃあねえはずだ」

嘘をつくのは後ろめたいが、仕方ない。
彼女はそれを聞くと、やはり訝しそうにじっと彼を見つめた。しかしそれ以上は何も返ってこないことが分かると、つまらなさそうに言った。

「……ふぅん。まあ、別にどうでもいいんだけどね。あんたが何であろうと」

がくりと肩を落とす彼を見て、彼女は満足したように笑う。そこでようやく彼女は彼に絡むのを止めて、黙って歩き出した。

彼らの目の前には、巨大な半月状の公衆劇場のような街並が広がっていた。段々畑のように切り立った崖に、建物が横に連なるように建っている。
これ程巨大な街を目にしたことのない彼には、この景色が今でも信じられない。それら全てがミニチュアのハリボテか何かのように見え、まるで現実感がなかった。
彼が目を奪われるのも仕方がない。その光景は、田舎者の彼にとっては一大スペクタクルだったのだ。

街の中心には湧き出た温泉が川のように流れ、そこかしこで湯気が上がっていた。この街の全ての人間は、この温泉のおかげで一年中凍えることがない。誰も彼もが、余裕に満ちた表情を浮かべている。生活に追われている人間など、この街には存在しないのだ。
彼はその光景を、少し眩しそうに見つめながら歩いた。いつも寒々としていた自分の故郷とは、裕福さに天と地程の差がある。彼にはそれが、少しだけ羨ましかったのだ。

長い階段を上っていく。するとようやく、拠点にしている宿が見えてくる。崖に埋め込まれるように建っているから分かりやすいと、シノが選んだ宿だった。
彼らはその赤いレンガ造りの宿に入ると、すぐに待ち合わせに設定していたロビーに目を走らせた。

待ち合わせている人間は二人。一人は新しい護衛で、もう一人はシノの元々の同行者である。
ロビーにはいくらかの人間がいたが、彼らがきょろきょろと周りを伺ってみても、まだどちらもここには来ていないようだった。

「まだ来てないみたいね」
「みたいだな」

そうして彼らがロビーにあるソファに腰掛け、一息つこうとした時だった。

「もしかして、おぬしがシノ・ミズキさんかな?」
「え?」

二人は思いもよらない人物から声を掛けられ、顔を見合わせた。
シノくらいの身長しかない、小柄な男だった。

「あの……?」

知り合いなのかと彼はシノを見たが、彼女も首を傾げていた。どうも知り合いではないらしい。

と言っても実際は、顔がよく見えないので分からないと言った方がいいかもしれない。長く伸びきった白い髪を後ろで束ねたはいいものの、うまくしばりきれなかったのか、これまた長い前髪がだらりと目と鼻の辺りまでを覆ってしまっていて、うまく顔が見えないのだ。
しかし声から察するに、若い人間ではないことはすぐに分かった。かなりの年齢を感じさせる、かすれ声だったのだ。

「……何でしょう?どちら様ですか?」

だから彼女がこういう対応をするのも、無理からぬことであった。まずこの場で彼らに話しかけてくるはずもない人間だからである。
しかしその男は、彼女がシノであるということが分かると、

「わし、護衛の仕事を紹介されて来た者なんぢゃが」

そう言って、ニッと白い歯を出しながら笑うのだった。
二人は改めて、その男を見つめた。しかしその男は、どう見てもただの好々爺でしかなかった。一応動きやすそうな武闘着のようなものを着てはいるが、それ以外はとても護衛が務まるような人間には見えない。
二人は再び、顔を見合わせた。

「あの……すみませんが……」

何かの手違いだろうと思ったのか、シノはそうして早々に断りを入れようとした。
仕方がないと彼も思った。どう考えても役不足なのだ。この男のためにも、他の仕事を探させた方がいい。

やんわりとした口調でシノが断りを入れる。
すると男は、その長い前髪の奥で小さく溜息をついた。

「……ふうむ。やっぱり見せなきゃだめかのお」

そして男はおもむろに入り口に向かって歩き出し、二人に手招きして、自分について来るように促した。
問答無用で帰すのも悪いかと、シノは男のそれに黙って従った。彼女がそうするならと、彼もそれに倣う。

男は外に出ると、とことこと後ろ手に歩いた。そして街を見下ろせるぎりぎりの所に立ってから、彼らの方に振り向いた。

「のお、シノさん」
「?はい」
「たぶんおぬしは、わしに護衛なんか出来ないと思っとるんぢゃろうが、そんなことはないぞい」
「え?」

彼女が呆けた顔を男に向けると、すぐ。
男は再び街の方に振り返り、右足を引いて、構えのようなものをとった。
そして。

「ふんっ!!」

そうして突然街の上空に向かって放たれたのは、ただの正拳突き。
しかしそれを端で見ていた彼は、途中ではっと何かに気付き、シノの前に割って入った。

「きゃあああ!?」

彼は体の前で腕を交差して、シノの盾となった。しかしそれでも彼女は、悲鳴を上げながら後ずさった。
男が拳を放つと同時。男を中心に、周りにすさまじい爆風が起こった。以前彼が見せた技、空気打ちの全方向版のようなものだ。一方向ではないので威力はそれだけ分散されているようだったが、それでもそれは瞬間的な竜巻が起こったかのような衝撃を、彼らに与えた。

そして今日は、不幸にも晴天なのだった。そのせいで、住民達が外に干していた洗濯物が、どれもこれも宙に高く舞ってしまう。
突然のその突風に、なんだなんだと家から出てきた住民達。彼らはすぐにその惨状に気付くと、たちまち右往左往、てんやわんやの大騒動に陥り出した。
街中に立ち上る湯気のせいで、ここでは洗濯物は乾きにくい。洗濯し直しとなると、ことなのだ。乾ききらなかった湿った服を、しばらく着るはめになってしまうかもしれないからだ。

「とまあ、こんな感じぢゃ」男はその阿鼻叫喚の図を背に、またとことこと彼らの方に歩いてきて、しれっと言った。「護衛、出来そうぢゃろう?」







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それから一週間が経った頃。彼は、ある街にいた。
歴史の始まる場所。あるいは、技術の生まれる場所。その戦略的貴重さから、大陸で唯一ある程度の自治が許されている街。都市国家バンガロー。
この辺りでは珍しく大きな街だった。俗に遺跡都市と分類されるその街は、貧困などとは程遠く、すれ違う人々の表情も明るい。遺跡があるというそのことだけで、その土地は潤うのだ。

彼は盗掘の犯人を探すために、早速一番狙われそうな場所にあるこの街に足を運んだ。……という訳では全然なく、彼は実は、期せずしてそこにいた。

「……ちょっとくまたそ。聞いてるの?」

隣の小柄な人物に声をかけられ、彼は我に返った。

「あ、ああ。聞いてるぜ」

大きな街というのは興味をひかれるものが多くて、どうしても過疎地出身の彼はいろんなものに目移りしてしまう。
そうして答えはしたものの、まだ周りを見るのをやめない彼に、彼女は呆れたように溜息をついた。

