「さて、まずは何から話そうかな」
ウォンのそれに、ムカイが早速手を上げて言った。
「わしほとんど何も聞かないできたんぢゃけど、一体おぬしらを何から守ればええんかの?」
ウォンはふむ、と頷き、それに答えた。
「じゃあその辺りも含めて、僕らのことを少し話しておこうかな。全体的な説明にもなるし」
そもそも考古学者とは何なのか。それが分かれば、この仕事の大半の説明はつく。そう前置きをして、ウォンは話し始めた。
「まず、僕ら。僕とシノは、一般的に考古学者と呼ばれている人間なんだけど、どういうことをやっているかはさすがに分かるよね?」
「発掘とか、研究だろ?」と彼。
ウォンが頷く。
「そう。じゃあ、何で僕らに護衛が必要なのかは分かるかい?」
そう問われて、彼は答えた。今までに二人に降りかかったような状況に陥るからだろうと。例えば、岩が頭上から降ってくるなど。発掘時における地形的な危険から、二人を守ればいいのだろうと彼は言った。
するとウォンは、「うん、それもあるね」と答えた。「だけどそれは、どちらかと言うと副次的なものだね。本来はもっと違うものから守ってもらっているんだ」
「もっと違うもの?」
彼がそう訊くと、ウォンは少し困ったように笑って言った。「人間さ」
「人間?」
「そう、ふいに頭上に降ってくる大岩なんかよりもっと恐ろしい、人間さ」
そこで彼は、ああ、と何か思い出したように言った。
「そういや、遺跡を盗掘してるやつがいるって話あったな。そいつらとかに鉢合わせした時にも守れってことか。武装してそうだもんな」
しかしウォンは、それに首を振った。
「今回は確かにそれもあるんだけど、普段は別の人間から守ってもらっているんだ」
分からなくて眉根を寄せた彼に、ウォンは少し険しい顔で続けて言った。
「人攫いだよ」
彼とムカイは、顔を見合わせた。
突然出てきたその穏やかではない言葉。彼の方は単純に外界の情報不足だったが、ムカイの方も、ピンと来ないようだった。
一体どういうことなのか。この地方では、人攫いが横行しているのだろうか。
しかしウォンの口ぶりからすると、考古学者は特別人攫いに狙われやすい。彼にはそういうふうに聞こえた。
彼がそのままその疑問をウォンにぶつけてみると、
「さすがくまたそ。理解が早いね」と、ウォンはにこやかに答えた。「その通り。僕らは人攫いに狙われやすい。その立場的にね」
「立場的?」
「そう」
「考古学者って、そんなにすげえのか?」
その彼の言葉を聞いて、今まで黙って聞いていたシノが、我慢出来なくなったかのように口を開いた。
「あんたって、ほんっと何も知らないのね」
「ああん?」
「いい?この地方では、生きていくのに最高に有利な職業が二つあるの。一つは私達みたいな、考古学者。もう一つは料理人。専門的な知識が必要になるから人数が少なくて貴重なの。常識よこんなの」
シノは彼にそう言ったが、彼の方は首を傾げていた。
そう言われても、どうも彼にはピンと来ないのだった。もっと他に良さそうな職はいくらでもありそうなのに、なぜその二つが特別扱いされているのかが分からないのだ。
彼がそう言うと、
「はは。そうだよね。余所から来た人にはちょっと分かりづらいよね」と、ウォンが笑って言った。「でも、ほんとなんだ。僕らはかなり優遇されてる。今泊まってるここの宿代だってタダ同然だし、君達への報酬も僕らからじゃなくて、国から出るしね。ほとんどVIPみたいなものだよ」
ウォンはわざわざ紙とペンを取り出し、彼に分かりやすいように説明してくれた。
「料理人なんかは、特に分かりづらいかもね。彼らは普通他の地方だと、かなり一般的な職業だから。特別な知識はあんまり必要なくて、技術の方が大事な仕事だからね。でもここらだと、ちょっと違うんだ。彼らはこの地方では、どちらかというと栄養士という意味合いの方が強い。どうすれば少ない食材で栄養の偏りが無く、かつなるべく美味しい料理が出来るのか。そういうことを考える人達なのさ。元はもちろん違ったんだろうけど、今は食糧難の土地が多いからそうなっちゃったんだろうね」
彼はそれを聞いて、なるほど、と思った。
確かに、栄養学は奥が深い。彼もその肉体維持のためにいくらかの知識が必要だったので、少しその辺りの学問にも手を出したことがあったが、とても修めきれるようなものではなかった。そう考えると、この地方で料理人が特別扱いされるのも、納得がいく。
彼がそうして理解したのを確認すると、ウォンは続けた。
「それから、僕ら考古学者の厚遇のことだけど。これはもうちょっと簡単な話で、単純に僕らのやっていることが、そのまま国の発展に繋がるからなんだ」
彼はまた、首を傾げた。
考古学で国が発展?一体どういうことだろうか。
「この都市は、なぜ国から自治を許されているか知っているかい?」
と、急に話がそれたような気がしたが、彼は黙って答えた。
それはすでに知っている。この都市が、国にとって戦略的に重要な都市だからだ。歴史が始まり、技術が生まれる。そういう場所だからだ。
そう答えると、ウォンは言った。
「そう。でもこの都市がただそのまま存在してるだけじゃ、そうはならないのさ。僕ら考古学者がいて、初めてこの都市はそういう特別な都市になれる。なぜなら僕らが発掘をしなければ、この都市で技術が生まれるなんてことにはならないから」
ウォンは彼に紙で図示しながら続ける。
「遺跡には、僕らの知らない技術で作られたものが多く眠っている。つまり単純に、僕らが発掘で得たもの。そこから技術が生まれることが多いのさ。そしてそれを見つけるための、古代文字で書かれた文献なんかを解読出来る可能性があるのは、高度な教育を受けた考古学者しかいない。僕らが優遇されてるのは、そういう訳さ」
学者というのは、どうも人に何かを教えるのが好きな人種らしい。そうして嬉々として色々なことを話してくれるウォンに、彼は興味深そうに耳を傾けていた。
里を出て、まだ数週間程。最初はどうなることかと思っていたが、徐々にこうして世界の形があらわになっていくにつれて、漠然とあった不安感はすでになくなりつつあった。
ただ純粋に、世界を歩くのが楽しい。彼は今、そう思えるようにまでなっていた。
「なるほどなあ」
彼の溢れる知識欲とウォンの教えたい欲は、相性が良かった。“知らない人間”と、“知っている人間”。両者はよく出来た生態系のように互いの欲を埋め合い、循環する良い関係にある。
しかし、それは当人達にとってしかそうなり得ない。周りの“知っている人間”からすると、ウォンのそれは厄介なものとなる可能性も秘めていた。
「そんなすげえのが発掘されるんだな。具体的にはどういうもんが出てくるんぞ?」
彼がそう言った瞬間、
「ばっか……」
横でシノがぼそりと呟き、目頭を手で抑えた。
「馬鹿?」
どうして急に罵られたのか。彼は小首を傾げた。
しかし、シノから視線を戻してみると、すぐにその理由は分かった。
彼はそれに気付いた途端、思わずギョッとして身を引いてしまった。
ウォンが、目をこれでもかとキラキラさせながら、こちらを見つめていたのだ。
「いや、やっぱ……」
嫌な予感がして、彼が反射的に話を断ろうとしてみても、もう遅かった。
「よくぞ聞いてくれました!」
ウォンはそうして急に立ち上がり、まるで大きなステージに立った舞台俳優のような大仰な振る舞いで、話し始めてしまった。
「時は遡ること数百年。それはある国と、ある種族の不和から始まった物語……」
そうなると、彼が話しかけても無駄だった。助けを求めてシノに顔を向けてみたが、その彼女も首を振って、諦めろと目で言ってきた。ムカイはムカイで、面白い人ぢゃのおなどと暢気な事を言って、まるで咎める気が無さそうだった。
「その種族の力を欲した、今のギアース国の前身。神聖ギアース帝国は、彼らの技術力を欲し、彼らを傘下に収めようとした。しかし誇りある彼らは、その国に従属することを良しとしなかった……」
どうやらこれは、ウォンの悪い癖のようである。自分の好きなことについては、無尽蔵に話をしてしまう。学者とはやはり、こういう人種なのだ。
しかしこうなってしまったのは自分のせいなので、さほど興味がなくとも、もはや黙って聞くしかない。
そう思って苦笑いしながら話を聞いていた彼の顔が、しかし次にウォンから出てきたある単語により、一変した。
「ああ、タソ族。彼らは本当に素晴らしい!」
突然話に現れた自分の種族の名前。
彼は目を見開いた。思わず声が出そうになったのは、なんとかこらえた。
「支配出来ないことが分かると、ギアースは一転、彼らを迫害する政策を取った。そうすればいずれ音を上げて、従属する道を選択するだろうと考えた訳だ」
彼は少し険しい顔で話を聞いていたが、ウォンはそれに全く気付かずに話し続けた。
「しかし、そうはならなかった。彼らはただ飄々とこの大地で生き続けた。そこで帝国は、彼らが土地にある程度根付くと、彼らをその土地から他に移るように厳しく追い立てた。そうすれば完全に支配しなくとも、その土地に彼らの技術の一部が残る。それを繰り返すことにより、帝国は彼らの技術を無理やり吸収しようとしたんだ」
気付くと彼は、拳を強く握り締めていた。
まさか自分の種族のことだとは、思ってもみなかった。彼は複雑な気持ちで、ウォンの話を聞いていた。
誉められていると言えなくもなかったが、彼にとってこの史実は、あまり誇れるものではなかったのだ。幼い頃に自らの種族の歴史を学ぶ機会があった際も、彼はこうした表層的な部分だけは聞いたものの、後のことは聞きたくないと耳を塞いできた。だから実際にタソ族の名前が出るまで、自分の種族のことを話しているということに気付かなかったのだ。
今回のこれは、その知識を補完するいい機会ではある。だがそれでもやはり、彼はこの話を詳しく聞く気になれなかった。
誇りを守るためであったとしても、彼らはそうして逃げ続けたのだ。その事実は、どうしたって変わらない。
彼は、ウォンになんとか話を切り上げさせようと口を開きかけた。やはり聞いていて楽しいものではない。早々に打ち切って、別の話に持っていったほうがいい。
しかし彼は、そのまま何も言わずに口を閉じることとなった。
なぜか隣で、自分よりも険しい顔でこの話を聞いている人間が居たのが気になったのだ。
「……どうしたんぞ」
シノが、まるで怖いものでも見たかのような真っ青な顔で、地面を見つめていた。自分自身が幽霊にでもなってしまいそうなほどの、蒼白い顔だった。
彼がそうして小声で話しかけてみても、彼女は眉をひそめて、
「……何でもない」
