「ん……」
陽の光が眩しい。俺は寝ぼけ眼をごしごしと擦りながら、いつものように枕元の時計に手を伸ばした。
(あれ?)
しかしあるはずのそれはそこにはなく、俺の手は空を切る。寝ている間にどこかへやってしまったか。しつこく手を振って探してみたが、やっぱりない。
んだよしょうがねえなと、そこで俺はやっとはっきりと目を開いた。
「……は?」
そしてそのまま俺は、目の前に広がっている光景にしばらくまばたきを忘れた。
なに、これ。
眼前にあったのは、PCのペイントアプリで塗りつぶしたのかと思える程の、容赦のない青色だった。
「うわ! ちょちょちょ!」
そのどこまでも続くかのような遥かなる青のせいで、俺は自分の体が宙に浮いているのではないかと錯覚してしまった。
思わず水揚げされた魚みたいに四股をばたばたとさせてしまう俺だったが、よく考えたら元々腕や背中に接地面があったじゃないかということにすぐに気が付き、何とか冷静さを取り戻した。
「え、ていうか何? 何で外?」
青色は、抜けるような青空のそれだった。
一体なぜ俺は外で寝ているのか。俺の巨体がついに部屋の壁を破壊してしまったのだろうか。
体を起こそうとするとめまいがした。何だか腹も減っているし、もしかすると貧血になっているのかもしれない。
正直もう少し寝転がっていたかったが、自分の置かれている状況が全く分からないというのはどうにも怖い。俺はふんぬと重い体をむりやり起こし、周りをきょろきょろとうかがった。
「どこだ? ここ……」
地を這う風が、絨毯のように茂る草を撫でるようにして吹き、そのまま俺の前髪をも吹き上げていった。
土、草、それからまばらに生えた樹木。周囲には人の気配を感じることのできるものが全くなかった。あるのはただ、どこまでも続こうかという広大な自然のみ。
「え? マジでどこよここ」
と、再び目を擦ろうとして、俺はまた驚いた。
寝起きでメガネがない。それはいい。だけど何で俺は、メガネなしでこうも遠くを見渡すことができるんだ……?
俺は不思議に思い、立ち上がって自分の体を隅々までまさぐってみた。
ぺったりとした髪。肉付きのいい頬。メタボ丸出しの太鼓腹ボディ……。
全て今まで通りだ。視力以外には特に変わったところはない。
「お」
と、一応足元にまで視線を送ってみると、慣れ親しんだメガネがそばに落ちているの気付いた。
ものは試しと、俺はそれを拾っていつものようにかけてみた。
「うげ」
しかし途端に頭がぐらりと来て、こりゃたまらんとすぐに外した。
めちゃくちゃ見にくい上にめまいがする。こんなのかけてたら目に悪いし、たちまち偏頭痛持ちになってしまう。
俺はポケットにメガネをしまい、改めて周囲を見回した。
視力のことなど不可解な点はあるが、今はとにかく現状を把握しなければならない。
(そもそも何で俺は寝てたんだ? 寝た記憶がないんだが……)
たしか俺は、部屋で来見咲ちゃん引退のニュースを聞いて暴れ回っていたよな? で、ちょっと冷静になった後部屋を片付けていたらチャイムが鳴って、出たらさやちゃんが居て。
(そうだ。それから仕送りの件で一悶着あって、その後さやちゃんが帰ってから俺は……)
そうして順序立てて思い出していくうちに、俺の頭からはさあっと血の気が引いていった。
思い出した。俺はあれから何となく外に出て、ふと思い立って禊のために公園に行こうとしたのだ。そしてその途中でトラックに……。
(いや)
絶望的な記憶がみるみると蘇って来ていたが、俺はそこで自分の思考にストップをかけた。
轢かれてはいない。そのはずだ。(往々にして事故の前後の記憶はないとは言うが)実際に轢かれた記憶まではないし、もし轢かれたとするなら、この五体満足っぷりはどうにもおかしい。