「もう何日もここにいるのに、まだ何か珍しいものでもあるの?恥ずかしいからあんまりキョロキョロしないでよ」

ひょんなことから彼と同行することになった彼女の名は、シノ・ミズキ。彼と並ぶとまるで大人と子供のような身長差があり、顔にもまだまだあどけなさが残っている少女だったが、これでもれっきとした考古学の研究者である。
発掘で埃っぽいところによく出入りするためか、頭には細長い布をターバンのように巻いており、それがすっぽりと頭を覆っている。服も動きやすいようにゆったり目なもので統一されているので、どこかの民族衣装のように見えなくもない。

「で、ホントに私の話聞いてた?」
「聞いてる聞いてる。新しい護衛が来るんだろ?」

見た目からして不思議な取り合わせの二人であるが、その出会い方も変わっていたから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
彼に対して、こうして彼女の声にところどころ棘のようなものが混ざるのは、その出会い方に起因する。

この辺りの主な発掘現場の多くは、街を囲っている火山地帯に集中して存在している。彼らはそこで偶然出会った。
彼が盗掘の犯人を探しにしらみつぶしに遺跡をあたっていると、たまたま同じ所で発掘をしていた彼女と鉢合わせたのである。
ただ、そのタイミングが良くなかった。

火山地帯ということもあって、この街の名物はなんといっても温泉である。街中にはもちろん、発掘現場の方にも硫黄の匂いが充満し、至るところから温泉が湧き出ている。
なのでこの辺りで発掘をしていると、度々天然の温泉に出くわす。場所によっては湯加減もちょうどよく、そのまま入ることも出来る。発掘の疲れがたまったら温泉に入ろう。そう考える発掘者は少なくない。
そして、彼女もその例外ではなかった。

その日、彼女は遺跡の奥深くにまで潜り、発掘作業で疲弊していた。帰ってから休むという選択肢ももちろんあったが、疲れ過ぎていたために、彼女はこう思ってしまった。
ここで温泉に入ってしまえば、疲れは癒せる。そうすれば発掘もこのまま続けられる、と。

「今度の場所はかなり深いから、覗き魔一人じゃ頼りないのよね」

そう言って腰に手を当てながら嘆息する彼女に、彼は強く反論した。

「おい!アレはわざとじゃねえって言ってんだろ!!」

つまり彼は、そこに居合わせてしまったのだった。そのせいで、彼は護衛の仕事をタダ同然で引き受けることになってしまったのである。
深い場所だから大丈夫だろうと、なんのついたてもないところで入浴する彼女も彼女だったが、こういう時には男の方が圧倒的に立場が弱い。彼もそこを突かれ、仕方なく彼女の護衛として同行することになってしまったのだった。
というのが、大体の事の顛末である。

「本当なら警察に突き出してるところなんだから、ありがたく思いなさいよ」
「おんどれ話聞けや……」

とにもかくにも、二人はそうして拠点にしている宿に戻ろうとしていた。
遺跡の深部の探索と、盗掘者への警戒のためにと新しく雇った護衛が、そこに顔合わせに来ることになっている。

「ん?」

と、そこで二人の歩みが止まる。
二人して連れ立って歩いていると、一人の少年が彼らの前で盛大にこけた。持っていた袋の中身も、周りにぶちまけてしまう。

「おいおい大丈夫か?」

一見すると普通の少年のようだったが、手の甲にはふさふさとした柔らかそうな銀の体毛があった。亜人である。
彼がその少年に手を差し伸べようとすると、なぜかそこに、シノが割って入った。

「だめ」
「あん?」

彼女は彼の手を取り、強引に腕を下げさせた。
彼が訝しげに彼女を伺い見ると、彼女はひどく険しい顔で、少年を見つめていた。
さっきまでの冗談のような雰囲気が嘘みたいだった。

「何だよ。別にいいだろ?まさか亜人なんかに手を貸すなとでも言うつもりか?」

彼はそう不満を漏らしたが、彼女は取り合わなかった。
彼女はただ真っ直ぐに少年を見つめながら、静かに言った。

「……立ちなさい。自分で立てるでしょ?」

それはまるで、しつけ途中の子供のいる母親のような、毅然とした態度だった。
普段彼に対しては少し辛辣な言葉を言うこともあるが、周りにはいたって普通の態度の彼女である。基本的に温和な人間のはずだったから、彼はかなり驚いた。
明るそうに見えて、もしかすると彼女も何か、自分と同じように抱えているものがあるのかもしれない。彼はそう思い、その場は彼女に従った。

少年は自分で立ち上がり、ばら撒いてしまったものを拾うと、そそくさとその場を去っていった。
それをたっぷり見送った後、彼は少しためらいつつも、彼女に訊いた。

「……なんでだ?」

単純に疑問だった。彼には彼女が亜人を差別するような人間には、どうしても見えなかった。

「そんな目くじら立てるようなことでもないと思うんだが」

そう言うと、しかし彼女は明確に首を振った。

「……だめ」彼女は目を細め、どこか遠くを見ながら言った。「自分で立ち上がっていかないと、いつまで経ってもただの“亜人”だもの」

手を貸すことは彼らのためにならない。彼女はそう言った。

「同じ亜人なら分かるでしょ?あんただって苦労してフリーになったんじゃないの?」

彼女のそれに、彼は複雑な顔をした。
彼女の言う『フリー』とは、要するに自由な亜人達のことである。この辺りではフリーの亜人はかなり少数派で、マスターと呼ばれる主人が付いている亜人達の方が、圧倒的大多数である。
いわゆる奴隷とまではいかないが、マスター付きの亜人の行動はかなり制限される。常にマスターのそばに居なければならず、その性質は農奴のそれに近いかもしれない。実際その身体能力の高さを考慮して、彼らを農業に従事させるマスターは多い。


『亜人救済法』


始まりは、生活に窮した亜人達を救済するという体で制定された、この法律である。
当時は今より亜人達への風当たりが強く、大陸で人間とのコネクションを持つことが出来ずに、うまく生活の糧を得られない亜人達が多かった。そこで、彼らと人間との間を取り持つためという名目で、亜人達に裕福な人間の主人の下に付くことを国が奨励したのである。
しかしその実態は、慢性的な食料不足を憂いた国が、その生産を担う人的資源を確保するために苦肉の策で出した悪法だった。

それは彼らの身分を決定付けるものだったから、どうするかは各々の亜人達の判断に委ねられた。
しかしそうは言っても、実際彼らに選択肢はなかった。とにかく明日の糧にも困っていた彼らは、この制度に飛びついたのである。

制度上では、いつでも抜けることは出来るようになっている。しかし従属していればある程度の生活が保証されるとなると、そこから脱却しようとするものは少ない。そのせいもあって、大多数の亜人達の地位は低いままである。
その名前とは裏腹に、静かに彼らの首を絞めている。それがこの、亜人救済法という法律なのである。






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彼らが築いた長く果てしない逃亡街道は、今日も変わらずそこにあった。
人がせわしく往来する大きな道はもちろん、あの広大な森を分かつように太く伸びた道も、剥かれたリンゴの皮のように螺旋状に伸びたあの山の道も、全てが変わらずそこにあった。きっとこの先何十年、何百年と、その姿は大きく変わることはないだろう。それ程この道は、人々にとってかけがえのないものなのである。