と、ぼそりと力なく返してくるだけだった。後はもう何も言わず、押し黙ってしまった。
彼はその様子を見ると、とりあえずいつものように「そうか」とだけ返し、自身も同じように黙った。
実は彼女は、こういう顔をしている時がたまにある。今日目の前で子供が転んだ時のあれもそうだが、どうも何か、彼女は腹に含んでいるものがありそうだった。
彼女のそういう顔が現れた時、彼は基本的に黙って静かに彼女から離れ、そっとしておくことにしていた。少し経てば、また元のシノに戻るからだ。
だが今回のこれは、なぜかどうにも気になった。単純に聞き飽きた話にうんざりしたような顔ではなかったのだ。
「なぜそんな顔をするのか」と、率直に訊いてみたかった。例え彼女に嫌われてでも、なぜか訊いておかなければならないような気がした。自分の種族の話の中でそうなったから、気になるのかもしれない。
しかし、ウォンの話は続いていた。そうした込み入った話は、まだまだ出来そうもない。
「ギアースが追い立てを行うと、彼らは脱兎のごとく逃げた。そのうち厳しい追い立てに遭っても落ちのびられるように、あらかじめ彼らは逃げ道を用意するようになった。そうしてだんだんと造られていったのが、今の逃亡街道という訳だ。だから街道沿いには、彼らが遺した遺跡が至る所に存在している。今でもその素晴らしい技術の結晶を内包したまま、ね」
この話は彼にとって急所であったが、彼は今、シノの方が気になって仕方がなかった。
その、はずだった。しかし次の瞬間にはもう、彼の頭からは彼女のことが吹き飛んでしまっていた。
彼が危惧していた、最も危険な世界の形。それがまさに今のこの世界の形なのだと、はっきりと分かってしまった。
ウォンの口から、出てはならない単語が出てきてしまったのだ。
「そう。つまり主に僕らが発掘しているのは、そんな彼らの技術が生んだ最高傑作。通称……」
聞き違えるはずもなかった。そうしてウォンは今日一番の大仰な振る舞いで、高らかにその言葉を、確かに口にしたのだった。
兵器、と。
ウォンのそれに、ムカイが早速手を上げて言った。
「わしほとんど何も聞かないできたんぢゃけど、一体おぬしらを何から守ればええんかの?」
ウォンはふむ、と頷き、それに答えた。
「じゃあその辺りも含めて、僕らのことを少し話しておこうかな。全体的な説明にもなるし」
そもそも考古学者とは何なのか。それが分かれば、この仕事の大半の説明はつく。そう前置きをして、ウォンは話し始めた。
「まず、僕ら。僕とシノは、一般的に考古学者と呼ばれている人間なんだけど、どういうことをやっているかはさすがに分かるよね?」
「発掘とか、研究だろ?」と彼。
ウォンが頷く。
「そう。じゃあ、何で僕らに護衛が必要なのかは分かるかい?」
そう問われて、彼は答えた。今までに二人に降りかかったような状況に陥るからだろうと。例えば、岩が頭上から降ってくるなど。発掘時における地形的な危険から、二人を守ればいいのだろうと彼は言った。
するとウォンは、「うん、それもあるね」と答えた。「だけどそれは、どちらかと言うと副次的なものだね。本来はもっと違うものから守ってもらっているんだ」
「もっと違うもの?」
彼がそう訊くと、ウォンは少し困ったように笑って言った。「人間さ」
「人間?」
「そう、ふいに頭上に降ってくる大岩なんかよりもっと恐ろしい、人間さ」
そこで彼は、ああ、と何か思い出したように言った。
「そういや、遺跡を盗掘してるやつがいるって話あったな。そいつらとかに鉢合わせした時にも守れってことか。武装してそうだもんな」
しかしウォンは、それに首を振った。
「今回は確かにそれもあるんだけど、普段は別の人間から守ってもらっているんだ」
分からなくて眉根を寄せた彼に、ウォンは少し険しい顔で続けて言った。
「人攫いだよ」
彼とムカイは、顔を見合わせた。
突然出てきたその穏やかではない言葉。彼の方は単純に外界の情報不足だったが、ムカイの方も、ピンと来ないようだった。
一体どういうことなのか。この地方では、人攫いが横行しているのだろうか。
しかしウォンの口ぶりからすると、考古学者は特別人攫いに狙われやすい。彼にはそういうふうに聞こえた。
彼がそのままその疑問をウォンにぶつけてみると、
「さすがくまたそ。理解が早いね」と、ウォンはにこやかに答えた。「その通り。僕らは人攫いに狙われやすい。その立場的にね」
「立場的?」
「そう」
「考古学者って、そんなにすげえのか?」
その彼の言葉を聞いて、今まで黙って聞いていたシノが、我慢出来なくなったかのように口を開いた。
「あんたって、ほんっと何も知らないのね」
「ああん?」
「いい?この地方では、生きていくのに最高に有利な職業が二つあるの。一つは私達みたいな、考古学者。もう一つは料理人。専門的な知識が必要になるから人数が少なくて貴重なの。常識よこんなの」
シノは彼にそう言ったが、彼の方は首を傾げていた。
そう言われても、どうも彼にはピンと来ないのだった。もっと他に良さそうな職はいくらでもありそうなのに、なぜその二つが特別扱いされているのかが分からないのだ。
彼がそう言うと、
「はは。そうだよね。余所から来た人にはちょっと分かりづらいよね」と、ウォンが笑って言った。「でも、ほんとなんだ。僕らはかなり優遇されてる。今泊まってるここの宿代だってタダ同然だし、君達への報酬も僕らからじゃなくて、国から出るしね。ほとんどVIPみたいなものだよ」
ウォンはわざわざ紙とペンを取り出し、彼に分かりやすいように説明してくれた。
「料理人なんかは、特に分かりづらいかもね。彼らは普通他の地方だと、かなり一般的な職業だから。特別な知識はあんまり必要なくて、技術の方が大事な仕事だからね。でもここらだと、ちょっと違うんだ。彼らはこの地方では、どちらかというと栄養士という意味合いの方が強い。どうすれば少ない食材で栄養の偏りが無く、かつなるべく美味しい料理が出来るのか。そういうことを考える人達なのさ。元はもちろん違ったんだろうけど、今は食糧難の土地が多いからそうなっちゃったんだろうね」
彼はそれを聞いて、なるほど、と思った。
確かに、栄養学は奥が深い。彼もその肉体維持のためにいくらかの知識が必要だったので、少しその辺りの学問にも手を出したことがあったが、とても修めきれるようなものではなかった。そう考えると、この地方で料理人が特別扱いされるのも、納得がいく。
彼がそうして理解したのを確認すると、ウォンは続けた。
「それから、僕ら考古学者の厚遇のことだけど。これはもうちょっと簡単な話で、単純に僕らのやっていることが、そのまま国の発展に繋がるからなんだ」
彼はまた、首を傾げた。
考古学で国が発展?一体どういうことだろうか。
「この都市は、なぜ国から自治を許されているか知っているかい?」
と、急に話がそれたような気がしたが、彼は黙って答えた。
それはすでに知っている。この都市が、国にとって戦略的に重要な都市だからだ。歴史が始まり、技術が生まれる。そういう場所だからだ。
そう答えると、ウォンは言った。
「そう。でもこの都市がただそのまま存在してるだけじゃ、そうはならないのさ。僕ら考古学者がいて、初めてこの都市はそういう特別な都市になれる。なぜなら僕らが発掘をしなければ、この都市で技術が生まれるなんてことにはならないから」
ウォンは彼に紙で図示しながら続ける。
「遺跡には、僕らの知らない技術で作られたものが多く眠っている。つまり単純に、僕らが発掘で得たもの。そこから技術が生まれることが多いのさ。そしてそれを見つけるための、古代文字で書かれた文献なんかを解読出来る可能性があるのは、高度な教育を受けた考古学者しかいない。僕らが優遇されてるのは、そういう訳さ」
学者というのは、どうも人に何かを教えるのが好きな人種らしい。そうして嬉々として色々なことを話してくれるウォンに、彼は興味深そうに耳を傾けていた。
里を出て、まだ数週間程。最初はどうなることかと思っていたが、徐々にこうして世界の形があらわになっていくにつれて、漠然とあった不安感はすでになくなりつつあった。
ただ純粋に、世界を歩くのが楽しい。彼は今、そう思えるようにまでなっていた。
「なるほどなあ」
彼の溢れる知識欲とウォンの教えたい欲は、相性が良かった。“知らない人間”と、“知っている人間”。両者はよく出来た生態系のように互いの欲を埋め合い、循環する良い関係にある。
しかし、それは当人達にとってしかそうなり得ない。周りの“知っている人間”からすると、ウォンのそれは厄介なものとなる可能性も秘めていた。
「そんなすげえのが発掘されるんだな。具体的にはどういうもんが出てくるんぞ?」
彼がそう言った瞬間、
「ばっか……」
横でシノがぼそりと呟き、目頭を手で抑えた。
「馬鹿?」
どうして急に罵られたのか。彼は小首を傾げた。
しかし、シノから視線を戻してみると、すぐにその理由は分かった。
彼はそれに気付いた途端、思わずギョッとして身を引いてしまった。
ウォンが、目をこれでもかとキラキラさせながら、こちらを見つめていたのだ。
「いや、やっぱ……」
嫌な予感がして、彼が反射的に話を断ろうとしてみても、もう遅かった。
「よくぞ聞いてくれました!」
ウォンはそうして急に立ち上がり、まるで大きなステージに立った舞台俳優のような大仰な振る舞いで、話し始めてしまった。
「時は遡ること数百年。それはある国と、ある種族の不和から始まった物語……」
そうなると、彼が話しかけても無駄だった。助けを求めてシノに顔を向けてみたが、その彼女も首を振って、諦めろと目で言ってきた。ムカイはムカイで、面白い人ぢゃのおなどと暢気な事を言って、まるで咎める気が無さそうだった。
「その種族の力を欲した、今のギアース国の前身。神聖ギアース帝国は、彼らの技術力を欲し、彼らを傘下に収めようとした。しかし誇りある彼らは、その国に従属することを良しとしなかった……」
どうやらこれは、ウォンの悪い癖のようである。自分の好きなことについては、無尽蔵に話をしてしまう。学者とはやはり、こういう人種なのだ。
しかしこうなってしまったのは自分のせいなので、さほど興味がなくとも、もはや黙って聞くしかない。
そう思って苦笑いしながら話を聞いていた彼の顔が、しかし次にウォンから出てきたある単語により、一変した。
「ああ、タソ族。彼らは本当に素晴らしい!」
突然話に現れた自分の種族の名前。
彼は目を見開いた。思わず声が出そうになったのは、なんとかこらえた。
