気付くと、まさにバケツをひっくり返したような、何も無い所に川でも出来てしまいそうな程の大雨になりつつあった。周囲の音は雨音に掻き消され、臭いも、濃い緑の匂いと土の匂いにほぼ支配されてしまっている。
彼はそんな中でも、よりいっそう五感を研ぎ澄ましながら相手の出方をうかがっていたが、返事や反応が返ってくる事は無かった。
(…………だんまりか)
んー、と困ったように、彼は首を捻る。
こうして交戦状態になってからもうかなりの時間が経つのに、まだ相手の姿さえ確認出来ていない。彼だけが、不意に背中を押されて舞台に上がってしまった格好である。押した本人の方は姿をくらませていて、どこかでほくそ笑んでいたりするという、彼にとってはとても腹ただしい状態だ。
グシグシと頭の後ろを掻きながら、彼は大きくため息をついた。
「やれやれ」
それなら仕方がない。無理にでも引っ張り出してやるとするか。
彼はゆっくりと息を吸い込み、右足を大きく引いて、腰を落とした。
「“我流”ごり押し空手……」
この膠着状態を受け、彼はまた行動を起こした。妙な冠は付いているものの、彼は宣言通り、空手における正拳突きの構えをその場でとった。
最もポピュラーで、基本中の基本とされる技である。片足を大きく引いてから、前に一歩進むと共に、出した足と同じ方の腕で突きを繰り出す。それ以上は、特段説明する必要もない単純な技である。
しかしここでの問題は、その位置取りであった。空手は多くの格闘技同様、目の前に対峙した相手に向かって使う技しかない。柔道然り。ボクシング然り。テコンドー然り。このように目の前に対象がいない状況においては、単純な体技である限り、何も出来るはずがないのである。
そんな事は、頭のいい彼でなくとも分かる。だが彼は、構えを解かない。まるですぐ正面に敵がいるかのように、じっと前を見据えている。
一般の辞書しか持っていない人間には計りかねる。彼がやろうとしている事は、つまりはそういう常識の外にある事なのだ。
二、三度呼吸をして、彼は意を整える。
闇の中でも、なんとなくそこにいる事が分かってしまうくらい煌々としていた彼の闘気が、一旦なりを潜める。ふっ、と存在感がだんだんと希薄になり、暗い雨の森に彼は沈んでいく。
一度ゼロになる。溜めた力を、一気に爆発させるために。
そうして繰り出されたのはやはり、常識では到底計る事の出来ない、圧倒的絶技なのであった。
「空気打ち!!!」
何も無い所に向かって拳を突き出す。空手の基本稽古のように、ただその場で彼は正拳突きを放った。
我流の冠通り、それは決して精錬されたものではなかった。構えも所作も、堂に入ったものとは言い難い。誰かにきちんと教えられたものではなく、彼が独学で修めたものだったから、それは仕方の無い事だった。
しかし、そんな荒削りのはずの正拳突きは、彼の正面の空を穿ち、切り裂いた。
あれほど容赦なく降り注いでいた雨が、少しの間途切れる。台風の目のように彼を中心にして、爆風が発生したためである。
とりわけ、彼の拳から正面に向かって発生した爆風は恐ろしい代物だった。密集する大木をものともせず、それらをなぎ倒しながら前に突き進んでいく。
さながら竜巻。それは何者も止める事の出来ない、自然災害そのものだった。
ごり押しとはよく言ったものである。これなら相手がどこにいようと、大して関係が無い。
「さて、んじゃあ答え合わせといこうか」
彼が話し始めると、止まっていた時がまた動き出した。ざっ、という音と共に、再びその場に雨が降り出したのである。
彼は、自身の技ですっかり荒野と化してしまったそこを、ゆっくりと歩き始めた。
「人が急に、声も上げずにバタバタと倒れていく。最初に聞いた時は驚いたけどよぉ。タネが割れりゃあなんて事はねぇな」
おそらくはもう、すぐ近くに敵は潜んでいる。彼のあの攻撃で、隠れるような場所はあらかた刈り取られてしまっているし、とっさに避けるのが精一杯で大きく動く事は出来なかっただろう。
いくばくか待つ。それでもまだ、相手は姿を見せなかった。
彼はしかし、ある程度これも想定内だったのか、特に気にせず次の段階に入った。彼は相手を引きずり出すため、さらに“種明かし”を始めたのである。
