彼は油断など一切していなかった。しかし、気付いた時にはもう攻撃を受けていた。
(何だ!?)
口元が、何かおかしい。
(何だこりゃ??)
ぶよぶよとした水のようなものの塊。それが彼の顔の下半分、鼻と口を覆っていた。
(……く!とれねえ!)
引き剥がそうとしたが、無理だった。顔との接着面以外は本当にただの水で、うまく掴む事が出来ない。
それなら、とすぐに彼はある方法を試そうとしたが、寸前で思いとどまった。
(……くそ!マジでただの水なのかこれ?)
顔を覆っている量としては大した事がない。そう思ってそれを飲み込んでやろうとした彼だったが、これを相手の攻撃だとすると、単純にそうするのは危険だと彼は考えた。もしこれが毒だったりしたら、その時点で詰みなのだ。それをするのはもう、最後の最後にしておくべきだと考えた。
しかし、そうは言っても彼に与えられた時間はわずかだった。不意の攻撃で、彼は十分に息を吸い込んだ状態ではなかったのだ。
(もって2分弱……派手に動けば、1分ちょっと……)
それを過ぎれば、さしもの彼も何も出来ずに、普通に死んでしまうだろう。周りも大勢に囲まれているし、まさに万事休すとはこの事。道を誤れば即、死に直結するこの場面。常人であれば、正気を保っているのも難しい所だ。
しかし前述したように、彼の精神は鋼鉄のように硬い。加えて、決断力と行動力もある。。彼は戦いにおいて不可欠な思考の瞬発力を、十分過ぎるほどに持ち合わせているのだ。
(よし)
そんな彼だから、こんな状態でもすぐに動いた。声のした方向とは真逆。明後日の方向に、急に走り出した。
「……っ!」
彼の大きな耳がぴくりと動く。
さすがに、ほぼ詰みの状態でこんなにも大胆に動かれる事は想定外だったのだろう。相手の隠しきれなかった少しの動揺が、雨音の中でもしっかりと彼の耳に伝わった。
どうやら正解らしいと、彼はニヤリと笑みを浮かべた。50メートルを5秒で走る尋常ならざるダッシュ力で、彼はそのままその場から離れた。すると……
「む」
30メートル程行った所だろうか。その辺りで、バシャリと音を立てて、口元を覆っていた水が急に力を失ったようにくずれ落ちた。
「……ふむ」
周りを警戒しながら、彼はとりあえず口周りを拭った。
特におかしな臭いはしない。まだ断定は出来ないが、あの水は毒ではない可能性が強まった。無味無臭の毒だとしても、彼の鼻ならかなりの精度で嗅ぎ分けられるからだ。
彼は一応しばらく身構えていたが、やはりニ撃目はない。いからせていた肩の力を抜いて、とりあえず構えを解いた。
状況は間違いなく好転したと言ってよかった。時間経過だけで死んでしまうという最悪な状態は脱し、これならいかようにも対応が取れるからだ。
普通なら、ほっと一息つく所である。しかしなぜか、彼の眉間には未だ深い皺が寄ったままだった。フードの下で複雑な表情を浮かべ、顎に手を当てて思案している。
いとも簡単に窮地を脱し、そうして自分が意図した通りの結果にもなったものの、彼にはいまいち、解せない点があったのだった。
(……なんで誰もいない?)
自分は確かに、複数の足音らしきものを周りから聞き取っていた。なのになぜ、こうして走ってきたのにも関わらず誰にも遭遇しなかったのか。一人や二人から攻撃を受けてでも、突破するつもりでそうしたのに。
ちょうどそう彼が考えていると、またその音はした。
バシャ。バシャ。
確かに、誰かがまた自分の周りを歩いている。不規則に鳴るその音からすると、やはり複数人だ。さっきと同じように、ギリギリ視認出来ない距離にいるらしい。全く姿が見えない。おかしい。
(この俺に見えないっていうのがまず)
聴覚の他に、夜目が利くというのも、彼の長所の一つだった。完全な夜行性の梟やネズミ類には少し及ばないかもしれないが、それでもかなりの距離を視認出来る視力を持っている。数十メートルくらいなら、真っ暗闇でも誰かがいればすぐに分かる。男か女かだって、少し短い距離なら当てられるくらいだ。
そんな彼なのに、である。今現在この自分の周りを囲んでいる人間達は、毛程の姿も確認する事が出来なかった。これは一体全体どういうことなのか。彼は首を傾げた。
(……ちっと、まずいかもな……)
圧倒的な達人であれば、こういう事も可能なのかもしれない。彼の頭に、一つの最悪の事態が浮かび上がった。
気を巧みに操り、そこに確かにいるのだとしても、気配の尻尾を掴ませないように立ちまわる。そういう事が出来る者が、世界にはいるのかもしれない。もしかすると外の世界の人間は、自分が思っているより山ほどすごい人間がいるのかもしれない。そう考えてしまう程に、彼にとってこの状況は不可解なものだった。
もしこれが本当に達人の集まりなら、さしもの彼も一人で戦うのは厳しいと言わざるを得ない。100人雑魚を相手にするくらい彼にはどうと言う事もないが、達人なら話は別だ。絶え間なく攻撃されれば、彼とてひとたまりもないのだ。
(ううむ)
そしてまた、不気味と言うか、不思議なのは、攻撃の第二波が来ない事だった。普通そんな圧倒的有利な状況であったら、間髪いれずに攻撃を仕掛けてきても良さそうなものだが、いつまで待っても来る気配が無い。とりあえず何人かけしかけてみるとかすればいいものを、何もしない。様子を伺うにしても、少し消極的過ぎる気がした。