「……いよっし!」

ただ、少しづつだが、確実に変わっていっているところもあった。
彼は今日何個目かのその“修正作業”を終えると、ふうっと深く息を吐いて、額の汗を拭った。

「いよお亜人の兄ちゃん!今日も精がでんなあ!」

大きな道となると、そこに置かれている看板の数も必然、多くなる。
そうして何度も看板を直しているうちに、すっかりこの辺りの常連のようになってしまっていた彼は、今日も往来するキャラバンの商人たちに声を掛けられた。特に何か言葉を交わしたわけではなかったが、何度も顔を合わせているうちに、彼と彼らとの間には、奇妙な関係が築かれていったのだ。

商人たちは彼を見ると、売れ残った交易品を投げて寄越した。
彼はその果物を受け取ると、腕を高々と上げて、威勢よく返事をした。

「やあ!すまねえな!」
「なあに!余りもんだからよ!!」

世界を旅する商人たちだから、彼のような亜人を見慣れているのかもしれない。あるいは、彼が看板を直すという行為をしているせいで、公的な事業を担っている亜人にでも映ったか。何にせよ、初めて往来でまともに挨拶を交わすことが出来たのが、彼にはとても嬉しかった。亜人に理解のある人間も、確かにいるのだ。

しかしだからこそ、今日のこの出来事は、彼には堪えるものとなった。
たまたま近くで休憩を取り始めたキャラバンの人間たちと彼が談笑していると、そばを物々しい鉄騎馬兵団が通りかかり、声を掛けられた。

「貴様たち、何をしている」

彼は首を傾げた。
質問の意味が分からなかった。何をしているかは、見ればすぐに分かる。自分と彼らは、ただ談笑している。それだけだ。
しかしそうして首を傾げている彼に対して、キャラバンの面々は、一様に表情を固くさせていた。まるで罪を暴かれた罪人のような顔で狼狽し、騎馬の男を見上げていた。

「いえいえ何も。ただ世間話などをしていただけです」

冷えきった空気の中、何とかキャラバンのリーダーが男に答えた。
しかし男はそれには全く関心を示さず、彼の方に向く。

「貴様、亜人だな」

突然冷たい視線を浴びせられた彼は、肩をすくめた。

「見りゃ分かるだろ」

すると、騎馬の男が彼のそばまで寄り、彼を見下ろした。
彼のその態度が反抗的に映ったのか、その表情はひどく険しい。今にもその腰の剣で斬りつけてきそうだった。

一体何だというのか。彼がちらりと目を馬にやると、刻印の入った鞍が目に入った。
大陸を統べる巨大国家、“ギアース”の刻印であった。

「……何だよ。おんどれら警察か何かか?別に俺は何もしてねえぞ」
「そうですよ旦那。あっしらは本当に何もしとらんです」

雰囲気の悪さを見かねて商人たちの一人がフォローを入れるが、騎馬の男は表情は硬くしたまま、彼を見据えるだけだった。
そうして目を細め、ひとしきり彼を値踏みした後、男は言った。

「最近、この辺りで盗掘が行われているようでな」
「盗掘?」キャラバンのリーダーが訝しげに言った。「それが、私たちに何か関係が?」

その言葉に、騎馬の男はめんどくさそうに鼻から息を吐いてから、低い声で答えた。

「あるかもしれんし、ないかもしれん」

この辺りに散見される遺跡群に、無断で入り込んでいる者がいる。男はそう言った。
遺跡は危険な場所もあり、その膨大な数のせいもあってまだまだ調査が進んでいないところが多い。そういう場所に遺された貴重な物品を狙い、連続的に盗掘を繰り返す者がいるらしい。騎馬の男たちはこの知らせを受け、犯人逮捕、及びこの辺りの警備のために周辺を巡回している。要約すると、そういうことのようだった。

「犯人は亜人だとの有力情報を得ている」男は殊更低い声で言った。「……言いたいことは分かるな?」

つまり、自分は疑われている?そう思ったところで、しかし彼は首を傾げた。
ざっと見ただけで、この騎馬兵団は50人以上はいる。少なくとも、普通の盗掘という行為に対して動員する規模ではないように彼には思えた。自分のような、ただ一人の人間を追うにしては多すぎる。盗賊団のような、大人数の組織相手ではないのだろうか。それとも何か、そうしなければならない理由でもあるのだろうか……。
そうして彼が思案していると、それを困っていると見て取ったのか、キャラバンのリーダーが男に口添えした。

「彼はやってませんよ。ずうっとこの場所で、作業していただけですから」

彼はギロリと目を向けてくる男にも怯まず、なおも言った。

「ほら。あの看板ピカピカでしょう。彼があれを直しているんですよ。私達がいつこの辺りを通っても、同じことをしていました」

リーダーはおそらく良かれと思ってフォローしてくれたのだろうが、彼はそれに、内心ドキリとしていた。
遠目だと確かに新品になっているだけなので問題はないが、近くまで寄られて内容を見られたら、まずいことになるかもしれない。
彼はそうして冷や汗を垂らしていたが、しかしその心配は杞憂に終わった。
男はつまらなさそうにふんと漏らすと、彼を横目に見下ろしながら言った。

「そんなことは分かっている。こいつの身長は大き過ぎる。犯人はせいぜい、170センチ程度しかないようだからな」

ならなぜ声を掛けたのか。言いはしなかったが、彼がじとっとした視線を男に送る。すると男は、こんなことを言った。

「だが亜人には犯罪者が多い。付き合い方は、よく考えることだな」

男にじろりと睨めつけるように見られたキャラバンの彼らは、その瞬間そそくさと腰を上げた。広げていた茶飲みセットをせっせと片付け、彼らは馬車に乗り込んでいく。
その様子を見て、ようやく騎馬の男が踵を返す。それを見計らって、キャラバンのリーダーが彼に耳打ちした。

(……すまない。官憲に睨まれると、私達は商売が出来なくなる)

言い終わると、その彼も足早に馬車に乗り込み、その場を去って行ってしまった。
本当に、あっという間だった。あれだけ居た人間が、あっという間に彼の前から姿を消し、また彼は独りになってしまった。

風の音だけが響く中、彼はため息をつきながら、リュックを背負った。
彼にとっては何度となく味わった状況だったが、今日はその風が、いやに目に染みた。

「これじゃくまたそじゃなくて、はぶたそぞ……」

一人ごちりながら、彼は思い出したかのように貰った果物にかじりついた。
柑橘系のその果物は、甘くて美味ではあった。しかし後味は少し渋くて、口の中に苦味が残った。

彼は少し顔をしかめながら、誰もいなくなった街道を歩き出した。まだ直していない看板もあったが、彼はその全てを放置した。
やることが出来てしまった。

(売られた喧嘩は、買わねえとな)

それが例え、直接的なものでないにしろ、だ。
誰だか知らないが、自分にこんな仕打ちをした報いは、必ず受けさせなければならない。お前がかじったのは、決して触れてはならない悪魔の果実だったのだ。美味ではあっても、あとに残る苦味はこの果物の比ではない。そのことを、きっちりと面と向かって教えてやらなければなるまい。