「支配出来ないことが分かると、ギアースは一転、彼らを迫害する政策を取った。そうすればいずれ音を上げて、従属する道を選択するだろうと考えた訳だ」
彼は少し険しい顔で話を聞いていたが、ウォンはそれに全く気付かずに話し続けた。
「しかし、そうはならなかった。彼らはただ飄々とこの大地で生き続けた。そこで帝国は、彼らが土地にある程度根付くと、彼らをその土地から他に移るように厳しく追い立てた。そうすれば完全に支配しなくとも、その土地に彼らの技術の一部が残る。それを繰り返すことにより、帝国は彼らの技術を無理やり吸収しようとしたんだ」
気付くと彼は、拳を強く握り締めていた。
まさか自分の種族のことだとは、思ってもみなかった。彼は複雑な気持ちで、ウォンの話を聞いていた。
誉められていると言えなくもなかったが、彼にとってこの史実は、あまり誇れるものではなかったのだ。幼い頃に自らの種族の歴史を学ぶ機会があった際も、彼はこうした表層的な部分だけは聞いたものの、後のことは聞きたくないと耳を塞いできた。だから実際にタソ族の名前が出るまで、自分の種族のことを話しているということに気付かなかったのだ。
今回のこれは、その知識を補完するいい機会ではある。だがそれでもやはり、彼はこの話を詳しく聞く気になれなかった。
誇りを守るためであったとしても、彼らはそうして逃げ続けたのだ。その事実は、どうしたって変わらない。
彼は、ウォンになんとか話を切り上げさせようと口を開きかけた。やはり聞いていて楽しいものではない。早々に打ち切って、別の話に持っていったほうがいい。
しかし彼は、そのまま何も言わずに口を閉じることとなった。
なぜか隣で、自分よりも険しい顔でこの話を聞いている人間が居たのが気になったのだ。
「……どうしたんぞ」
シノが、まるで怖いものでも見たかのような真っ青な顔で、地面を見つめていた。自分自身が幽霊にでもなってしまいそうなほどの、蒼白い顔だった。
彼がそうして小声で話しかけてみても、彼女は眉をひそめて、
「……何でもない」
と、ぼそりと力なく返してくるだけだった。後はもう何も言わず、押し黙ってしまった。
彼はその様子を見ると、とりあえずいつものように「そうか」とだけ返し、自身も同じように黙った。
実は彼女は、こういう顔をしている時がたまにある。今日目の前で子供が転んだ時のあれもそうだが、どうも何か、彼女は腹に含んでいるものがありそうだった。
彼女のそういう顔が現れた時、彼は基本的に黙って静かに彼女から離れ、そっとしておくことにしていた。少し経てば、また元のシノに戻るからだ。
だが今回のこれは、なぜかどうにも気になった。単純に聞き飽きた話にうんざりしたような顔ではなかったのだ。
「なぜそんな顔をするのか」と、率直に訊いてみたかった。例え彼女に嫌われてでも、なぜか訊いておかなければならないような気がした。自分の種族の話の中でそうなったから、気になるのかもしれない。
しかし、ウォンの話は続いていた。そうした込み入った話は、まだまだ出来そうもない。
「ギアースが追い立てを行うと、彼らは脱兎のごとく逃げた。そのうち厳しい追い立てに遭っても落ちのびられるように、あらかじめ彼らは逃げ道を用意するようになった。そうしてだんだんと造られていったのが、今の逃亡街道という訳だ。だから街道沿いには、彼らが遺した遺跡が至る所に存在している。今でもその素晴らしい技術の結晶を内包したまま、ね」
この話は彼にとって急所であったが、彼は今、シノの方が気になって仕方がなかった。
その、はずだった。しかし次の瞬間にはもう、彼の頭からは彼女のことが吹き飛んでしまっていた。
彼が危惧していた、最も危険な世界の形。それがまさに今のこの世界の形なのだと、はっきりと分かってしまった。
ウォンの口から、出てはならない単語が出てきてしまったのだ。
「そう。つまり主に僕らが発掘しているのは、そんな彼らの技術が生んだ最高傑作。通称……」
聞き違えるはずもなかった。そうしてウォンは今日一番の大仰な振る舞いで、高らかにその言葉を、確かに口にしたのだった。
兵器、と。
PR
男にそう言われても、シノは彼の後ろから出ることが出来ずにいた。ネズミだと思っていたものが急に目の前でライオンになったら、だれでも普通は驚く。彼女のこの反応は、仕方ないことと言っていい。
しかしそうしてとまどいを隠せずにいるシノに対して、彼の方は冷静だった。しっかりとその一挙一動を観察し、男を分析していたのである。
放たれた凄まじい拳そのものもそうだが、注目すべきは地面に残った男の足跡の方だ。男の履いている靴の形そのままに、深く抉られたように地面がへこんでいる。
拳に力を効率よく載せるためには、上半身の動きを練る必要がある。そう考えてしまいそうなものだが、実際はそうではない。足の踏ん張り、踏み込みが最も重要な要素となる。
男はこの点において、恐るべき程に秀でていた。足から腕へ力を伝える。もしそれが拙いものであれば、力の分散によって地面は広範囲にわたって抉られてしまうはず。こんなにくっきりとした靴跡などは残らないはずなのだ。力の集約のさせ方が半端ではない。
「……じいさん。あんた一体……」
そして最も恐るべきことは、これ程の圧倒的な力を見せておきながら、この男は……。
と、そうして彼が、男にその確信を投げかけようとした時だった。
そばにあった階段から慌てたそぶりで顔を覗かせた人物が、彼の言葉を遮った。
「うひゃあ、何だったんだ今の突風は」
それに気付いたシノが声を上げる。
「あ、先生!」
彼女が持つ考古学の知識は、ほとんどが彼の元で修められたものである。
ウォン・ホァン。彼女の考古学の師にして、確かな遺跡発掘実績のある人間にのみ与えられる称号、“プロフェッサー”の称号を持つ考古学の第一人者である。
「やあ、シノ。新しい護衛の人とは合流出来たかい?」
小レンズの丸メガネの奥から、彼はニコリとシノに笑いかけた。
そうしていつもニコニコとしている柔らかな物腰と、その広い額を晒したオールバックの髪型のせいで、年齢より少し老けて見える。彼自身は特に気にしていないが、実際は、シノより一回り上程度の年である。
「ああ、くまたそも一緒なんだね」彼はメガネの中央をくいと上げながら言った。「そちらは?」
彼の視線が、二人の奥にいる老齢の男に行く。シノがその視線を追って、ああ、と困ったように答えた。
「あの、何か……あの人が今日来る護衛の人だったみたいなんですけど」
と、なぜかもごもごとはっきりしないシノに、彼は首を傾げた。
「何か問題が?」
「いえ、特に問題はない……とは思うんですけど」
その答えに、ますますウォンは首を傾げた。
「一体何なんだい?」
シノは、今あったことと、自身が迷っている理由を彼に話した。
さっきの突風はあの人が起こしたもので、護衛が出来るような力はありそうに見える。しかしどうにも浮世離れした力なので、本当に彼が力を持っているのか分からない。彼女はそう正直に、彼に言った。
「ふむ。なるほど」
ウォンは顎に手を当て思案した後、彼に言った。
「くまたそ。君はどう思う?」
「ん?」
じっと二人の会話を見ていた彼は、突然そう問われて、組んでいた腕を解いた。
「どうって何ぞ?」
「君から見て、あの人はどう思う?実際護衛は出来そうなのかい?」
「……んー」
彼は男に目を移す。その視線に気付いた男がニッと白い歯を見せると、彼は頭をぽりぽりと掻いてから視線を戻し、ウォンに答えた。
「まあ……問題ねえと思うぜ。ぶっちゃけ、こっちから頼みたいくらいだな」
正直な所、得体は知れない。しかし、興味がある。
見せかけの力なら、見れば分かる。彼には男の実力が確かなものであることはすでに分かっていた。だがその力の“源泉”が、どうしても分からなかった。
それならいっそ、護衛としてそばに置いて、様子を見てみたい。彼はそう思い、一応その辺りの懸念は伏せて、ウォンに男をとりあえず雇ってみることを勧めた。
「……ふむ」ウォンはまた顎に手を当てたが、今度は特に迷うそぶりも見せず、すぐに言った。「まあ、くまたそがそう言うなら大丈夫なんだろうね」
実際には、彼がシノとウォンに会ってからというもの、彼らが圧倒的に危険な事態に陥る、といったことはまだなかった。それでも彼は、二人から護衛として高く評価されていた。
シノの頭上に落ちそうだった岩を排除したり、発掘に邪魔な障害物を除去したりで、単純な腕力の高さを示す機会は何度かあった。それが功を奏して、何とか彼はシノにもかろうじて認められている。
「じゃあ、採用ってことでいいか?」
彼がそう訊くと、ウォンがうん、と頷く。
それを確認すると、彼は男の方に向き直り、手を差し出した。
「よかったな爺さん。採用だ。しばらくの間よろしく頼むぜ」
すると男は、嬉しそうに彼の手を取って、朗らかに笑った。
その乾いた手は意外にも分厚く、まるで幾多の戦をくぐり抜けてきたかのように、いくつもの傷跡があった。
何となく男の持つ力が伝わってくるようで、彼はその男の手を、力強く握り返した。
「俺は護衛のくまたそ。で、あれが考古学者のシノとウォンだ。爺さんはなんて言うんだ?」
そう訊くと、なぜか少し逡巡するような間があったが、男は彼に答えた。
「リ……ムカイ・リぢゃ」
そうしてふっと男が顔を上げた時、彼が何かに気付く。
「あれ?爺さん……」じろじろと男を見回して、彼は言った。「どっかで会ったことねえか……?」
男はそう言われて、んん?っと前髪を上げて、彼を見た。
「…………はて?」
「ああ、あれだ。ほら、ここから近い村の。あのシスターに給料もらう場所で、俺に話しかけてきたじゃねえか。頑張ってるんじゃのおとか言って」
亜人の労働者が珍しいと、場がどよめいたあの時のことだ。男が話しかけてくれたおかげで、その妙な空気が少しの間で済んで助かったのを、彼は覚えていた。
彼のそれに、男はしばらく首を捻っていたが、やがて。
「ああ!あの時の!」と、ようやく合点がいったようにポンと手を叩く。「お前さんぢゃったか。何とも偶然ぢゃのお」
「え?知り合いだったの?」と、そこにシノが不機嫌そうな顔をしながら割って入った。「先に言ってよ」
それを見て、慌てて彼は弁解した。
「いや俺も今気付いたんぞ。しかも知り合いっちゃあ知り合いって程度だし」
そのやりとりを見て、ウォンはへえ、と嬉しそうに頷いた。
「それはいいね。全く知らない人よりはやりやすいんじゃないかな。何が起こるかわからないし、うまく連携してくれると助かるよ」
さてさて、と今度はウォンが手を叩き、自身に注目を促した。