(……ふむ)
またいくらかの思案の後、彼は決めた。
最悪の事態を想定するのもいいが、まずはとにかく、この小さな綻びを追ってみる事にするか。もう一度同じ事をすれば、何か分かるかも知れない。今度はより注意深く、周りを探ってみる事にしよう。
彼はそう思い立ち、またさっきと同じように、相手とは逆の方向に走り出した。
今度は、聞き耳を立ててみても彼の耳に向こうの動揺は伝わらなかった。さすがに二度目は対応してきた、という事になるのだろうか。
「だが!」
彼もそれは、予想していた、全く同じような事をしてもしょうがない。そう考えていた彼は、今度はさらに、その走る速度を上げてきた。
MAXスピード。瞬間的には競走馬をも凌駕する速さで、またもその自身の包囲網に迫った。この速さなら、もし何かしらの準備を相手がしていたとしても、対応が遅れてボロを出すかもしれない。
「おらあああああ!!!」
相互の情報が全く伝わらないこの暗い雨の中、自分の身体能力を完全に計算に入れるのは至難の業なはず。
案の定、綻びは露呈した。彼はついに、その道中それを垣間見たのである。
「!」
僅かな違和感。彼は何か揺らぎのようなものを、複数視界の端に捉えた。
空間が歪んでいる?かのように見えたが、少し違うのだった。さらに目を凝らして見てみると、描きかけの絵に水滴をこぼしてしまった時のように、部分的に景色が滲んでいるのだ。
最初は何だか分からなかったが、その後の音が、彼に閃きを促した。
バシャ。バシャ。
彼がてっきり足音だと思っていた、あの水音である。
「……そうか」
なるほど。そういう事か。
彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。フードを脱ぎ、レインコートもそのまま完全に脱ぎ捨てた。
完全な臨戦態勢であった。彼はそうしてから、わざわざ相手に聞こえるように、大声で叫んだ。
「ようやく分かったぜ!お前の使うトリックの正体がよ!」
いつまでもやられっ放しな訳にはいかない。そうして彼は、反撃の狼煙を立ち上げたのだった。
(何だ!?)
口元が、何かおかしい。
(何だこりゃ??)
ぶよぶよとした水のようなものの塊。それが彼の顔の下半分、鼻と口を覆っていた。
(……く!とれねえ!)
引き剥がそうとしたが、無理だった。顔との接着面以外は本当にただの水で、うまく掴む事が出来ない。
それなら、とすぐに彼はある方法を試そうとしたが、寸前で思いとどまった。
(……くそ!マジでただの水なのかこれ?)
顔を覆っている量としては大した事がない。そう思ってそれを飲み込んでやろうとした彼だったが、これを相手の攻撃だとすると、単純にそうするのは危険だと彼は考えた。もしこれが毒だったりしたら、その時点で詰みなのだ。それをするのはもう、最後の最後にしておくべきだと考えた。
しかし、そうは言っても彼に与えられた時間はわずかだった。不意の攻撃で、彼は十分に息を吸い込んだ状態ではなかったのだ。
(もって2分弱……派手に動けば、1分ちょっと……)
それを過ぎれば、さしもの彼も何も出来ずに、普通に死んでしまうだろう。周りも大勢に囲まれているし、まさに万事休すとはこの事。道を誤れば即、死に直結するこの場面。常人であれば、正気を保っているのも難しい所だ。
しかし前述したように、彼の精神は鋼鉄のように硬い。加えて、決断力と行動力もある。。彼は戦いにおいて不可欠な思考の瞬発力を、十分過ぎるほどに持ち合わせているのだ。
(よし)
そんな彼だから、こんな状態でもすぐに動いた。声のした方向とは真逆。明後日の方向に、急に走り出した。
「……っ!」
彼の大きな耳がぴくりと動く。
さすがに、ほぼ詰みの状態でこんなにも大胆に動かれる事は想定外だったのだろう。相手の隠しきれなかった少しの動揺が、雨音の中でもしっかりと彼の耳に伝わった。
どうやら正解らしいと、彼はニヤリと笑みを浮かべた。50メートルを5秒で走る尋常ならざるダッシュ力で、彼はそのままその場から離れた。すると……
「む」
30メートル程行った所だろうか。その辺りで、バシャリと音を立てて、口元を覆っていた水が急に力を失ったようにくずれ落ちた。
「……ふむ」
周りを警戒しながら、彼はとりあえず口周りを拭った。
特におかしな臭いはしない。まだ断定は出来ないが、あの水は毒ではない可能性が強まった。無味無臭の毒だとしても、彼の鼻ならかなりの精度で嗅ぎ分けられるからだ。
彼は一応しばらく身構えていたが、やはりニ撃目はない。いからせていた肩の力を抜いて、とりあえず構えを解いた。
状況は間違いなく好転したと言ってよかった。時間経過だけで死んでしまうという最悪な状態は脱し、これならいかようにも対応が取れるからだ。
普通なら、ほっと一息つく所である。しかしなぜか、彼の眉間には未だ深い皺が寄ったままだった。フードの下で複雑な表情を浮かべ、顎に手を当てて思案している。
いとも簡単に窮地を脱し、そうして自分が意図した通りの結果にもなったものの、彼にはいまいち、解せない点があったのだった。
(……なんで誰もいない?)