彼はそうして静かに笑い、また街道を歩き出したのだった。
きっと今はまだ甘い時間にいるであろうその愚かな人間を、自らの手で粛清するために……。







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彼は知らなかった。何も知らなかった。


猛る拳をこの身に受けた事は何度もある。それは当然のように痛みをともない、その痛みは体の芯を閃光のように突き抜け、脳髄に苛烈な記憶を刻みつける。
拳で頬を殴られたらこんな痛み。
腹に蹴りを受けたらこんな痛み。
記憶が痛みを知っているから、身構える事が出来る。これはあの時受けたものと同じようなもの。だからこんな痛みだろうと、何となく予想がついて耐える事が出来る。


しかし彼は知らなかった。それを知らなかった。


熱も帯びていない。角ばってもいない。そして、こんなにも小さな拳が、どうしてこうも胸を抉るのか。彼女のそれが自分の胸を軽く小突く度に、まるで心臓を直接火で炙られているかのようなキリキリした痛みが、じわじわと全身に広がっていく。
初めて味わう、耐え難い痛みだった。一分一秒でも早く止めさせないとどうにかなってしまいそうなのに、止める事が出来ない。涙を帯びた拳が、ただ力無く突いてくるだけなのに……


こんな殴り方があるなんて、知らなかった。




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「強いわね」

突如、すぐそばで低い声がした。

「これは、彼にはちょっと荷が重かったようね」

彼は男が目を覚ましたのかと思って素早くその場から飛び退いたが、違うのだった。
男がうなだれている木に、いつの間にやら腕を組みながら寄りかかっている人間がいたのだ。全くの第三者である。

「……誰だお前」

彼は平静を装っていたが、完全には驚きを隠せないでいた。
戦闘が終わった今も、確かに彼はこの辺り全てにアンテナを巡らせていたはずだった。勝利の余韻に浸っている時が、一番身を危うくする瞬間だと彼は知っているからだ。
しかしそれでも彼は、この人間の気配には全く気付けなかった。彼の研ぎ澄まされた五感をもってしても、毛程も感じる事が出来なかった。

口ぶりからして、おそらく男の仲間。
彼の額に一筋の汗が流れた。緊張がはしる。この事実が意味する所は、彼が先刻危惧していた、ある可能性を示唆していたからである。

「お前……」

彼ほどの力を持っている人間にも、簡単にはその存在を気取らせない。

「強いな……?」

真の強者。達人が、この場にいるかもしれないという可能性である。

「あら。光栄だわ」

問われた相手は、木から背を離し、腕を解いた。
いささか機嫌よさそうに彼に答えた後、柔らかくしなやかに動きながら、その人間はこちらに歩いて来た。

(んん?)

月明かりに照らされ、相手の姿が徐々にあらわになっていく。堂々とそうしてくれるのは有り難いのだが、それに連れて、なぜか彼の頭のなかにいくつもクエスチョンマークが湧き出す。

背が大きいのだった。“変身”した彼と、ほぼ同じくらいである。彼はかなり身長が高く、190cmはゆうにあるはずなのに、その彼と比べてもほとんど遜色ない。それどころかその体つきも似通っている。つまり、筋骨隆々爆肉鋼体である。
敵意はあまり感じられないので、そのまま全貌が見える所まで接近を許してみて、彼は確信した。





















挿絵:秋桐やん 氏

「女にしちゃあ声が低いなあとは思ってたが、そういう事か」
彼のその言葉に、男は眉根を寄せ、再び腕を組んだ。
「あら、どういう意味よ。失礼ね」

あらゆる所作から見取る事が出来る。この男は、間違いなく強い。おそらく彼が出会ってきた中で、最も。

「目の前の人間が男か女かなんて、どうでもいいじゃない。このすさんだ世界じゃ、強いか弱いかの方がずっと重要なんだから」

妙に実感のこもった物言いに少し疑問はあったが、彼はとりあえず話を合わせる事にした。
色々と聞きたい事が多い。饒舌になってもらった方が都合が良い。

「……まあ、そうかもな」
「あら!」

気が合うわね、と相手の機嫌が目に見えて良くなる。どうやらうまくいったらしい。

「ほんと、すさんできちゃったわよね~。あるとこにはあり過ぎるくらいなのに、この辺だとご飯食べるのもままならない人がいるって言うんだから。大変よね」
「おいおい。それが分かってんだったら、人から物盗ったりするんじゃねえよ」

他人事みたいに言うな。そう思い、彼はつい脊髄反射で反論してしまった。
まずい、と彼は思った。相手を挑発するような言動は、なるべく避けるべきだ。これでは情報を引き出すのが難しくなる。
しかし男は、そんな彼の懸念とは全く違う方向の反応を示した。え?と男は気の抜けたような声を上げ、きょとんとした顔を彼に向けた。何を言われたのか全く理解出来ていないような顔である。

演技には見えにくかったが、彼はそんな男の様子をしらじらしく感じたのか、苛ついた声で言った。
「え?じゃねえよ。お前そこのやつの仲間なんだろ?」
すると今度は、「そうよ」と、しっかりとした答えを返してきた。
訳が分からない。彼は首を傾げながら言った。
「じゃあ、やっぱり盗賊じゃねえか」

彼はあの男にやられた事を思い返してみたが、やはりそうだった。ただ歩いているだけで、「荷を置いていけ」と言われたのだ。これを盗賊と言わずして何と言う。そしてここにはそもそも、村で盗賊が出て困っていると聞いてやって来たのだから、あの男が盗賊である事に争いは無いはずだ。

それなのに、である。

「……ふふ」
男がなぜか笑い出す。
「ふっふ……あ、ごめんなさい。別に馬鹿にしてる訳じゃないのよ?ふふ……」

訳も分からず訝しげに見つめる彼に、男は無理やり笑いを収めようとしながら、言った。
そう言えば今回は、そういう設定だったわね、と。

「違うのよ。ほんとは。私達は盗賊なんかじゃない」
「なにい?じゃあ何なんだよ」

彼がそう訊くと、男はそこでピタリと笑うのを止めた。今までの一種冗談のような雰囲気も、一瞬にして消え去る。敵となる人間と対峙した時、恐怖で竦んだり気圧されたりしているのを相手に悟られるのは得策では無い。その事を彼はよく知っていたが、それでもたじろぎそうになった。
ただの盗賊とはどうしても思えない。男は曇りのない眼で、彼を見つめ返してきたのである。


「私達は、“アームズ”」


先程までは幾分高かった声も、また低くなった。

「アームズ?」

彼が訊き返すと、男が頷く。

「そう、アームズ。それが私達の組織の名前」

外来語の名前のようで、ご丁寧にそのスペルまで解説された。
“ARMS”と、男は自らの組織をそう呼んだ。

「平和を愛する人間達の集まりよ。今この地を蝕んでるような、力による無理な統治は絶対に許さない」
「それにしちゃ随分物騒な名前じゃねえか。ARMSって“武器”って意味だろ確か。戦争でもおっ始めそうな名前だぜ」

