時間にしてほんの数分しか経っていないはずだったが、すでにそこは様変わりし始めていた。
先程までいた多くの人間はどこかへとはけて、リビングには必要最小限の人員が残るだけとなっている。人の往来もほぼ無くなった所を見ると、検視がある程度終わったのだと思われる。やはり急いで来て正解だった。
リビングに残っていたのは、先程のよれよれ刑事と、若い刑事の二人だった。二人は部屋の片隅で何かをしきりに話しており、こちらに気付いていないようだった。
隣の彼がいれば、特に彼らに断ることも無いだろう。早速僕は手袋を取り出し、彼に言った。
「では、失礼します」
一応彼が頷くのを待ってから、まずは彼の言っていたことが本当か確かめるため、被害者の手を確認しようと、僕はその部分のシートを開いた。
捲った先から凄惨なものが目に飛び込んでくる……というようなことは全然無く、そこには特に目立った外傷も無い、綺麗な青白い腕があった。確かに彼の言う通り、その腕は一般的な太さで、特に鍛えあげられているという印象は受けなかった。
大したことはなさそうだ。そう思ったが、視線を滑らせて手まで来ると、その様子が一変する。
その腕の綺麗さも相まって、そこは否が応でも目に留まる。特に手の甲側の裂傷はひどかった。固まった血のせいか、全体が赤黒く変色してしまっているのだ。見ているだけで痛みが伝わってくるかのようで、思わず僕は、顔をしかめた。
そうして実際に確認してみたが、やはり全てが彼の言う通りだった。これは確かに、拳で何かを殴った結果である可能性が高い。よく見るとガラスのようなキラキラしたものも付着していて、なるほど、彼がああいう推理を一つの可能性として言及してしまうのも、無理からぬことだと思った。
「一応全体も見ておくかい?」
「ええ、お願いします」
彼が、“彼”に掛かっていたシートをゆっくりと取り去っていくのに合わせ、僕は目を閉じて、手を合わせた。
たっぷりと数秒程そうしてからゆっくり眼を開くと、すぐに“彼”の強張った死に顔が、目に入ってきた。
「……手以外は、綺麗なものですね」
「そうだね」
年の頃は35、6。仕事あがりだったのか、彼はワイシャツ姿のままで、そこに横たわっていた。
苦悶の表情とまではいかない。でも安らかな死に顔とも、また言えなかった。硬直前に誰かにそうされたのか目は閉じられていたが、微妙にしかめられた眉が、やはり少し苦しそうに見えた。
彼は今日、死ぬ気だったのだろうか。それとも全然そんな気なんか無くて、明日の仕事のことを考えていたり、休日に思いを馳せていたりなんかしたのだろうか。すでにモノを言えなくなってしまった彼には、もうどうしたって聞くことは出来ない。
と、ふいにフラッシュバック。
まだ幼い女の子を、自分の力の足り無さのせいで死の淵まで追いやってしまったことがあった。あの時の彼女の苦悶の表情が、彼のそれと重なった。
時間の経った今でも、思い出すと身が震える。結果的に助かったからいいものの、一歩間違えれば彼女も、この彼と同様物言わぬ骸になってしまっていただろう。あんなに可愛いらしくて、頑張って生きている子が、恋人の一つも作る前にその生涯を終えてしまう。そんなことにならなくて、本当に本当に良かったと心から思う。
大事な人が急に目の前からいなくなる。それがどんなに痛いことなのか、当時の僕は分かっていたつもりで、全く分かっていなかった。それは内臓を直接火で炙られるかのような、想像を絶する痛みを伴うもの。すまし顔でやり過ごすことなんか、到底出来ないものなのだ。
そしてその、地獄の業火に焼かれた後は何も残らない。自分の中身が全て失くなってしまったかのような、圧倒的な空虚が襲ってくる。そのくせどこから湧いてきたのか、涙はどんどん湧いてくる。