うん。やっぱ轢かれてないねこれ。何かほら、トラックの強力な無線電波があれしたせいで次元が一時的に歪曲したんだよ。んで、たまたまそこに居た俺が四次元的な空間ポケットに飛ばされちゃったんだろうな。何で元の場所に戻らなかったのかはちょっと不思議だけど、それは次元歪曲が元に戻る時に“世界”が参照する物質の座標記憶に多少のズレが生じてしまったせい、と考えるのが妥当と思う。
そう。つまり俺は世界の意志によってどこかに飛ばされただけであって、死んでなどいない。この死後の世界を思わせる閑散とした場所にはいささか不安を覚えるが、たぶんここは俺があの時行こうとしていた公園のどこか一角なのだ。だから歩いていれば、そのうち道路にでも出るはずだ。
「…………はあ」
俺はしかし、周囲を改めて見渡しながらため息をついた。
そんなふうに現実逃避してみても、目の前の自然はあくまで自然であり、どう見たって人が作った公園なんかには見えなかった。
草はぼうぼう。木は剪定なんてされてないから四方八方無秩序に伸びきって、今にも動き出しそうなおばけ樹木になってしまっている。人の息がかかっているだろう場所が、何一つない。
生えている樹木も、ぱっと見俺が見たことのない種類だ。少なくとも杉とかけやきとか、そういう分かりやすい類のものではない。もはやここは近所の公園か否かという問いをする段階にはなく、『ここは東京なのか? そもそも日本なのか?』という問題に移行してもいい頃合いだ。
まあ何にしても、このままじゃ埒が明かない。何か分かるかもしれないし、少し歩いて周辺の情報でも集めてみるとする。
「……ん?」
と、そう思って歩き出そうとした時だった。
近くの茂みが突然がさりと動き、驚いた俺はデブらしからぬ反射速度でそこから大きく飛び退いた。
「ひいっ!?」
草の背はせいぜいが20センチ程である。だから仮にそこに何らかの動物が隠れていたとしても、大した大きさではない。
しかし小さな生物でも、毒を持ったクモやらヘビやら、脅威となるものはいくらでもいる。用心するにこしたことはないのだ。断じて俺が特別ビビリというわけではない。
そうして草むらをドライアイになるくらい注視していると、そいつはゆっくりとその姿を俺に晒した。
「なっ……」
こ、こいつはまさか!?
透明の、ぷるぷるとした体の謎の生命体。ゲームやファンタジーラノベなんかで、主人公が旅に出た矢先くらいでよく出てくるアレ。
そう。みんな大好き最弱モンスター、スライムさんである。
ちょっと大きめのぼたもちみたいなその軟体が、草をかき分けながらゆっくりとこちらに向かって這い出て来る。
動きは緩慢としていて、すぐに襲い掛かってくるような様子はない。しかし俺のことはきっちりと捕捉しているのか、俺が動いてもそっちの方へしっかりと付いてくる。
て言うかこれホントにスライムだよな? ド○クエとかと違って目玉はないし、ほんとに無色透明な水って感じの体だけど。
「ふむう」
これはもしかしたらアレかも分からない。某界隈でべらぼうに流行ってる、『異世界転移』ってやつかもしれない。
だとしたら死後の世界とかより状況は全然悪くないし、俺はそういう世界に抵抗とかもないからどちらかと言うと望むところなのだが……。
疑惑を確信へと変えるため、とりあえず俺はその軟体に手を伸ばしてみた。
「おっ?」
するとどうだろう。スライムは俺の手に寄り添い、そのひんやりぷりぷりとした体を擦りつけてきた。
やだ何これ。すっげえ可愛いじゃない。
「おーよしよしよし」
顔がないので犬や猫みたいに感情を推し量ることはできないが、愛嬌がある。一人じゃ心細いし、このままこいつを連れて回るのもいいかもしれない。なんかやばいのが出てきても、○ケモンみたいに戦ってくれるかもしれないし。
「……ん?」
と、そうして手のひらの上でよしよし撫でていると、スライムがそれに応えるかのように動く。
