彼らが築いた長く果てしない逃亡街道は、今日も変わらずそこにあった。
人がせわしく往来する大きな道はもちろん、あの広大な森を分かつように太く伸びた道も、剥かれたリンゴの皮のように螺旋状に伸びたあの山の道も、全てが変わらずそこにあった。きっとこの先何十年、何百年と、その姿は大きく変わることはないだろう。それ程この道は、人々にとってかけがえのないものなのである。
「……いよっし!」
ただ、少しづつだが、確実に変わっていっているところもあった。
彼は今日何個目かのその“修正作業”を終えると、ふうっと深く息を吐いて、額の汗を拭った。
「いよお亜人の兄ちゃん!今日も精がでんなあ!」
大きな道となると、そこに置かれている看板の数も必然、多くなる。
そうして何度も看板を直しているうちに、すっかりこの辺りの常連のようになってしまっていた彼は、今日も往来するキャラバンの商人たちに声を掛けられた。特に何か言葉を交わしたわけではなかったが、何度も顔を合わせているうちに、彼と彼らとの間には、奇妙な関係が築かれていったのだ。
商人たちは彼を見ると、売れ残った交易品を投げて寄越した。
彼はその果物を受け取ると、腕を高々と上げて、威勢よく返事をした。
「やあ!すまねえな!」
「なあに!余りもんだからよ!!」
世界を旅する商人たちだから、彼のような亜人を見慣れているのかもしれない。あるいは、彼が看板を直すという行為をしているせいで、公的な事業を担っている亜人にでも映ったか。何にせよ、初めて往来でまともに挨拶を交わすことが出来たのが、彼にはとても嬉しかった。亜人に理解のある人間も、確かにいるのだ。
しかしだからこそ、今日のこの出来事は、彼には堪えるものとなった。
たまたま近くで休憩を取り始めたキャラバンの人間たちと彼が談笑していると、そばを物々しい鉄騎馬兵団が通りかかり、声を掛けられた。
「貴様たち、何をしている」
彼は首を傾げた。
質問の意味が分からなかった。何をしているかは、見ればすぐに分かる。自分と彼らは、ただ談笑している。それだけだ。
しかしそうして首を傾げている彼に対して、キャラバンの面々は、一様に表情を固くさせていた。まるで罪を暴かれた罪人のような顔で狼狽し、騎馬の男を見上げていた。
「いえいえ何も。ただ世間話などをしていただけです」
冷えきった空気の中、何とかキャラバンのリーダーが男に答えた。
しかし男はそれには全く関心を示さず、彼の方に向く。
「貴様、亜人だな」
突然冷たい視線を浴びせられた彼は、肩をすくめた。
「見りゃ分かるだろ」
すると、騎馬の男が彼のそばまで寄り、彼を見下ろした。
彼のその態度が反抗的に映ったのか、その表情はひどく険しい。今にもその腰の剣で斬りつけてきそうだった。
一体何だというのか。彼がちらりと目を馬にやると、刻印の入った鞍が目に入った。
大陸を統べる巨大国家、“ギアース”の刻印であった。
「……何だよ。おんどれら警察か何かか?別に俺は何もしてねえぞ」
「そうですよ旦那。あっしらは本当に何もしとらんです」
雰囲気の悪さを見かねて商人たちの一人がフォローを入れるが、騎馬の男は表情は硬くしたまま、彼を見据えるだけだった。
そうして目を細め、ひとしきり彼を値踏みした後、男は言った。
「最近、この辺りで盗掘が行われているようでな」
「盗掘?」キャラバンのリーダーが訝しげに言った。「それが、私たちに何か関係が?」
その言葉に、騎馬の男はめんどくさそうに鼻から息を吐いてから、低い声で答えた。
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
この辺りに散見される遺跡群に、無断で入り込んでいる者がいる。男はそう言った。
遺跡は危険な場所もあり、その膨大な数のせいもあってまだまだ調査が進んでいないところが多い。そういう場所に遺された貴重な物品を狙い、連続的に盗掘を繰り返す者がいるらしい。騎馬の男たちはこの知らせを受け、犯人逮捕、及びこの辺りの警備のために周辺を巡回している。要約すると、そういうことのようだった。
「犯人は亜人だとの有力情報を得ている」男は殊更低い声で言った。「……言いたいことは分かるな?」
つまり、自分は疑われている?そう思ったところで、しかし彼は首を傾げた。
ざっと見ただけで、この騎馬兵団は50人以上はいる。少なくとも、普通の盗掘という行為に対して動員する規模ではないように彼には思えた。自分のような、ただ一人の人間を追うにしては多すぎる。盗賊団のような、大人数の組織相手ではないのだろうか。それとも何か、そうしなければならない理由でもあるのだろうか……。
そうして彼が思案していると、それを困っていると見て取ったのか、キャラバンのリーダーが男に口添えした。
「彼はやってませんよ。ずうっとこの場所で、作業していただけですから」
彼はギロリと目を向けてくる男にも怯まず、なおも言った。