他人のはずの自分でさえ、ああなったのだ。もしそれが身内となったら、もうどうなるか想像がつかない。止めどなく溢れ出る涙に堪えきれずに、自分なら心が壊れてしまうかもしれない。
涙を流し続け、溢れさせていれば大丈夫というものでもないはずなのだ。どこかに必ず、ひずみは生じてくる。膨れ上がった水風船に構わず水を注ぎ続けたら、いつかは割れてしまうのだ。どんなものにも、限界はどうしたってあるのだから。
目の前の彼にも、きっとそうして心を痛めている家族がいるのだった。親はもちろん、友達や仲間もきっといる。ただの独りで生きている人間なんか、世界中探してもそうはいない。誰もが皆何らかのコミュニティをもち、その中心に立っているのだ。
「ん……っ!?」
と、考えを巡らせながら彼を見ていて、僕は自分にびっくりさせられた。
鳩尾の辺りから、すごい勢いでこみ上げてくるものがあった。
突然のそれに僕は慌てて口を抑え、踵を返した。
「ちょっと、失礼します!」
どうした?という顔をした尾上氏が目の端に入ったが、僕はそれ以上何も言うことが出来ずに、足早にその現場を後にするしかなかった。
現場のものは、さすがに使えない。
(はやく……)
廊下に出ると、僕は辺りを見回し、その気持ち悪さに堪えながら歩を進めた。
こういった高級マンションには、居住者同士で歓談するためのラウンジが用意されている。このマンションにも例外なくそれはあるので、そうすると、必然的にあってもおかしくないものがある。
僕は息も絶え絶えになりながらもなんとかそれを見つけ、そこに駆け込んだ。
「……うっ!」
もう大丈夫、と思ったら一瞬だった。僕は共同トイレの個室に転がり込むと、そこで今日食べたものを全部戻してしまった。文字通り、本当に全部だ。
「ぐっ……はあ、はあ……ごほっ」
胃液が喉を焼いたせいで咳き込み、その咳のせいでまた喉を痛める。胃がせり上がってくるかのような不快感もあり、僕はしばらくそこを動けなかった。ぐるぐると腹が鳴り続け、体の中をミキサーにでもかけられているみたいだった。
一体どうして、急にこんなことになってしまったのか。
出すものは出したせいか、頭だけはすっきりとしていた。少し考えれば、その理由には簡単に辿りつけた。
命というものに、正面から向き合ったせいなのだ。どんな人間にも、家族がいて、友人がいて、仲間がいて。そんな風に被害者の背景を思った瞬間、急にその青白い顔が生々しく見えて、僕はこうなってしまったのだ。
今まで自分はこういった事件と関わる時に、特に身構えたり深く考えたりしてこなかった。亡くなった人を見る時もそうだった。そこに横たわっている人をほとんど人形か何かと同様に見ていて、その人の背景などには、全く関心を示してこなかった。
だからずっと、平気でいられた。人一人がいなくなるということは、本当は途方もなく寂しくて、悲しいことだというのに。
「ふ……」
僕は、弱くなってしまったのだろうか。実は探偵としての資質が、大きく欠けているのだろうか。
感情に引っ張られるより、ただ冷静に、客観的に事実を事実として見つめていく。僕が目指してきた推理小説に出てくるような探偵は、そんな人物達ではなかったか。
「ふふ……」
僕はよろよろと立ち上がりながら、しかし笑みをこぼしてしまった。不謹慎だとは思いつつも、こみ上げてくる高揚感にうまく抗うことが出来なかったのだ。
なぜこんな簡単なことに気付けなかったのかと、今更ながらに僕は思っていた。
たぶん彼らは、違うのだ。彼らは確かに冷静沈着そのものだが、心の中は全く穏やかではないはずなのだ。
彼らも、故人の姿に胸を痛める。悲しむ。時には加害者にだって、同情することもある。そういう人間でなければ、人の気持ちを理解して、人間の思考をトレースするなんてことが出来る訳がない。つまり探偵にとって大事なことは、一切の熱を排除した機械的な感情を持つことではないのだ。何よりもまず、“人”であらなければならないのだ。
