彼は油断など一切していなかった。しかし、気付いた時にはもう攻撃を受けていた。
(何だ!?)
口元が、何かおかしい。
(何だこりゃ??)
ぶよぶよとした水のようなものの塊。それが彼の顔の下半分、鼻と口を覆っていた。
(……く!とれねえ!)
引き剥がそうとしたが、無理だった。顔との接着面以外は本当にただの水で、うまく掴む事が出来ない。
それなら、とすぐに彼はある方法を試そうとしたが、寸前で思いとどまった。
(……くそ!マジでただの水なのかこれ?)
顔を覆っている量としては大した事がない。そう思ってそれを飲み込んでやろうとした彼だったが、これを相手の攻撃だとすると、単純にそうするのは危険だと彼は考えた。もしこれが毒だったりしたら、その時点で詰みなのだ。それをするのはもう、最後の最後にしておくべきだと考えた。
しかし、そうは言っても彼に与えられた時間はわずかだった。不意の攻撃で、彼は十分に息を吸い込んだ状態ではなかったのだ。
(もって2分弱……派手に動けば、1分ちょっと……)
それを過ぎれば、さしもの彼も何も出来ずに、普通に死んでしまうだろう。周りも大勢に囲まれているし、まさに万事休すとはこの事。道を誤れば即、死に直結するこの場面。常人であれば、正気を保っているのも難しい所だ。
しかし前述したように、彼の精神は鋼鉄のように硬い。加えて、決断力と行動力もある。。彼は戦いにおいて不可欠な思考の瞬発力を、十分過ぎるほどに持ち合わせているのだ。
(よし)
そんな彼だから、こんな状態でもすぐに動いた。声のした方向とは真逆。明後日の方向に、急に走り出した。
「……っ!」
彼の大きな耳がぴくりと動く。
さすがに、ほぼ詰みの状態でこんなにも大胆に動かれる事は想定外だったのだろう。相手の隠しきれなかった少しの動揺が、雨音の中でもしっかりと彼の耳に伝わった。
どうやら正解らしいと、彼はニヤリと笑みを浮かべた。50メートルを5秒で走る尋常ならざるダッシュ力で、彼はそのままその場から離れた。すると……
「む」
30メートル程行った所だろうか。その辺りで、バシャリと音を立てて、口元を覆っていた水が急に力を失ったようにくずれ落ちた。
「……ふむ」
周りを警戒しながら、彼はとりあえず口周りを拭った。
特におかしな臭いはしない。まだ断定は出来ないが、あの水は毒ではない可能性が強まった。無味無臭の毒だとしても、彼の鼻ならかなりの精度で嗅ぎ分けられるからだ。
彼は一応しばらく身構えていたが、やはりニ撃目はない。いからせていた肩の力を抜いて、とりあえず構えを解いた。
状況は間違いなく好転したと言ってよかった。時間経過だけで死んでしまうという最悪な状態は脱し、これならいかようにも対応が取れるからだ。
普通なら、ほっと一息つく所である。しかしなぜか、彼の眉間には未だ深い皺が寄ったままだった。フードの下で複雑な表情を浮かべ、顎に手を当てて思案している。
いとも簡単に窮地を脱し、そうして自分が意図した通りの結果にもなったものの、彼にはいまいち、解せない点があったのだった。
(……なんで誰もいない?)