「ほら。あの看板ピカピカでしょう。彼があれを直しているんですよ。私達がいつこの辺りを通っても、同じことをしていました」
リーダーはおそらく良かれと思ってフォローしてくれたのだろうが、彼はそれに、内心ドキリとしていた。
遠目だと確かに新品になっているだけなので問題はないが、近くまで寄られて内容を見られたら、まずいことになるかもしれない。
彼はそうして冷や汗を垂らしていたが、しかしその心配は杞憂に終わった。
男はつまらなさそうにふんと漏らすと、彼を横目に見下ろしながら言った。
「そんなことは分かっている。こいつの身長は大き過ぎる。犯人はせいぜい、170センチ程度しかないようだからな」
ならなぜ声を掛けたのか。言いはしなかったが、彼がじとっとした視線を男に送る。すると男は、こんなことを言った。
「だが亜人には犯罪者が多い。付き合い方は、よく考えることだな」
男にじろりと睨めつけるように見られたキャラバンの彼らは、その瞬間そそくさと腰を上げた。広げていた茶飲みセットをせっせと片付け、彼らは馬車に乗り込んでいく。
その様子を見て、ようやく騎馬の男が踵を返す。それを見計らって、キャラバンのリーダーが彼に耳打ちした。
(……すまない。官憲に睨まれると、私達は商売が出来なくなる)
言い終わると、その彼も足早に馬車に乗り込み、その場を去って行ってしまった。
本当に、あっという間だった。あれだけ居た人間が、あっという間に彼の前から姿を消し、また彼は独りになってしまった。
風の音だけが響く中、彼はため息をつきながら、リュックを背負った。
彼にとっては何度となく味わった状況だったが、今日はその風が、いやに目に染みた。
「これじゃくまたそじゃなくて、はぶたそぞ……」
一人ごちりながら、彼は思い出したかのように貰った果物にかじりついた。
柑橘系のその果物は、甘くて美味ではあった。しかし後味は少し渋くて、口の中に苦味が残った。
彼は少し顔をしかめながら、誰もいなくなった街道を歩き出した。まだ直していない看板もあったが、彼はその全てを放置した。
やることが出来てしまった。
(売られた喧嘩は、買わねえとな)
それが例え、直接的なものでないにしろ、だ。
誰だか知らないが、自分にこんな仕打ちをした報いは、必ず受けさせなければならない。お前がかじったのは、決して触れてはならない悪魔の果実だったのだ。美味ではあっても、あとに残る苦味はこの果物の比ではない。そのことを、きっちりと面と向かって教えてやらなければなるまい。
彼はそうして静かに笑い、また街道を歩き出したのだった。
きっと今はまだ甘い時間にいるであろうその愚かな人間を、自らの手で粛清するために……。
人がせわしく往来する大きな道はもちろん、あの広大な森を分かつように太く伸びた道も、剥かれたリンゴの皮のように螺旋状に伸びたあの山の道も、全てが変わらずそこにあった。きっとこの先何十年、何百年と、その姿は大きく変わることはないだろう。それ程この道は、人々にとってかけがえのないものなのである。
「……いよっし!」
ただ、少しづつだが、確実に変わっていっているところもあった。
彼は今日何個目かのその“修正作業”を終えると、ふうっと深く息を吐いて、額の汗を拭った。
「いよお亜人の兄ちゃん!今日も精がでんなあ!」
大きな道となると、そこに置かれている看板の数も必然、多くなる。
そうして何度も看板を直しているうちに、すっかりこの辺りの常連のようになってしまっていた彼は、今日も往来するキャラバンの商人たちに声を掛けられた。特に何か言葉を交わしたわけではなかったが、何度も顔を合わせているうちに、彼と彼らとの間には、奇妙な関係が築かれていったのだ。
商人たちは彼を見ると、売れ残った交易品を投げて寄越した。
彼はその果物を受け取ると、腕を高々と上げて、威勢よく返事をした。
「やあ!すまねえな!」
「なあに!余りもんだからよ!!」
世界を旅する商人たちだから、彼のような亜人を見慣れているのかもしれない。あるいは、彼が看板を直すという行為をしているせいで、公的な事業を担っている亜人にでも映ったか。何にせよ、初めて往来でまともに挨拶を交わすことが出来たのが、彼にはとても嬉しかった。亜人に理解のある人間も、確かにいるのだ。
しかしだからこそ、今日のこの出来事は、彼には堪えるものとなった。
たまたま近くで休憩を取り始めたキャラバンの人間たちと彼が談笑していると、そばを物々しい鉄騎馬兵団が通りかかり、声を掛けられた。
「貴様たち、何をしている」
彼は首を傾げた。
質問の意味が分からなかった。何をしているかは、見ればすぐに分かる。自分と彼らは、ただ談笑している。それだけだ。
しかしそうして首を傾げている彼に対して、キャラバンの面々は、一様に表情を固くさせていた。まるで罪を暴かれた罪人のような顔で狼狽し、騎馬の男を見上げていた。