この道を歩いて行くのはきっと辛い。大きな十字架を背負いながら、頂上の見えない山道を延々と歩いて行くようなものだ。今回のことでそれがよく分かったが、それと同時に、僕は嬉しかった。
自分はようやく、スタート地点に立てた。“探偵白鐘直斗”は、今ここから始まる。そんな気がしたのだ。
水道で手を洗い、軽くうがいをしてからふと顔を上げる。するとそこには、綺麗に磨かれた鏡に映る、いつもの自分の顔があった。
少し休んだおかげか、顔色は悪くなかった。青ざめた顔で戻る訳にはいかないが、これならもう大丈夫だろう。
頬をパチンと叩いてから、そこを出た。そう長い時間現場を離れる訳にはいかない。
そうして現場に戻ろうと、早足で廊下を通ってラウンジの前を通り過ぎようとした時だった。
突然僕は、どこかから声をかけられた。
「大丈夫かね?」
見ると、いつの間にやらラウンジの一人がけのソファに、尾上氏が座っているのだった。
どう言って戻ろうかと考えていた所だったので少し驚いたが、とりあえず僕は、それに大丈夫だと答えた。彼は、僕がどんな状態になってしまったのかに、とっくに気付いていたのだ。
「やはり、女性には刺激が強すぎるのかな」
しかも彼がこんなことを言い出すものだから、僕は数瞬、絶句してしまった。
「……女性?」
我ながらとぼけるのが下手だなと思う。急に周りの酸素が薄くなったような気がして、なんとか声を絞り出して彼に訊き返すくらいしか、僕には出来なかった。
「おや、間違ったかね?君は女性だろう?」
向かいのソファに座るように促されたので、僕は仕方なく、そこに腰を下ろした。
「……なぜ」
「なぜ女性だと思ったか?」
かぶせるように言う彼に、思わず僕は怪訝な顔を向けてしまったが、彼は構わず続けた。
「それはね、白鐘君。君は細すぎるんだ。探偵という仕事をしているにしては、ね」
「細すぎる?」
馬鹿にされたような気がして、今度は敵意に満ちた目でじろりと彼を見てしまったが、それでも彼は全く動じずに、ひょいと肩を上げて言った。
「そうさ。探偵なんて仕事を生業にしていると、普通は不安になるものだよ。危険と隣合わせでいるうちに、自分を鍛えておかなければ気がすまなくなっていくんだ。私のように警察くずれの探偵で、元々鍛えている方でも、そうしなくては落ち着かない。とんでもない胆力を持った豪の者であれば別だが、私はそんな人間を今まで見たことがない。なのに、君は細い。本当に細すぎると言っていい。加えて、そんな圧倒的胆力を持った豪傑にも見えない。とすれば、自ずと答えは見えてくる」
彼は最後に、どうかね?と言ってこちらを見たが、僕はそれに簡単に頷くことは出来なかった。
彼になら不当に扱われることはないだろうし、別に女であることを認めてしまうこと自体はもう構わない。でもその推理をすぐに認めてしまうのは、何だか負けた気がして嫌だった。いささか乱暴な推理に思えなくもなかったのだ。
しかし僕は、自分以外の現実の探偵をしっかりと見たことがないので、それに対しての反論を持ち合わせていないのだった。実は探偵とはそういうものなのかもしれないと思う他ない。物語に出てくる探偵達も、何かしら武道の心得がある者が多かった。あれはそういうことだったのだろうかと、想像することくらいしか出来ない。
もうほとんど負け戦のようなものだったが、それでも僕は、思考を止めなかった。なんとか彼に一矢報いたいその一心で、考え続けた。
結果、こちらも暴論といえば暴論だが、何とか反論の糸口になるようなものは見つけられた。
彼の座っている位置。その位置だ。
