「あの、すみません」
真っ白な小さい頭が、こちらを向いた。
「はいはい?」
振り返った彼女は、予想よりもかなり若々しかった。顔の皺は相応にあるものの、目には力があり、背も一切曲がっていない。むしろ、この暑さにうだった自分よりもしっかり立っているくらいだった。
何となく、武家の女性みたいな凛とした空気を感じる。釣られるように背を伸ばしてから、僕は言った。
「ここに行きたいんですけど、どこだか分からなくて」
地図を親指で伸ばして手渡す。すると彼女は、懐から眼鏡を取り出してそれをじっと見つめた。
「……これはー……」
クシャクシャな上にかなり小さめの印刷のせいで、彼女はそれをほとんど目に入れるくらいに近づけなければ見る事ができないようだった。老体に鞭打つようで少し悪い気もしたが、もう彼女に頑張ってもらうしか道がない。しばらく黙って、僕は彼女が話し出すのを待つ事にした。
とは言っても、そう悠長なことは言っていられない。僕はもう先程からずっと、暑さに膝を付きそうになるのをこらえている状態なのだ。
動くと倒れそうだからとじっとしていると、じりじりと、まだ少し温度の低い鉄板焼きのような音が聞こえた気がした。耳のてっぺんが焼けてるよと誰かに言われても、もう大して僕は驚かない。髪の毛が燃え始めたら少し慌てるかな、くらいのものだ。
うなだれながらふと下を見ると、もはやフライパン状態になっているアスファルトが目に入った。
もう、本当に限界だった。
たとえ鉄板の上の焼肉よろしく、アスファルトと降り注ぐ地獄太陽の業火に焼かれようとも、もう僕は大の字になって思い切りそこに寝転んでしまいたかった。そうすれば苦痛はほとんど一瞬で、気持ちよく昇天できるんじゃないかと思った。
そんな風に考えて、まさにもう膝を落とそうとした時だった。
彼女が、やっと僕が渡した地図から目を離す。それを見て、僕はすんでの所で膝を落とすのを止めた。
しかし、せっかく口を開きかけた彼女は、僕を見てから直前で話す事を変えてしまった。
「あなた、ここ登ってきたの?汗ビッショリだけど」
「?はい。そうです、けど……なぜです?」
「ちょっと待ってて」
「え?あの……っ」
少し眩しそうに微笑んでから、彼女は家に引っ込んでいってしまった。長く時間がかかるような事があっては困るのだが、聞く暇もなかった。最悪本当にこのまま帰ろうかと頭をよぎったが、予想に反して、彼女はすぐに戻ってきてくれた。
そして、その彼女の手には、僕が喉から手が出るほど欲しい物が載っていたのだった。
「はい、どうぞ」
喉が、ごくりと鳴った。
丸いお盆の上に、これでもかと汗をかいたガラスの容器に入っている茶色い飲み物と、コップが載っている。コップには、たぶんその麦茶か何かが、ごろっとした氷とともに注がれていた。
「“中”の子でしょう?こんな暑い中にこんな所まで、日傘も帽子もなしで歩いてきたら倒れちゃうわ」
目でそれを取るように促され、ほとんど迷わず僕はそれを手に取った。
がっつくと格好悪いからと慎重にコップを取ったものの、でもやっぱり我慢できずに、取った先からコップを派手に傾けて一気にそれを飲み下してしまった。
「あらあら。お腹壊しますよ」
彼女の声が、さっきよりも耳の奥に響いた。
熱に浮かされていた頭が急激に冷やされて、微妙にぼやけていた世界が急にクリアになる。立ちくらみを起こしたかのようにクラクラきて、思わず一歩後ずさってしまった。
僕はしばらく動けずに、ただ目頭を抑えていた。この癒しが細胞の全てに行き渡るまで、じっと待つしかなかった。五臓六腑にしみ渡るとはまさにこの事を言うのだ。体中が歓喜の声を上げているのが分かる。
「昨日までだったらジュースなんかもあったんだけど、遊びに来た孫たちにあらかた飲まれちゃったの。本当に何にもなかったから、麦茶しかなくて悪いんだけど」
僕は喜びに打ち震えているというのに、なぜか横でそうして彼女は謝った。
いやいや、十分です。本当に、最高のオアシスにたどり着いた気分です。とは全然言えずに、僕は手探りで彼女の持っているお盆にコップを置き、目を抑えながらもう片方の手でなんとか彼女を制した。
「いえ、そんな。ほんとに。凄い、助かりました」
顔を上げ、搾り出すように僕がお礼を言うと、彼女はまた目だけで笑い、玄関先にお盆を置いてからいそいそとこちらに戻ってきた。
「それでねえ、その場所なんだけど」
皺の幾分少なくなった紙を手渡される。そう言えば、僕は道を聞いていたのだった。
「もう、過ぎてるのよ」
「え?」
気の毒そうに僕を見ながら、彼女は驚愕の事実を述べた。
「ちょっと登り過ぎたみたいね。もう少し下った所にあるのよ。そこ」
「ええええええええええええ!?」