兵器も持ってるようだし、やっぱり盗賊と大して変わらねえんじゃねえか。
彼がそう言うと、男は外来語にも詳しい彼の博識さに感心しながらも、首を横に振った。

「本当に、色んな事知ってるのね。けど、違うわ。確かに意味はその通りだけど、私達は基本的に反戦派だもの」
「反戦だあ~?」

さらりと出てきた単語に明らかな嫌悪感を示す彼。その片眉が大げさに吊り上げられる。

「いやだからよ、そこで倒れてる奴にも言ったけど、言ってる事とやってる事が合ってねえじゃねえか。そんな組織の人間が、なんで普通に暮らそうとしてる人間を襲ったりするんだよ」

彼はおかしな事は言っていないはずであった。それは実に論理的な思考から生み出された帰結であり、徹頭徹尾正しいもののはずだった。
しかし、論理というものはまずその始点がきっちりと確定していないと、全てが台無しになるものなのだ。間違ったものを正しく論じる事が出来ても、仕方がないのだから。

男は言った。

「襲ってないわ」

ふふ、と控えめに男は笑う。
分からなくても仕方がない。これはそもそも嘘なのだから。男はそう言った。

「嘘、だと?」
「そうよ」
腕を組んで、のけぞるようにして男は言う。やましい事は何も無いと、自信たっぷりのようだった。

「あなたは誰に聞いたのかしら。彼の、“ナハトイェーガー”の事を」
「誰って……」彼はそんな男を訝しみながらも言った。「村の、なんだ。炊き出しをしてたシスターに盗賊が出て困ってるって聞いたんだが」

彼のそれに、男はふふんと胸を張る。
それよ、と男は言った。

「頭はいいけど素直過ぎるわねえ。人から聞いた情報をそのまま鵜呑みにして危険な場所に来るだなんて。……まあ、私達もそれを期待してやってるんだけどね」

彼には男の言っている事がよく分からなかった。彼の生粋の人の良さが思考の邪魔をし、すぐに浮かんだはずの考えを、彼は頭の隅に無意識に追いやっていた。

「……つまり、どういう事だ」

彼がまた訊く。すると、男はおおげさにため息をついて見せ、やれやれとばかりに首を振った。

「存外察しが悪いのねえ。……でも、教えてあげる。あなたはつまり、釣られたのよ。まさにまぐろの一本釣りのごとく、ね」

まずは何から話そうかしら。男は顎に人差し指を当て、考えながら話し出した。
彼はそして、いきなり度肝を抜かれる事になる。なぜなら次に男の言った言葉が、思いもよらないスケールの大きさを持っていたからである。

私達は、“国”を作るために活動している。

まず最初に、男はそう言ったのだ。

「この辺りに難民が増えてきているのはなぜか知っていて?」
続けて男に問われ、彼は首を振った。
どこかの国から流れてきているという事だけで、詳しくは知らない。彼がそう答えると、男は言った。
この大陸を治める一つの大国の困窮が、その原因なのだと。


北方の大国家、ギアース。武勇で名を馳せた国で、その強大な力をもって近年急速に勢力を拡大し、今ではこの大陸のほぼ全てを掌握していると言われる大国である。
大陸の統一を進めたその国のお陰で、今の大きな戦乱の無い世がある……というのが、ギアースに対するこの辺りの人間の一般的な認識である。

そんな国が、しかし男の話からすると、今は危機に瀕しているらしい。ここ数年の農作物の不作がたたり、中央を維持するために、属国に高い税金をかけざるを得ない状況になったようである。そしてそれを払えない者達が粛清を恐れ、領地を脱出。難民になり、この状況を生んでいる……というのが、事の顛末らしい。

食べ物が無ければ、外国から金を出して買えば良いだけ。他には何も考えず、税金を上げるだけですますというその対症療法的な国の政策が、もう限界にきているのだと男は言う。諸外国に足元を見られ、食糧の輸入金額を引き上げられてしまった結果、首が回らなくなりつつあるらしい。

何かもっと、抜本的な対策を。この状況に憂いた国民が、そう国に変革を求めても、無駄だったようだ。その意見が聞き入れられる事は全く無く、それどころか、少し大きな声で国の批判をしようとするだけで逮捕監禁という憂き目にまであうらしく、国民は大人しく従う他ない状況のようである。

本当なら、ひどい話。彼は話を聞きながらそう思っていたが、しかし男の方は、この状況はある意味では仕方のない事なのだと、諦めたようにため息をつくのだった。
曰く、
「人間様が、蟻の話に耳を貸すかしら?貸さないでしょう?相手に痛みを与えたら、同じ痛みが返ってくる可能性がある。そういう状況になって初めて人は他人の話を聞いたり、相手の事を思いやるようになるのよ」
強者は強者の言う事しか聞く耳を持たない。強者と話をするには、どうしても自分達も強者になる必要がある。そう言って、男は右拳を胸の前で握り締めた。

「だから、国なの」

ここでようやく、男の始めの言葉に繋がる。
しかし究極的には国でなくても良い。男はそこで、そうも言った。
“国のように強い存在”でありさえすれば良い。そうすればとりあえず、話をする事くらいは出来るから……と。
男は言いながら、何やら遠い目で自分の拳を見つめていた。まるで男にしか見えない映像か何かが、そこに映しだされているかのように。

「……どうも、感情が入り過ぎちゃうわね」

男は少しバツが悪そうに彼を見て、自嘲気味に笑った。
確かに今までの落ち着いた口調からすると、いやに熱を帯びた話し方だったかもしれない。
「ちょっと、喋り過ぎたわね……」
喉元まで来ていた言葉を散らすためか、コホンと一度咳払いをしてから、男は仕切り直した。

「こんな所で、そろそろ分かってきたかしら。私達は強くならなければならないの。だから各地に散らばって、こうしてあなたみたいに強い兵器使いをスカウトしているって訳。強そうな人を見繕っては誘き出す“紹介人”と、その強さを実際に戦って見定める“案内人”を使ってね。ただ声をかけるんじゃなくて、こうして実際に戦ってもらって、それから初めて切り出すの。そうしないと、本当に強い人間は集められないから」

男も女も、見た目だけじゃ分からない。ぶつかり合わなきゃ見えてこないものもあるでしょう?そう男は加えた。

「兵器使いって、基本自分が一番強いと思ってるから、機会があればいつでも力を試したいって思ってるのよね。だからちょっとエサを撒くと、すうぐ釣れるの。例えば今回みたいに、悪い奴がいるから困ってる~って言うと、その討伐を大義名分にして力を試そうとするのよ。それに能力をあまり知られたくない秘密主義者が多いから、ほとんど単独で来てくれるのよねえ……」

男の話の筋は、一応通っているように彼には思えた。ギアースという国についても、嘘を言っているようには思えなかった。おそらくその辺りの情報には、嘘はないのだろう。

「あら?」

しかし、彼は再び男に向かって構えを取っていた。

「……何か、不満かしら?納得いかない事でもあった?」

男の話を聞いている間ずっと、彼の頭に、あの時のシスターの顔が浮かんでいた。心の底から悲しそうに、今にも泣き出しそうに口元を歪ませる、こちらの胸まで締め付けられるように沈む、あの彼女の顔だ。