彼が座っているソファからは、共同トイレの入り口がかろうじて見えるはずだった。少なくともどちらから出てきたかくらいは、なんとか分かるだろう。僕はさっき慌てていて、そこまで頭が回らなかったせいで、“本当の性別”の方に入ってしまっていたのだ。彼はそこから出てくる僕をちゃっかり見ていて、何食わぬ顔で僕に声をかけた。先程の推理は、この事実を確認してからの後付け。そういう可能性だって、ゼロじゃないのだ。
そうして僕が反論しようとして、顔を上げた時だった。
気付くと彼は、腹部を両手で抑えながらうずくまっていた。何やら小刻みに震えて、必死に何かに耐えている。
「くっく……っ」
彼はまた、なぜか笑っていた。よほど面白いことでもあったのか、僕を試した時とは違って、今度はもうはっきりと笑ってしまっている。
「……何を笑っているんです」
僕が思い切り棘を含んだ声でそう言っても、彼はそれには全く取り合わず、笑い続けた。僕は訳が分からず、黙るしかなかった。
最初は寡黙な人のようなイメージを受けたが、これ程容赦なく笑われると、その認識を改めざるを得ない。実はかなりおおらかな性格の人なのかもしれないと、僕は思い直した。
と言うかその前に、だ。人の顔を見てこんなに笑うなんて、いくら年上の人だと言っても失礼なんじゃないだろうか。僕はそんなに笑われるようなことはしていないはずだし、そんなに面白い顔でもないはずだ。
そうして冷ややかな視線を送り続けていると、彼はようやくその笑いを収め始め、
「やあ、すまないすまない。君があんまり可愛いものだから、つい」
と、頭を掻きながら僕に謝った。
「君が一生懸命考えているのが可愛くてね。つい昔を思い出してしまった」
ふるふると頭を振ってソファに居直る彼に対して、僕の頭の上には、大きなクエスチョンマークが浮かんでしまっていた。
文脈に合わない単語がぽろぽろと出て来て困惑する。また僕は、彼にテストでもされているのだろうか。
「まだ分からないのかね?」
そう言われても返す言葉が見つからない僕に、彼は少しだけショックを受けたような顔を見せた。何やらまた腹部をさすり、そんなに太った訳でも無いんだが、と深く溜息をつく。
「……お祖父さんは元気かい?」
「え?」
急に身内の心配をされて、僕は目を丸くしてしまった。
「あと、薬師寺君も。若手だった彼も、今じゃもういい年だろう」
頭の中のクエスチョンマークがどんどん大きくなっていく。
何だ?彼は何を言っている?
なぜ自分の身内のことを知っているのだろうか。僕のことも、元々知っているかのような口ぶりだ。
それでも分からなくてじっと見つめていたら、やれやれとばかりに呆れる彼から、思いもよらない言葉が出てきた。
その瞬間、僕は鮮明なセピア色の景色に包まれた。
答えは、もうずっと僕の目の前にあったのだ。
「まだ君は、高い所が好きなのかな」彼は感慨深そうに目を瞑り、耳の奥にまで響く、とても優しい声色で言った。「下りられなくなるからやめなさいと言っても、君は私の目を盗んでは木に登って遊んでいたけど、まさか今もじゃないだろうね?」
驚きのあまり、まだ焼かれたままの喉が引っかかった。
「まさか……」
どうして気付かなかったのか。思わず指まで差してしまいそうになって、慌てて引っ込めた。
「ユージ……おじさん?」
眩しそうに細められた、優し気な光の灯るその瞳と、そうして不敵に笑う口元とに。
僕は見覚えがあった。蓄えられたひげは増え、直線ばかりだった体つきは少し丸くなり、目元の皺は増えていたけれど。よくよく見てみるとその姿は、何度も何度も見たことがある、懐かしい彼のそれなのだった。
どうして一見で、こうも彼に憧れを抱いたのか。その理由が、今分かった。
そうして声が掠れてしまう程驚いている僕に、彼はまたひげの奥でニヤリと笑い、言ったのだった。
「やっと気付いたか。このおてんば娘め」
