-序-
きっかけと言えば、何の事はない。その時付き合っていた彼女に言われた言葉が原因だった。
「は?何?何で?」
付き合ってちょうど1ヶ月くらい経った頃だった。僕は初めて出来た彼女に浮かれていて、まさに人生で最も幸せな時間を享受している真っ最中だった。あれもしたいこれもしたい。そう思っていたのに、突然とうの彼女が言った。
「別れよ」
彼女は急に立ち止まって振り返り、ただ一言そう言ってのけた。しかも何だか軽いノリで、今さっき決めた、みたいな感じで。
僕はその突然の言葉に動揺してしまって、何度も問いただした。なぜ?昨日まで隣で笑っていたじゃないか。それがいきなりどうして、そんな言葉が口から出るんだ。納得のいく説明をしろ、と。
今になって冷静に考えると、それがいけなかった。何でもずけずけモノを言う彼女が、言いあぐねていたのだ。普段通りの僕だったらきっと聞かなかったはずだ。
それなのに、ああそれなのに。
僕は、聞いてしまった。無理やり彼女の肩を持って、前後に揺らしまでした。すると、
「だって」
幾分迷いはしたものの、彼女は言いやがったのだった。
「あんた、何も無いじゃない」
一瞬文節が理解できなくて、僕にはそれが一つの言葉のように思えた。体が敵意ある何かに敏感に反応し、頭のどこかの回路を止めたらしかった。すぐに再起動 をかけようとしてもなかなか起動しない。まるで金がなくて仕方なく乗ってる、親父からもらった中古のポンコツバイクみたいだった。そのせいで何度も何度も キックして、再起動をかける羽目になってしまった。そうしてやっとの事で、僕はその言葉を理解した。
時折優しい風に波立つ湖面。ただその程度であった、幸せの最中の僕の頭の中。そこに突然投じられた言葉の大岩は、あまりに無骨で、それでいて無慈悲だった。
湖でのんきにひなたぼっこしていた鳥たちは、突然降って湧いたそれに場所替えを余儀なくされ、同じくいつものように平和に水の中で泳いでいた魚たちは、慌てて霧散していった。平和なその世界は、一気に様変わりしたのだ。
そしてまた、その破壊的な大きさの大岩によって生じた波が、僕を苦しめている。頭が良くないせいか、それはあっという間に頭の中の端っこにまで到達し、反 射する。反射する。また、反射する。跳ね返ってきた波同士が合わさって、どんどん大きな波になる。それがガツンと頭の端にぶつかる度、鈍い痛みを伴って僕 を苦しめる。もうあれから大分時間が経ったはずの、今でもだ。
この言葉さえ無ければ、今僕は平和な時間を、それこそ部屋でお茶でもしば きながら漫画でも読んで過ごしていただろう。馬鹿みたいに執着しないで、さっさと次の女の事でも考えておけばよかったのだ。そうすればまた、前と同じく何 も知らなかった自分でいることができ、学校に行って彼女に向かって見えないように後ろから唾を吐くなりして決別し、また日常に戻ることが出来たのだ。
それがどうして、一体どうしてこんな事になってるのだろう。僕は目の前の光景が信じられず、自分に降り注ぐ眩しい木漏れ日を仰ぎ見つつ、今更ながらにそう思ってみるしかないのだった。
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