男の話から推し量っていくと、そんな彼女もまた、男の仲間だという事になる。彼は彼女から盗賊の話を聞き、この仕事を請け負った。状況的に見て、彼女以外に彼をこの場に送り込めるような人間は他にいない。夜の狩人が男の言う“案内人”だとすると、必然、あのシスターは“紹介人”という立場の人間になってしまうのだ。
それを彼は、頭の片隅では理解していたのだが、どうしても素直に頭に入って来ない。彼には、彼女が男と同じような理論で動いているようにはどうしても見えなかったのだった。
体よく取り繕ってはいるが、結局男の言う所は、『力をもって力を制す』。そういう方法だと思われる。そんなやり方を、彼女はよしとしないはずなのだ。


彼女のあの伏せた目が、震える唇が。全てを物語っていた。
彼女はおそらく、武器そのものを嫌っている、と。


「…………」

やはり、彼女が男の仲間だとはどうしても思えない。男の話も、盗賊が自分達の稼業を正当化するために作り出した方便のように思えてならない。
そうして彼が眉根を寄せながら黙っていると、男が言った。

「……信じられない?」

それでも黙っていると、男は少し困ったように目を伏せ、長く嘆息した。

「まあ、そうよねえ……。素直過ぎるなんてあなたに言っておいて、私の話は信じろって言うのもおかしな話よね」

仕方ないわね。そう言うと、男は彼に背を向けた。

「今日の所は帰るわ。また会いましょ」

そうしてすっ、と男が一歩踏み出した所で、彼がようやく動く。

「待て」

彼の呼びかけに、男が再びこちらに振り返る。

「……何かしら」

彼が男の奥の方を指差す。

「分かってんだろ?そいつは置いてけ」

男の後ろで今もうなだれている夜の狩人を指差し、彼は言った。
とにもかくにも、自分が夜の狩人から攻撃を受けたのは事実なのだ。持っている兵器の事もあるし、このままただで帰す訳にはいかない。
彼がそう詰め寄ると、男はひょいと肩をすくませ、言った。

「……嫌だと言ったら、どうなるのかしら?」

疑問形だが、彼にはもう分かっていた。男はきっと、どうあっても渡す気はないのだろう。
彼は何も言わなかった。たださらに腰を低くして構え、男ににじり寄った。それが彼の答えだった。

男は再びそうして臨戦態勢を取る彼を見ると、虫でも払うかのようにひらひらと手を振り、それを拒否した。

「あら、嫌よ。そんなので殴られたら痛そうだし」

あの決着からそれなりに時間は経っていたが、未だ彼の腕はその大きさを保っている。確かな実力をもっているだろう男にも、さすがにこの腕を無視する事は出来ないようだ。
そんな男に、しかし彼は暴挙に出る。

「まあまあ。そう言う……」おもむろにクラウチングスタートの態勢を取ったかと思うと、次の瞬間、彼はいきなり男に飛びかかった。「なって!!」

男が邪魔になるなら、やるしかない。
一瞬にして双方の距離が詰められる。程なく男に迫る彼の巨大な拳。豪拳が男の左頬に突き……

「……むう!」

刺さらない。
盛大に空を切ったそれのせいで、周辺にあった水たまりの水が吹き上げられる。水滴が月の光を反射して、そのままキラキラと舞い散る。

「すごい風圧ねえ。当たったら本当に痛そう」

男は彼の攻撃を紙一重でかわしていた。まさに間一髪、と言った所だろうか。
いや、間一髪というのをギリギリで切羽詰まった様と捉えると、それは正確な表現ではない。男の顔は、余裕で満ちている。

男は、“最小限の動きでかわした”だけなのだった。彼の攻撃の速度に着いていく事が出来なかった訳では全くない。
それはまるで、軟体動物のようないなしだった。男の左頬に突き刺さるはずだった彼の拳は、男が身を捩ると、ぬるりとその体表面上を滑らされ、見事にそのベクトルをずらされてしまったのだ。

彼は、その一瞬の接触だけで理解した。
これは、圧倒的な技術だ。完全に堂に入った、何かしらの武術だ、と。

「……あら?」

しかし元々、彼の目的は男への攻撃ではなかった。男が強かろうと弱かろうと、今はそんな事は問題ではない。
今最優先にしなければならないのは、“夜の狩人”である。その夜の狩人を庇うように立っていた男を、その場からどうにかして動かさなければならなかった。だから彼は、全く敵意の無かった男に対してこんな暴挙に出たのだ。

攻撃をかわされた次の瞬間には、彼はもう走っていた。なんとしても、あの兵器だけは回収しなければならない。先程は男の出現に面食らって邪魔をされてしまったが、今度こそはと彼はそこに迫った。
しかし、彼がそうしてまさに夜の狩人の目前にまで迫り、その襟首に再び手を伸ばしかけた時だった。

「!?ああん??」

またしても、かれのそれは失敗する。
彼の手がそこに到達する直前、突然夜の狩人が不可思議な動きをして、それをかわした。二人の距離は、また大きく空いてしまう。

一瞬自らで立ち上がったかのように見えたが、それは違う。夜の狩人の首はうなだれたままで、まだ確かにその瞬間も気絶していたのは間違いないからだ。
ではなぜ夜の狩人は彼の手をかわせたのか。その答えはすぐには分からなかったが、見た瞬間から頭に去来するものが彼にはあった。

あれに似ている、と彼は思っていた。人形劇。背中や腕を吊られた人形が、人に操られて動く様に。ぐにゃぐにゃと力の抜けた足が、特によく。
夜の狩人は、何かに引っ張られていたのだった。だらりと腕を垂らし、足を引きずられたまま左方に引っ張られていき、そのまま……

「だ・め・よ♪」

最も渡ってはいけない者の手に、いとも簡単に収まってしまった。

「彼は大事な仲間なの。渡せないわ」

月の光の当たらない暗がりから、その太い腕だけを表に出して、男が言った。
いつの間にか男は元いた場所から移動していて、夜の狩人の襟首の辺りを掴みながら、彼から少し離れた木陰に立っていた。
完全に出し抜いたと思ったのに、逆にまんまとしてやられてしまった。
彼は気付くと、拳を固く握り締めていた。

「てめえ……」彼はしかし、解せぬといった面持ちで、少し刺々しい声色で男に言った。「今、何した」

彼のそれに、暗がりからふふ、と声が漏れ出る。
先程までは気にならなかったそれも、今の彼には耳障りだった。顔はよく見えないが、男はおそらく、してやったりと笑っているのだ。

「さあ、何かしらね」

男は彼の問いに当然のようにそうぼかしたが、彼は元々それには答えてくれるとは思っていなかったので、特にどうとも思わなかった。それについては、おそらく自分でも答えないからだ。
が、これならどうかと彼は言う。