マジシャンにとって一番嫌な事は、マジックの種が割られて、それを広められてしまう事。それを目の前でやられてむざむざ放っておくという事は、まず考えられないのだ。
「さすがにお前の攻撃方法には面食らったけどな。まさかただの水だなんて、全然思わなかったぜ」
それは確定では無かったが、あえて彼は言い切った。こちらはもう全てを理解しているのだという雰囲気を、少しでも出すためである。
「お前は何らかの方法で水を操っている。そして対象の顔にその水をくっつける事で、人を陸上で“溺れさせている”訳だ。これじゃあもちろん、声はあげられないわな。ただ苦しんで、その場に倒れていくだけ。報告の通りだな」
雨の夜であるという所がミソだ。これだと大体皆がフードを被っていて、隣の人間の顔は見えづらい。そうでなかったとしても、賊に囲まれているというプレッシャーでなかなか平常心を保っている事は難しいから、何が起こっているのか気付かない可能性は高いと思われる。
「典型的なシステマーってやつだな。お前は」
足元に転がる木の枝や、石ころなどを左右に蹴り歩きながら、彼は言った。
“条件付き”の強さを持った者。彼が言う所のシステマーとは、そういう者達の事である。
彼らは、はまれば強いが、相手をはめるまでにかなりの下準備が必要だったり、特殊な場所や状況でしか力を発揮出来ないタイプなので、それ以外の時は案外もろい者が多い。
「さて……」
じりじりと相手との距離を詰めてきた彼だったが、ある地点で歩みを止めた。
「どうすんだよ?“盗賊”ナハトイェーガー?」
折れた大木が積み重なって横たわっている所に、彼は目を向けた。
「……一人なんだろ?もうばれてんぞ」
もはやこれ以上はいらないだろうが、ダメ押しとばかりに彼は続ける。
「マジでよく出来てるわ。お前は人を溺れさせるのと同じように水を操って、あたかも複数人が周りを囲んでいるように足音を演出していたんだな。空中に水を浮かせて、落とす。それを使って相手の動きを制限するって訳だ」
彼が思い切り爆走し、仕掛けを看破しようとした時に見えた景色の揺らぎ。それは、足音を発生させるための水が、まだ浮いた状態で存在していたから見られたものであった。水の塊が、彼に景色を歪んで見せていたのである。
「普通は動けないわな。大人数で、しかも武装してるかもしれない連中に、自爆覚悟で突っ込んでく奴なんてそうそういねぇ。水で顔全体を覆ってしまわなかったのも、そこまでやってしまうとパニックを起こされて、滅茶苦茶な動きをされちまう可能性があるからやらなかった、って所か」
話しながらも、彼に油断はなかった。敵はもうすぐそこにいる。
「じゃあなぜお前は、そこまで気を使って相手の動きを制限しようとするのか」
静かに、しかしはっきりとした口調で彼は言う。
「お前は、あくまでお前のテリトリーに相手を縛っておきたかったんだ。自分から一定範囲内にしか、能力を行使する事が出来ないから。それは俺がお前から離れた時に、俺の口元の水が崩れ落ちた事からも明らかだ。型にはまると凶悪な力だが、それがばれちまったらもう終わり。この界隈で盗人する事も出来なくなる。そういう能力なんだよなお前のは」
そして、彼はついにそこで核心に触れた。
「つまりお前は、数ある兵器の中でも特に、“範囲型”の兵器を使う人間って事だな」
彼の声が、だんだんと明瞭に聞こえてくるようになる。街道に滝のように降り注いでいた雨が、止み始めたのだった。彼はブルブルと体を震わせて、体に付いた水を振るい落とそうとした。
強く太い雨は、降るのが短いらしい。これがこの地域で言う所の、スコールというものなのか。
どうも外の世界は、なにかと興味を惹かれる事が多くて困る。こんなにせわしない降り方をする雨は、里では無かった。少雨で困っていたくらいだから、本当に初めての経験だ。
と、いつの間にやら好奇心から目を上に向けてしまっていたのに気付き、彼はゆっくりと前に向き直った。
「……っと。わりいな。ちっとよそ見しちまった」
首をグリグリ捻りながら、彼は両拳を握り締めた。
「結構当てずっぽうな部分もあったんだけどな。当たってたか?……まあ何にしろ、ようやくお出ましって訳だな。夜の狩人さんよ」