自分は確かに、複数の足音らしきものを周りから聞き取っていた。なのになぜ、こうして走ってきたのにも関わらず誰にも遭遇しなかったのか。一人や二人から攻撃を受けてでも、突破するつもりでそうしたのに。
ちょうどそう彼が考えていると、またその音はした。
バシャ。バシャ。
確かに、誰かがまた自分の周りを歩いている。不規則に鳴るその音からすると、やはり複数人だ。さっきと同じように、ギリギリ視認出来ない距離にいるらしい。全く姿が見えない。おかしい。
(この俺に見えないっていうのがまず)
聴覚の他に、夜目が利くというのも、彼の長所の一つだった。完全な夜行性の梟やネズミ類には少し及ばないかもしれないが、それでもかなりの距離を視認出来る視力を持っている。数十メートルくらいなら、真っ暗闇でも誰かがいればすぐに分かる。男か女かだって、少し短い距離なら当てられるくらいだ。
そんな彼なのに、である。今現在この自分の周りを囲んでいる人間達は、毛程の姿も確認する事が出来なかった。これは一体全体どういうことなのか。彼は首を傾げた。
(……ちっと、まずいかもな……)
圧倒的な達人であれば、こういう事も可能なのかもしれない。彼の頭に、一つの最悪の事態が浮かび上がった。
気を巧みに操り、そこに確かにいるのだとしても、気配の尻尾を掴ませないように立ちまわる。そういう事が出来る者が、世界にはいるのかもしれない。もしかすると外の世界の人間は、自分が思っているより山ほどすごい人間がいるのかもしれない。そう考えてしまう程に、彼にとってこの状況は不可解なものだった。
もしこれが本当に達人の集まりなら、さしもの彼も一人で戦うのは厳しいと言わざるを得ない。100人雑魚を相手にするくらい彼にはどうと言う事もないが、達人なら話は別だ。絶え間なく攻撃されれば、彼とてひとたまりもないのだ。
(ううむ)
そしてまた、不気味と言うか、不思議なのは、攻撃の第二波が来ない事だった。普通そんな圧倒的有利な状況であったら、間髪いれずに攻撃を仕掛けてきても良さそうなものだが、いつまで待っても来る気配が無い。とりあえず何人かけしかけてみるとかすればいいものを、何もしない。様子を伺うにしても、少し消極的過ぎる気がした。
(……ふむ)
またいくらかの思案の後、彼は決めた。
最悪の事態を想定するのもいいが、まずはとにかく、この小さな綻びを追ってみる事にするか。もう一度同じ事をすれば、何か分かるかも知れない。今度はより注意深く、周りを探ってみる事にしよう。
彼はそう思い立ち、またさっきと同じように、相手とは逆の方向に走り出した。
今度は、聞き耳を立ててみても彼の耳に向こうの動揺は伝わらなかった。さすがに二度目は対応してきた、という事になるのだろうか。
「だが!」
彼もそれは、予想していた、全く同じような事をしてもしょうがない。そう考えていた彼は、今度はさらに、その走る速度を上げてきた。
MAXスピード。瞬間的には競走馬をも凌駕する速さで、またもその自身の包囲網に迫った。この速さなら、もし何かしらの準備を相手がしていたとしても、対応が遅れてボロを出すかもしれない。
「おらあああああ!!!」
相互の情報が全く伝わらないこの暗い雨の中、自分の身体能力を完全に計算に入れるのは至難の業なはず。
案の定、綻びは露呈した。彼はついに、その道中それを垣間見たのである。
「!」
僅かな違和感。彼は何か揺らぎのようなものを、複数視界の端に捉えた。
空間が歪んでいる?かのように見えたが、少し違うのだった。さらに目を凝らして見てみると、描きかけの絵に水滴をこぼしてしまった時のように、部分的に景色が滲んでいるのだ。
最初は何だか分からなかったが、その後の音が、彼に閃きを促した。
バシャ。バシャ。
彼がてっきり足音だと思っていた、あの水音である。
「……そうか」
なるほど。そういう事か。
彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。フードを脱ぎ、レインコートもそのまま完全に脱ぎ捨てた。
完全な臨戦態勢であった。彼はそうしてから、わざわざ相手に聞こえるように、大声で叫んだ。
「ようやく分かったぜ!お前の使うトリックの正体がよ!」
いつまでもやられっ放しな訳にはいかない。そうして彼は、反撃の狼煙を立ち上げたのだった。
(何だ!?)
口元が、何かおかしい。
(何だこりゃ??)
ぶよぶよとした水のようなものの塊。それが彼の顔の下半分、鼻と口を覆っていた。
(……く!とれねえ!)
引き剥がそうとしたが、無理だった。顔との接着面以外は本当にただの水で、うまく掴む事が出来ない。
それなら、とすぐに彼はある方法を試そうとしたが、寸前で思いとどまった。
(……くそ!マジでただの水なのかこれ?)