聞いた瞬間、今度こそ僕はがっくりとそこに崩れ落ちてしまった。足から空気が抜けたみたいに、へなへなとして力が入らない。
僕はこんな、お遍路さん並の苦行に挑戦した覚えはない。ただバイトの面接に来ただけだというのに……
「どれぐらいですか……」せっかく回復したと思ったのに、また声がかすれてしまう。「結構戻らないとダメですかね……」
「そんなでもないわ。ほら、あそこを曲ってちょっと行ったところにあるから」
ゆっくりと坂下の方を彼女は指差した。やっぱり少し、良家の子女のような所作だった。
僕は、なんとかゆるゆると立ち上がった。言い方からすると、それ程遠くはなさそうだ。
屈伸しながら体の調子を見ると、今しがたもらったばかりの命の水の力が効いているのか、力はすぐに戻ってきてくれた。
彼女が示した先は、すぐに分かった。
「あの、育ちまくった朝顔が並んでる家の横道ですかね」
「そうそうそう」
少し遠いが、曲がり角はそこにしかないからもう迷うこともないだろう。
「じゃあ、一応待ち合わせ時間もあるので、俺行きます。すみません、本当に助かりました」
「いいえぇ。気をつけなさいね。もしまたこの辺りに来るなら、今度はもうちょっとお天道様対策をして来るのよ」
僕は自分が思ってる限りの一番爽やかな笑顔で彼女にお礼を言い、その場を後にした。もしまたここに来る事があるようなら、改めて彼女にお礼を言いにこなければなるまい。
人の優しさに触れ、足取り軽く、再び僕は目的地を目指した。
「世の中には良い人がいるもんなんだなあ……」
未だに彼女がしてくれたことが信じられなくて、ついそんな言葉を漏らしてしまう。
「うまかったなぁ麦茶」
嬉しいせいもあって、僕には珍しく独り言が多くなっていた。
「何にも無くなんか無いよな。麦茶最高じゃん」
むしろ至高じゃん、などと馬鹿な事まで言ってしまってから、はたと僕の足は止まった。
……やはりいつもやらない事は、安易にやるべきではないのだ。
「………………うるせーよ」
頭の中が、また波立ちだした。いつだって、何をしてたって、きっかけさえあればそれは起こり出す。せっかくあった今の心温まるエピソードも、もうその波に飲まれて、ほとんど無かった事になってしまった。
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真っ白な小さい頭が、こちらを向いた。
「はいはい?」
振り返った彼女は、予想よりもかなり若々しかった。顔の皺は相応にあるものの、目には力があり、背も一切曲がっていない。むしろ、この暑さにうだった自分よりもしっかり立っているくらいだった。
何となく、武家の女性みたいな凛とした空気を感じる。釣られるように背を伸ばしてから、僕は言った。
「ここに行きたいんですけど、どこだか分からなくて」
地図を親指で伸ばして手渡す。すると彼女は、懐から眼鏡を取り出してそれをじっと見つめた。
「……これはー……」
クシャクシャな上にかなり小さめの印刷のせいで、彼女はそれをほとんど目に入れるくらいに近づけなければ見る事ができないようだった。老体に鞭打つようで少し悪い気もしたが、もう彼女に頑張ってもらうしか道がない。しばらく黙って、僕は彼女が話し出すのを待つ事にした。
とは言っても、そう悠長なことは言っていられない。僕はもう先程からずっと、暑さに膝を付きそうになるのをこらえている状態なのだ。
動くと倒れそうだからとじっとしていると、じりじりと、まだ少し温度の低い鉄板焼きのような音が聞こえた気がした。耳のてっぺんが焼けてるよと誰かに言われても、もう大して僕は驚かない。髪の毛が燃え始めたら少し慌てるかな、くらいのものだ。
うなだれながらふと下を見ると、もはやフライパン状態になっているアスファルトが目に入った。
もう、本当に限界だった。
たとえ鉄板の上の焼肉よろしく、アスファルトと降り注ぐ地獄太陽の業火に焼かれようとも、もう僕は大の字になって思い切りそこに寝転んでしまいたかった。そうすれば苦痛はほとんど一瞬で、気持ちよく昇天できるんじゃないかと思った。
そんな風に考えて、まさにもう膝を落とそうとした時だった。
彼女が、やっと僕が渡した地図から目を離す。それを見て、僕はすんでの所で膝を落とすのを止めた。
しかし、せっかく口を開きかけた彼女は、僕を見てから直前で話す事を変えてしまった。
「あなた、ここ登ってきたの?汗ビッショリだけど」
「?はい。そうです、けど……なぜです?」
「ちょっと待ってて」
「え?あの……っ」
少し眩しそうに微笑んでから、彼女は家に引っ込んでいってしまった。長く時間がかかるような事があっては困るのだが、聞く暇もなかった。最悪本当にこのまま帰ろうかと頭をよぎったが、予想に反して、彼女はすぐに戻ってきてくれた。