先程までいた多くの人間はどこかへとはけて、リビングには必要最小限の人員が残るだけとなっている。人の往来もほぼ無くなった所を見ると、検視がある程度終わったのだと思われる。やはり急いで来て正解だった。
リビングに残っていたのは、先程のよれよれ刑事と、若い刑事の二人だった。二人は部屋の片隅で何かをしきりに話しており、こちらに気付いていないようだった。
隣の彼がいれば、特に彼らに断ることも無いだろう。早速僕は手袋を取り出し、彼に言った。
「では、失礼します」
一応彼が頷くのを待ってから、まずは彼の言っていたことが本当か確かめるため、被害者の手を確認しようと、僕はその部分のシートを開いた。
捲った先から凄惨なものが目に飛び込んでくる……というようなことは全然無く、そこには特に目立った外傷も無い、綺麗な青白い腕があった。確かに彼の言う通り、その腕は一般的な太さで、特に鍛えあげられているという印象は受けなかった。
大したことはなさそうだ。そう思ったが、視線を滑らせて手まで来ると、その様子が一変する。
その腕の綺麗さも相まって、そこは否が応でも目に留まる。特に手の甲側の裂傷はひどかった。固まった血のせいか、全体が赤黒く変色してしまっているのだ。見ているだけで痛みが伝わってくるかのようで、思わず僕は、顔をしかめた。
そうして実際に確認してみたが、やはり全てが彼の言う通りだった。これは確かに、拳で何かを殴った結果である可能性が高い。よく見るとガラスのようなキラキラしたものも付着していて、なるほど、彼がああいう推理を一つの可能性として言及してしまうのも、無理からぬことだと思った。
「一応全体も見ておくかい?」
「ええ、お願いします」
彼が、“彼”に掛かっていたシートをゆっくりと取り去っていくのに合わせ、僕は目を閉じて、手を合わせた。
たっぷりと数秒程そうしてからゆっくり眼を開くと、すぐに“彼”の強張った死に顔が、目に入ってきた。
「……手以外は、綺麗なものですね」
「そうだね」
年の頃は35、6。仕事あがりだったのか、彼はワイシャツ姿のままで、そこに横たわっていた。
苦悶の表情とまではいかない。でも安らかな死に顔とも、また言えなかった。硬直前に誰かにそうされたのか目は閉じられていたが、微妙にしかめられた眉が、やはり少し苦しそうに見えた。
彼は今日、死ぬ気だったのだろうか。それとも全然そんな気なんか無くて、明日の仕事のことを考えていたり、休日に思いを馳せていたりなんかしたのだろうか。すでにモノを言えなくなってしまった彼には、もうどうしたって聞くことは出来ない。
と、ふいにフラッシュバック。
まだ幼い女の子を、自分の力の足り無さのせいで死の淵まで追いやってしまったことがあった。あの時の彼女の苦悶の表情が、彼のそれと重なった。
時間の経った今でも、思い出すと身が震える。結果的に助かったからいいものの、一歩間違えれば彼女も、この彼と同様物言わぬ骸になってしまっていただろう。あんなに可愛いらしくて、頑張って生きている子が、恋人の一つも作る前にその生涯を終えてしまう。そんなことにならなくて、本当に本当に良かったと心から思う。
大事な人が急に目の前からいなくなる。それがどんなに痛いことなのか、当時の僕は分かっていたつもりで、全く分かっていなかった。それは内臓を直接火で炙られるかのような、想像を絶する痛みを伴うもの。すまし顔でやり過ごすことなんか、到底出来ないものなのだ。
そしてその、地獄の業火に焼かれた後は何も残らない。自分の中身が全て失くなってしまったかのような、圧倒的な空虚が襲ってくる。そのくせどこから湧いてきたのか、涙はどんどん湧いてくる。
他人のはずの自分でさえ、ああなったのだ。もしそれが身内となったら、もうどうなるか想像がつかない。止めどなく溢れ出る涙に堪えきれずに、自分なら心が壊れてしまうかもしれない。