「じゃあ皆揃った所で、今度の発掘についてとか色々教えておかないといけないし、どこかで話そうか」
そのウォンの一声で、互いの自己紹介もそこそこにして、落ち着いて話せるところに移動することにする。ひとまず、宿に戻ることになった。
そうして一行が宿のロビーに戻ってみると、先程の騒動のせいか、そこはすっかり様変わりしてしまっていた。
客はもちろん、洗濯物を干していたのだろう従業員があらかた出払ってしまったようで、宿の運営に響くのではないかと彼が心配になるくらい、閑散としていたのだ。
しかし護衛任務という性質上、あまり会話の内容を他人に聞かれるのは避けたいところであったので、好都合ではある。
彼がそう思っていると、ウォンもこれはちょうどいいとばかりにロビー中央の大きなソファに陣取った。
そして、他の三人も同じようにそこに腰を下ろし、早速会議が始まった。
しかしそうしてとまどいを隠せずにいるシノに対して、彼の方は冷静だった。しっかりとその一挙一動を観察し、男を分析していたのである。
放たれた凄まじい拳そのものもそうだが、注目すべきは地面に残った男の足跡の方だ。男の履いている靴の形そのままに、深く抉られたように地面がへこんでいる。
拳に力を効率よく載せるためには、上半身の動きを練る必要がある。そう考えてしまいそうなものだが、実際はそうではない。足の踏ん張り、踏み込みが最も重要な要素となる。
男はこの点において、恐るべき程に秀でていた。足から腕へ力を伝える。もしそれが拙いものであれば、力の分散によって地面は広範囲にわたって抉られてしまうはず。こんなにくっきりとした靴跡などは残らないはずなのだ。力の集約のさせ方が半端ではない。
「……じいさん。あんた一体……」
そして最も恐るべきことは、これ程の圧倒的な力を見せておきながら、この男は……。
と、そうして彼が、男にその確信を投げかけようとした時だった。
そばにあった階段から慌てたそぶりで顔を覗かせた人物が、彼の言葉を遮った。
「うひゃあ、何だったんだ今の突風は」
それに気付いたシノが声を上げる。
「あ、先生!」
彼女が持つ考古学の知識は、ほとんどが彼の元で修められたものである。
ウォン・ホァン。彼女の考古学の師にして、確かな遺跡発掘実績のある人間にのみ与えられる称号、“プロフェッサー”の称号を持つ考古学の第一人者である。
「やあ、シノ。新しい護衛の人とは合流出来たかい?」
小レンズの丸メガネの奥から、彼はニコリとシノに笑いかけた。
そうしていつもニコニコとしている柔らかな物腰と、その広い額を晒したオールバックの髪型のせいで、年齢より少し老けて見える。彼自身は特に気にしていないが、実際は、シノより一回り上程度の年である。
「ああ、くまたそも一緒なんだね」彼はメガネの中央をくいと上げながら言った。「そちらは?」
彼の視線が、二人の奥にいる老齢の男に行く。シノがその視線を追って、ああ、と困ったように答えた。
「あの、何か……あの人が今日来る護衛の人だったみたいなんですけど」
と、なぜかもごもごとはっきりしないシノに、彼は首を傾げた。
「何か問題が?」
「いえ、特に問題はない……とは思うんですけど」
その答えに、ますますウォンは首を傾げた。
「一体何なんだい?」
シノは、今あったことと、自身が迷っている理由を彼に話した。
さっきの突風はあの人が起こしたもので、護衛が出来るような力はありそうに見える。しかしどうにも浮世離れした力なので、本当に彼が力を持っているのか分からない。彼女はそう正直に、彼に言った。
「ふむ。なるほど」
ウォンは顎に手を当て思案した後、彼に言った。
「くまたそ。君はどう思う?」
「ん?」
じっと二人の会話を見ていた彼は、突然そう問われて、組んでいた腕を解いた。
「どうって何ぞ?」
「君から見て、あの人はどう思う?実際護衛は出来そうなのかい?」
「……んー」
彼は男に目を移す。その視線に気付いた男がニッと白い歯を見せると、彼は頭をぽりぽりと掻いてから視線を戻し、ウォンに答えた。
「まあ……問題ねえと思うぜ。ぶっちゃけ、こっちから頼みたいくらいだな」
正直な所、得体は知れない。しかし、興味がある。
見せかけの力なら、見れば分かる。彼には男の実力が確かなものであることはすでに分かっていた。だがその力の“源泉”が、どうしても分からなかった。
それならいっそ、護衛としてそばに置いて、様子を見てみたい。彼はそう思い、一応その辺りの懸念は伏せて、ウォンに男をとりあえず雇ってみることを勧めた。
「……ふむ」ウォンはまた顎に手を当てたが、今度は特に迷うそぶりも見せず、すぐに言った。「まあ、くまたそがそう言うなら大丈夫なんだろうね」
実際には、彼がシノとウォンに会ってからというもの、彼らが圧倒的に危険な事態に陥る、といったことはまだなかった。それでも彼は、二人から護衛として高く評価されていた。
シノの頭上に落ちそうだった岩を排除したり、発掘に邪魔な障害物を除去したりで、単純な腕力の高さを示す機会は何度かあった。それが功を奏して、何とか彼はシノにもかろうじて認められている。
「じゃあ、採用ってことでいいか?」
彼がそう訊くと、ウォンがうん、と頷く。
それを確認すると、彼は男の方に向き直り、手を差し出した。
「よかったな爺さん。採用だ。しばらくの間よろしく頼むぜ」
すると男は、嬉しそうに彼の手を取って、朗らかに笑った。
その乾いた手は意外にも分厚く、まるで幾多の戦をくぐり抜けてきたかのように、いくつもの傷跡があった。
何となく男の持つ力が伝わってくるようで、彼はその男の手を、力強く握り返した。
「俺は護衛のくまたそ。で、あれが考古学者のシノとウォンだ。爺さんはなんて言うんだ?」
そう訊くと、なぜか少し逡巡するような間があったが、男は彼に答えた。
「リ……ムカイ・リぢゃ」
そうしてふっと男が顔を上げた時、彼が何かに気付く。
「あれ?爺さん……」じろじろと男を見回して、彼は言った。「どっかで会ったことねえか……?」
男はそう言われて、んん?っと前髪を上げて、彼を見た。
「…………はて?」
「ああ、あれだ。ほら、ここから近い村の。あのシスターに給料もらう場所で、俺に話しかけてきたじゃねえか。頑張ってるんじゃのおとか言って」
亜人の労働者が珍しいと、場がどよめいたあの時のことだ。男が話しかけてくれたおかげで、その妙な空気が少しの間で済んで助かったのを、彼は覚えていた。
彼のそれに、男はしばらく首を捻っていたが、やがて。
「ああ!あの時の!」と、ようやく合点がいったようにポンと手を叩く。「お前さんぢゃったか。何とも偶然ぢゃのお」
「え?知り合いだったの?」と、そこにシノが不機嫌そうな顔をしながら割って入った。「先に言ってよ」
それを見て、慌てて彼は弁解した。
「いや俺も今気付いたんぞ。しかも知り合いっちゃあ知り合いって程度だし」
そのやりとりを見て、ウォンはへえ、と嬉しそうに頷いた。
「それはいいね。全く知らない人よりはやりやすいんじゃないかな。何が起こるかわからないし、うまく連携してくれると助かるよ」
さてさて、と今度はウォンが手を叩き、自身に注目を促した。
「じゃあ皆揃った所で、今度の発掘についてとか色々教えておかないといけないし、どこかで話そうか」
そのウォンの一声で、互いの自己紹介もそこそこにして、落ち着いて話せるところに移動することにする。ひとまず、宿に戻ることになった。
そうして一行が宿のロビーに戻ってみると、先程の騒動のせいか、そこはすっかり様変わりしてしまっていた。
客はもちろん、洗濯物を干していたのだろう従業員があらかた出払ってしまったようで、宿の運営に響くのではないかと彼が心配になるくらい、閑散としていたのだ。
しかし護衛任務という性質上、あまり会話の内容を他人に聞かれるのは避けたいところであったので、好都合ではある。
彼がそう思っていると、ウォンもこれはちょうどいいとばかりにロビー中央の大きなソファに陣取った。
そして、他の三人も同じようにそこに腰を下ろし、早速会議が始まった。
「くまたそ。聞いてる?」
彼は複雑な顔のまま、その彼女の言葉に曖昧に返事をする。そしてそれをごまかすように、彼女の前をゆっくりと歩き出した。
彼はもちろん、最初からフリーであった。だから彼女の言う苦労というのは、微塵もしていない。それが少し後ろめたくて、彼は言葉を濁した。
彼女はそれを少し訝しんだようだったが、デリケートなことだからか、それ以上彼に追求することはしなかった。
「……ていうか、あんたって結局何の亜人なの?たぬきかなんか?あんたみたいなのって全然見たことないんだけど」
彼は幾度かの人との邂逅を経て、自分がタソ族であるということは周りに伏せておくことにしていた。これだけ亜人に風当たりが強いとなると、具体的に種族名を言った場合にどれだけのやぶへびになるか分からなかったからだ。
少なくとも、この世界のことをもっと深く知るまでは伏せておく方が良い。彼はそう考え、この頃では元の姿にも戻っていない。
質問を変えてもそうして黙る彼をさすがに変に思ったのか、彼女は彼の隣に並んで、その顔を覗きこんだ。
彼女の促されるような目線に晒されると、彼は気付かれないように小さく嘆息し、やっと重い口を開いた。
「……分からねえ。気付いたら一人だったしな。でも少なくともたぬきじゃあねえはずだ」
嘘をつくのは後ろめたいが、仕方ない。
彼女はそれを聞くと、やはり訝しそうにじっと彼を見つめた。しかしそれ以上は何も返ってこないことが分かると、つまらなさそうに言った。
「……ふぅん。まあ、別にどうでもいいんだけどね。あんたが何であろうと」
がくりと肩を落とす彼を見て、彼女は満足したように笑う。そこでようやく彼女は彼に絡むのを止めて、黙って歩き出した。
彼らの目の前には、巨大な半月状の公衆劇場のような街並が広がっていた。段々畑のように切り立った崖に、建物が横に連なるように建っている。
これ程巨大な街を目にしたことのない彼には、この景色が今でも信じられない。それら全てがミニチュアのハリボテか何かのように見え、まるで現実感がなかった。
彼が目を奪われるのも仕方がない。その光景は、田舎者の彼にとっては一大スペクタクルだったのだ。
街の中心には湧き出た温泉が川のように流れ、そこかしこで湯気が上がっていた。この街の全ての人間は、この温泉のおかげで一年中凍えることがない。誰も彼もが、余裕に満ちた表情を浮かべている。生活に追われている人間など、この街には存在しないのだ。
彼はその光景を、少し眩しそうに見つめながら歩いた。いつも寒々としていた自分の故郷とは、裕福さに天と地程の差がある。彼にはそれが、少しだけ羨ましかったのだ。
