これで何人目だろうか。大好きだった推しが電撃引退したのは。
「うわああああああああああぁぁぁあああ!!」
俺は我慢できず、子供のように床の上を転がり周ってだだをこねた。
「いやだ! いやだあああああああああああああ!!」
俺の巨体が、狭い部屋をブルドーザーのようにどっすんばったんとかき回していく。雑誌やゲームソフトの束がドミノのように倒れていくが、止められない。
「嘘じゃん! 学業に専念とか嘘じゃん! 彼氏出来ただけじゃああああああああああああん!!」
アキバで売り出し中だった地下アイドル、俺の大好きだった来見咲ちゃん。一時期は完全芸能界デビューなんて噂もあったのに、彼女は手のひらを返すかのように突然引退した。
彼女は引退の理由を学業に専念するためと言ったが、俺が調べたところによると、それは真っ赤な嘘だ。
彼女の使っていたSNSには、表向きはいたって普通の書き込みしかない。しかし彼女には今時の若者のご多分に漏れず、裏アカというものがあった。
その裏アカには、彼氏と思われる男との赤裸々なやりとりが記録されていた。今日は彼とどこどこへ行って遊んだ、だとか、今日はこのホテルに泊まる!(ラブ的な方)だとか。もう本当に、見たくない部分の全てがそこにはあった。
数々の人脈や技術を駆使してその情報にたどり着いた俺は、だから彼女の引退に憤慨していた。
おかしいと思ったのだ。学業のがの字もなかったはずの彼女が、急にそんなことを言い出すだなんて。
「金返せ! 俺の金返せよおおおおおおお!!」
彼女に使ったうん十万もの金は、もう戻ってこない。残ったのは、彼女と抽選で握手出来るという券を得るために買いまくった、この大量のCDだけ……。
あの時は得意になってそのCDに埋もれる画像をSNSにアップしたものだが、今となってはそれも黒歴史だ。マジで今すぐ記憶から消えてもらいたい。
って言うかあれがネット上にずっと残るとかもう死にたい。一応顔は隠したけど、見る人が見れば体型とかで丸分かりだし……。
「はあ、はあ……」
と、少し現実的なことを考えていたらちょっとだけ冷静になってきた。重い体をゆっくりと立ち上げ、俺は周りを見渡した。
あーあ。毎回のことだけど、また派手にやっちまったなあ。誰が片付けると思ってるんだよこれ。全くしょうもねえ。
とか思いながらも、散々当たり散らして溜飲を下げた俺は、またいつものように黙って部屋を片付け始めた。
ま、俺くらいのドルオタともなると切り替えも早い。こんなのはもう慣れっこなのだ。アイドルは他にもたくさんいる。次だ。次に行けばいいのだ。
そうして一人頷き、しばらく黙々と片付けを行っていると。
六畳半のワンルームの部屋に、ふいに玄関のチャイムが鳴り響いた。
「うん?」
宅急便でも来たか。今日って何か頼んでたっけか。アメゾンで頼んでおいた抱きまくらか? それとも予約してたフルプライスのエロゲかな? だとしたら今日は頑張っちゃうぞ! デュフフゥ……。
おざなりに返事をして玄関のドアを開けると、しかしそこには俺の予想に反し、一人の少女が立っていた。
年は16、7歳くらい。オーソドックスなセーラー服の上に、濃紺のセーターを着込んでいる。スカートの丈は長過ぎず、短過ぎずと、男からしたらもっとも足が綺麗に見えるバランスを保っていて好感度が高い。
ソックスもセーターと同じく濃紺であり、ギャルっぽさは皆無。しかし地味という訳では全くなく、上等そうなカシミヤのセーター、磨き抜かれてピカピカなローファーなどなど、個々のパーツがマニアの着せ替え人形のように洗練されていて、思わず心の中で唸らされてしまった。
真っ直ぐ筋の通った小ぶりの鼻、大きな目にたっぷりとしたまつ毛。頬から顎にかけてのラインは女の子らしく丸みを帯び、思わず指を滑らせてみたくなるくらいの綺麗な曲線を描いていて……。
しかし惜しむらくは、その綺麗な瞳が俺を蔑むように見ることである。
その突然の来訪に何も言えずにいると、彼女はふんと鼻を鳴らし、ますます蔑みの視線を俺に浴びせた。
「何じろじろ見てんのよ。きも」
体を隠すように腕を組みながら横を向くと、彼女は汚いものでも見るかのような目で俺に言った。
「相変わらずのようねクソ兄貴。あれから全く何も変わってない」
ずしゃ、とモルタルの廊下に機嫌悪そうにローファーを走らせながら、彼女は――我が妹の織部さやは、今度ははっきりと俺をにらんだ。
その鋭い視線にたじろぎながらも、俺は何とか声を絞り出してそれに答えた。
「や、やあ妹者よ。急に俺の所に来るなんて珍しいじゃないか。まさかとは思うけど、何か身内に不幸でもあったのかい?」
それくらいしか、この見目麗しい妹がこんなところに来る理由がない。
そう思ったが、しかし妹は吐き捨てるように言った。
「そんな訳ないでしょ。その時は逆にあんたには伝えない。あんたと一緒に親戚達の前に立つとかありえないから」
その容赦のないドSぶりが懐かしかった。実家にいた時はよくこんなふうにして罵られたものだが、ちょっと久しぶり過ぎたせいで、昔はできたはずの愛想笑いがとっさに出なかった。出たのは彼女が特に嫌っていた、にちゃっとした苦笑い……。
すまん妹者よ、これは急に女の子と対峙してしまった時のオタクの悲しい性なんじゃよ。許しておくれ……。
しかし俺がまだ学生だった時は、いつもひよこみたいに後ろを着いて来て可愛かったんだけどなあ。ちょっと会わないうちに手足が伸びて迫力が出たせいか、さらにドSぶりが増しているような気がする。
まあ妹が俺に対してこういうふうになってしまったのは、元々自分のせいだ。だから仕方がないと言えば仕方がないんだけども……。
と、何をどう返せば彼女の機嫌がよくなるのかを考えていると、彼女はこうしている時間も惜しいのか、俺の返答を待たずに本題に入った。
「お母さんからあんたに伝言」
「え、母さんから? はい」
「来月から仕送りはなし。頑張って一人で生きるように、だって」
「え!?」
ホワッツハプンドゥ。 パードゥン?