ふるふるとかすかに体を震わす。かと思えば、今度はなぜかゆっくり潰れていくように薄く伸びていき、俺の右手のひら全体に広がっていく。俺は不思議に思いながらも、その様子をただ見つめていた。
何だろう。もしかして熱に弱いのかな? だったら残念だけど置いてかないとな。死んじゃったらかわいそうだし。
そう思って野に返してやろうとしたが、俺の伸ばしかけた左手はその途中でピタリと動きを止めた。
俺は、全てを間違えていた。
「うぇ!?」
スライムはぐにぐにと動いて、やがて俺の右手全体を覆い包んだ。
俺が寸前までてっきりじゃれているのだと思っていたそれは、スライムにとっては全く違う意図のある動きだったのだ。
すなわち、“捕食”だ。
「あっつ! あちちち! 熱痛いやめてやめて!!」
ひっぺがそうとしたが、利き腕じゃないせいかなかなか剥がれない。
体の外側は特に熱くはなっていないので、この熱痛さはおそらく酸か何かによるものだ。このままどうにもできなければ、俺の右手は最悪溶け落ちてしまうところまでいくかもしれない。
まずいと思って腕を思い切り振ってみたが、スライムはがっちりと俺の手を掴んで離さず、びくともしない。地面に叩きつけてみても、俺が痛いだけでスライムには全くダメージが通らず離れない。
「もう、もういいから! めっちゃファンタジーな世界なの分かったからああああああああ!」
やばい。マジでやばい。このままじゃ仮に好みどストライクのエロゲがあっても励めない体になってしまう。それはまずい。心の嫁は二次元三次元問わずたくさんいる俺だが、第一の嫁は自分の右手だ。こいつだけはどうにかして死守しなければならない。
が、ただでさえそうして生死の境にいる俺に、なおも畳み掛けるように展開が押し寄せてくる。
「ぐぬうううう離れろやあああああ…………ってうん?」
地鳴りである。ドドドドと何かが大量に移動するかのような音が、少し遠くの方から聞こえてくる。はっきりとは分からないが、どうもこっちに向かって来ているような感じだ。
おいおいこの上何だよ。イノシシの大群でもいるのか?
音がする方角をじっと見つめていると、それはあっと言う間に俺の前に現れた。
馬だ。そして人。何やら大勢の鎧を着込んだ人間達が、馬を駆って猛烈な勢いでこちらに向かって来る。
人がいたということに安堵したのも束の間、一団の戦闘にいた一人が叫んだ。
「いたぞ! やつだ!」
その少し高い声が響いたかと思うと、一団はマラソンの迂回地点のように俺の周りをぐるりと回る。
何これ何これ。めっちゃ嫌な予感する。なぜか皆すごいこっち見てるんだが? 俺何かした?
これは完全に囲まれる前に逃げた方がいいかも分からんね。そう思って走り出そうとしたが、もう遅かった。
ふいに体にヒモのようなものが何重にも巻きつき、俺はきつく腕ごと拘束された。
「ぐえ!」
そして何事かと周囲を見やる暇もなく、俺はそのまま為す術なく宙に引き上げられた。
「んなあああ!?」
瞬く間に10メートル程の空中に投げ出され、叫ぶしかない俺。
空中に引っ張り上げられるだけならまだ良かったが、数秒の浮遊感の後、長さの限界が来たのかヒモがピンと張り、行き先が反転する。
要するに落ち始めた。それも結構なスピードで。このまま何もせずに落ちたら死ぬレベルで。
「ぎゃあああああああああああ!!」
みるみる近づく地面に、俺は全然覚悟など決めれないまま固く目を瞑った。
何? 俺が何したって言うの? 俺はどんなに過疎ってる道路であっても赤信号では渡るのを躊躇してしまう(そして結局最後まで渡れない)くらいの超絶小市民男なんですよ? 悪いことなんて何もできませんよ!
と、誰に対してなのか分からない文句を心の中で垂れていたら、今度はなぜか急に落下の感覚がなくなり、激しい風の音が耳に入り込んできた。
目まぐるしく変わる状況に怖くなって再び目を開けてしまう。すると。
「うおわ!?」
え? え? 嘘でしょ? 何で?