長い階段を上っていく。するとようやく、拠点にしている宿が見えてくる。崖に埋め込まれるように建っているから分かりやすいと、シノが選んだ宿だった。
彼らはその赤いレンガ造りの宿に入ると、すぐに待ち合わせに設定していたロビーに目を走らせた。
待ち合わせている人間は二人。一人は新しい護衛で、もう一人はシノの元々の同行者である。
ロビーにはいくらかの人間がいたが、彼らがきょろきょろと周りを伺ってみても、まだどちらもここには来ていないようだった。
「まだ来てないみたいね」
「みたいだな」
そうして彼らがロビーにあるソファに腰掛け、一息つこうとした時だった。
「もしかして、おぬしがシノ・ミズキさんかな?」
「え?」
二人は思いもよらない人物から声を掛けられ、顔を見合わせた。
シノくらいの身長しかない、小柄な男だった。
「あの……?」
知り合いなのかと彼はシノを見たが、彼女も首を傾げていた。どうも知り合いではないらしい。
と言っても実際は、顔がよく見えないので分からないと言った方がいいかもしれない。長く伸びきった白い髪を後ろで束ねたはいいものの、うまくしばりきれなかったのか、これまた長い前髪がだらりと目と鼻の辺りまでを覆ってしまっていて、うまく顔が見えないのだ。
しかし声から察するに、若い人間ではないことはすぐに分かった。かなりの年齢を感じさせる、かすれ声だったのだ。
「……何でしょう?どちら様ですか?」
だから彼女がこういう対応をするのも、無理からぬことであった。まずこの場で彼らに話しかけてくるはずもない人間だからである。
しかしその男は、彼女がシノであるということが分かると、
「わし、護衛の仕事を紹介されて来た者なんぢゃが」
そう言って、ニッと白い歯を出しながら笑うのだった。
二人は改めて、その男を見つめた。しかしその男は、どう見てもただの好々爺でしかなかった。一応動きやすそうな武闘着のようなものを着てはいるが、それ以外はとても護衛が務まるような人間には見えない。
二人は再び、顔を見合わせた。
「あの……すみませんが……」
何かの手違いだろうと思ったのか、シノはそうして早々に断りを入れようとした。
仕方がないと彼も思った。どう考えても役不足なのだ。この男のためにも、他の仕事を探させた方がいい。
やんわりとした口調でシノが断りを入れる。
すると男は、その長い前髪の奥で小さく溜息をついた。
「……ふうむ。やっぱり見せなきゃだめかのお」
そして男はおもむろに入り口に向かって歩き出し、二人に手招きして、自分について来るように促した。
問答無用で帰すのも悪いかと、シノは男のそれに黙って従った。彼女がそうするならと、彼もそれに倣う。
男は外に出ると、とことこと後ろ手に歩いた。そして街を見下ろせるぎりぎりの所に立ってから、彼らの方に振り向いた。
「のお、シノさん」
「?はい」
「たぶんおぬしは、わしに護衛なんか出来ないと思っとるんぢゃろうが、そんなことはないぞい」
「え?」
彼女が呆けた顔を男に向けると、すぐ。
男は再び街の方に振り返り、右足を引いて、構えのようなものをとった。
そして。
「ふんっ!!」
そうして突然街の上空に向かって放たれたのは、ただの正拳突き。
しかしそれを端で見ていた彼は、途中ではっと何かに気付き、シノの前に割って入った。
「きゃあああ!?」
彼は体の前で腕を交差して、シノの盾となった。しかしそれでも彼女は、悲鳴を上げながら後ずさった。
男が拳を放つと同時。男を中心に、周りにすさまじい爆風が起こった。以前彼が見せた技、空気打ちの全方向版のようなものだ。一方向ではないので威力はそれだけ分散されているようだったが、それでもそれは瞬間的な竜巻が起こったかのような衝撃を、彼らに与えた。
そして今日は、不幸にも晴天なのだった。そのせいで、住民達が外に干していた洗濯物が、どれもこれも宙に高く舞ってしまう。
突然のその突風に、なんだなんだと家から出てきた住民達。彼らはすぐにその惨状に気付くと、たちまち右往左往、てんやわんやの大騒動に陥り出した。
街中に立ち上る湯気のせいで、ここでは洗濯物は乾きにくい。洗濯し直しとなると、ことなのだ。乾ききらなかった湿った服を、しばらく着るはめになってしまうかもしれないからだ。
「とまあ、こんな感じぢゃ」男はその阿鼻叫喚の図を背に、またとことこと彼らの方に歩いてきて、しれっと言った。「護衛、出来そうぢゃろう?」
彼は複雑な顔のまま、その彼女の言葉に曖昧に返事をする。そしてそれをごまかすように、彼女の前をゆっくりと歩き出した。
彼はもちろん、最初からフリーであった。だから彼女の言う苦労というのは、微塵もしていない。それが少し後ろめたくて、彼は言葉を濁した。
彼女はそれを少し訝しんだようだったが、デリケートなことだからか、それ以上彼に追求することはしなかった。
「……ていうか、あんたって結局何の亜人なの?たぬきかなんか?あんたみたいなのって全然見たことないんだけど」
彼は幾度かの人との邂逅を経て、自分がタソ族であるということは周りに伏せておくことにしていた。これだけ亜人に風当たりが強いとなると、具体的に種族名を言った場合にどれだけのやぶへびになるか分からなかったからだ。
少なくとも、この世界のことをもっと深く知るまでは伏せておく方が良い。彼はそう考え、この頃では元の姿にも戻っていない。
質問を変えてもそうして黙る彼をさすがに変に思ったのか、彼女は彼の隣に並んで、その顔を覗きこんだ。
彼女の促されるような目線に晒されると、彼は気付かれないように小さく嘆息し、やっと重い口を開いた。
「……分からねえ。気付いたら一人だったしな。でも少なくともたぬきじゃあねえはずだ」
嘘をつくのは後ろめたいが、仕方ない。
彼女はそれを聞くと、やはり訝しそうにじっと彼を見つめた。しかしそれ以上は何も返ってこないことが分かると、つまらなさそうに言った。
「……ふぅん。まあ、別にどうでもいいんだけどね。あんたが何であろうと」
がくりと肩を落とす彼を見て、彼女は満足したように笑う。そこでようやく彼女は彼に絡むのを止めて、黙って歩き出した。
彼らの目の前には、巨大な半月状の公衆劇場のような街並が広がっていた。段々畑のように切り立った崖に、建物が横に連なるように建っている。
これ程巨大な街を目にしたことのない彼には、この景色が今でも信じられない。それら全てがミニチュアのハリボテか何かのように見え、まるで現実感がなかった。
彼が目を奪われるのも仕方がない。その光景は、田舎者の彼にとっては一大スペクタクルだったのだ。
街の中心には湧き出た温泉が川のように流れ、そこかしこで湯気が上がっていた。この街の全ての人間は、この温泉のおかげで一年中凍えることがない。誰も彼もが、余裕に満ちた表情を浮かべている。生活に追われている人間など、この街には存在しないのだ。
彼はその光景を、少し眩しそうに見つめながら歩いた。いつも寒々としていた自分の故郷とは、裕福さに天と地程の差がある。彼にはそれが、少しだけ羨ましかったのだ。
長い階段を上っていく。するとようやく、拠点にしている宿が見えてくる。崖に埋め込まれるように建っているから分かりやすいと、シノが選んだ宿だった。
彼らはその赤いレンガ造りの宿に入ると、すぐに待ち合わせに設定していたロビーに目を走らせた。
待ち合わせている人間は二人。一人は新しい護衛で、もう一人はシノの元々の同行者である。
ロビーにはいくらかの人間がいたが、彼らがきょろきょろと周りを伺ってみても、まだどちらもここには来ていないようだった。
「まだ来てないみたいね」
「みたいだな」
そうして彼らがロビーにあるソファに腰掛け、一息つこうとした時だった。
「もしかして、おぬしがシノ・ミズキさんかな?」
「え?」
二人は思いもよらない人物から声を掛けられ、顔を見合わせた。
シノくらいの身長しかない、小柄な男だった。
「あの……?」
知り合いなのかと彼はシノを見たが、彼女も首を傾げていた。どうも知り合いではないらしい。
と言っても実際は、顔がよく見えないので分からないと言った方がいいかもしれない。長く伸びきった白い髪を後ろで束ねたはいいものの、うまくしばりきれなかったのか、これまた長い前髪がだらりと目と鼻の辺りまでを覆ってしまっていて、うまく顔が見えないのだ。
しかし声から察するに、若い人間ではないことはすぐに分かった。かなりの年齢を感じさせる、かすれ声だったのだ。
「……何でしょう?どちら様ですか?」
だから彼女がこういう対応をするのも、無理からぬことであった。まずこの場で彼らに話しかけてくるはずもない人間だからである。
しかしその男は、彼女がシノであるということが分かると、
「わし、護衛の仕事を紹介されて来た者なんぢゃが」
そう言って、ニッと白い歯を出しながら笑うのだった。
二人は改めて、その男を見つめた。しかしその男は、どう見てもただの好々爺でしかなかった。一応動きやすそうな武闘着のようなものを着てはいるが、それ以外はとても護衛が務まるような人間には見えない。
二人は再び、顔を見合わせた。
「あの……すみませんが……」
何かの手違いだろうと思ったのか、シノはそうして早々に断りを入れようとした。
仕方がないと彼も思った。どう考えても役不足なのだ。この男のためにも、他の仕事を探させた方がいい。
やんわりとした口調でシノが断りを入れる。
すると男は、その長い前髪の奥で小さく溜息をついた。
「……ふうむ。やっぱり見せなきゃだめかのお」
そして男はおもむろに入り口に向かって歩き出し、二人に手招きして、自分について来るように促した。
問答無用で帰すのも悪いかと、シノは男のそれに黙って従った。彼女がそうするならと、彼もそれに倣う。
男は外に出ると、とことこと後ろ手に歩いた。そして街を見下ろせるぎりぎりの所に立ってから、彼らの方に振り向いた。
「のお、シノさん」
「?はい」
「たぶんおぬしは、わしに護衛なんか出来ないと思っとるんぢゃろうが、そんなことはないぞい」
「え?」
彼女が呆けた顔を男に向けると、すぐ。
男は再び街の方に振り返り、右足を引いて、構えのようなものをとった。
そして。
「ふんっ!!」
そうして突然街の上空に向かって放たれたのは、ただの正拳突き。
しかしそれを端で見ていた彼は、途中ではっと何かに気付き、シノの前に割って入った。
「きゃあああ!?」
彼は体の前で腕を交差して、シノの盾となった。しかしそれでも彼女は、悲鳴を上げながら後ずさった。