彼はそんな中でも、よりいっそう五感を研ぎ澄ましながら相手の出方をうかがっていたが、返事や反応が返ってくる事は無かった。
(…………だんまりか)
んー、と困ったように、彼は首を捻る。
こうして交戦状態になってからもうかなりの時間が経つのに、まだ相手の姿さえ確認出来ていない。彼だけが、不意に背中を押されて舞台に上がってしまった格好である。押した本人の方は姿をくらませていて、どこかでほくそ笑んでいたりするという、彼にとってはとても腹ただしい状態だ。
グシグシと頭の後ろを掻きながら、彼は大きくため息をついた。
「やれやれ」
それなら仕方がない。無理にでも引っ張り出してやるとするか。
彼はゆっくりと息を吸い込み、右足を大きく引いて、腰を落とした。
「“我流”ごり押し空手……」
この膠着状態を受け、彼はまた行動を起こした。妙な冠は付いているものの、彼は宣言通り、空手における正拳突きの構えをその場でとった。
最もポピュラーで、基本中の基本とされる技である。片足を大きく引いてから、前に一歩進むと共に、出した足と同じ方の腕で突きを繰り出す。それ以上は、特段説明する必要もない単純な技である。
しかしここでの問題は、その位置取りであった。空手は多くの格闘技同様、目の前に対峙した相手に向かって使う技しかない。柔道然り。ボクシング然り。テコンドー然り。このように目の前に対象がいない状況においては、単純な体技である限り、何も出来るはずがないのである。
そんな事は、頭のいい彼でなくとも分かる。だが彼は、構えを解かない。まるですぐ正面に敵がいるかのように、じっと前を見据えている。
一般の辞書しか持っていない人間には計りかねる。彼がやろうとしている事は、つまりはそういう常識の外にある事なのだ。
二、三度呼吸をして、彼は意を整える。
闇の中でも、なんとなくそこにいる事が分かってしまうくらい煌々としていた彼の闘気が、一旦なりを潜める。ふっ、と存在感がだんだんと希薄になり、暗い雨の森に彼は沈んでいく。
一度ゼロになる。溜めた力を、一気に爆発させるために。
そうして繰り出されたのはやはり、常識では到底計る事の出来ない、圧倒的絶技なのであった。
「空気打ち!!!」
何も無い所に向かって拳を突き出す。空手の基本稽古のように、ただその場で彼は正拳突きを放った。
我流の冠通り、それは決して精錬されたものではなかった。構えも所作も、堂に入ったものとは言い難い。誰かにきちんと教えられたものではなく、彼が独学で修めたものだったから、それは仕方の無い事だった。
しかし、そんな荒削りのはずの正拳突きは、彼の正面の空を穿ち、切り裂いた。
あれほど容赦なく降り注いでいた雨が、少しの間途切れる。台風の目のように彼を中心にして、爆風が発生したためである。
とりわけ、彼の拳から正面に向かって発生した爆風は恐ろしい代物だった。密集する大木をものともせず、それらをなぎ倒しながら前に突き進んでいく。
さながら竜巻。それは何者も止める事の出来ない、自然災害そのものだった。
ごり押しとはよく言ったものである。これなら相手がどこにいようと、大して関係が無い。
「さて、んじゃあ答え合わせといこうか」
彼が話し始めると、止まっていた時がまた動き出した。ざっ、という音と共に、再びその場に雨が降り出したのである。
彼は、自身の技ですっかり荒野と化してしまったそこを、ゆっくりと歩き始めた。
「人が急に、声も上げずにバタバタと倒れていく。最初に聞いた時は驚いたけどよぉ。タネが割れりゃあなんて事はねぇな」
おそらくはもう、すぐ近くに敵は潜んでいる。彼のあの攻撃で、隠れるような場所はあらかた刈り取られてしまっているし、とっさに避けるのが精一杯で大きく動く事は出来なかっただろう。
いくばくか待つ。それでもまだ、相手は姿を見せなかった。
彼はしかし、ある程度これも想定内だったのか、特に気にせず次の段階に入った。彼は相手を引きずり出すため、さらに“種明かし”を始めたのである。
マジシャンにとって一番嫌な事は、マジックの種が割られて、それを広められてしまう事。それを目の前でやられてむざむざ放っておくという事は、まず考えられないのだ。
