散々言ってきたが、夏は基本的には好きだ。特に、今みたいにどしゃぶりの雨が降った後の空気は嫌いじゃない。
暑かっただけの大気が全て洗い流されて、一度リセットされる。そして草や土の匂いが香る涼しげな風が空気に混じり出して、何とも爽やかな気分になれる。夏の間、クーラーや扇風機以外でとれる自然の最高の涼だと言っていいと思う。僕はそんな時、今時珍しい縁側に一人座って、何となく空を見ていることが好きだったりするのだ。
だから僕は、何度もため息が出てしまうのを抑える事が出来なかった。今日はその空気を楽しみながら帰れるかなと思っていたのに、珍しく出た僕のくだらない好奇心のせいで、その期待はもろくも崩れさることになってしまったのだった。
「あー気持ち悪い……」
僕は力なくぼやきながら歩いていた。まさかこの爽やかタイムに例外があったなんて、知らなかったのだ。
雨が降った後、木々が茂る山の中を歩くと、こうも緑の匂いが濃くなるとは。
まことさんに連れられて、なぜか僕は、杭全屋の少し先にある山道に足を踏み入れていた。
周りの木々のせいで異常に湿度が高く感じられた。むわっとしたその空気のせいで、目を閉じるとジャングルにいるかのように錯覚するくらいだ。何事も程々がいいのだということを、僕は今身をもって感じていた。
そして、またもそうしてうなだれながら歩かされている僕に、追い打ちをかけるように騒音まで襲ってきている。僕がげんなりしながら顔を上げると、相も変わらず二人は口論の真っ最中なのだった。
「でもさぁ……何でよりによって今日来るかなぁほんと。しばらく来るなって言っといたのに」
「わしのせいか!?看板が『くろぉず』の時は来ても良いと言うとったではないか!!」
「それは実際に営業が始まった後の話だから。あんたバカぁ?」
「むう……っ!なんじゃそのおかしな抑揚は!また変なものに影響されおって!!」
「自分だってそうでしょう……来た時何急にジンジャーエールって。何読んだの」
お互いにそうやってぶつかりながらも、彼らは軽快に山道を上がっていく。僕はそんな二人が、心底不思議で仕方がなかった。春の涼しい陽気の中、ピクニックにでも来てるかのように、彼らはまるで涼しい顔で進んでいくのだ。
猫は動物だからまあいいとして、まことさんは少しおかしいと言わざるをえない。彼は来る時に山伏みたいな格好に着替えていてすごく暑そうなのだが、汗一つかいていないのだった。
しかも足元は、妖怪の類が履いていそうな一本歯の下駄なのだ。あんなのですいすい登っていくなんて、一体どういう身体能力をしているのだろうか。これじゃ普通の格好でひいひい言ってる僕の方が、異常みたいじゃないか。
まことさんはぶつくさ言いながら歩いている僕に気付いたのか、無理やり猫の顔をむぎゅっと掴んでから振り向いた。
「ナツキ君大丈夫?なんか言った?」
「いえ、何も」
口元でもごもご何か言うくらいなら出来るのだが、この距離で会話をしようとするだけでかなり辛い。僕は彼の問いに、くぐもった声でしか答えることが出来なかった。
そんな僕に、まことさんはなおも言った。
「そう?なんか辛そうだね。やっぱりこの下駄履く?楽だよ?」
「それはもっときつくなりそうなんでいいです……」
今日何度かされた勧めを、僕はやんわりと断った。
間近で見た今でもただ歩きにくそうにしか見えないが、一本歯の下駄は、上手く歩くと上り道が楽になるのだとまことさんは教えてくれた。斜面で前のめりになり、倒れる時の力を利用する。その理屈はまあ理解出来たけれど、慣れない僕には余計疲れるものでしかなさそうなのだった。
「最近の人間に山道はつらいじゃろうなあ。あの自動車とか言うモノが出来てから、特に軟弱になったようじゃし」と、猫はいつの間にかまことさんの拘束を振りほどいて、僕の周囲を回りながらじろじろ見てきた。「本当に大丈夫かのう。こんな貧弱な体で」
服に足をひっかけながら、猫は器用にするすると僕の体を上がってきて肩の上に乗った。