男が拳を放つと同時。男を中心に、周りにすさまじい爆風が起こった。以前彼が見せた技、空気打ちの全方向版のようなものだ。一方向ではないので威力はそれだけ分散されているようだったが、それでもそれは瞬間的な竜巻が起こったかのような衝撃を、彼らに与えた。
そして今日は、不幸にも晴天なのだった。そのせいで、住民達が外に干していた洗濯物が、どれもこれも宙に高く舞ってしまう。
突然のその突風に、なんだなんだと家から出てきた住民達。彼らはすぐにその惨状に気付くと、たちまち右往左往、てんやわんやの大騒動に陥り出した。
街中に立ち上る湯気のせいで、ここでは洗濯物は乾きにくい。洗濯し直しとなると、ことなのだ。乾ききらなかった湿った服を、しばらく着るはめになってしまうかもしれないからだ。
「とまあ、こんな感じぢゃ」男はその阿鼻叫喚の図を背に、またとことこと彼らの方に歩いてきて、しれっと言った。「護衛、出来そうぢゃろう?」
それから一週間が経った頃。彼は、ある街にいた。
歴史の始まる場所。あるいは、技術の生まれる場所。その戦略的貴重さから、大陸で唯一ある程度の自治が許されている街。都市国家バンガロー。
この辺りでは珍しく大きな街だった。俗に遺跡都市と分類されるその街は、貧困などとは程遠く、すれ違う人々の表情も明るい。遺跡があるというそのことだけで、その土地は潤うのだ。
彼は盗掘の犯人を探すために、早速一番狙われそうな場所にあるこの街に足を運んだ。……という訳では全然なく、彼は実は、期せずしてそこにいた。
「……ちょっとくまたそ。聞いてるの?」
隣の小柄な人物に声をかけられ、彼は我に返った。
「あ、ああ。聞いてるぜ」
大きな街というのは興味をひかれるものが多くて、どうしても過疎地出身の彼はいろんなものに目移りしてしまう。
そうして答えはしたものの、まだ周りを見るのをやめない彼に、彼女は呆れたように溜息をついた。
「もう何日もここにいるのに、まだ何か珍しいものでもあるの?恥ずかしいからあんまりキョロキョロしないでよ」
ひょんなことから彼と同行することになった彼女の名は、シノ・ミズキ。彼と並ぶとまるで大人と子供のような身長差があり、顔にもまだまだあどけなさが残っている少女だったが、これでもれっきとした考古学の研究者である。
発掘で埃っぽいところによく出入りするためか、頭には細長い布をターバンのように巻いており、それがすっぽりと頭を覆っている。服も動きやすいようにゆったり目なもので統一されているので、どこかの民族衣装のように見えなくもない。
「で、ホントに私の話聞いてた?」
「聞いてる聞いてる。新しい護衛が来るんだろ?」
見た目からして不思議な取り合わせの二人であるが、その出会い方も変わっていたから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
彼に対して、こうして彼女の声にところどころ棘のようなものが混ざるのは、その出会い方に起因する。
この辺りの主な発掘現場の多くは、街を囲っている火山地帯に集中して存在している。彼らはそこで偶然出会った。
彼が盗掘の犯人を探しにしらみつぶしに遺跡をあたっていると、たまたま同じ所で発掘をしていた彼女と鉢合わせたのである。
ただ、そのタイミングが良くなかった。
火山地帯ということもあって、この街の名物はなんといっても温泉である。街中にはもちろん、発掘現場の方にも硫黄の匂いが充満し、至るところから温泉が湧き出ている。
なのでこの辺りで発掘をしていると、度々天然の温泉に出くわす。場所によっては湯加減もちょうどよく、そのまま入ることも出来る。発掘の疲れがたまったら温泉に入ろう。そう考える発掘者は少なくない。
そして、彼女もその例外ではなかった。
その日、彼女は遺跡の奥深くにまで潜り、発掘作業で疲弊していた。帰ってから休むという選択肢ももちろんあったが、疲れ過ぎていたために、彼女はこう思ってしまった。
ここで温泉に入ってしまえば、疲れは癒せる。そうすれば発掘もこのまま続けられる、と。
「今度の場所はかなり深いから、覗き魔一人じゃ頼りないのよね」
そう言って腰に手を当てながら嘆息する彼女に、彼は強く反論した。
「おい!アレはわざとじゃねえって言ってんだろ!!」
つまり彼は、そこに居合わせてしまったのだった。そのせいで、彼は護衛の仕事をタダ同然で引き受けることになってしまったのである。
深い場所だから大丈夫だろうと、なんのついたてもないところで入浴する彼女も彼女だったが、こういう時には男の方が圧倒的に立場が弱い。彼もそこを突かれ、仕方なく彼女の護衛として同行することになってしまったのだった。
というのが、大体の事の顛末である。
「本当なら警察に突き出してるところなんだから、ありがたく思いなさいよ」
「おんどれ話聞けや……」
とにもかくにも、二人はそうして拠点にしている宿に戻ろうとしていた。
遺跡の深部の探索と、盗掘者への警戒のためにと新しく雇った護衛が、そこに顔合わせに来ることになっている。
「ん?」
と、そこで二人の歩みが止まる。
二人して連れ立って歩いていると、一人の少年が彼らの前で盛大にこけた。持っていた袋の中身も、周りにぶちまけてしまう。
「おいおい大丈夫か?」
一見すると普通の少年のようだったが、手の甲にはふさふさとした柔らかそうな銀の体毛があった。亜人である。
彼がその少年に手を差し伸べようとすると、なぜかそこに、シノが割って入った。
「だめ」
「あん?」
彼女は彼の手を取り、強引に腕を下げさせた。
彼が訝しげに彼女を伺い見ると、彼女はひどく険しい顔で、少年を見つめていた。
さっきまでの冗談のような雰囲気が嘘みたいだった。
「何だよ。別にいいだろ?まさか亜人なんかに手を貸すなとでも言うつもりか?」
彼はそう不満を漏らしたが、彼女は取り合わなかった。
彼女はただ真っ直ぐに少年を見つめながら、静かに言った。
「……立ちなさい。自分で立てるでしょ?」
それはまるで、しつけ途中の子供のいる母親のような、毅然とした態度だった。
普段彼に対しては少し辛辣な言葉を言うこともあるが、周りにはいたって普通の態度の彼女である。基本的に温和な人間のはずだったから、彼はかなり驚いた。
明るそうに見えて、もしかすると彼女も何か、自分と同じように抱えているものがあるのかもしれない。彼はそう思い、その場は彼女に従った。
少年は自分で立ち上がり、ばら撒いてしまったものを拾うと、そそくさとその場を去っていった。
それをたっぷり見送った後、彼は少しためらいつつも、彼女に訊いた。
「……なんでだ?」
単純に疑問だった。彼には彼女が亜人を差別するような人間には、どうしても見えなかった。
「そんな目くじら立てるようなことでもないと思うんだが」
そう言うと、しかし彼女は明確に首を振った。
「……だめ」彼女は目を細め、どこか遠くを見ながら言った。「自分で立ち上がっていかないと、いつまで経ってもただの“亜人”だもの」
手を貸すことは彼らのためにならない。彼女はそう言った。
「同じ亜人なら分かるでしょ?あんただって苦労してフリーになったんじゃないの?」
彼女のそれに、彼は複雑な顔をした。
彼女の言う『フリー』とは、要するに自由な亜人達のことである。この辺りではフリーの亜人はかなり少数派で、マスターと呼ばれる主人が付いている亜人達の方が、圧倒的大多数である。
いわゆる奴隷とまではいかないが、マスター付きの亜人の行動はかなり制限される。常にマスターのそばに居なければならず、その性質は農奴のそれに近いかもしれない。実際その身体能力の高さを考慮して、彼らを農業に従事させるマスターは多い。
『亜人救済法』
始まりは、生活に窮した亜人達を救済するという体で制定された、この法律である。
当時は今より亜人達への風当たりが強く、大陸で人間とのコネクションを持つことが出来ずに、うまく生活の糧を得られない亜人達が多かった。そこで、彼らと人間との間を取り持つためという名目で、亜人達に裕福な人間の主人の下に付くことを国が奨励したのである。
しかしその実態は、慢性的な食料不足を憂いた国が、その生産を担う人的資源を確保するために苦肉の策で出した悪法だった。
それは彼らの身分を決定付けるものだったから、どうするかは各々の亜人達の判断に委ねられた。
しかしそうは言っても、実際彼らに選択肢はなかった。とにかく明日の糧にも困っていた彼らは、この制度に飛びついたのである。
制度上では、いつでも抜けることは出来るようになっている。しかし従属していればある程度の生活が保証されるとなると、そこから脱却しようとするものは少ない。そのせいもあって、大多数の亜人達の地位は低いままである。
その名前とは裏腹に、静かに彼らの首を絞めている。それがこの、亜人救済法という法律なのである。
歴史の始まる場所。あるいは、技術の生まれる場所。その戦略的貴重さから、大陸で唯一ある程度の自治が許されている街。都市国家バンガロー。
この辺りでは珍しく大きな街だった。俗に遺跡都市と分類されるその街は、貧困などとは程遠く、すれ違う人々の表情も明るい。遺跡があるというそのことだけで、その土地は潤うのだ。
彼は盗掘の犯人を探すために、早速一番狙われそうな場所にあるこの街に足を運んだ。……という訳では全然なく、彼は実は、期せずしてそこにいた。
「……ちょっとくまたそ。聞いてるの?」
隣の小柄な人物に声をかけられ、彼は我に返った。
「あ、ああ。聞いてるぜ」
大きな街というのは興味をひかれるものが多くて、どうしても過疎地出身の彼はいろんなものに目移りしてしまう。
そうして答えはしたものの、まだ周りを見るのをやめない彼に、彼女は呆れたように溜息をついた。
「もう何日もここにいるのに、まだ何か珍しいものでもあるの?恥ずかしいからあんまりキョロキョロしないでよ」
ひょんなことから彼と同行することになった彼女の名は、シノ・ミズキ。彼と並ぶとまるで大人と子供のような身長差があり、顔にもまだまだあどけなさが残っている少女だったが、これでもれっきとした考古学の研究者である。
発掘で埃っぽいところによく出入りするためか、頭には細長い布をターバンのように巻いており、それがすっぽりと頭を覆っている。服も動きやすいようにゆったり目なもので統一されているので、どこかの民族衣装のように見えなくもない。
「で、ホントに私の話聞いてた?」
「聞いてる聞いてる。新しい護衛が来るんだろ?」
見た目からして不思議な取り合わせの二人であるが、その出会い方も変わっていたから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