「さすがにお前の攻撃方法には面食らったけどな。まさかただの水だなんて、全然思わなかったぜ」
それは確定では無かったが、あえて彼は言い切った。こちらはもう全てを理解しているのだという雰囲気を、少しでも出すためである。
「お前は何らかの方法で水を操っている。そして対象の顔にその水をくっつける事で、人を陸上で“溺れさせている”訳だ。これじゃあもちろん、声はあげられないわな。ただ苦しんで、その場に倒れていくだけ。報告の通りだな」
雨の夜であるという所がミソだ。これだと大体皆がフードを被っていて、隣の人間の顔は見えづらい。そうでなかったとしても、賊に囲まれているというプレッシャーでなかなか平常心を保っている事は難しいから、何が起こっているのか気付かない可能性は高いと思われる。
「典型的なシステマーってやつだな。お前は」
足元に転がる木の枝や、石ころなどを左右に蹴り歩きながら、彼は言った。
“条件付き”の強さを持った者。彼が言う所のシステマーとは、そういう者達の事である。
彼らは、はまれば強いが、相手をはめるまでにかなりの下準備が必要だったり、特殊な場所や状況でしか力を発揮出来ないタイプなので、それ以外の時は案外もろい者が多い。
「さて……」
じりじりと相手との距離を詰めてきた彼だったが、ある地点で歩みを止めた。
「どうすんだよ?“盗賊”ナハトイェーガー?」
折れた大木が積み重なって横たわっている所に、彼は目を向けた。
「……一人なんだろ?もうばれてんぞ」
もはやこれ以上はいらないだろうが、ダメ押しとばかりに彼は続ける。
「マジでよく出来てるわ。お前は人を溺れさせるのと同じように水を操って、あたかも複数人が周りを囲んでいるように足音を演出していたんだな。空中に水を浮かせて、落とす。それを使って相手の動きを制限するって訳だ」
彼が思い切り爆走し、仕掛けを看破しようとした時に見えた景色の揺らぎ。それは、足音を発生させるための水が、まだ浮いた状態で存在していたから見られたものであった。水の塊が、彼に景色を歪んで見せていたのである。
「普通は動けないわな。大人数で、しかも武装してるかもしれない連中に、自爆覚悟で突っ込んでく奴なんてそうそういねぇ。水で顔全体を覆ってしまわなかったのも、そこまでやってしまうとパニックを起こされて、滅茶苦茶な動きをされちまう可能性があるからやらなかった、って所か」
話しながらも、彼に油断はなかった。敵はもうすぐそこにいる。
「じゃあなぜお前は、そこまで気を使って相手の動きを制限しようとするのか」
静かに、しかしはっきりとした口調で彼は言う。
「お前は、あくまでお前のテリトリーに相手を縛っておきたかったんだ。自分から一定範囲内にしか、能力を行使する事が出来ないから。それは俺がお前から離れた時に、俺の口元の水が崩れ落ちた事からも明らかだ。型にはまると凶悪な力だが、それがばれちまったらもう終わり。この界隈で盗人する事も出来なくなる。そういう能力なんだよなお前のは」
そして、彼はついにそこで核心に触れた。
「つまりお前は、数ある兵器の中でも特に、“範囲型”の兵器を使う人間って事だな」
彼の声が、だんだんと明瞭に聞こえてくるようになる。街道に滝のように降り注いでいた雨が、止み始めたのだった。彼はブルブルと体を震わせて、体に付いた水を振るい落とそうとした。
強く太い雨は、降るのが短いらしい。これがこの地域で言う所の、スコールというものなのか。
どうも外の世界は、なにかと興味を惹かれる事が多くて困る。こんなにせわしない降り方をする雨は、里では無かった。少雨で困っていたくらいだから、本当に初めての経験だ。
と、いつの間にやら好奇心から目を上に向けてしまっていたのに気付き、彼はゆっくりと前に向き直った。
「……っと。わりいな。ちっとよそ見しちまった」
首をグリグリ捻りながら、彼は両拳を握り締めた。
「結構当てずっぽうな部分もあったんだけどな。当たってたか?……まあ何にしろ、ようやくお出ましって訳だな。夜の狩人さんよ」
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