顔を覆っている量としては大した事がない。そう思ってそれを飲み込んでやろうとした彼だったが、これを相手の攻撃だとすると、単純にそうするのは危険だと彼は考えた。もしこれが毒だったりしたら、その時点で詰みなのだ。それをするのはもう、最後の最後にしておくべきだと考えた。
しかし、そうは言っても彼に与えられた時間はわずかだった。不意の攻撃で、彼は十分に息を吸い込んだ状態ではなかったのだ。
(もって2分弱……派手に動けば、1分ちょっと……)
それを過ぎれば、さしもの彼も何も出来ずに、普通に死んでしまうだろう。周りも大勢に囲まれているし、まさに万事休すとはこの事。道を誤れば即、死に直結するこの場面。常人であれば、正気を保っているのも難しい所だ。
しかし前述したように、彼の精神は鋼鉄のように硬い。加えて、決断力と行動力もある。。彼は戦いにおいて不可欠な思考の瞬発力を、十分過ぎるほどに持ち合わせているのだ。
(よし)
そんな彼だから、こんな状態でもすぐに動いた。声のした方向とは真逆。明後日の方向に、急に走り出した。
「……っ!」
彼の大きな耳がぴくりと動く。
さすがに、ほぼ詰みの状態でこんなにも大胆に動かれる事は想定外だったのだろう。相手の隠しきれなかった少しの動揺が、雨音の中でもしっかりと彼の耳に伝わった。
どうやら正解らしいと、彼はニヤリと笑みを浮かべた。50メートルを5秒で走る尋常ならざるダッシュ力で、彼はそのままその場から離れた。すると……
「む」
30メートル程行った所だろうか。その辺りで、バシャリと音を立てて、口元を覆っていた水が急に力を失ったようにくずれ落ちた。
「……ふむ」
周りを警戒しながら、彼はとりあえず口周りを拭った。
特におかしな臭いはしない。まだ断定は出来ないが、あの水は毒ではない可能性が強まった。無味無臭の毒だとしても、彼の鼻ならかなりの精度で嗅ぎ分けられるからだ。
彼は一応しばらく身構えていたが、やはりニ撃目はない。いからせていた肩の力を抜いて、とりあえず構えを解いた。
状況は間違いなく好転したと言ってよかった。時間経過だけで死んでしまうという最悪な状態は脱し、これならいかようにも対応が取れるからだ。
普通なら、ほっと一息つく所である。しかしなぜか、彼の眉間には未だ深い皺が寄ったままだった。フードの下で複雑な表情を浮かべ、顎に手を当てて思案している。
いとも簡単に窮地を脱し、そうして自分が意図した通りの結果にもなったものの、彼にはいまいち、解せない点があったのだった。
(……なんで誰もいない?)
自分は確かに、複数の足音らしきものを周りから聞き取っていた。なのになぜ、こうして走ってきたのにも関わらず誰にも遭遇しなかったのか。一人や二人から攻撃を受けてでも、突破するつもりでそうしたのに。
ちょうどそう彼が考えていると、またその音はした。
バシャ。バシャ。
確かに、誰かがまた自分の周りを歩いている。不規則に鳴るその音からすると、やはり複数人だ。さっきと同じように、ギリギリ視認出来ない距離にいるらしい。全く姿が見えない。おかしい。
(この俺に見えないっていうのがまず)
聴覚の他に、夜目が利くというのも、彼の長所の一つだった。完全な夜行性の梟やネズミ類には少し及ばないかもしれないが、それでもかなりの距離を視認出来る視力を持っている。数十メートルくらいなら、真っ暗闇でも誰かがいればすぐに分かる。男か女かだって、少し短い距離なら当てられるくらいだ。
そんな彼なのに、である。今現在この自分の周りを囲んでいる人間達は、毛程の姿も確認する事が出来なかった。これは一体全体どういうことなのか。彼は首を傾げた。
(……ちっと、まずいかもな……)
圧倒的な達人であれば、こういう事も可能なのかもしれない。彼の頭に、一つの最悪の事態が浮かび上がった。
気を巧みに操り、そこに確かにいるのだとしても、気配の尻尾を掴ませないように立ちまわる。そういう事が出来る者が、世界にはいるのかもしれない。もしかすると外の世界の人間は、自分が思っているより山ほどすごい人間がいるのかもしれない。そう考えてしまう程に、彼にとってこの状況は不可解なものだった。
もしこれが本当に達人の集まりなら、さしもの彼も一人で戦うのは厳しいと言わざるを得ない。100人雑魚を相手にするくらい彼にはどうと言う事もないが、達人なら話は別だ。絶え間なく攻撃されれば、彼とてひとたまりもないのだ。
(ううむ)