彼に対して、こうして彼女の声にところどころ棘のようなものが混ざるのは、その出会い方に起因する。
この辺りの主な発掘現場の多くは、街を囲っている火山地帯に集中して存在している。彼らはそこで偶然出会った。
彼が盗掘の犯人を探しにしらみつぶしに遺跡をあたっていると、たまたま同じ所で発掘をしていた彼女と鉢合わせたのである。
ただ、そのタイミングが良くなかった。
火山地帯ということもあって、この街の名物はなんといっても温泉である。街中にはもちろん、発掘現場の方にも硫黄の匂いが充満し、至るところから温泉が湧き出ている。
なのでこの辺りで発掘をしていると、度々天然の温泉に出くわす。場所によっては湯加減もちょうどよく、そのまま入ることも出来る。発掘の疲れがたまったら温泉に入ろう。そう考える発掘者は少なくない。
そして、彼女もその例外ではなかった。
その日、彼女は遺跡の奥深くにまで潜り、発掘作業で疲弊していた。帰ってから休むという選択肢ももちろんあったが、疲れ過ぎていたために、彼女はこう思ってしまった。
ここで温泉に入ってしまえば、疲れは癒せる。そうすれば発掘もこのまま続けられる、と。
「今度の場所はかなり深いから、覗き魔一人じゃ頼りないのよね」
そう言って腰に手を当てながら嘆息する彼女に、彼は強く反論した。
「おい!アレはわざとじゃねえって言ってんだろ!!」
つまり彼は、そこに居合わせてしまったのだった。そのせいで、彼は護衛の仕事をタダ同然で引き受けることになってしまったのである。
深い場所だから大丈夫だろうと、なんのついたてもないところで入浴する彼女も彼女だったが、こういう時には男の方が圧倒的に立場が弱い。彼もそこを突かれ、仕方なく彼女の護衛として同行することになってしまったのだった。
というのが、大体の事の顛末である。
「本当なら警察に突き出してるところなんだから、ありがたく思いなさいよ」
「おんどれ話聞けや……」
とにもかくにも、二人はそうして拠点にしている宿に戻ろうとしていた。
遺跡の深部の探索と、盗掘者への警戒のためにと新しく雇った護衛が、そこに顔合わせに来ることになっている。
「ん?」
と、そこで二人の歩みが止まる。
二人して連れ立って歩いていると、一人の少年が彼らの前で盛大にこけた。持っていた袋の中身も、周りにぶちまけてしまう。
「おいおい大丈夫か?」
一見すると普通の少年のようだったが、手の甲にはふさふさとした柔らかそうな銀の体毛があった。亜人である。
彼がその少年に手を差し伸べようとすると、なぜかそこに、シノが割って入った。
「だめ」
「あん?」
彼女は彼の手を取り、強引に腕を下げさせた。
彼が訝しげに彼女を伺い見ると、彼女はひどく険しい顔で、少年を見つめていた。
さっきまでの冗談のような雰囲気が嘘みたいだった。
「何だよ。別にいいだろ?まさか亜人なんかに手を貸すなとでも言うつもりか?」
彼はそう不満を漏らしたが、彼女は取り合わなかった。
彼女はただ真っ直ぐに少年を見つめながら、静かに言った。
「……立ちなさい。自分で立てるでしょ?」
それはまるで、しつけ途中の子供のいる母親のような、毅然とした態度だった。
普段彼に対しては少し辛辣な言葉を言うこともあるが、周りにはいたって普通の態度の彼女である。基本的に温和な人間のはずだったから、彼はかなり驚いた。
明るそうに見えて、もしかすると彼女も何か、自分と同じように抱えているものがあるのかもしれない。彼はそう思い、その場は彼女に従った。
少年は自分で立ち上がり、ばら撒いてしまったものを拾うと、そそくさとその場を去っていった。
それをたっぷり見送った後、彼は少しためらいつつも、彼女に訊いた。
「……なんでだ?」
単純に疑問だった。彼には彼女が亜人を差別するような人間には、どうしても見えなかった。
「そんな目くじら立てるようなことでもないと思うんだが」
そう言うと、しかし彼女は明確に首を振った。
「……だめ」彼女は目を細め、どこか遠くを見ながら言った。「自分で立ち上がっていかないと、いつまで経ってもただの“亜人”だもの」
手を貸すことは彼らのためにならない。彼女はそう言った。
「同じ亜人なら分かるでしょ?あんただって苦労してフリーになったんじゃないの?」
彼女のそれに、彼は複雑な顔をした。
彼女の言う『フリー』とは、要するに自由な亜人達のことである。この辺りではフリーの亜人はかなり少数派で、マスターと呼ばれる主人が付いている亜人達の方が、圧倒的大多数である。
いわゆる奴隷とまではいかないが、マスター付きの亜人の行動はかなり制限される。常にマスターのそばに居なければならず、その性質は農奴のそれに近いかもしれない。実際その身体能力の高さを考慮して、彼らを農業に従事させるマスターは多い。
『亜人救済法』
始まりは、生活に窮した亜人達を救済するという体で制定された、この法律である。
当時は今より亜人達への風当たりが強く、大陸で人間とのコネクションを持つことが出来ずに、うまく生活の糧を得られない亜人達が多かった。そこで、彼らと人間との間を取り持つためという名目で、亜人達に裕福な人間の主人の下に付くことを国が奨励したのである。
しかしその実態は、慢性的な食料不足を憂いた国が、その生産を担う人的資源を確保するために苦肉の策で出した悪法だった。
それは彼らの身分を決定付けるものだったから、どうするかは各々の亜人達の判断に委ねられた。
しかしそうは言っても、実際彼らに選択肢はなかった。とにかく明日の糧にも困っていた彼らは、この制度に飛びついたのである。
制度上では、いつでも抜けることは出来るようになっている。しかし従属していればある程度の生活が保証されるとなると、そこから脱却しようとするものは少ない。そのせいもあって、大多数の亜人達の地位は低いままである。
その名前とは裏腹に、静かに彼らの首を絞めている。それがこの、亜人救済法という法律なのである。
彼らが築いた長く果てしない逃亡街道は、今日も変わらずそこにあった。
人がせわしく往来する大きな道はもちろん、あの広大な森を分かつように太く伸びた道も、剥かれたリンゴの皮のように螺旋状に伸びたあの山の道も、全てが変わらずそこにあった。きっとこの先何十年、何百年と、その姿は大きく変わることはないだろう。それ程この道は、人々にとってかけがえのないものなのである。
「……いよっし!」
ただ、少しづつだが、確実に変わっていっているところもあった。
彼は今日何個目かのその“修正作業”を終えると、ふうっと深く息を吐いて、額の汗を拭った。
「いよお亜人の兄ちゃん!今日も精がでんなあ!」
大きな道となると、そこに置かれている看板の数も必然、多くなる。
そうして何度も看板を直しているうちに、すっかりこの辺りの常連のようになってしまっていた彼は、今日も往来するキャラバンの商人たちに声を掛けられた。特に何か言葉を交わしたわけではなかったが、何度も顔を合わせているうちに、彼と彼らとの間には、奇妙な関係が築かれていったのだ。
商人たちは彼を見ると、売れ残った交易品を投げて寄越した。
彼はその果物を受け取ると、腕を高々と上げて、威勢よく返事をした。
「やあ!すまねえな!」
「なあに!余りもんだからよ!!」
世界を旅する商人たちだから、彼のような亜人を見慣れているのかもしれない。あるいは、彼が看板を直すという行為をしているせいで、公的な事業を担っている亜人にでも映ったか。何にせよ、初めて往来でまともに挨拶を交わすことが出来たのが、彼にはとても嬉しかった。亜人に理解のある人間も、確かにいるのだ。
しかしだからこそ、今日のこの出来事は、彼には堪えるものとなった。
たまたま近くで休憩を取り始めたキャラバンの人間たちと彼が談笑していると、そばを物々しい鉄騎馬兵団が通りかかり、声を掛けられた。
「貴様たち、何をしている」
彼は首を傾げた。
質問の意味が分からなかった。何をしているかは、見ればすぐに分かる。自分と彼らは、ただ談笑している。それだけだ。
しかしそうして首を傾げている彼に対して、キャラバンの面々は、一様に表情を固くさせていた。まるで罪を暴かれた罪人のような顔で狼狽し、騎馬の男を見上げていた。
「いえいえ何も。ただ世間話などをしていただけです」
冷えきった空気の中、何とかキャラバンのリーダーが男に答えた。
しかし男はそれには全く関心を示さず、彼の方に向く。
「貴様、亜人だな」
突然冷たい視線を浴びせられた彼は、肩をすくめた。
「見りゃ分かるだろ」
すると、騎馬の男が彼のそばまで寄り、彼を見下ろした。
彼のその態度が反抗的に映ったのか、その表情はひどく険しい。今にもその腰の剣で斬りつけてきそうだった。
一体何だというのか。彼がちらりと目を馬にやると、刻印の入った鞍が目に入った。
大陸を統べる巨大国家、“ギアース”の刻印であった。
「……何だよ。おんどれら警察か何かか?別に俺は何もしてねえぞ」
「そうですよ旦那。あっしらは本当に何もしとらんです」
雰囲気の悪さを見かねて商人たちの一人がフォローを入れるが、騎馬の男は表情は硬くしたまま、彼を見据えるだけだった。
そうして目を細め、ひとしきり彼を値踏みした後、男は言った。
「最近、この辺りで盗掘が行われているようでな」
「盗掘?」キャラバンのリーダーが訝しげに言った。「それが、私たちに何か関係が?」
その言葉に、騎馬の男はめんどくさそうに鼻から息を吐いてから、低い声で答えた。
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
この辺りに散見される遺跡群に、無断で入り込んでいる者がいる。男はそう言った。
遺跡は危険な場所もあり、その膨大な数のせいもあってまだまだ調査が進んでいないところが多い。そういう場所に遺された貴重な物品を狙い、連続的に盗掘を繰り返す者がいるらしい。騎馬の男たちはこの知らせを受け、犯人逮捕、及びこの辺りの警備のために周辺を巡回している。要約すると、そういうことのようだった。
「犯人は亜人だとの有力情報を得ている」男は殊更低い声で言った。「……言いたいことは分かるな?」
つまり、自分は疑われている?そう思ったところで、しかし彼は首を傾げた。
ざっと見ただけで、この騎馬兵団は50人以上はいる。少なくとも、普通の盗掘という行為に対して動員する規模ではないように彼には思えた。自分のような、ただ一人の人間を追うにしては多すぎる。盗賊団のような、大人数の組織相手ではないのだろうか。それとも何か、そうしなければならない理由でもあるのだろうか……。