自分は確かに、複数の足音らしきものを周りから聞き取っていた。なのになぜ、こうして走ってきたのにも関わらず誰にも遭遇しなかったのか。一人や二人から攻撃を受けてでも、突破するつもりでそうしたのに。
ちょうどそう彼が考えていると、またその音はした。
バシャ。バシャ。
確かに、誰かがまた自分の周りを歩いている。不規則に鳴るその音からすると、やはり複数人だ。さっきと同じように、ギリギリ視認出来ない距離にいるらしい。全く姿が見えない。おかしい。
(この俺に見えないっていうのがまず)
聴覚の他に、夜目が利くというのも、彼の長所の一つだった。完全な夜行性の梟やネズミ類には少し及ばないかもしれないが、それでもかなりの距離を視認出来る視力を持っている。数十メートルくらいなら、真っ暗闇でも誰かがいればすぐに分かる。男か女かだって、少し短い距離なら当てられるくらいだ。
そんな彼なのに、である。今現在この自分の周りを囲んでいる人間達は、毛程の姿も確認する事が出来なかった。これは一体全体どういうことなのか。彼は首を傾げた。
(……ちっと、まずいかもな……)
圧倒的な達人であれば、こういう事も可能なのかもしれない。彼の頭に、一つの最悪の事態が浮かび上がった。
気を巧みに操り、そこに確かにいるのだとしても、気配の尻尾を掴ませないように立ちまわる。そういう事が出来る者が、世界にはいるのかもしれない。もしかすると外の世界の人間は、自分が思っているより山ほどすごい人間がいるのかもしれない。そう考えてしまう程に、彼にとってこの状況は不可解なものだった。
もしこれが本当に達人の集まりなら、さしもの彼も一人で戦うのは厳しいと言わざるを得ない。100人雑魚を相手にするくらい彼にはどうと言う事もないが、達人なら話は別だ。絶え間なく攻撃されれば、彼とてひとたまりもないのだ。
(ううむ)
そしてまた、不気味と言うか、不思議なのは、攻撃の第二波が来ない事だった。普通そんな圧倒的有利な状況であったら、間髪いれずに攻撃を仕掛けてきても良さそうなものだが、いつまで待っても来る気配が無い。とりあえず何人かけしかけてみるとかすればいいものを、何もしない。様子を伺うにしても、少し消極的過ぎる気がした。
(……ふむ)
またいくらかの思案の後、彼は決めた。
最悪の事態を想定するのもいいが、まずはとにかく、この小さな綻びを追ってみる事にするか。もう一度同じ事をすれば、何か分かるかも知れない。今度はより注意深く、周りを探ってみる事にしよう。
彼はそう思い立ち、またさっきと同じように、相手とは逆の方向に走り出した。
今度は、聞き耳を立ててみても彼の耳に向こうの動揺は伝わらなかった。さすがに二度目は対応してきた、という事になるのだろうか。
「だが!」
彼もそれは、予想していた、全く同じような事をしてもしょうがない。そう考えていた彼は、今度はさらに、その走る速度を上げてきた。
MAXスピード。瞬間的には競走馬をも凌駕する速さで、またもその自身の包囲網に迫った。この速さなら、もし何かしらの準備を相手がしていたとしても、対応が遅れてボロを出すかもしれない。
「おらあああああ!!!」
相互の情報が全く伝わらないこの暗い雨の中、自分の身体能力を完全に計算に入れるのは至難の業なはず。
案の定、綻びは露呈した。彼はついに、その道中それを垣間見たのである。
「!」
僅かな違和感。彼は何か揺らぎのようなものを、複数視界の端に捉えた。
空間が歪んでいる?かのように見えたが、少し違うのだった。さらに目を凝らして見てみると、描きかけの絵に水滴をこぼしてしまった時のように、部分的に景色が滲んでいるのだ。
最初は何だか分からなかったが、その後の音が、彼に閃きを促した。
バシャ。バシャ。
彼がてっきり足音だと思っていた、あの水音である。
「……そうか」
なるほど。そういう事か。
彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。フードを脱ぎ、レインコートもそのまま完全に脱ぎ捨てた。
完全な臨戦態勢であった。彼はそうしてから、わざわざ相手に聞こえるように、大声で叫んだ。
「ようやく分かったぜ!お前の使うトリックの正体がよ!」
いつまでもやられっ放しな訳にはいかない。そうして彼は、反撃の狼煙を立ち上げたのだった。
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