そしてまた、不気味と言うか、不思議なのは、攻撃の第二波が来ない事だった。普通そんな圧倒的有利な状況であったら、間髪いれずに攻撃を仕掛けてきても良さそうなものだが、いつまで待っても来る気配が無い。とりあえず何人かけしかけてみるとかすればいいものを、何もしない。様子を伺うにしても、少し消極的過ぎる気がした。
(……ふむ)
またいくらかの思案の後、彼は決めた。
最悪の事態を想定するのもいいが、まずはとにかく、この小さな綻びを追ってみる事にするか。もう一度同じ事をすれば、何か分かるかも知れない。今度はより注意深く、周りを探ってみる事にしよう。
彼はそう思い立ち、またさっきと同じように、相手とは逆の方向に走り出した。
今度は、聞き耳を立ててみても彼の耳に向こうの動揺は伝わらなかった。さすがに二度目は対応してきた、という事になるのだろうか。
「だが!」
彼もそれは、予想していた、全く同じような事をしてもしょうがない。そう考えていた彼は、今度はさらに、その走る速度を上げてきた。
MAXスピード。瞬間的には競走馬をも凌駕する速さで、またもその自身の包囲網に迫った。この速さなら、もし何かしらの準備を相手がしていたとしても、対応が遅れてボロを出すかもしれない。
「おらあああああ!!!」
相互の情報が全く伝わらないこの暗い雨の中、自分の身体能力を完全に計算に入れるのは至難の業なはず。
案の定、綻びは露呈した。彼はついに、その道中それを垣間見たのである。
「!」
僅かな違和感。彼は何か揺らぎのようなものを、複数視界の端に捉えた。
空間が歪んでいる?かのように見えたが、少し違うのだった。さらに目を凝らして見てみると、描きかけの絵に水滴をこぼしてしまった時のように、部分的に景色が滲んでいるのだ。
最初は何だか分からなかったが、その後の音が、彼に閃きを促した。
バシャ。バシャ。
彼がてっきり足音だと思っていた、あの水音である。
「……そうか」
なるほど。そういう事か。
彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。フードを脱ぎ、レインコートもそのまま完全に脱ぎ捨てた。
完全な臨戦態勢であった。彼はそうしてから、わざわざ相手に聞こえるように、大声で叫んだ。
「ようやく分かったぜ!お前の使うトリックの正体がよ!」
いつまでもやられっ放しな訳にはいかない。そうして彼は、反撃の狼煙を立ち上げたのだった。
PR
襲われないという自信がある訳ではなかった。襲われても全く問題ない。むしろ早く襲って来いと、彼はそう思っていたのである。
先日彼がシスターに提案した、警察組織の知り合いうんぬんの話は全くの嘘だった。里を出たばかりの彼に、そんな人間がいようはずもない。道中誰かに挨拶をする度に無視されてきた彼にとっては、本当にあのシスターくらいが、かろうじて知り合いと言っていいかもしれない人間だったのだから。
では、なぜ彼がこんな嘘をついたのかと言えば……。
彼の背負っていたリュックには、看板の材料ともう一つ、荷物があった。
一見何の変哲もない筋肉トレーニング用のプロテインのように見えるものだが、彼がそれを使うと、まさに文字通りの圧倒的な“力”を発揮することが出来る。彼のこの筋骨隆々の姿と、看板作りの時のあの力は、これによってもたらされたものだ。
兵器『サバス』。容器に入っている粉を定期摂取することで、筋力操作をすることが出来るようになる。
そう。彼もまた、兵器を扱う人間の一人なのであった。彼は自分の力をもってして、この事態にかたをつけようとしたのである。
物にもよるが、兵器はひとたび行使すれば神のような力を発揮できる。シスターによれば、その力を悪用している人間が外界には多いようだった。
しかし、兵器を使う人間にも色々な種類の人間がいるのだ。全部が全部人にあだなす悪人という訳ではない。それを使って人の役に立っている人も確かにいるのだが、それを説明するには、シスターやここの人間は兵器の偏った面を見過ぎていた。だから彼は、自らもまた兵器使いであると言ってしまう事に躊躇したのだった。
それにもし、彼があの場で自分を兵器使いだと言ってしまったとしたら、きっと質問攻めにあっていただろう。そうなれば義理深い彼のこと、きっと色々なことを話してしまっていただろうと思われる。
しかしこの界隈の状況から見て、そうなることは避けた方が良さそうだった。知らないなら知らないでいた方が安全なのだ。兵器使いは自分の情報が漏れることを嫌うものが多いから、下手に知り過ぎてしまうと、この辺りで襲われた人達のように……
「止まれ」
消されてしまうかもしれないのだ。
(……!)