「え? 今何て……?」
ちょっと聞き捨てならないことを言われた気がした。何かさらっと死の宣告のようなものを受けたような気がする。
しかし我が最愛の妹は、めんどくさそうにやはり同じことを言った。
「だから、来月からあんたへの仕送りはなしになったって言ってんのよ。このクソ兄貴」
「はあああああああああああああああああ!?」
驚きのあまり、俺は妹への配慮も忘れて叫んでしまった。
「ちょっと、うるさい」
「いやいやいや! そんな急に言われても困るんだけど! 嘘でしょ!?」
「嘘な訳ないでしょ。何で嘘言うためにわざわざあんたのとこにまで来んのよ。あたしはそんなにバカじゃない」
「いやでも! 万が一ってことがあるじゃない! あ、ほら、そう言えば今日はエイプリルフールじゃん!」
「今日は11月30日。どこの日付を見ているのかしら。まったくかすりもしてないわね」
冷静に事実を突きつけてくる妹に、しかし俺はめげずに食い下がる。
「いやいや! 次元が歪曲したのであれば可能性は微粒子レベルではあるが存在する! そうだ! だからこんなことになっているんだ!」
「ちょっと、声でかい」
「もしそうならまずい! 俺は今すぐ母者のところへ行って次元を正さなければならない! そうしないと世界が大変なことになる! 可及的速やかにことを行わなければ!」
「おい」
「よし! そうと決まれば今すぐ行こうぞ! 着いて来い妹者よ! 我とともに次元の狭間をかいくぐり、魔王と化した母者をぐぎゃあああああああああ!!」
「うるさいっつってんだろこのキモオタがああああああああ!!」
現実逃避しながらわめく俺に、ついに妹の鋭いローキックが襲った。
狙ってやったのか、綺麗に弁慶の泣き所にそれが入る。俺は突然全身に走った痛みに耐えかねて叫び、玄関を転げ回った。
「ぐあああああいでえ! いでえよおおおおおお!!」
久しく味わっていなかった痛みに、額から脂汗が流れ出す。
最近90キロ程になってしまったせいだろうか。全身から汗が出汁のようににじみ出て来る。こいつはやばい。かつて味わったことのない痛みかもしれない。
「ぐあああああああぁぁぁぁ……あ?」
このままでは痛みによるショックで死ぬ。そう思って何とか痛みを散らそうと○ート様のように暴れ回っていると。
神は俺を見放さなかった。ふと視界の端に僥倖、福音来たれり。そのおかげで俺は、何とか命を現世に留めおくことに成功した。
「……?」
突然ぴたりと動きを止めた俺を見て、妹は不思議そうに俺を見下ろし、その視線を追った。
しかしまだ気付かれていないようだ。それなら、やることは一つだ。
「ふむ、いいぞ……とてもいい……」
俺は腕を組みながらうんうんと頷き、その福音を余すことなく享受した。
コットンの白。我が妹ながら、“分かって”いる。
俺は超ミニ制服のJKのパンチラを見ても、さほど興奮しない。見えてもいいという覚悟を背負ってしまったJKのパンチラなど、俺は見るに値しないと思う。
パンチラは本人の知性が感じられないとダメ。これは絶対だ。見れるんだったら何でもいいというやつもいるが、それは全くエロスというものを分かっていない。
その点我が妹のコレは素晴らしい。パンチラにおける知性というものを、この妹は見事に自らの身をもって体現してくれている。全くもって、素晴らしいと言う他ない。もしパンチラの教科書があればそこに載せてやりたいくらいだ。
コットンの白という普段使い感バリバリのセレクトは、一見油断しているかのように思える。だがちょっと待って欲しい。実はこのセレクトは、大変高度な論理的思考回路によってなされた可能性が極めて濃厚なのである。
下着選びにおいて重要なのは、素材と色だけではない。そのフォルムも重要な要素となる。
妹のこれはその素材と色だけを見れば、一見何の変哲もない油断パンツと言うべきものである。しかしこのフォルムを見て欲しい。いわゆる女性の冷えやすいお腹を守るための、もっさりとした機能的フォルムではない。おしゃれなJKらしく可愛らしいリボンが付いていて、なおかつシャープなデザインとなっているではないか。
このセレクトを見るに、きっと彼女はこういうふうに考えたのである。
『スカートは長すぎるとださいから、少し短めにしよう。下着が見えてしまう可能性があるけど、きっちりガードするようにすれば問題ない。でも万が一友達とかに見えてしまった場合、保温機能だけが高いださい下着だとからかわれるかも。一応ババくさ過ぎるのは避けておこう……』
と、おそらくこんな具合だ。彼女は下着を選ぶだけでも、恥じらいを起点にこんなにも色々なことを考えているのだ。
つまりパンチラにおける知性とは、本人の恥じらいによって発生するものと言うことが出来る訳だ。恥じらいなくして知性なし。知性なくしてエロスなし。俺はこの格言をもって、安易なエロに群がる昨今のパンチラ界に殴り込むことも辞さない所存である……。