僕はちょっとムッとしながらも、猫に答えた。
「別に大丈夫だと思うぞ。こう見えても、一応最近まで部活やってたし」
もう辞めてしまったけれど。
僕は力こぶを出して、猫に間近で見せてやった。
「ふうむ。細いけどのお。ちゃんと食っとるのか?それにブカツというのはなんじゃ」
僕はさすがにうんざりして、その問いにはもう答えなかった。
猫はどうも最近の言葉に疎いらしく、道中幾度と無くこういう質問をされた僕は、その都度丁寧に答えてやっていた。元々人に何かを教えるというのが好きなのと、喋る猫と話すという物珍しいシチュエーションも手伝って最初はそうしていたのだが、言葉を説明するためのバックグラウンドも説明しなければならないほど物を知らないので、いい加減疲れてしまった。
僕は最初、何だか年寄りと話しているみたいだなと思っていたのだが、それともちょっと違うような気が今はしてきていた。昔の人がぽっと現代に来てしまったら、ちょうどこんな感じになるんじゃないだろうかと思う。言葉を最近習ったばかりなのかもしれないが、それにしてはちょっと流暢過ぎるし。
結局我慢出来なくなって、僕は聞いてしまった。
「お前、そんなにうまく話せるのに、何で色んな言葉を知らないんだ?」
「お前とはなんじゃ!わしの方が年上じゃぞ!」
猫はそう耳元で怒鳴ったが、その言葉に僕は目を丸くせざるを得なかった。
だって、どう見たって若い猫じゃないか。
「ああ、人間年齢に換算するとってやつか」はたと思いついて僕が言うと、
「違うわ阿呆!!わしはもう齢200を越えておるわ!」
と、肩の上で鼻息荒く猫はふんぞり返った。
「嘘つけよ。200って何だよ200って」
そう言ったのに、こいつは僕の言葉を完全に無視してため息をついた。
「杭全八咫丸と言えば、昔は皆が敬ったのにのお。最近の者は畏敬の念というものが無さすぎる。全く嘆かわしいことじゃ」
猫はしみじみと言い、殊更大きなため息をついた。
「無視かよ。てか何?くまたのやたまる?」
僕が首を傾げると、様子を見ていたのか、まことさんがわざわざ降りてきて補足してくれた。
「彼の名前だよ。やた丸って呼んであげれば怒らないから、今度からそう呼んでやって」
僕の目の前でしゃがんでから、まことさんは苦笑した。下駄の歯がかなり高いものだから、こうしてやっと同じくらいの目線になる。
「猫又とか仙狸《せんり》って聞いたことない?やた丸はそれらしいよ。自分でもよく分かってないみたいだけど」
まことさんが言うと、やた丸はすぐそれに抗議した。
「猫又という言い方は好きくない。わしの尾は別に裂けてはおらんしの」そう言ってから、僕の肩から軽くトンと飛んで地面に降りた。「そんな事よりよいのか?早くしないとまた奴が暴れだすぞ」
まねき猫みたいに片足をくいっと上げ、やた丸は上の方を指した。
言われて僕は、額から滴り落ちる汗を拭いながら、重い首をなんとか動かして上を見上げた。
見てみると、確かにそこは他の所と少し違うようだった。自分達がいる辺りは割と雑多に生えている樹木が多いのに対して、そこは人の手が入っているのか、少し規則正しく木が植えられているように見える。
気付くと、木々の葉の間から差す光が何本も地面にまで伸びていて、確かに何かいそうな雰囲気は出てきているのだった。
「何だっけ。なんか、神様が暴れそうなんだっけ?本当かよ」
それでも、もうやめておけばいいのに、僕は何度繰り返したか分からない確認を未だに添えてしまう。
案の定、やた丸がすかさず言った。
「まだ言うか。じゃあお前の目の前にいるわしはなんなんじゃ。言うてみい」
しつこく言うてみい、言うてみい、と僕に迫る。やた丸はわざわざまた肩まで上がって来て、僕の頬を肉球でぐいぐい押した。どちらかと言うと僕は犬派だから、こんなことされてもちっとも嬉しくないというのに。