村から1,2キロ手前の雑木林の中をとぼとぼ歩いていると、突然低い声に彼は呼び止められた。
レインコートのフードの下ではあったが、これには彼も驚きを隠せなかった。
(……おかしいな)
彼の聴覚は、普通の人間のそれより遥かに優秀なはずだった。近づいてくる人間の足音などは容易に分かる。それは雨や何かしらの雑音が混ざっていても、同様である。別種類の音を聞き分ける能力も、同じように高いのだ。
彼は確かに警戒していた。なのに、気付けなかった。こうしてすっかり不利な状況になってしまった後で、ようやく気付いたのだった。
(囲まれてやがる)
バシャ、バシャ、という複数の足音が、彼の周囲でこれみよがしに鳴らされる。「囲んでいるぞ」「逃げられないぞ」というメッセージを発して、動きを制限するためだろう。そのくせ絶妙に姿が見えない距離でいるらしく、誰一人として姿を確認することは出来なかった。
「近くの村の人間だな。我々のことはもう聞いているだろう。10秒やる。その間に、荷を置いて去ればよし。しかし逆らえば……」
殊更低く、声の主は言った。
「死ぬことになる」
考える暇もなく、直後から無慈悲なカウントダウンが始まった。
「10、9……」
(さてと)
「8、7……」
(どうすっかな)
こんな状況でも、彼は冷静だった。ここまでの動きが事前に情報を得ていた通りであったのももちろんだったが、こんなにも彼が落ち着いてるのには、訳があった。
彼は、自分の力に絶対的な自信を持っていた。実際彼はとても強く、その自信から来る鉄のメンタルが、彼をまた強くしていた。兵器を持つ彼は当然ながら、一騎当千のつわものなのだった。
その超人的なタフネスさで、里では敵なしだった彼。最初は違ったのだが、絶えず修行をこなしていくうちに、いつしか彼の戦闘スタイルは常人のそれとは全く異質のものへと変わっていく。
『相手の攻撃を受けきった上で倒す』
普通に考えればとんでもなく不合理なやり方だが、これが今の彼の基本スタイルなのだった。
まず彼は聞き耳を立てながら、相手の細かい位置を探ろうとした。木による音の反射と雨のせいで確定は出来なかったが、声はどうやら、彼の正面の方から聞こえてくるようだった。
「3、2……」
カウントが進んでも、彼に動く気配はなかった。一応どうするか考えるそぶりは見せたものの、やはりいつもの方法でいくらしい。足を大きく開いて、何かしらの攻撃に備えている。
一見合理性を欠くこのプロレスラーのような手法だが、彼の耐久力からすると、一概に道理に合わないと断ずることも出来ない。
攻撃を受けるという行為は、ダメージが蓄積してしまうというデメリットに目を瞑れば、情報を得る最上の手段と言えなくもない。攻撃は相手の情報を多く含んでいる要素であるから、耐えられるのであれば受けてみた方が良い一面もあるだろう。実際彼はその戦法で相手の分析をして、幾度と無く勝利を収めてきている。少なくとも彼にとっては、有用なスタイルなのだと言うことは出来るのではないだろうか。
「1……」
しかしこの戦法にも、やはり弱点というべきものはある。
「ゼロ」
相手の攻撃が彼の耐久力を超えるもの、もしくは、耐久力とは関係の無い類のものだった場合。つまり……
「!ゴボ……ッ!」
必殺の一撃だった場合である。
先日彼がシスターに提案した、警察組織の知り合いうんぬんの話は全くの嘘だった。里を出たばかりの彼に、そんな人間がいようはずもない。道中誰かに挨拶をする度に無視されてきた彼にとっては、本当にあのシスターくらいが、かろうじて知り合いと言っていいかもしれない人間だったのだから。
では、なぜ彼がこんな嘘をついたのかと言えば……。
彼の背負っていたリュックには、看板の材料ともう一つ、荷物があった。
一見何の変哲もない筋肉トレーニング用のプロテインのように見えるものだが、彼がそれを使うと、まさに文字通りの圧倒的な“力”を発揮することが出来る。彼のこの筋骨隆々の姿と、看板作りの時のあの力は、これによってもたらされたものだ。
兵器『サバス』。容器に入っている粉を定期摂取することで、筋力操作をすることが出来るようになる。
そう。彼もまた、兵器を扱う人間の一人なのであった。彼は自分の力をもってして、この事態にかたをつけようとしたのである。
物にもよるが、兵器はひとたび行使すれば神のような力を発揮できる。シスターによれば、その力を悪用している人間が外界には多いようだった。
しかし、兵器を使う人間にも色々な種類の人間がいるのだ。全部が全部人にあだなす悪人という訳ではない。それを使って人の役に立っている人も確かにいるのだが、それを説明するには、シスターやここの人間は兵器の偏った面を見過ぎていた。だから彼は、自らもまた兵器使いであると言ってしまう事に躊躇したのだった。
それにもし、彼があの場で自分を兵器使いだと言ってしまったとしたら、きっと質問攻めにあっていただろう。そうなれば義理深い彼のこと、きっと色々なことを話してしまっていただろうと思われる。
しかしこの界隈の状況から見て、そうなることは避けた方が良さそうだった。知らないなら知らないでいた方が安全なのだ。兵器使いは自分の情報が漏れることを嫌うものが多いから、下手に知り過ぎてしまうと、この辺りで襲われた人達のように……
「止まれ」
消されてしまうかもしれないのだ。
(……!)