信じられなくて、俺は目をごしごしと擦った。しかしそうして改めて見てみても、目の前に広がっている光景は全く変わらずそこにあった。
俺は浮いていた。地面から数十センチ程の高さでしかないが、たしかに宙に浮いていた。
ドリフ並の完璧な二度見までかましたが間違いない。絶対浮いてるこれ。やばい。
突如俺に未知の能力が発現し、空を飛べるようになった、ということではたぶんない。
この風だ。どういうわけか、地面から立ち上るように湧いて来るこの強風によって、俺は浮かされているのだ。
100キロ弱ではあるが十分巨漢であると言っていいはずのこの俺が、だ。
この風によってとりあえず窮地は脱したかと思われたが、しかし俺の受難はまたしてもそこで終わらなかった。
「ぶえ!?」
巻きついていたヒモが突然強く体に食い込み、俺は車に潰される瞬間のカエルのような声をむりやり上げさせられる。
そのまま息つく暇もなく、俺は一団の馬が牽いている荷台らしきものの方にぐいと引っ張られ、そこへ乱暴に放り込まれた。
「うぶっふ!」
腕を拘束された俺が受け身など取れるはずもなく、思いっ切り顔から落ちる。 道中の反転で多少勢いは殺されていたが、それでも結構な高さからの落下だ。普通に痛い。
「ぐふう……君ら一体何を……」
手が使えないので、仕方なく肩で痛打した頬をさする。特にひどい流血まではないようだが、いくらか擦ったせいか、風が頬を撫でていくたびにちょっとヒリヒリする。
ぐぬぬ。マジでなぜに俺がこんな目に遭わなければならんのか。頼むから誰か説明してくれ……。
そもそも俺を拘束しているこのヒモは何なんだとその出所を辿ると、馬を御しているフードの男がそのヒモの一端を握りしめているのに気付く。
そのやたらとガタイのいい男が握っているものを見て、俺はようやく理解した。
ムチである。どうやら俺は今、ムチに拘束されているらしい。やたらとうまく巻きついてるから何か未知の生物の触手とかかと思っていたのだが、それは違ったようだ。
まあデブが触手に巻きつかれてるところとか誰も見たくないよね。うむ。今のところいけ好かない展開ではあるけど、この世界は世の男達の需要についてはきちんと理解しているらしい。その点は大変よろしい。
……いや、よく考えたら男対男のSMプレイに見えなくもないのでムチでもやっぱアウトだわ。しかも片方はデブ。どこの需要に供給しようとしてんだ。お願い今すぐこれほどいて……。
まともに動けないので、じっと抗議の目線だけ向けてみる。すると男は何を思ったのか、そのフードの奥でニヤリと口角を上げ、こちらに向けてぐっと親指を立てた。
首を傾げてみたが、男はそれきり前に向き直り、馬の制御に戻ってしまった。
ううむ。よく分からん。
サムズアップは日本だと単純にグッドサインだけど、海外だと侮辱の意味になるとか言うしなあ。何かやばい意味だったらどうすんべ……。
大半が鎧を着ているところを見ると、彼らはそこそこ文明的な人間達であるのは間違いなさそうだが、だからと言ってこのまま無抵抗を貫いていたら何をされるか分かったもんじゃない。
何とか拘束を解けないかと、俺は腕に力を込めた。とにかくこれをどうにかしないと何も始まらない。
しかしいざそうしようとした瞬間、俺はその出鼻を見事にくじかれてしまった。
「じっとしていろ」
ふいに耳元で、高い声がした。
やけに郷愁を誘うその涼やかな声に誘われて目を向けると、そこには馬上の男と同じくフードをかぶった、しかし妙に小柄な人間が座っていた。
ムチの男と同じくフードを目深にかぶっているせいで、顔は見えない。が、その透き通るような声からすると、中身はおそらく女の子だ。
普段アイドル以外の女の子に興味を引かれることはあまりない。しかし彼女には何か並々ならぬものを感じて、目を離すことが出来なかった。
普通の人間にはない迫力のようなものが、その居住まいからにじみ出て来ている。
(シュシュシュ滑らかな覗き見!)
どうにかしてそのご尊顔を拝見できないかと体を幾度か捻ってみたが、俺がそうしても彼女は全く意に介さず、微動だにしない。
そのもはや気品すら感じる動じなさに、俺はふうむと唸ってしまった。
(なんという胆力……。俺みたいなデブが目の前で不審な動きしてたら、普通はのけぞったり逃げたりするもんだが……)
少しでも何か反応してくれれば見えるかもしれないのに、困った。まさかこっちからフードをめくる訳にもいかないし……。
そのままじっと視線を向けても彼女はやはり動じなかったが、天が俺のその気持ちを汲んでくれたのか、ちょうど先頭の馬が早駆けになり、荷台の上に強い風が走った。
「む」
煽られて彼女のフードが激しく揺れるが、それでも彼女はくぐもった声を漏らすだけで、頭には手を伸ばさなかった。
フードはそのまま勢いよく、俺の目の前でめくれ上がった。
「……え」
数々のアイドルを見てきた俺からすると、見る前から彼女が逸材であることは分かりきっていた。
しかしそうして実際に蓋を開けてみたら、俺は意表を突かれて目を見張ってしまった。
「……さやちゃん?」
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