うん。まあ何と言うか、やはり我が妹は出来る子だった。て言うかここまで長々と考えておいてアレだけど、これはパンチラじゃなくてパンモロですね。本来完全に似て非なるものなんだよなこれ。あっちゃーとほほいっけねー。
と、そうして俺が心の中で一人セルフツッコミをしていると、妹がようやく俺の視線の意味に気付き、その綺麗な白い顔をさっと紅くした。
お、いいですねその恥ずかしそうな表情。めちゃポイント高いですよデュフフゥ……。
やはりこの子は逸材だ。今一度彼女を説得するため、俺は静かに諭すような口調で妹に言った。
「妹者よ……。やはり君はアイドルになるべきだ。そのあざとい思考の香りがする下着選びは、もはや芸術的と言ってもいい。どうだろう、今からでも俺と一緒に……」
しかし俺は、その台詞を最後まで言うことができなかった。
「うるさい!」
「ぐうぉっほ!!」
無理だとは思っていた。しかし少なくともほめたつもりではあったのに、またしても妹の容赦のない一撃が俺を襲ったのである。
妹は赤い顔のまま、歯を食いしばるようにして俺の出っ張った腹を足で踏み倒した。
「きもいきもいきもい! ほんと! まじできもい! しね!!」
「ぐっ! ちょ! 妹者やめっ! ぐっふぅっ!」
一単語発声するごとに俺の腹を思いっきり踏む妹は、もはや半泣き状態であった。
やはりアイドルに誘ったのはまずかったか。それとも単に、パンツを見られたことによる憤慨なのか。
どちらにしても、このままでは俺は死ぬ。いくら俺が脂肪の塊であると言っても、これだけやられればダメージは通る。俺はただのデブなのであって、拳法殺しの○ート様のように物理攻撃無効の特殊体質ボディというわけではないのだ。
「妹者ごめん! もう何も言わないし、パンツも見ないから! ぐふぅ! だから許しごっほぅ!」
俺が必死になってそう懇願し、ローアングル解消のためにずりずりと壁に背を預けると、ようやく妹は恐怖のデブ殺しストンピングをやめてくれた。
その目は相変わらず涙がにじんでいたが、散々暴れたおかげか、幾分落ち着いたように見える。
ふう。危うく屠殺されるところだった。危ない危ない。
とは言え、いつまた蹴りが飛んでくるか分からない。俺は警戒しつつその場に立ち上がり、改めて謝罪をいれた。
「あの、ほんとごめんね。ジョークのつもりだったんだけど、よく考えたらもうさやちゃんも高校生だし、ちょっとやり過ぎだったね。ごめんごめん」
昔は本当にただ優しい子だったんだけどなあ。この頭への血の上下のしやすさは、やっぱり俺が悪影響与えちゃってたってことなのかもしれん。何と言うか、もろもろ含めて本当にすまぬ妹よ……。
そうして心の中でも謝罪の言葉を読み上げていると、彼女は一瞬だけ俺の顔を見た後、「もう、いい」と、何かを諦めるかのように大きく息を吐いた。
「用、済んだから帰る。あとはあんたの好きにして」
こんなところには長居できん。そう言わんばかりに早々に踵を返そうとする妹に、俺はしかし慌てて食い下がった。
「ちょ、ちょっと待った!」
俺のその声に、じろりとした視線だけを返す妹。
一瞬たじろぎそうになったが、ここで引いては俺の明日はない。俺は何とかそこで踏みとどまり、喉奥で引っ掛かる声を押し出すようにして言った。
「い、いやその……何でこんな急にこんな仕打ちをなさるのか、母上は一体何を考えておられるので……?」
「はあ? あんた何言ってんの?」
「え?」
つい気の抜けた返事を返してしまった俺に、妹は突きつけるように言った。
「お母さん、ずっと前からあんたに言ってたみたいじゃない。何急にハシゴ外されたみたいな言い方してんの」
「え。そう、だった?」
言われて俺は、自分の記憶にクローリングをかけてみた。たしか母者と最後に会話したのは、一番最近で1ヶ月程前の電話だ。
母者は割と定期的に俺に電話してきてくれるが、毎回特段変わった話はしない。ちゃんとごはん食べてる?に始まり、ちゃんとごはん食べるのよ、で終わる。内容なんてあってないようなもので、その目的は元気にやっているかを直接声を聞くことによって確認する、というようなものでしかなかった。
うん。やっぱり仕送りの停止などという、そんな俺の生き死にを確定するような重要な話をした覚えは俺には全くない。何かの間違いだろう。
「いや、妹者よ。やっぱり俺には何のことだか……」
と、そう否定しようとしたところで俺ははたと気付いた。
ここ最近の母者との会話をさらに反芻すると、何かそれらしいことを言っていたような気がしないでもない。
『――そうなのねえ。でもさやも高校に入って学費が必要になるっていうのもあるし、そろそろ仕送りなしで生活出来るようにならないとね……』
母者の電話は大半が世間話に終始していたが、たしかに言われてみれば、毎回こんなようなことを内容に滑り込ませる感じで言っていた気がする。
え? まさかこれなの? こんなん曖昧すぎて決定事項だなんて誰も思わないじゃん!