村から1,2キロ手前の雑木林の中をとぼとぼ歩いていると、突然低い声に彼は呼び止められた。
レインコートのフードの下ではあったが、これには彼も驚きを隠せなかった。
(……おかしいな)
彼の聴覚は、普通の人間のそれより遥かに優秀なはずだった。近づいてくる人間の足音などは容易に分かる。それは雨や何かしらの雑音が混ざっていても、同様である。別種類の音を聞き分ける能力も、同じように高いのだ。
彼は確かに警戒していた。なのに、気付けなかった。こうしてすっかり不利な状況になってしまった後で、ようやく気付いたのだった。
(囲まれてやがる)
バシャ、バシャ、という複数の足音が、彼の周囲でこれみよがしに鳴らされる。「囲んでいるぞ」「逃げられないぞ」というメッセージを発して、動きを制限するためだろう。そのくせ絶妙に姿が見えない距離でいるらしく、誰一人として姿を確認することは出来なかった。
「近くの村の人間だな。我々のことはもう聞いているだろう。10秒やる。その間に、荷を置いて去ればよし。しかし逆らえば……」
殊更低く、声の主は言った。
「死ぬことになる」
考える暇もなく、直後から無慈悲なカウントダウンが始まった。
「10、9……」
(さてと)
「8、7……」
(どうすっかな)
こんな状況でも、彼は冷静だった。ここまでの動きが事前に情報を得ていた通りであったのももちろんだったが、こんなにも彼が落ち着いてるのには、訳があった。
彼は、自分の力に絶対的な自信を持っていた。実際彼はとても強く、その自信から来る鉄のメンタルが、彼をまた強くしていた。兵器を持つ彼は当然ながら、一騎当千のつわものなのだった。
その超人的なタフネスさで、里では敵なしだった彼。最初は違ったのだが、絶えず修行をこなしていくうちに、いつしか彼の戦闘スタイルは常人のそれとは全く異質のものへと変わっていく。
『相手の攻撃を受けきった上で倒す』
普通に考えればとんでもなく不合理なやり方だが、これが今の彼の基本スタイルなのだった。
まず彼は聞き耳を立てながら、相手の細かい位置を探ろうとした。木による音の反射と雨のせいで確定は出来なかったが、声はどうやら、彼の正面の方から聞こえてくるようだった。
「3、2……」
カウントが進んでも、彼に動く気配はなかった。一応どうするか考えるそぶりは見せたものの、やはりいつもの方法でいくらしい。足を大きく開いて、何かしらの攻撃に備えている。
一見合理性を欠くこのプロレスラーのような手法だが、彼の耐久力からすると、一概に道理に合わないと断ずることも出来ない。
攻撃を受けるという行為は、ダメージが蓄積してしまうというデメリットに目を瞑れば、情報を得る最上の手段と言えなくもない。攻撃は相手の情報を多く含んでいる要素であるから、耐えられるのであれば受けてみた方が良い一面もあるだろう。実際彼はその戦法で相手の分析をして、幾度と無く勝利を収めてきている。少なくとも彼にとっては、有用なスタイルなのだと言うことは出来るのではないだろうか。
「1……」
しかしこの戦法にも、やはり弱点というべきものはある。
「ゼロ」
相手の攻撃が彼の耐久力を超えるもの、もしくは、耐久力とは関係の無い類のものだった場合。つまり……
「!ゴボ……ッ!」
必殺の一撃だった場合である。
逃亡街道に雨が降る。
「かぁ~!気持ちわりいなあ!」
彼は、もうすでに役に立たなくなってしまっているレインコートをつまみながらぼやいた。
「あー……くっそ」
足元のぬかるみを、おおげさにばしゃばしゃと蹴り上げるようにして歩く。
「はぁ……」
心なしか、ここまで普通に引いてきたはずの荷車も重く感じる。闇には人の力を吸い取るような何かがあるのかもしれない。何となくそんな風に思ってしまうくらい、このまとわりつく雨と暗闇は、彼を少しづつ疲弊させていったのだった。
彼の溜息は、その夜の暗黒と、生ぬるい雨の音に吸い込まれるようにして、静かに消えていった。