「なんで分かった」

男が何かしらの力を使ったのは明らかだが、それはまあいい。問題はそこではない。なぜ自分の目的が男への攻撃ではなく、夜の狩人の方にある事が瞬時に分かったのかだ。そうでなければあり得ないだろう。あの対応の早さは。
彼がそう訊くと、男は笑って言った。

「だってあなた、やる気なかったじゃない」
「何?」

少し気の抜けた返事を彼が返してしまうと、男はなぜかあえて暗がりから一歩前に出てきて、再び顔を晒した。そして癖なのか何なのか、またひょいと肩をすくめ、男は言った。
「殺気がこもってなかったって事。だめよあんなんじゃ。目的が別にあるって事がバレバレだもの。フェイントでも何でも、相手を騙したいと思ったなら、ちゃんと殺気もこめないと」

さっきまではどうにも苛立ちが強かったが、その返答を聞いた瞬間から、それは綺麗に消え去ってしまった。
彼はふうむ、と唸ってしまっていた。分かってはいたが、やはりこの男只者ではない。間違いなく自分と同じくらいか、それ以上の力を秘めている。

「……なるほど」

夜の狩人を渡してはならない。あの兵器は危険なものだ。
そういう理性的な感情の上に。ダメだと思ってはいても、しかし。
抗い難い好奇心が、腹の底からこんこんと湧いてきてしまっていた。

“こいつと闘ってみたい”

思わず、男に向かって構えた腕に力が入る。口元がにやけるのを隠そうとしても、うまく隠す事が出来ない。彼のその顔は、新しいおもちゃを目の前にぶら下げられてうずうずしている子供と、何ら変わりの無いものだった。

「……ふふ」

男は、その彼の感情を知ってか知らずか、瞑目しながら笑みをこぼした。
強さを持つ者が、強者と拳を交えたいと思っているのは、どこの世界でもきっと同じ。
男の笑みを見てそれを確信し、自分の意思が通じたかと思って彼もニヤリと笑ったが、しかしすぐにそれは違うという事に彼は気付かされる。

今この時になっても、やはり男の戦意が全く感じられない。
男の方が、ここにおいては彼よりも遥かに理性的だった。

「……まぁ、やってみたくないって言ったら嘘になるわね……」男はそう言いながらも、持っていた荷物を左腕に抱え直す。「でも、今日の所はやめておきましょ。楽しみは後にとっておくものよ」

男は諭すように彼に言ったが、彼の方はその構えを解く事はなかった。
一度ついてしまった炎は、どんなに小さくてもやがて周りに燃え広がっていく。
彼にももう止められないのだった。後はもう、流れに身を任せるだけだ。

視線が交錯し、彼が再びその意志を無言で伝えると、男ももう無駄と悟ったか、黙り込んだ。
睨み合いながら一息、また一息としていくうち、徐々に両者の呼吸が合わさっていく。リズムを取りやすいように、彼はあえて肩で大きく息をして、そのリズムを男へと伝える。完全に呼吸がシンクロするその時が開戦の時だと、双方は言わずとも理解していた。

そして、その瞬間はすぐに訪れた。彼はふっ、と大きく息を吐いて全身を硬直させ、思い切りよく踏み込んだ地面を、ぐっと蹴り出そうと前屈みになった。さながら闘牛における、マタドールを突き破らんとする牛のようである。
後はその足を踏み出すだけ。
そんな時、しかし予想だにしない所からの攻撃により、彼はその足を止められる事となる。

男がいつの間にやら拳に数センチ程の小さな石を仕込んでいて、それを彼に向かって指で弾いてきたのだ。

「むお!?」

撃ち出された石はかなりの速さであったが、彼は首をひねり、なんとかそれをかわした。親指で弾くだけという小さな予備動作のせいもあって、意表を突かれてしまった。
男が彼の出鼻をくじいた形となる。

「い・や・よ♪」

力のある者同士の戦いは、どうしても呼吸を整える必要があるのだった。ただぶつかる事の危険さを、達人と呼ばれる人間は熟知している。ちょうど、熟練した何らかの楽器の奏者が、例え呼吸の関係のない弦楽器であったとしても、不用意に演奏を始めないのと同じように。
男はこの習性を利用し、彼の足を止めたのだった。

「やらないって言ったでしょう?向かってきちゃい・や」

次の弾を指に準備しながら男が言うので、彼は無闇に男に向かって飛び込んで行く事が出来ない。当たればおそらく、彼でもダメージを受ける。
その場に釘付けになった彼を確認すると、男はニコリと笑った。

「そう、それでいいのよ。少し落ち着きなさい」

そうしてニコニコしながら彼を眇めつつ、男は人差し指を顎の辺りに当て、うーんと唸った。
何かに迷っているように見えたが、それが何かはすぐに分かった。

「これを避けられたら今闘ってみてもいいかなって思ったんだけど……」

まあ、無理よね。
と、男がそう不敵に笑いながら言った瞬間だった。

「ああん?……へぶっふ!!!!!!」

突如、目玉が飛び出そうになる程の激しい痛みが、彼の後頭部を襲った。
何やら硬くて小さなものが、彼のそこに激しく打ちつけられたのだ。

「ぐ……っ!」

それでもふるふると頭を振り、急いで彼は立ち上がる。
しかしやはり……。

「……くそ!」

男の姿は、もうそこにはなかった。
彼は唇を噛み、急いで男の影を追おうとしたが、無駄だった。
男は、そこに何の気配も残してはいなかった。男がここに本当にさっきまでいたのか疑わしくなる程、僅かな余韻すら残っていない。これでは追う事など完全に不可能だった。

「ちっ」

彼は追跡を早々に諦め、傷んだ頭をすりすりと擦った。

「…………」

彼はその自身のコブの大きさを確認しながら、それを作っただろう物にじろりと目を向けた。
石だ。何の変哲もない石。しかしおそらく、男が先程弾いた石だろう事は分かる。
しかし彼方に飛んでいったはずのそれがなぜ、ここにあるのか。彼は考えながら、それをつまみ上げた。

物体をブーメランのように行使する能力か。あるいは単純に、夜の狩人のように自由に物体を操作出来る能力か。夜の狩人を手元に持っていった所から見るに、後者の可能性の方が少し高いかもしれない。

男とはどこかでまた会う事になるかもしれないが、彼はそこで思案を無理やり打ち切った。それ以上の事は何も分からないし、憶測で仮説を立ててみても仕方がない。それよりも他に考える事が多すぎて、今は男の能力などどうでもよかった。
彼は複雑な面持ちでその石をめんどくさそうにそこらに放り投げ、今はもう誰も居なくなってしまった森の闇を見つめながら、ため息をついた。







翌日。
彼は再びあの村に赴き、仕事の報告をするために教会を訪れていた。朝一番だというのに、そこはたくさんの人で溢れていた。

信心深い人間が多いのか。そう彼は感心しそうになったが、その集まっている人間の顔ぶれを見て、すぐにそうではない事に気付いた。
作業着の人間や、ヘルメットをかぶった人間がちらほら散見出来る。この人ごみは、労働者の集まりなのだった。シスターからは教会ではなく外で直接仕事を受けたので、今この村に存在する仕事の割り振りなどが、ほぼここで行われているのだという事を彼は失念していたのだ。
その人の多さに多少辟易としつつも、彼はその男も女も関係なくもみくちゃになっている人の海を少しづつかき分けていき、何とかシスターの所へと向かった。