嫌々な感じでされるがままになっている僕を見て、さすがにそろそろ助けてくれるかなと期待したけれど、まことさんはそんな僕らの様子を見て、楽しそうに笑っているだけなのだった。
僕はやた丸から視線を外し、深々とため息をついた。
いつの間にやら、こんな風にしてすっかり馴染んでしまっている。かのように見える僕だったが、やっぱり人はそう簡単に順応できるものでもないらしい。まだまだふとした瞬間に、僕は我に返る事が多かった。
会話がふいに途切れた時。今みたいにやた丸と話している時。一種興奮状態だった頭が、これはおかしいと急に冷静になる。その度僕は自分の境遇が信じられなくなって、自分に問うのだった。
道を一本違えてしまった事くらいは分かる。それは分かっているが、それだけでこうも急に非日常の世界に放り出されてしまうものなのだろうか、と。
僕はただ閑静な住宅街を歩いていて、少し違う道を歩いてみようとふらっと路地に入ってみた。それくらい些細なことをしただけのはずなのに……
全く信じるところではなかったSFの世界のように、おかしな事態が自分に降りかかっている。
路地を抜けた先には、ニューヨークの喧騒が待っていた。あたふたと慌てているうちに、僕はいつの間にかその奔流に巻き込まれ、上も下も分からないくらいにもみくちゃにされてしまった。それ程突拍子もない事が、目の前で起こっている。あるいは、いきなりガンジス川で沐浴する人々に出くわしたとか、ベネチアのだだっ広いサンマルコ広場に出てしまったとかに言い換えてもいい。とにかく、振り返ると今来たはずの道は消えていて、もう僕はそこでどうにか立ち回っていくしかないような状況に置かれているのだった。
呆けて立ちつくすことさえ許されない。新しい状況は、そうして僕にどんどん振りかかってきたのだ。
まことさんに採用だと言われた後、僕は喫茶店の通常業務以外に、別の仕事を頼まれた。やた丸が、まことさんに何か耳打ちした後だった。
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暑かっただけの大気が全て洗い流されて、一度リセットされる。そして草や土の匂いが香る涼しげな風が空気に混じり出して、何とも爽やかな気分になれる。夏の間、クーラーや扇風機以外でとれる自然の最高の涼だと言っていいと思う。僕はそんな時、今時珍しい縁側に一人座って、何となく空を見ていることが好きだったりするのだ。
だから僕は、何度もため息が出てしまうのを抑える事が出来なかった。今日はその空気を楽しみながら帰れるかなと思っていたのに、珍しく出た僕のくだらない好奇心のせいで、その期待はもろくも崩れさることになってしまったのだった。
「あー気持ち悪い……」
僕は力なくぼやきながら歩いていた。まさかこの爽やかタイムに例外があったなんて、知らなかったのだ。
雨が降った後、木々が茂る山の中を歩くと、こうも緑の匂いが濃くなるとは。
まことさんに連れられて、なぜか僕は、杭全屋の少し先にある山道に足を踏み入れていた。
周りの木々のせいで異常に湿度が高く感じられた。むわっとしたその空気のせいで、目を閉じるとジャングルにいるかのように錯覚するくらいだ。何事も程々がいいのだということを、僕は今身をもって感じていた。
そして、またもそうしてうなだれながら歩かされている僕に、追い打ちをかけるように騒音まで襲ってきている。僕がげんなりしながら顔を上げると、相も変わらず二人は口論の真っ最中なのだった。
「でもさぁ……何でよりによって今日来るかなぁほんと。しばらく来るなって言っといたのに」
「わしのせいか!?看板が『くろぉず』の時は来ても良いと言うとったではないか!!」
「それは実際に営業が始まった後の話だから。あんたバカぁ?」
「むう……っ!なんじゃそのおかしな抑揚は!また変なものに影響されおって!!」
「自分だってそうでしょう……来た時何急にジンジャーエールって。何読んだの」