「思い出したみたいね」
俺の顔をうかがっていた妹がそう言ったが、それでも俺は認めなかった。
「いや、いやいやいや! あんなの分かる訳ないし! て言うかそもそも、何で母者はいつものように電話やメールじゃなくてさやをここによこしたん? 正直急に母者以外の人にそんなこと言われても、信憑性に欠けると言わざるを得ないんだけど!」
お、何か流れで出て来ただけだけど、これはうまく返せたのでは?
そう思ったが、しかし甘かった。
「それは、あんたのそれが原因でしょ」
「え?」
妹は顔色一つ変えず、それに淡々と答えた。
「お母さん言ってた。『タツキくんと直接連絡取っちゃうと、最後には言いくるめられてなし崩しになっちゃうから』って。あんたがさっきみたいにぐだぐだ訳分からないことまくし立てて話にならないから、仕方なくこういう措置を取ったってことでしょ。何が信憑性に欠ける、よ」
少し早口でそう言ってのけたかと思うと、最後に辛辣な一言。
「アイドルのおっかけだか何だか知らないけど、そんなの自分のお金の中で何とかしなさいよ。この穀潰し」
「へぽぉ!!」
最上級の罵りが、クリティカルな一撃となって俺を襲った。
返す刀はもはや必要ない。キモオタフリーター一人殺すには、この上段からの袈裟斬り一本で十分である。と言うかむしろオーバーキルですわこんなん……。
そうして俺が膝を折るのを見届けると、妹は今度こそはっきりとこちらに背を向け、言った。
「じゃあ私はこれで。せいぜい頑張って生きるのね」
俺はショックで顔を上げることが出来ず、つむじ辺りに妹の捨て台詞が降って来るのをただ黙って受けることしか出来なかった。
うう、普段JKの罵りとかご褒美だとか思ってたけど、これはちょっときつい。こんなのずっと受けてたら俺の頭はいつかカッパみたいに禿げ上がってしまう……。
「ねえ、どうしてそんなふうになっちゃったの? 昔はもっとさ……」
自分の頭皮の行く末を案じていると、ふいに少し悲しげな声が耳に響き、思わず俺は顔を上げた。
その声は薄暗い廊下に吸い込まれるようにして消えていく。そうして再び静寂に包まれた廊下に、ゆっくりと歩き出した妹のきびきびとした足音が響いた。
その背中が見えなくなると、やがてその音も世界から消え、俺はまたいつものように独りになった。
(さやちゃん……)
俺は力なく立ち上がり、廊下の手すりにもたれかかった。
何だかひどくダメージを受けてしまった。今あのめちゃくちゃに散らかった部屋に戻ったら、さらに打撃を受けて立ち直れなくなってしまうかもしれない。
そう思った俺は、そのまま部屋の鍵もかけずに外へと歩き出した。
行き先なんぞない。でもとにかくこうしないとダメだという気持ちに引っ張られ、足が勝手にどこかへと動いていく。
(はあ、これからどうしよう……)
希望のない現実に、俺は一人ため息をついた。
仕送りがなければ、俺は割とリアルに死ぬ。かろうじてやっていたコンビニのバイトも、馬の合わない同僚にレジ金のマイナスを俺のせいにされて居づらくなり、先週辞めてしまったばかりだ。
この世は理不尽でいっぱいだ。厄年は終わったはずだが、大好きなアイドルは突然引退するし、仕事はなくなるわ仕送りは止まるわで全くいいことがない。本気で自分の周りだけ次元的な何かが歪んでしまったんじゃないだろうかと思えてくる。
(……ん)
と、うなだれながらとぼとぼと歩いていて、俺はふと気付いた。
幽鬼のように力なく揺れる腕の先。右手には、未練がましくあの革手袋がはめられていた。
必死で集めた券のかいあって来見咲ちゃんと握手出来てから、間違って手を洗ってしまわないようにと常に身につけてきた相棒である。しかし彼女がああなり、俺がこうなってしまった今、これはむしろ忌むべきもの、呪いの装備となってしまったのではないだろうか……。
俺は思い至り、きょろきょろと周りをうかがった。
俺のここ最近の不幸は、こいつのせいかもしれない。ちょうどここは公園の近くだ。水道で手を洗い、口をすすいで禊をしよう。心機一転するための神聖な儀式を執り行うのだ。
思いつきにしてはいい考えだと思ったが、俺はそこで重大なミスを犯した。
道路を挟んで公園があるというところで、俺はふと好奇心に駆られ、先走ってその悪魔の右手を解放してしまったのだ。
「どれ、どんなもんに…………ってくっさ!!」
ほんの出来心だった。昔腕を骨折した時のギプスを外した時もかなりのものだったが、今回のこれはどんな臭いなんだろう。なんとはなしに、そう思ってしまった。
俺の最大の失敗は、見誤ったことだった。長き封印により、俺の右手は想像以上の悪魔の香りを放つ、リーサルウェポンと化していたのだ。
俺はそのあまりの臭気にのけぞり、その勢いでふらふらと数歩たたらを踏んだ。そしてそのまま、あろうことか車道へと出てしまった。
「ぐっ……まさかこれ程とは……」
時刻は午後6時頃。まだまだ車の往来のある時間である。
俺はそんな中、いつの間にやら車道の真ん中に立っていた。そしてそれに気付いた時には、もう全てが遅かった。
眩しい光と、甲高いブレーキ音。
突如として目の前に現れた大型車に、俺は轢かれる寸前だった。
「ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああ!?」
「うわああああああああああぁぁぁあああ!!」
俺は我慢できず、子供のように床の上を転がり周ってだだをこねた。
「いやだ! いやだあああああああああああああ!!」
俺の巨体が、狭い部屋をブルドーザーのようにどっすんばったんとかき回していく。雑誌やゲームソフトの束がドミノのように倒れていくが、止められない。