涙を流し続け、溢れさせていれば大丈夫というものでもないはずなのだ。どこかに必ず、ひずみは生じてくる。膨れ上がった水風船に構わず水を注ぎ続けたら、いつかは割れてしまうのだ。どんなものにも、限界はどうしたってあるのだから。
目の前の彼にも、きっとそうして心を痛めている家族がいるのだった。親はもちろん、友達や仲間もきっといる。ただの独りで生きている人間なんか、世界中探してもそうはいない。誰もが皆何らかのコミュニティをもち、その中心に立っているのだ。
「ん……っ!?」
と、考えを巡らせながら彼を見ていて、僕は自分にびっくりさせられた。
鳩尾の辺りから、すごい勢いでこみ上げてくるものがあった。
突然のそれに僕は慌てて口を抑え、踵を返した。
「ちょっと、失礼します!」
どうした?という顔をした尾上氏が目の端に入ったが、僕はそれ以上何も言うことが出来ずに、足早にその現場を後にするしかなかった。
現場のものは、さすがに使えない。
(はやく……)
廊下に出ると、僕は辺りを見回し、その気持ち悪さに堪えながら歩を進めた。
こういった高級マンションには、居住者同士で歓談するためのラウンジが用意されている。このマンションにも例外なくそれはあるので、そうすると、必然的にあってもおかしくないものがある。
僕は息も絶え絶えになりながらもなんとかそれを見つけ、そこに駆け込んだ。
「……うっ!」
もう大丈夫、と思ったら一瞬だった。僕は共同トイレの個室に転がり込むと、そこで今日食べたものを全部戻してしまった。文字通り、本当に全部だ。
「ぐっ……はあ、はあ……ごほっ」
胃液が喉を焼いたせいで咳き込み、その咳のせいでまた喉を痛める。胃がせり上がってくるかのような不快感もあり、僕はしばらくそこを動けなかった。ぐるぐると腹が鳴り続け、体の中をミキサーにでもかけられているみたいだった。
一体どうして、急にこんなことになってしまったのか。
出すものは出したせいか、頭だけはすっきりとしていた。少し考えれば、その理由には簡単に辿りつけた。
命というものに、正面から向き合ったせいなのだ。どんな人間にも、家族がいて、友人がいて、仲間がいて。そんな風に被害者の背景を思った瞬間、急にその青白い顔が生々しく見えて、僕はこうなってしまったのだ。
今まで自分はこういった事件と関わる時に、特に身構えたり深く考えたりしてこなかった。亡くなった人を見る時もそうだった。そこに横たわっている人をほとんど人形か何かと同様に見ていて、その人の背景などには、全く関心を示してこなかった。
だからずっと、平気でいられた。人一人がいなくなるということは、本当は途方もなく寂しくて、悲しいことだというのに。
「ふ……」
僕は、弱くなってしまったのだろうか。実は探偵としての資質が、大きく欠けているのだろうか。
感情に引っ張られるより、ただ冷静に、客観的に事実を事実として見つめていく。僕が目指してきた推理小説に出てくるような探偵は、そんな人物達ではなかったか。
「ふふ……」
僕はよろよろと立ち上がりながら、しかし笑みをこぼしてしまった。不謹慎だとは思いつつも、こみ上げてくる高揚感にうまく抗うことが出来なかったのだ。
なぜこんな簡単なことに気付けなかったのかと、今更ながらに僕は思っていた。
たぶん彼らは、違うのだ。彼らは確かに冷静沈着そのものだが、心の中は全く穏やかではないはずなのだ。
彼らも、故人の姿に胸を痛める。悲しむ。時には加害者にだって、同情することもある。そういう人間でなければ、人の気持ちを理解して、人間の思考をトレースするなんてことが出来る訳がない。つまり探偵にとって大事なことは、一切の熱を排除した機械的な感情を持つことではないのだ。何よりもまず、“人”であらなければならないのだ。