お互いにそうやってぶつかりながらも、彼らは軽快に山道を上がっていく。僕はそんな二人が、心底不思議で仕方がなかった。春の涼しい陽気の中、ピクニックにでも来てるかのように、彼らはまるで涼しい顔で進んでいくのだ。
猫は動物だからまあいいとして、まことさんは少しおかしいと言わざるをえない。彼は来る時に山伏みたいな格好に着替えていてすごく暑そうなのだが、汗一つかいていないのだった。
しかも足元は、妖怪の類が履いていそうな一本歯の下駄なのだ。あんなのですいすい登っていくなんて、一体どういう身体能力をしているのだろうか。これじゃ普通の格好でひいひい言ってる僕の方が、異常みたいじゃないか。
まことさんはぶつくさ言いながら歩いている僕に気付いたのか、無理やり猫の顔をむぎゅっと掴んでから振り向いた。
「ナツキ君大丈夫?なんか言った?」
「いえ、何も」
口元でもごもご何か言うくらいなら出来るのだが、この距離で会話をしようとするだけでかなり辛い。僕は彼の問いに、くぐもった声でしか答えることが出来なかった。
そんな僕に、まことさんはなおも言った。
「そう?なんか辛そうだね。やっぱりこの下駄履く?楽だよ?」
「それはもっときつくなりそうなんでいいです……」
今日何度かされた勧めを、僕はやんわりと断った。
間近で見た今でもただ歩きにくそうにしか見えないが、一本歯の下駄は、上手く歩くと上り道が楽になるのだとまことさんは教えてくれた。斜面で前のめりになり、倒れる時の力を利用する。その理屈はまあ理解出来たけれど、慣れない僕には余計疲れるものでしかなさそうなのだった。
「最近の人間に山道はつらいじゃろうなあ。あの自動車とか言うモノが出来てから、特に軟弱になったようじゃし」と、猫はいつの間にかまことさんの拘束を振りほどいて、僕の周囲を回りながらじろじろ見てきた。「本当に大丈夫かのう。こんな貧弱な体で」
服に足をひっかけながら、猫は器用にするすると僕の体を上がってきて肩の上に乗った。
僕はちょっとムッとしながらも、猫に答えた。
「別に大丈夫だと思うぞ。こう見えても、一応最近まで部活やってたし」
もう辞めてしまったけれど。
僕は力こぶを出して、猫に間近で見せてやった。
「ふうむ。細いけどのお。ちゃんと食っとるのか?それにブカツというのはなんじゃ」
僕はさすがにうんざりして、その問いにはもう答えなかった。
猫はどうも最近の言葉に疎いらしく、道中幾度と無くこういう質問をされた僕は、その都度丁寧に答えてやっていた。元々人に何かを教えるというのが好きなのと、喋る猫と話すという物珍しいシチュエーションも手伝って最初はそうしていたのだが、言葉を説明するためのバックグラウンドも説明しなければならないほど物を知らないので、いい加減疲れてしまった。
僕は最初、何だか年寄りと話しているみたいだなと思っていたのだが、それともちょっと違うような気が今はしてきていた。昔の人がぽっと現代に来てしまったら、ちょうどこんな感じになるんじゃないだろうかと思う。言葉を最近習ったばかりなのかもしれないが、それにしてはちょっと流暢過ぎるし。
結局我慢出来なくなって、僕は聞いてしまった。
「お前、そんなにうまく話せるのに、何で色んな言葉を知らないんだ?」
「お前とはなんじゃ!わしの方が年上じゃぞ!」
猫はそう耳元で怒鳴ったが、その言葉に僕は目を丸くせざるを得なかった。
だって、どう見たって若い猫じゃないか。
「ああ、人間年齢に換算するとってやつか」はたと思いついて僕が言うと、
「違うわ阿呆!!わしはもう齢200を越えておるわ!」
と、肩の上で鼻息荒く猫はふんぞり返った。
「嘘つけよ。200って何だよ200って」
そう言ったのに、こいつは僕の言葉を完全に無視してため息をついた。
「杭全八咫丸と言えば、昔は皆が敬ったのにのお。最近の者は畏敬の念というものが無さすぎる。全く嘆かわしいことじゃ」
猫はしみじみと言い、殊更大きなため息をついた。
「無視かよ。てか何?くまたのやたまる?」