「嘘じゃん! 学業に専念とか嘘じゃん! 彼氏出来ただけじゃああああああああああああん!!」
アキバで売り出し中だった地下アイドル、俺の大好きだった来見咲ちゃん。一時期は完全芸能界デビューなんて噂もあったのに、彼女は手のひらを返すかのように突然引退した。
彼女は引退の理由を学業に専念するためと言ったが、俺が調べたところによると、それは真っ赤な嘘だ。
彼女の使っていたSNSには、表向きはいたって普通の書き込みしかない。しかし彼女には今時の若者のご多分に漏れず、裏アカというものがあった。
その裏アカには、彼氏と思われる男との赤裸々なやりとりが記録されていた。今日は彼とどこどこへ行って遊んだ、だとか、今日はこのホテルに泊まる!(ラブ的な方)だとか。もう本当に、見たくない部分の全てがそこにはあった。
数々の人脈や技術を駆使してその情報にたどり着いた俺は、だから彼女の引退に憤慨していた。
おかしいと思ったのだ。学業のがの字もなかったはずの彼女が、急にそんなことを言い出すだなんて。
「金返せ! 俺の金返せよおおおおおおお!!」
彼女に使ったうん十万もの金は、もう戻ってこない。残ったのは、彼女と抽選で握手出来るという券を得るために買いまくった、この大量のCDだけ……。
あの時は得意になってそのCDに埋もれる画像をSNSにアップしたものだが、今となってはそれも黒歴史だ。マジで今すぐ記憶から消えてもらいたい。
って言うかあれがネット上にずっと残るとかもう死にたい。一応顔は隠したけど、見る人が見れば体型とかで丸分かりだし……。
「はあ、はあ……」
と、少し現実的なことを考えていたらちょっとだけ冷静になってきた。重い体をゆっくりと立ち上げ、俺は周りを見渡した。
あーあ。毎回のことだけど、また派手にやっちまったなあ。誰が片付けると思ってるんだよこれ。全くしょうもねえ。
とか思いながらも、散々当たり散らして溜飲を下げた俺は、またいつものように黙って部屋を片付け始めた。
ま、俺くらいのドルオタともなると切り替えも早い。こんなのはもう慣れっこなのだ。アイドルは他にもたくさんいる。次だ。次に行けばいいのだ。
そうして一人頷き、しばらく黙々と片付けを行っていると。
六畳半のワンルームの部屋に、ふいに玄関のチャイムが鳴り響いた。
「うん?」
宅急便でも来たか。今日って何か頼んでたっけか。アメゾンで頼んでおいた抱きまくらか? それとも予約してたフルプライスのエロゲかな? だとしたら今日は頑張っちゃうぞ! デュフフゥ……。
おざなりに返事をして玄関のドアを開けると、しかしそこには俺の予想に反し、一人の少女が立っていた。
年は16、7歳くらい。オーソドックスなセーラー服の上に、濃紺のセーターを着込んでいる。スカートの丈は長過ぎず、短過ぎずと、男からしたらもっとも足が綺麗に見えるバランスを保っていて好感度が高い。
ソックスもセーターと同じく濃紺であり、ギャルっぽさは皆無。しかし地味という訳では全くなく、上等そうなカシミヤのセーター、磨き抜かれてピカピカなローファーなどなど、個々のパーツがマニアの着せ替え人形のように洗練されていて、思わず心の中で唸らされてしまった。
真っ直ぐ筋の通った小ぶりの鼻、大きな目にたっぷりとしたまつ毛。頬から顎にかけてのラインは女の子らしく丸みを帯び、思わず指を滑らせてみたくなるくらいの綺麗な曲線を描いていて……。
しかし惜しむらくは、その綺麗な瞳が俺を蔑むように見ることである。
その突然の来訪に何も言えずにいると、彼女はふんと鼻を鳴らし、ますます蔑みの視線を俺に浴びせた。
「何じろじろ見てんのよ。きも」
体を隠すように腕を組みながら横を向くと、彼女は汚いものでも見るかのような目で俺に言った。
「相変わらずのようねクソ兄貴。あれから全く何も変わってない」
ずしゃ、とモルタルの廊下に機嫌悪そうにローファーを走らせながら、彼女は――我が妹の織部さやは、今度ははっきりと俺をにらんだ。
その鋭い視線にたじろぎながらも、俺は何とか声を絞り出してそれに答えた。
「や、やあ妹者よ。急に俺の所に来るなんて珍しいじゃないか。まさかとは思うけど、何か身内に不幸でもあったのかい?」
それくらいしか、この見目麗しい妹がこんなところに来る理由がない。
そう思ったが、しかし妹は吐き捨てるように言った。
「そんな訳ないでしょ。その時は逆にあんたには伝えない。あんたと一緒に親戚達の前に立つとかありえないから」
その容赦のないドSぶりが懐かしかった。実家にいた時はよくこんなふうにして罵られたものだが、ちょっと久しぶり過ぎたせいで、昔はできたはずの愛想笑いがとっさに出なかった。出たのは彼女が特に嫌っていた、にちゃっとした苦笑い……。
すまん妹者よ、これは急に女の子と対峙してしまった時のオタクの悲しい性なんじゃよ。許しておくれ……。
しかし俺がまだ学生だった時は、いつもひよこみたいに後ろを着いて来て可愛かったんだけどなあ。ちょっと会わないうちに手足が伸びて迫力が出たせいか、さらにドSぶりが増しているような気がする。
まあ妹が俺に対してこういうふうになってしまったのは、元々自分のせいだ。だから仕方がないと言えば仕方がないんだけども……。
と、何をどう返せば彼女の機嫌がよくなるのかを考えていると、彼女はこうしている時間も惜しいのか、俺の返答を待たずに本題に入った。
「お母さんからあんたに伝言」
「え、母さんから? はい」
「来月から仕送りはなし。頑張って一人で生きるように、だって」
「え!?」
ホワッツハプンドゥ。 パードゥン?