この道を歩いて行くのはきっと辛い。大きな十字架を背負いながら、頂上の見えない山道を延々と歩いて行くようなものだ。今回のことでそれがよく分かったが、それと同時に、僕は嬉しかった。
自分はようやく、スタート地点に立てた。“探偵白鐘直斗”は、今ここから始まる。そんな気がしたのだ。
水道で手を洗い、軽くうがいをしてからふと顔を上げる。するとそこには、綺麗に磨かれた鏡に映る、いつもの自分の顔があった。
少し休んだおかげか、顔色は悪くなかった。青ざめた顔で戻る訳にはいかないが、これならもう大丈夫だろう。
頬をパチンと叩いてから、そこを出た。そう長い時間現場を離れる訳にはいかない。
そうして現場に戻ろうと、早足で廊下を通ってラウンジの前を通り過ぎようとした時だった。
突然僕は、どこかから声をかけられた。
「大丈夫かね?」
見ると、いつの間にやらラウンジの一人がけのソファに、尾上氏が座っているのだった。
どう言って戻ろうかと考えていた所だったので少し驚いたが、とりあえず僕は、それに大丈夫だと答えた。彼は、僕がどんな状態になってしまったのかに、とっくに気付いていたのだ。
「やはり、女性には刺激が強すぎるのかな」
しかも彼がこんなことを言い出すものだから、僕は数瞬、絶句してしまった。
「……女性?」
我ながらとぼけるのが下手だなと思う。急に周りの酸素が薄くなったような気がして、なんとか声を絞り出して彼に訊き返すくらいしか、僕には出来なかった。
「おや、間違ったかね?君は女性だろう?」
向かいのソファに座るように促されたので、僕は仕方なく、そこに腰を下ろした。
「……なぜ」
「なぜ女性だと思ったか?」
かぶせるように言う彼に、思わず僕は怪訝な顔を向けてしまったが、彼は構わず続けた。
「それはね、白鐘君。君は細すぎるんだ。探偵という仕事をしているにしては、ね」
「細すぎる?」
馬鹿にされたような気がして、今度は敵意に満ちた目でじろりと彼を見てしまったが、それでも彼は全く動じずに、ひょいと肩を上げて言った。
「そうさ。探偵なんて仕事を生業にしていると、普通は不安になるものだよ。危険と隣合わせでいるうちに、自分を鍛えておかなければ気がすまなくなっていくんだ。私のように警察くずれの探偵で、元々鍛えている方でも、そうしなくては落ち着かない。とんでもない胆力を持った豪の者であれば別だが、私はそんな人間を今まで見たことがない。なのに、君は細い。本当に細すぎると言っていい。加えて、そんな圧倒的胆力を持った豪傑にも見えない。とすれば、自ずと答えは見えてくる」
彼は最後に、どうかね?と言ってこちらを見たが、僕はそれに簡単に頷くことは出来なかった。
彼になら不当に扱われることはないだろうし、別に女であることを認めてしまうこと自体はもう構わない。でもその推理をすぐに認めてしまうのは、何だか負けた気がして嫌だった。いささか乱暴な推理に思えなくもなかったのだ。
しかし僕は、自分以外の現実の探偵をしっかりと見たことがないので、それに対しての反論を持ち合わせていないのだった。実は探偵とはそういうものなのかもしれないと思う他ない。物語に出てくる探偵達も、何かしら武道の心得がある者が多かった。あれはそういうことだったのだろうかと、想像することくらいしか出来ない。
もうほとんど負け戦のようなものだったが、それでも僕は、思考を止めなかった。なんとか彼に一矢報いたいその一心で、考え続けた。
結果、こちらも暴論といえば暴論だが、何とか反論の糸口になるようなものは見つけられた。
彼の座っている位置。その位置だ。