「ちゃーっす」

軽く挨拶をしつつ、彼はその労働者の詰め所のようになっている所へと入って行った。
誰も彼もが整然とシスターの元に並ぶ横で、労働者達が用意されたテーブルについて談笑したり、仕事の話をしている。これで酒瓶でも置いてあれば、簡素な酒場のように見えなくもない。
難民が多くて大変なのだろうが、賑わっているのは単純に良い事だ。そう思って少しほっこりとしながら彼が列に並ぼうとすると、しかしその瞬間、場に小さなどよめきが起こった。

視線が急に自分に集まり、何が起こったのか分からなくて彼が立ち尽くしていると、横に並んでいた一人の初老の男が訝しそうに寄ってきて、思い切り値踏みされた。下から上までたっぷり舐めるように彼を見つめてから、ようやくその男は口を開いた。

「あんちゃん」

何かまずかったのだろうか。実は自分の知らないローカルルールのようなものが存在するのだろうか。
彼はそうして固唾を呑んだが、事はそう深刻なものでもないらしく、男の表情は硬いものではなかった。

「お前さん、マスターは?一緒ぢゃないんか?」

彼は首を傾げた。マスター?依頼人の事だろうか。
そう言えば、と彼は思い当たる。自分はこの所人が多い所によく出入りしていたから、背が低いと煩わしい事が多かったので、変身した状態でずっといたのだった。そのせいで金持ちや、何か要人のお抱え用心棒にでも見えたのかもしれない。

「いや、俺は……」
「あー、もう言わんでええ言わんでええ」
何も答えなかったのに、なぜか男はウンウンと頷いて勝手に何かを納得し、彼の肩をポンと叩いた。
「いや何、気を悪くせんでな。皆亜人の労働者が珍しかっただけなんよ。そうかいそうかい。一人で頑張っとるんじゃのお」

言われて彼は周りを伺う。外では何度か見かけたような気がしていたが、よくよく見てみると、この場には彼以外亜人が一人もいない。その体格の良さもあって、彼一人が完全に浮いてしまっていた。
やはり亜人は少数派で、あまり一般的ではないという事なのだろうか。彼は居心地悪そうにぷんと鼻を鳴らし、眉を寄せた。

しかし別にここにいてはダメというものでもないらしく、少しの間好奇の目に晒されはしたが、もうすでに周りは各々の会話に戻っていた。話しかけてきた男も、去り際に背中を擦るようにポンポンと叩いた後は、また列に戻って大人しく順番待ちをしているだけだった。
勝手に完結されて何となく納得いかない気持ちもあるにはあったが、彼も気を取り直して、列に黙って並んだ。変に何か喋っても、藪蛇になりかねない。

そうして目立たないように縮こまって順番を待っていると、あっという間に彼の順番が回ってきた。持っている報告書を見せ、その場で給金を受け取るだけというスタイルなので、対応も早いのだろう。
早速彼が対面したシスターに報告書を渡すと、シスターは言った。

「通商業務ですか。向こうの判は……大丈夫ですね。お給金はこちらになります」

どさりと、かなりの量の硬貨が入っているだろう革袋を渡される。

「……なんか多くねえか?」
彼がそう言ってそれをつまみ上げると、彼女は言った。
「え?そうでしょうか?皆さんで分けたらそこまで多いものではないはずですが」

なるほど、と彼はポンと手を叩き、きょとんとするシスターに訳を話してみた。すると、

「え!?これお一人でやられたんですか?ええ??」

本来一人でやる仕事ではないので、彼女は報告書と彼を何度も見直して、驚愕の声を上げた。藪蛇をつついてしまったかと彼は思ったが、彼女は彼の体つきを改めて見ると、勝手に納得してくれた。
そう言えば、自分に仕事をくれたあのシスターはどこにいるのだろうか。彼女がいれば一番話が早くて助かるのだが、少し見渡してみても見当たらない。
仕方ないので彼は盗賊についての報告も目の前の彼女にする事にしたのだが、その話をすると、彼女は首を傾げた。

「盗賊ですか?」
「おう。ほら、なんか兵器を使うでかい盗賊団がいて困ってるっていう話。あったろ?」

実際には盗賊団ではなく、兵器を巧みに使った単独犯だった。しかしその男は何やらよからぬ組織の構成員で……。
彼はそうして詳しく説明したが、彼女はぽかんとしたままだった。

「へいき……?」

それもそのはず。彼女はそれ自体を知らないのだった。盗賊団の話はもちろん、兵器の話まで、全てを。

「…………マジか」

それなら炊き出しの時に自分が会ったシスターはどこに居るのか、と試しに尋ねてみると、驚くべき答えが返ってきた。
彼女はここのシスターではなく、全くの部外者なのだった。どこかから流れてきた旅のシスターとして、彼女はあの炊き出しを手伝ってくれたのだという。それ自体よくある事であるし、人出も足らなかったので、喜んでそれを受け入れたらしい。この短い期間によっぽど気に入られたのか、彼女の事を話すシスターの表情は、とても明るかった。
そんな彼女だったが、しかし炊き出しが終わった後は、すぐにまた旅に出てしまったらしい。とても真面目で、誰にでも優しく振る舞うシスターだったので、送り出すのが惜しかった……と、目の前の彼女は少し残念そうに言った。

それを聞くと、彼はもう何もかもを理解して、もうこれ以上彼女に何か訊く事はしなかった。そうか、と一言寂しそうに呟くと、シスターに給金の礼を言い、彼はその場を後にした。


自分は知らないのだ。何も知らない。分からない。彼は旅に出て初めて、そうした無力感に苛まれてしまっていた。いつも覇気のあるあの彼には程遠く、とぼとぼと音が聞こえてきそうな程、彼は肩を落として廊下を歩いた。
知識だけではどうにもならない事がある。だからこうも易々と騙される。あのシスターの全てが演技だというのなら、この先自分は、何が本当の事で、何が嘘なのかを見極めていく事が出来るのだろうか……。
彼は教会の外に出ると、その鬱屈としてしまった気持ちが少しでも晴れないだろうかと、空を見上げずにはいられなかった。

外の世界は思っていたよりずっと厳しい。自分の旅はおそらく、順風満帆なものにはならないだろう。
空は晴れ渡っているように見えたが、遠く上空には、この地にスコールをもたらすあの暗雲が、またもくもくと立ち込めていた。これから少しすればここにやってきて、再びあの滝のような土砂降りの雨を降らすのだろう。
彼はその雲を少し恨めしそうに見つめると、すっかり鉛のように重くなってしまったその足を引き摺るようにして、歩き出した。



旅はまだまだ始まったばかり。彼の道は続いていく。
その空に暗雲が立ち込めていようと、その道が泥道だろうと、そこに大岩が立ちはだかっていようと、続いていく。

続いていくのだ。





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