「え? 今何て……?」
ちょっと聞き捨てならないことを言われた気がした。何かさらっと死の宣告のようなものを受けたような気がする。
しかし我が最愛の妹は、めんどくさそうにやはり同じことを言った。
「だから、来月からあんたへの仕送りはなしになったって言ってんのよ。このクソ兄貴」
「はあああああああああああああああああ!?」
驚きのあまり、俺は妹への配慮も忘れて叫んでしまった。
「ちょっと、うるさい」
「いやいやいや! そんな急に言われても困るんだけど! 嘘でしょ!?」
「嘘な訳ないでしょ。何で嘘言うためにわざわざあんたのとこにまで来んのよ。あたしはそんなにバカじゃない」
「いやでも! 万が一ってことがあるじゃない! あ、ほら、そう言えば今日はエイプリルフールじゃん!」
「今日は11月30日。どこの日付を見ているのかしら。まったくかすりもしてないわね」
冷静に事実を突きつけてくる妹に、しかし俺はめげずに食い下がる。
「いやいや! 次元が歪曲したのであれば可能性は微粒子レベルではあるが存在する! そうだ! だからこんなことになっているんだ!」
「ちょっと、声でかい」
「もしそうならまずい! 俺は今すぐ母者のところへ行って次元を正さなければならない! そうしないと世界が大変なことになる! 可及的速やかにことを行わなければ!」
「おい」
「よし! そうと決まれば今すぐ行こうぞ! 着いて来い妹者よ! 我とともに次元の狭間をかいくぐり、魔王と化した母者をぐぎゃあああああああああ!!」
「うるさいっつってんだろこのキモオタがああああああああ!!」
現実逃避しながらわめく俺に、ついに妹の鋭いローキックが襲った。
狙ってやったのか、綺麗に弁慶の泣き所にそれが入る。俺は突然全身に走った痛みに耐えかねて叫び、玄関を転げ回った。
「ぐあああああいでえ! いでえよおおおおおお!!」
久しく味わっていなかった痛みに、額から脂汗が流れ出す。
最近90キロ程になってしまったせいだろうか。全身から汗が出汁のようににじみ出て来る。こいつはやばい。かつて味わったことのない痛みかもしれない。
「ぐあああああああぁぁぁぁ……あ?」
このままでは痛みによるショックで死ぬ。そう思って何とか痛みを散らそうと○ート様のように暴れ回っていると。
神は俺を見放さなかった。ふと視界の端に僥倖、福音来たれり。そのおかげで俺は、何とか命を現世に留めおくことに成功した。
「……?」
突然ぴたりと動きを止めた俺を見て、妹は不思議そうに俺を見下ろし、その視線を追った。
しかしまだ気付かれていないようだ。それなら、やることは一つだ。
「ふむ、いいぞ……とてもいい……」
俺は腕を組みながらうんうんと頷き、その福音を余すことなく享受した。
コットンの白。我が妹ながら、“分かって”いる。
俺は超ミニ制服のJKのパンチラを見ても、さほど興奮しない。見えてもいいという覚悟を背負ってしまったJKのパンチラなど、俺は見るに値しないと思う。
パンチラは本人の知性が感じられないとダメ。これは絶対だ。見れるんだったら何でもいいというやつもいるが、それは全くエロスというものを分かっていない。
その点我が妹のコレは素晴らしい。パンチラにおける知性というものを、この妹は見事に自らの身をもって体現してくれている。全くもって、素晴らしいと言う他ない。もしパンチラの教科書があればそこに載せてやりたいくらいだ。
コットンの白という普段使い感バリバリのセレクトは、一見油断しているかのように思える。だがちょっと待って欲しい。実はこのセレクトは、大変高度な論理的思考回路によってなされた可能性が極めて濃厚なのである。
下着選びにおいて重要なのは、素材と色だけではない。そのフォルムも重要な要素となる。
妹のこれはその素材と色だけを見れば、一見何の変哲もない油断パンツと言うべきものである。しかしこのフォルムを見て欲しい。いわゆる女性の冷えやすいお腹を守るための、もっさりとした機能的フォルムではない。おしゃれなJKらしく可愛らしいリボンが付いていて、なおかつシャープなデザインとなっているではないか。
このセレクトを見るに、きっと彼女はこういうふうに考えたのである。
『スカートは長すぎるとださいから、少し短めにしよう。下着が見えてしまう可能性があるけど、きっちりガードするようにすれば問題ない。でも万が一友達とかに見えてしまった場合、保温機能だけが高いださい下着だとからかわれるかも。一応ババくさ過ぎるのは避けておこう……』
と、おそらくこんな具合だ。彼女は下着を選ぶだけでも、恥じらいを起点にこんなにも色々なことを考えているのだ。
つまりパンチラにおける知性とは、本人の恥じらいによって発生するものと言うことが出来る訳だ。恥じらいなくして知性なし。知性なくしてエロスなし。俺はこの格言をもって、安易なエロに群がる昨今のパンチラ界に殴り込むことも辞さない所存である……。