ここは逃亡街道8号線。村と村の間を結ぶ、およそ5キロ程の短い道路である。
彼は、その中程に居た。一人で引いてくるにはかなり大きめの荷車をともなって、雨の中をゆっくりと歩いている最中だ。
荷車には、当然ながら荷物も積んであった。雨よけのカバーの下には、いくらかの食料、酒、薪などの生活用品が積まれている。簡単に見積もっても、百キロ以上はゆうにある荷物である。
普通ならそれは、大人が数人で引くか、馬を使わなければならない重量になるはずだったが、何がどうなったのか、彼はこれを一人で引くことになっているのだった。
「うひー」
このままぼやく彼を見ていてもそれは分からないままなので、少し説明を加えることにする。
彼はあの炊き出しの後、シスターに向かって、ある役を買って出ていたのだ。
「ちっと金が無さ過ぎてな。この先またこんな感じでただ誰かの厄介になるのもまずいから、何かちょっとした仕事か何かあればお願いしたいんだが。金はほんと、少しでいいし」
力が自慢だから、荷運びがいい。彼がそう言うと、彼女は喜んで彼に仕事を割り振ってくれた。
しかし、いざ彼がその仕事に出ようとすると、彼女は途端に慌て出した。
「え、あの……?」
彼が割り当てられたのは、隣村との通商の一端であった。村の名産品を別の村に持っていって物々交換し、持って帰ってくるという簡単なものである。人並みのコミュニケーション能力がありさえすれば、誰がやっても特に何も問題は出ない仕事だった。
しかし前述のとおり、物量はかなりのものとなるから、彼が一人で荷車を引こうとするのを見て、彼女は声をかけたのだった。
「あの、馬があちらにいますから、使ってください。重いですよ?あと一応あちらに警備の方もいるので」
昼間でも最近は物騒だということで、通商の時はそれなりの人をともなって行なっているらしい。最低4、5人は同行者を連れていかねばならないらしかったが、彼はなぜか、これを頑なに拒んだ。
「や、でも一人で運べるし。ほらほら」
馬でもそうは速く動けない荷車を、彼はそう言って軽々と引いて見せた。一人で引けるなら、人件費も削減できていいだろうと彼は言った。
その主張に、最初はううむと唸っていた彼女だったが、ぐるぐると驚異的な速さでその場を回り続ける彼に、全く折れる様子がないのを感じ取ったのか、ついには根負けした。
「では、こうしましょう」
そうは言ってもやはり危険。だから彼女は、彼がその仕事を一人でやるにあたり、条件を出した。
まず一つは、一番近い村との通商だけを担うこと。遠くなるとどうしても危険度が増してしまうということだったが、これには特に、彼にも異論は無かった。
しかし二つ目。この条件には、彼は眉をひそめた。
夜にまでかかりそうな時は、絶対に仕事に出てはいけない。彼女は強く光る目で、彼にそう言ったのだった。
彼がこの仕事を始めようとした理由。その動機からすれば、この条件は非常に困ったものだったが、彼はとりあえずその場では了承したのだった。
彼が仕事を請け負った経緯に関しては以上である。問題は、どうして彼が今こんな状況の中にいるのかだが、これについては簡単だ。単なる命令違反である。
もし今回彼が盗賊に襲われ、荷物を奪われてしまった場合は、全て彼の責任となる。運んでいた荷物の時価相当の金額を、彼自身が補償することになるだろう。彼は本当に路銀の類を一切持っていないから、この場合、しばらくタダ働きの刑にでもなってしまうと思われる。
しかしとうの彼は、そういう心配はしていなかった。絶対にそんな事にはならないと思っていたのである。
「かぁ~!気持ちわりいなあ!」
彼は、もうすでに役に立たなくなってしまっているレインコートをつまみながらぼやいた。
「あー……くっそ」
足元のぬかるみを、おおげさにばしゃばしゃと蹴り上げるようにして歩く。
「はぁ……」