そして、その彼女の手には、僕が喉から手が出るほど欲しい物が載っていたのだった。
「はい、どうぞ」
喉が、ごくりと鳴った。
丸いお盆の上に、これでもかと汗をかいたガラスの容器に入っている茶色い飲み物と、コップが載っている。コップには、たぶんその麦茶か何かが、ごろっとした氷とともに注がれていた。
「“中”の子でしょう?こんな暑い中にこんな所まで、日傘も帽子もなしで歩いてきたら倒れちゃうわ」
目でそれを取るように促され、ほとんど迷わず僕はそれを手に取った。
がっつくと格好悪いからと慎重にコップを取ったものの、でもやっぱり我慢できずに、取った先からコップを派手に傾けて一気にそれを飲み下してしまった。
「あらあら。お腹壊しますよ」
彼女の声が、さっきよりも耳の奥に響いた。
熱に浮かされていた頭が急激に冷やされて、微妙にぼやけていた世界が急にクリアになる。立ちくらみを起こしたかのようにクラクラきて、思わず一歩後ずさってしまった。
僕はしばらく動けずに、ただ目頭を抑えていた。この癒しが細胞の全てに行き渡るまで、じっと待つしかなかった。五臓六腑にしみ渡るとはまさにこの事を言うのだ。体中が歓喜の声を上げているのが分かる。
「昨日までだったらジュースなんかもあったんだけど、遊びに来た孫たちにあらかた飲まれちゃったの。本当に何にもなかったから、麦茶しかなくて悪いんだけど」
僕は喜びに打ち震えているというのに、なぜか横でそうして彼女は謝った。
いやいや、十分です。本当に、最高のオアシスにたどり着いた気分です。とは全然言えずに、僕は手探りで彼女の持っているお盆にコップを置き、目を抑えながらもう片方の手でなんとか彼女を制した。
「いえ、そんな。ほんとに。凄い、助かりました」
顔を上げ、搾り出すように僕がお礼を言うと、彼女はまた目だけで笑い、玄関先にお盆を置いてからいそいそとこちらに戻ってきた。
「それでねえ、その場所なんだけど」
皺の幾分少なくなった紙を手渡される。そう言えば、僕は道を聞いていたのだった。
「もう、過ぎてるのよ」
「え?」
気の毒そうに僕を見ながら、彼女は驚愕の事実を述べた。
「ちょっと登り過ぎたみたいね。もう少し下った所にあるのよ。そこ」
「ええええええええええええ!?」
聞いた瞬間、今度こそ僕はがっくりとそこに崩れ落ちてしまった。足から空気が抜けたみたいに、へなへなとして力が入らない。
僕はこんな、お遍路さん並の苦行に挑戦した覚えはない。ただバイトの面接に来ただけだというのに……
「どれぐらいですか……」せっかく回復したと思ったのに、また声がかすれてしまう。「結構戻らないとダメですかね……」
「そんなでもないわ。ほら、あそこを曲ってちょっと行ったところにあるから」
ゆっくりと坂下の方を彼女は指差した。やっぱり少し、良家の子女のような所作だった。
僕は、なんとかゆるゆると立ち上がった。言い方からすると、それ程遠くはなさそうだ。
屈伸しながら体の調子を見ると、今しがたもらったばかりの命の水の力が効いているのか、力はすぐに戻ってきてくれた。
彼女が示した先は、すぐに分かった。
「あの、育ちまくった朝顔が並んでる家の横道ですかね」
「そうそうそう」
少し遠いが、曲がり角はそこにしかないからもう迷うこともないだろう。
「じゃあ、一応待ち合わせ時間もあるので、俺行きます。すみません、本当に助かりました」
「いいえぇ。気をつけなさいね。もしまたこの辺りに来るなら、今度はもうちょっとお天道様対策をして来るのよ」
僕は自分が思ってる限りの一番爽やかな笑顔で彼女にお礼を言い、その場を後にした。もしまたここに来る事があるようなら、改めて彼女にお礼を言いにこなければなるまい。
人の優しさに触れ、足取り軽く、再び僕は目的地を目指した。
「世の中には良い人がいるもんなんだなあ……」
未だに彼女がしてくれたことが信じられなくて、ついそんな言葉を漏らしてしまう。
「うまかったなぁ麦茶」
嬉しいせいもあって、僕には珍しく独り言が多くなっていた。
「何にも無くなんか無いよな。麦茶最高じゃん」
むしろ至高じゃん、などと馬鹿な事まで言ってしまってから、はたと僕の足は止まった。
……やはりいつもやらない事は、安易にやるべきではないのだ。
「………………うるせーよ」
頭の中が、また波立ちだした。いつだって、何をしてたって、きっかけさえあればそれは起こり出す。せっかくあった今の心温まるエピソードも、もうその波に飲まれて、ほとんど無かった事になってしまった。
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