うん。まあ何と言うか、やはり我が妹は出来る子だった。て言うかここまで長々と考えておいてアレだけど、これはパンチラじゃなくてパンモロですね。本来完全に似て非なるものなんだよなこれ。あっちゃーとほほいっけねー。
と、そうして俺が心の中で一人セルフツッコミをしていると、妹がようやく俺の視線の意味に気付き、その綺麗な白い顔をさっと紅くした。
お、いいですねその恥ずかしそうな表情。めちゃポイント高いですよデュフフゥ……。
やはりこの子は逸材だ。今一度彼女を説得するため、俺は静かに諭すような口調で妹に言った。
「妹者よ……。やはり君はアイドルになるべきだ。そのあざとい思考の香りがする下着選びは、もはや芸術的と言ってもいい。どうだろう、今からでも俺と一緒に……」
しかし俺は、その台詞を最後まで言うことができなかった。
「うるさい!」
「ぐうぉっほ!!」
無理だとは思っていた。しかし少なくともほめたつもりではあったのに、またしても妹の容赦のない一撃が俺を襲ったのである。
妹は赤い顔のまま、歯を食いしばるようにして俺の出っ張った腹を足で踏み倒した。
「きもいきもいきもい! ほんと! まじできもい! しね!!」
「ぐっ! ちょ! 妹者やめっ! ぐっふぅっ!」
一単語発声するごとに俺の腹を思いっきり踏む妹は、もはや半泣き状態であった。
やはりアイドルに誘ったのはまずかったか。それとも単に、パンツを見られたことによる憤慨なのか。
どちらにしても、このままでは俺は死ぬ。いくら俺が脂肪の塊であると言っても、これだけやられればダメージは通る。俺はただのデブなのであって、拳法殺しの○ート様のように物理攻撃無効の特殊体質ボディというわけではないのだ。
「妹者ごめん! もう何も言わないし、パンツも見ないから! ぐふぅ! だから許しごっほぅ!」
俺が必死になってそう懇願し、ローアングル解消のためにずりずりと壁に背を預けると、ようやく妹は恐怖のデブ殺しストンピングをやめてくれた。
その目は相変わらず涙がにじんでいたが、散々暴れたおかげか、幾分落ち着いたように見える。
ふう。危うく屠殺されるところだった。危ない危ない。
とは言え、いつまた蹴りが飛んでくるか分からない。俺は警戒しつつその場に立ち上がり、改めて謝罪をいれた。
「あの、ほんとごめんね。ジョークのつもりだったんだけど、よく考えたらもうさやちゃんも高校生だし、ちょっとやり過ぎだったね。ごめんごめん」
昔は本当にただ優しい子だったんだけどなあ。この頭への血の上下のしやすさは、やっぱり俺が悪影響与えちゃってたってことなのかもしれん。何と言うか、もろもろ含めて本当にすまぬ妹よ……。
そうして心の中でも謝罪の言葉を読み上げていると、彼女は一瞬だけ俺の顔を見た後、「もう、いい」と、何かを諦めるかのように大きく息を吐いた。
「用、済んだから帰る。あとはあんたの好きにして」
こんなところには長居できん。そう言わんばかりに早々に踵を返そうとする妹に、俺はしかし慌てて食い下がった。
「ちょ、ちょっと待った!」
俺のその声に、じろりとした視線だけを返す妹。
一瞬たじろぎそうになったが、ここで引いては俺の明日はない。俺は何とかそこで踏みとどまり、喉奥で引っ掛かる声を押し出すようにして言った。
「い、いやその……何でこんな急にこんな仕打ちをなさるのか、母上は一体何を考えておられるので……?」
「はあ? あんた何言ってんの?」
「え?」
つい気の抜けた返事を返してしまった俺に、妹は突きつけるように言った。
「お母さん、ずっと前からあんたに言ってたみたいじゃない。何急にハシゴ外されたみたいな言い方してんの」
「え。そう、だった?」
言われて俺は、自分の記憶にクローリングをかけてみた。たしか母者と最後に会話したのは、一番最近で1ヶ月程前の電話だ。
母者は割と定期的に俺に電話してきてくれるが、毎回特段変わった話はしない。ちゃんとごはん食べてる?に始まり、ちゃんとごはん食べるのよ、で終わる。内容なんてあってないようなもので、その目的は元気にやっているかを直接声を聞くことによって確認する、というようなものでしかなかった。
うん。やっぱり仕送りの停止などという、そんな俺の生き死にを確定するような重要な話をした覚えは俺には全くない。何かの間違いだろう。
「いや、妹者よ。やっぱり俺には何のことだか……」
と、そう否定しようとしたところで俺ははたと気付いた。
ここ最近の母者との会話をさらに反芻すると、何かそれらしいことを言っていたような気がしないでもない。
『――そうなのねえ。でもさやも高校に入って学費が必要になるっていうのもあるし、そろそろ仕送りなしで生活出来るようにならないとね……』
母者の電話は大半が世間話に終始していたが、たしかに言われてみれば、毎回こんなようなことを内容に滑り込ませる感じで言っていた気がする。
え? まさかこれなの? こんなん曖昧すぎて決定事項だなんて誰も思わないじゃん!