心なしか、ここまで普通に引いてきたはずの荷車も重く感じる。闇には人の力を吸い取るような何かがあるのかもしれない。何となくそんな風に思ってしまうくらい、このまとわりつく雨と暗闇は、彼を少しづつ疲弊させていったのだった。
彼の溜息は、その夜の暗黒と、生ぬるい雨の音に吸い込まれるようにして、静かに消えていった。
ここは逃亡街道8号線。村と村の間を結ぶ、およそ5キロ程の短い道路である。
彼は、その中程に居た。一人で引いてくるにはかなり大きめの荷車をともなって、雨の中をゆっくりと歩いている最中だ。
荷車には、当然ながら荷物も積んであった。雨よけのカバーの下には、いくらかの食料、酒、薪などの生活用品が積まれている。簡単に見積もっても、百キロ以上はゆうにある荷物である。
普通ならそれは、大人が数人で引くか、馬を使わなければならない重量になるはずだったが、何がどうなったのか、彼はこれを一人で引くことになっているのだった。
「うひー」
このままぼやく彼を見ていてもそれは分からないままなので、少し説明を加えることにする。
彼はあの炊き出しの後、シスターに向かって、ある役を買って出ていたのだ。
「ちっと金が無さ過ぎてな。この先またこんな感じでただ誰かの厄介になるのもまずいから、何かちょっとした仕事か何かあればお願いしたいんだが。金はほんと、少しでいいし」
力が自慢だから、荷運びがいい。彼がそう言うと、彼女は喜んで彼に仕事を割り振ってくれた。
しかし、いざ彼がその仕事に出ようとすると、彼女は途端に慌て出した。
「え、あの……?」
彼が割り当てられたのは、隣村との通商の一端であった。村の名産品を別の村に持っていって物々交換し、持って帰ってくるという簡単なものである。人並みのコミュニケーション能力がありさえすれば、誰がやっても特に何も問題は出ない仕事だった。
しかし前述のとおり、物量はかなりのものとなるから、彼が一人で荷車を引こうとするのを見て、彼女は声をかけたのだった。
「あの、馬があちらにいますから、使ってください。重いですよ?あと一応あちらに警備の方もいるので」
昼間でも最近は物騒だということで、通商の時はそれなりの人をともなって行なっているらしい。最低4、5人は同行者を連れていかねばならないらしかったが、彼はなぜか、これを頑なに拒んだ。
「や、でも一人で運べるし。ほらほら」
馬でもそうは速く動けない荷車を、彼はそう言って軽々と引いて見せた。一人で引けるなら、人件費も削減できていいだろうと彼は言った。
その主張に、最初はううむと唸っていた彼女だったが、ぐるぐると驚異的な速さでその場を回り続ける彼に、全く折れる様子がないのを感じ取ったのか、ついには根負けした。
「では、こうしましょう」
そうは言ってもやはり危険。だから彼女は、彼がその仕事を一人でやるにあたり、条件を出した。
まず一つは、一番近い村との通商だけを担うこと。遠くなるとどうしても危険度が増してしまうということだったが、これには特に、彼にも異論は無かった。
しかし二つ目。この条件には、彼は眉をひそめた。
夜にまでかかりそうな時は、絶対に仕事に出てはいけない。彼女は強く光る目で、彼にそう言ったのだった。
彼がこの仕事を始めようとした理由。その動機からすれば、この条件は非常に困ったものだったが、彼はとりあえずその場では了承したのだった。
彼が仕事を請け負った経緯に関しては以上である。問題は、どうして彼が今こんな状況の中にいるのかだが、これについては簡単だ。単なる命令違反である。
もし今回彼が盗賊に襲われ、荷物を奪われてしまった場合は、全て彼の責任となる。運んでいた荷物の時価相当の金額を、彼自身が補償することになるだろう。彼は本当に路銀の類を一切持っていないから、この場合、しばらくタダ働きの刑にでもなってしまうと思われる。
しかしとうの彼は、そういう心配はしていなかった。絶対にそんな事にはならないと思っていたのである。