そうして彼が思案していると、それを困っていると見て取ったのか、キャラバンのリーダーが男に口添えした。
「彼はやってませんよ。ずうっとこの場所で、作業していただけですから」
彼はギロリと目を向けてくる男にも怯まず、なおも言った。
「ほら。あの看板ピカピカでしょう。彼があれを直しているんですよ。私達がいつこの辺りを通っても、同じことをしていました」
リーダーはおそらく良かれと思ってフォローしてくれたのだろうが、彼はそれに、内心ドキリとしていた。
遠目だと確かに新品になっているだけなので問題はないが、近くまで寄られて内容を見られたら、まずいことになるかもしれない。
彼はそうして冷や汗を垂らしていたが、しかしその心配は杞憂に終わった。
男はつまらなさそうにふんと漏らすと、彼を横目に見下ろしながら言った。
「そんなことは分かっている。こいつの身長は大き過ぎる。犯人はせいぜい、170センチ程度しかないようだからな」
ならなぜ声を掛けたのか。言いはしなかったが、彼がじとっとした視線を男に送る。すると男は、こんなことを言った。
「だが亜人には犯罪者が多い。付き合い方は、よく考えることだな」
男にじろりと睨めつけるように見られたキャラバンの彼らは、その瞬間そそくさと腰を上げた。広げていた茶飲みセットをせっせと片付け、彼らは馬車に乗り込んでいく。
その様子を見て、ようやく騎馬の男が踵を返す。それを見計らって、キャラバンのリーダーが彼に耳打ちした。
(……すまない。官憲に睨まれると、私達は商売が出来なくなる)
言い終わると、その彼も足早に馬車に乗り込み、その場を去って行ってしまった。
本当に、あっという間だった。あれだけ居た人間が、あっという間に彼の前から姿を消し、また彼は独りになってしまった。
風の音だけが響く中、彼はため息をつきながら、リュックを背負った。
彼にとっては何度となく味わった状況だったが、今日はその風が、いやに目に染みた。
「これじゃくまたそじゃなくて、はぶたそぞ……」
一人ごちりながら、彼は思い出したかのように貰った果物にかじりついた。
柑橘系のその果物は、甘くて美味ではあった。しかし後味は少し渋くて、口の中に苦味が残った。
彼は少し顔をしかめながら、誰もいなくなった街道を歩き出した。まだ直していない看板もあったが、彼はその全てを放置した。
やることが出来てしまった。
(売られた喧嘩は、買わねえとな)
それが例え、直接的なものでないにしろ、だ。
誰だか知らないが、自分にこんな仕打ちをした報いは、必ず受けさせなければならない。お前がかじったのは、決して触れてはならない悪魔の果実だったのだ。美味ではあっても、あとに残る苦味はこの果物の比ではない。そのことを、きっちりと面と向かって教えてやらなければなるまい。
彼はそうして静かに笑い、また街道を歩き出したのだった。
きっと今はまだ甘い時間にいるであろうその愚かな人間を、自らの手で粛清するために……。
人がせわしく往来する大きな道はもちろん、あの広大な森を分かつように太く伸びた道も、剥かれたリンゴの皮のように螺旋状に伸びたあの山の道も、全てが変わらずそこにあった。きっとこの先何十年、何百年と、その姿は大きく変わることはないだろう。それ程この道は、人々にとってかけがえのないものなのである。
「……いよっし!」
ただ、少しづつだが、確実に変わっていっているところもあった。
彼は今日何個目かのその“修正作業”を終えると、ふうっと深く息を吐いて、額の汗を拭った。
「いよお亜人の兄ちゃん!今日も精がでんなあ!」
大きな道となると、そこに置かれている看板の数も必然、多くなる。
そうして何度も看板を直しているうちに、すっかりこの辺りの常連のようになってしまっていた彼は、今日も往来するキャラバンの商人たちに声を掛けられた。特に何か言葉を交わしたわけではなかったが、何度も顔を合わせているうちに、彼と彼らとの間には、奇妙な関係が築かれていったのだ。
商人たちは彼を見ると、売れ残った交易品を投げて寄越した。
彼はその果物を受け取ると、腕を高々と上げて、威勢よく返事をした。
「やあ!すまねえな!」
「なあに!余りもんだからよ!!」
世界を旅する商人たちだから、彼のような亜人を見慣れているのかもしれない。あるいは、彼が看板を直すという行為をしているせいで、公的な事業を担っている亜人にでも映ったか。何にせよ、初めて往来でまともに挨拶を交わすことが出来たのが、彼にはとても嬉しかった。亜人に理解のある人間も、確かにいるのだ。
しかしだからこそ、今日のこの出来事は、彼には堪えるものとなった。
たまたま近くで休憩を取り始めたキャラバンの人間たちと彼が談笑していると、そばを物々しい鉄騎馬兵団が通りかかり、声を掛けられた。
「貴様たち、何をしている」
彼は首を傾げた。
質問の意味が分からなかった。何をしているかは、見ればすぐに分かる。自分と彼らは、ただ談笑している。それだけだ。
しかしそうして首を傾げている彼に対して、キャラバンの面々は、一様に表情を固くさせていた。まるで罪を暴かれた罪人のような顔で狼狽し、騎馬の男を見上げていた。
「いえいえ何も。ただ世間話などをしていただけです」
冷えきった空気の中、何とかキャラバンのリーダーが男に答えた。
しかし男はそれには全く関心を示さず、彼の方に向く。
「貴様、亜人だな」
突然冷たい視線を浴びせられた彼は、肩をすくめた。
「見りゃ分かるだろ」
すると、騎馬の男が彼のそばまで寄り、彼を見下ろした。
彼のその態度が反抗的に映ったのか、その表情はひどく険しい。今にもその腰の剣で斬りつけてきそうだった。
一体何だというのか。彼がちらりと目を馬にやると、刻印の入った鞍が目に入った。
大陸を統べる巨大国家、“ギアース”の刻印であった。
「……何だよ。おんどれら警察か何かか?別に俺は何もしてねえぞ」
「そうですよ旦那。あっしらは本当に何もしとらんです」
雰囲気の悪さを見かねて商人たちの一人がフォローを入れるが、騎馬の男は表情は硬くしたまま、彼を見据えるだけだった。
そうして目を細め、ひとしきり彼を値踏みした後、男は言った。
「最近、この辺りで盗掘が行われているようでな」
「盗掘?」キャラバンのリーダーが訝しげに言った。「それが、私たちに何か関係が?」
その言葉に、騎馬の男はめんどくさそうに鼻から息を吐いてから、低い声で答えた。
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
この辺りに散見される遺跡群に、無断で入り込んでいる者がいる。男はそう言った。
遺跡は危険な場所もあり、その膨大な数のせいもあってまだまだ調査が進んでいないところが多い。そういう場所に遺された貴重な物品を狙い、連続的に盗掘を繰り返す者がいるらしい。騎馬の男たちはこの知らせを受け、犯人逮捕、及びこの辺りの警備のために周辺を巡回している。要約すると、そういうことのようだった。
「犯人は亜人だとの有力情報を得ている」男は殊更低い声で言った。「……言いたいことは分かるな?」
つまり、自分は疑われている?そう思ったところで、しかし彼は首を傾げた。
ざっと見ただけで、この騎馬兵団は50人以上はいる。少なくとも、普通の盗掘という行為に対して動員する規模ではないように彼には思えた。自分のような、ただ一人の人間を追うにしては多すぎる。盗賊団のような、大人数の組織相手ではないのだろうか。それとも何か、そうしなければならない理由でもあるのだろうか……。
そうして彼が思案していると、それを困っていると見て取ったのか、キャラバンのリーダーが男に口添えした。
「彼はやってませんよ。ずうっとこの場所で、作業していただけですから」
彼はギロリと目を向けてくる男にも怯まず、なおも言った。
「ほら。あの看板ピカピカでしょう。彼があれを直しているんですよ。私達がいつこの辺りを通っても、同じことをしていました」
リーダーはおそらく良かれと思ってフォローしてくれたのだろうが、彼はそれに、内心ドキリとしていた。
遠目だと確かに新品になっているだけなので問題はないが、近くまで寄られて内容を見られたら、まずいことになるかもしれない。
彼はそうして冷や汗を垂らしていたが、しかしその心配は杞憂に終わった。
男はつまらなさそうにふんと漏らすと、彼を横目に見下ろしながら言った。
「そんなことは分かっている。こいつの身長は大き過ぎる。犯人はせいぜい、170センチ程度しかないようだからな」
ならなぜ声を掛けたのか。言いはしなかったが、彼がじとっとした視線を男に送る。すると男は、こんなことを言った。
「だが亜人には犯罪者が多い。付き合い方は、よく考えることだな」
男にじろりと睨めつけるように見られたキャラバンの彼らは、その瞬間そそくさと腰を上げた。広げていた茶飲みセットをせっせと片付け、彼らは馬車に乗り込んでいく。
その様子を見て、ようやく騎馬の男が踵を返す。それを見計らって、キャラバンのリーダーが彼に耳打ちした。
(……すまない。官憲に睨まれると、私達は商売が出来なくなる)
言い終わると、その彼も足早に馬車に乗り込み、その場を去って行ってしまった。
本当に、あっという間だった。あれだけ居た人間が、あっという間に彼の前から姿を消し、また彼は独りになってしまった。
風の音だけが響く中、彼はため息をつきながら、リュックを背負った。
彼にとっては何度となく味わった状況だったが、今日はその風が、いやに目に染みた。
「これじゃくまたそじゃなくて、はぶたそぞ……」
一人ごちりながら、彼は思い出したかのように貰った果物にかじりついた。
柑橘系のその果物は、甘くて美味ではあった。しかし後味は少し渋くて、口の中に苦味が残った。
彼は少し顔をしかめながら、誰もいなくなった街道を歩き出した。まだ直していない看板もあったが、彼はその全てを放置した。
やることが出来てしまった。
(売られた喧嘩は、買わねえとな)
それが例え、直接的なものでないにしろ、だ。
誰だか知らないが、自分にこんな仕打ちをした報いは、必ず受けさせなければならない。お前がかじったのは、決して触れてはならない悪魔の果実だったのだ。美味ではあっても、あとに残る苦味はこの果物の比ではない。そのことを、きっちりと面と向かって教えてやらなければなるまい。
彼はそうして静かに笑い、また街道を歩き出したのだった。
きっと今はまだ甘い時間にいるであろうその愚かな人間を、自らの手で粛清するために……。