「思い出したみたいね」
俺の顔をうかがっていた妹がそう言ったが、それでも俺は認めなかった。
「いや、いやいやいや! あんなの分かる訳ないし! て言うかそもそも、何で母者はいつものように電話やメールじゃなくてさやをここによこしたん? 正直急に母者以外の人にそんなこと言われても、信憑性に欠けると言わざるを得ないんだけど!」
お、何か流れで出て来ただけだけど、これはうまく返せたのでは?
そう思ったが、しかし甘かった。
「それは、あんたのそれが原因でしょ」
「え?」
妹は顔色一つ変えず、それに淡々と答えた。
「お母さん言ってた。『タツキくんと直接連絡取っちゃうと、最後には言いくるめられてなし崩しになっちゃうから』って。あんたがさっきみたいにぐだぐだ訳分からないことまくし立てて話にならないから、仕方なくこういう措置を取ったってことでしょ。何が信憑性に欠ける、よ」
少し早口でそう言ってのけたかと思うと、最後に辛辣な一言。
「アイドルのおっかけだか何だか知らないけど、そんなの自分のお金の中で何とかしなさいよ。この穀潰し」
「へぽぉ!!」
最上級の罵りが、クリティカルな一撃となって俺を襲った。
返す刀はもはや必要ない。キモオタフリーター一人殺すには、この上段からの袈裟斬り一本で十分である。と言うかむしろオーバーキルですわこんなん……。
そうして俺が膝を折るのを見届けると、妹は今度こそはっきりとこちらに背を向け、言った。
「じゃあ私はこれで。せいぜい頑張って生きるのね」
俺はショックで顔を上げることが出来ず、つむじ辺りに妹の捨て台詞が降って来るのをただ黙って受けることしか出来なかった。
うう、普段JKの罵りとかご褒美だとか思ってたけど、これはちょっときつい。こんなのずっと受けてたら俺の頭はいつかカッパみたいに禿げ上がってしまう……。
「ねえ、どうしてそんなふうになっちゃったの? 昔はもっとさ……」
自分の頭皮の行く末を案じていると、ふいに少し悲しげな声が耳に響き、思わず俺は顔を上げた。
その声は薄暗い廊下に吸い込まれるようにして消えていく。そうして再び静寂に包まれた廊下に、ゆっくりと歩き出した妹のきびきびとした足音が響いた。
その背中が見えなくなると、やがてその音も世界から消え、俺はまたいつものように独りになった。
(さやちゃん……)
俺は力なく立ち上がり、廊下の手すりにもたれかかった。
何だかひどくダメージを受けてしまった。今あのめちゃくちゃに散らかった部屋に戻ったら、さらに打撃を受けて立ち直れなくなってしまうかもしれない。
そう思った俺は、そのまま部屋の鍵もかけずに外へと歩き出した。
行き先なんぞない。でもとにかくこうしないとダメだという気持ちに引っ張られ、足が勝手にどこかへと動いていく。
(はあ、これからどうしよう……)
希望のない現実に、俺は一人ため息をついた。
仕送りがなければ、俺は割とリアルに死ぬ。かろうじてやっていたコンビニのバイトも、馬の合わない同僚にレジ金のマイナスを俺のせいにされて居づらくなり、先週辞めてしまったばかりだ。
この世は理不尽でいっぱいだ。厄年は終わったはずだが、大好きなアイドルは突然引退するし、仕事はなくなるわ仕送りは止まるわで全くいいことがない。本気で自分の周りだけ次元的な何かが歪んでしまったんじゃないだろうかと思えてくる。
(……ん)
と、うなだれながらとぼとぼと歩いていて、俺はふと気付いた。
幽鬼のように力なく揺れる腕の先。右手には、未練がましくあの革手袋がはめられていた。
必死で集めた券のかいあって来見咲ちゃんと握手出来てから、間違って手を洗ってしまわないようにと常に身につけてきた相棒である。しかし彼女がああなり、俺がこうなってしまった今、これはむしろ忌むべきもの、呪いの装備となってしまったのではないだろうか……。
俺は思い至り、きょろきょろと周りをうかがった。
俺のここ最近の不幸は、こいつのせいかもしれない。ちょうどここは公園の近くだ。水道で手を洗い、口をすすいで禊をしよう。心機一転するための神聖な儀式を執り行うのだ。
思いつきにしてはいい考えだと思ったが、俺はそこで重大なミスを犯した。
道路を挟んで公園があるというところで、俺はふと好奇心に駆られ、先走ってその悪魔の右手を解放してしまったのだ。
「どれ、どんなもんに…………ってくっさ!!」
ほんの出来心だった。昔腕を骨折した時のギプスを外した時もかなりのものだったが、今回のこれはどんな臭いなんだろう。なんとはなしに、そう思ってしまった。
俺の最大の失敗は、見誤ったことだった。長き封印により、俺の右手は想像以上の悪魔の香りを放つ、リーサルウェポンと化していたのだ。
俺はそのあまりの臭気にのけぞり、その勢いでふらふらと数歩たたらを踏んだ。そしてそのまま、あろうことか車道へと出てしまった。
「ぐっ……まさかこれ程とは……」
時刻は午後6時頃。まだまだ車の往来のある時間である。
俺はそんな中、いつの間にやら車道の真ん中に立っていた。そしてそれに気付いた時には、もう全てが遅かった。
眩しい光と、甲高いブレーキ音。
突如として目の前に現れた大型車に、俺は轢かれる寸前だった。
「ぎゃ、ぎゃあああああああああああああああああ!?」
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