彼が座っているソファからは、共同トイレの入り口がかろうじて見えるはずだった。少なくともどちらから出てきたかくらいは、なんとか分かるだろう。僕はさっき慌てていて、そこまで頭が回らなかったせいで、“本当の性別”の方に入ってしまっていたのだ。彼はそこから出てくる僕をちゃっかり見ていて、何食わぬ顔で僕に声をかけた。先程の推理は、この事実を確認してからの後付け。そういう可能性だって、ゼロじゃないのだ。
そうして僕が反論しようとして、顔を上げた時だった。
気付くと彼は、腹部を両手で抑えながらうずくまっていた。何やら小刻みに震えて、必死に何かに耐えている。
「くっく……っ」
彼はまた、なぜか笑っていた。よほど面白いことでもあったのか、僕を試した時とは違って、今度はもうはっきりと笑ってしまっている。
「……何を笑っているんです」
僕が思い切り棘を含んだ声でそう言っても、彼はそれには全く取り合わず、笑い続けた。僕は訳が分からず、黙るしかなかった。
最初は寡黙な人のようなイメージを受けたが、これ程容赦なく笑われると、その認識を改めざるを得ない。実はかなりおおらかな性格の人なのかもしれないと、僕は思い直した。
と言うかその前に、だ。人の顔を見てこんなに笑うなんて、いくら年上の人だと言っても失礼なんじゃないだろうか。僕はそんなに笑われるようなことはしていないはずだし、そんなに面白い顔でもないはずだ。
そうして冷ややかな視線を送り続けていると、彼はようやくその笑いを収め始め、
「やあ、すまないすまない。君があんまり可愛いものだから、つい」
と、頭を掻きながら僕に謝った。
「君が一生懸命考えているのが可愛くてね。つい昔を思い出してしまった」
ふるふると頭を振ってソファに居直る彼に対して、僕の頭の上には、大きなクエスチョンマークが浮かんでしまっていた。
文脈に合わない単語がぽろぽろと出て来て困惑する。また僕は、彼にテストでもされているのだろうか。
「まだ分からないのかね?」
そう言われても返す言葉が見つからない僕に、彼は少しだけショックを受けたような顔を見せた。何やらまた腹部をさすり、そんなに太った訳でも無いんだが、と深く溜息をつく。
「……お祖父さんは元気かい?」
「え?」
急に身内の心配をされて、僕は目を丸くしてしまった。
「あと、薬師寺君も。若手だった彼も、今じゃもういい年だろう」
頭の中のクエスチョンマークがどんどん大きくなっていく。
何だ?彼は何を言っている?
なぜ自分の身内のことを知っているのだろうか。僕のことも、元々知っているかのような口ぶりだ。
それでも分からなくてじっと見つめていたら、やれやれとばかりに呆れる彼から、思いもよらない言葉が出てきた。
その瞬間、僕は鮮明なセピア色の景色に包まれた。
答えは、もうずっと僕の目の前にあったのだ。
「まだ君は、高い所が好きなのかな」彼は感慨深そうに目を瞑り、耳の奥にまで響く、とても優しい声色で言った。「下りられなくなるからやめなさいと言っても、君は私の目を盗んでは木に登って遊んでいたけど、まさか今もじゃないだろうね?」
驚きのあまり、まだ焼かれたままの喉が引っかかった。
「まさか……」
どうして気付かなかったのか。思わず指まで差してしまいそうになって、慌てて引っ込めた。
「ユージ……おじさん?」
眩しそうに細められた、優し気な光の灯るその瞳と、そうして不敵に笑う口元とに。
僕は見覚えがあった。蓄えられたひげは増え、直線ばかりだった体つきは少し丸くなり、目元の皺は増えていたけれど。よくよく見てみるとその姿は、何度も何度も見たことがある、懐かしい彼のそれなのだった。
どうして一見で、こうも彼に憧れを抱いたのか。その理由が、今分かった。
そうして声が掠れてしまう程驚いている僕に、彼はまたひげの奥でニヤリと笑い、言ったのだった。
「やっと気付いたか。このおてんば娘め」
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