僕が首を傾げると、様子を見ていたのか、まことさんがわざわざ降りてきて補足してくれた。
「彼の名前だよ。やた丸って呼んであげれば怒らないから、今度からそう呼んでやって」
僕の目の前でしゃがんでから、まことさんは苦笑した。下駄の歯がかなり高いものだから、こうしてやっと同じくらいの目線になる。
「猫又とか仙狸《せんり》って聞いたことない?やた丸はそれらしいよ。自分でもよく分かってないみたいだけど」
まことさんが言うと、やた丸はすぐそれに抗議した。
「猫又という言い方は好きくない。わしの尾は別に裂けてはおらんしの」そう言ってから、僕の肩から軽くトンと飛んで地面に降りた。「そんな事よりよいのか?早くしないとまた奴が暴れだすぞ」
まねき猫みたいに片足をくいっと上げ、やた丸は上の方を指した。
言われて僕は、額から滴り落ちる汗を拭いながら、重い首をなんとか動かして上を見上げた。
見てみると、確かにそこは他の所と少し違うようだった。自分達がいる辺りは割と雑多に生えている樹木が多いのに対して、そこは人の手が入っているのか、少し規則正しく木が植えられているように見える。
気付くと、木々の葉の間から差す光が何本も地面にまで伸びていて、確かに何かいそうな雰囲気は出てきているのだった。
「何だっけ。なんか、神様が暴れそうなんだっけ?本当かよ」
それでも、もうやめておけばいいのに、僕は何度繰り返したか分からない確認を未だに添えてしまう。
案の定、やた丸がすかさず言った。
「まだ言うか。じゃあお前の目の前にいるわしはなんなんじゃ。言うてみい」
しつこく言うてみい、言うてみい、と僕に迫る。やた丸はわざわざまた肩まで上がって来て、僕の頬を肉球でぐいぐい押した。どちらかと言うと僕は犬派だから、こんなことされてもちっとも嬉しくないというのに。
嫌々な感じでされるがままになっている僕を見て、さすがにそろそろ助けてくれるかなと期待したけれど、まことさんはそんな僕らの様子を見て、楽しそうに笑っているだけなのだった。
僕はやた丸から視線を外し、深々とため息をついた。
いつの間にやら、こんな風にしてすっかり馴染んでしまっている。かのように見える僕だったが、やっぱり人はそう簡単に順応できるものでもないらしい。まだまだふとした瞬間に、僕は我に返る事が多かった。
会話がふいに途切れた時。今みたいにやた丸と話している時。一種興奮状態だった頭が、これはおかしいと急に冷静になる。その度僕は自分の境遇が信じられなくなって、自分に問うのだった。
道を一本違えてしまった事くらいは分かる。それは分かっているが、それだけでこうも急に非日常の世界に放り出されてしまうものなのだろうか、と。
僕はただ閑静な住宅街を歩いていて、少し違う道を歩いてみようとふらっと路地に入ってみた。それくらい些細なことをしただけのはずなのに……
全く信じるところではなかったSFの世界のように、おかしな事態が自分に降りかかっている。
路地を抜けた先には、ニューヨークの喧騒が待っていた。あたふたと慌てているうちに、僕はいつの間にかその奔流に巻き込まれ、上も下も分からないくらいにもみくちゃにされてしまった。それ程突拍子もない事が、目の前で起こっている。あるいは、いきなりガンジス川で沐浴する人々に出くわしたとか、ベネチアのだだっ広いサンマルコ広場に出てしまったとかに言い換えてもいい。とにかく、振り返ると今来たはずの道は消えていて、もう僕はそこでどうにか立ち回っていくしかないような状況に置かれているのだった。
呆けて立ちつくすことさえ許されない。新しい状況は、そうして僕にどんどん振りかかってきたのだ。
まことさんに採用だと言われた後、僕は喫茶店の通常業務以外に、別の仕事を頼まれた。やた丸が、まことさんに何か耳打ちした後だった。
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