「いえいえ何も。ただ世間話などをしていただけです」
冷えきった空気の中、何とかキャラバンのリーダーが男に答えた。
しかし男はそれには全く関心を示さず、彼の方に向く。
「貴様、亜人だな」
突然冷たい視線を浴びせられた彼は、肩をすくめた。
「見りゃ分かるだろ」
すると、騎馬の男が彼のそばまで寄り、彼を見下ろした。
彼のその態度が反抗的に映ったのか、その表情はひどく険しい。今にもその腰の剣で斬りつけてきそうだった。
一体何だというのか。彼がちらりと目を馬にやると、刻印の入った鞍が目に入った。
大陸を統べる巨大国家、“ギアース”の刻印であった。
「……何だよ。おんどれら警察か何かか?別に俺は何もしてねえぞ」
「そうですよ旦那。あっしらは本当に何もしとらんです」
雰囲気の悪さを見かねて商人たちの一人がフォローを入れるが、騎馬の男は表情は硬くしたまま、彼を見据えるだけだった。
そうして目を細め、ひとしきり彼を値踏みした後、男は言った。
「最近、この辺りで盗掘が行われているようでな」
「盗掘?」キャラバンのリーダーが訝しげに言った。「それが、私たちに何か関係が?」
その言葉に、騎馬の男はめんどくさそうに鼻から息を吐いてから、低い声で答えた。
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
この辺りに散見される遺跡群に、無断で入り込んでいる者がいる。男はそう言った。
遺跡は危険な場所もあり、その膨大な数のせいもあってまだまだ調査が進んでいないところが多い。そういう場所に遺された貴重な物品を狙い、連続的に盗掘を繰り返す者がいるらしい。騎馬の男たちはこの知らせを受け、犯人逮捕、及びこの辺りの警備のために周辺を巡回している。要約すると、そういうことのようだった。
「犯人は亜人だとの有力情報を得ている」男は殊更低い声で言った。「……言いたいことは分かるな?」
つまり、自分は疑われている?そう思ったところで、しかし彼は首を傾げた。
ざっと見ただけで、この騎馬兵団は50人以上はいる。少なくとも、普通の盗掘という行為に対して動員する規模ではないように彼には思えた。自分のような、ただ一人の人間を追うにしては多すぎる。盗賊団のような、大人数の組織相手ではないのだろうか。それとも何か、そうしなければならない理由でもあるのだろうか……。
そうして彼が思案していると、それを困っていると見て取ったのか、キャラバンのリーダーが男に口添えした。
「彼はやってませんよ。ずうっとこの場所で、作業していただけですから」
彼はギロリと目を向けてくる男にも怯まず、なおも言った。
「ほら。あの看板ピカピカでしょう。彼があれを直しているんですよ。私達がいつこの辺りを通っても、同じことをしていました」
リーダーはおそらく良かれと思ってフォローしてくれたのだろうが、彼はそれに、内心ドキリとしていた。
遠目だと確かに新品になっているだけなので問題はないが、近くまで寄られて内容を見られたら、まずいことになるかもしれない。
彼はそうして冷や汗を垂らしていたが、しかしその心配は杞憂に終わった。
男はつまらなさそうにふんと漏らすと、彼を横目に見下ろしながら言った。
「そんなことは分かっている。こいつの身長は大き過ぎる。犯人はせいぜい、170センチ程度しかないようだからな」
ならなぜ声を掛けたのか。言いはしなかったが、彼がじとっとした視線を男に送る。すると男は、こんなことを言った。
「だが亜人には犯罪者が多い。付き合い方は、よく考えることだな」
男にじろりと睨めつけるように見られたキャラバンの彼らは、その瞬間そそくさと腰を上げた。広げていた茶飲みセットをせっせと片付け、彼らは馬車に乗り込んでいく。
その様子を見て、ようやく騎馬の男が踵を返す。それを見計らって、キャラバンのリーダーが彼に耳打ちした。
(……すまない。官憲に睨まれると、私達は商売が出来なくなる)
言い終わると、その彼も足早に馬車に乗り込み、その場を去って行ってしまった。
本当に、あっという間だった。あれだけ居た人間が、あっという間に彼の前から姿を消し、また彼は独りになってしまった。
風の音だけが響く中、彼はため息をつきながら、リュックを背負った。
彼にとっては何度となく味わった状況だったが、今日はその風が、いやに目に染みた。
「これじゃくまたそじゃなくて、はぶたそぞ……」
一人ごちりながら、彼は思い出したかのように貰った果物にかじりついた。
柑橘系のその果物は、甘くて美味ではあった。しかし後味は少し渋くて、口の中に苦味が残った。
彼は少し顔をしかめながら、誰もいなくなった街道を歩き出した。まだ直していない看板もあったが、彼はその全てを放置した。
やることが出来てしまった。
(売られた喧嘩は、買わねえとな)
それが例え、直接的なものでないにしろ、だ。
誰だか知らないが、自分にこんな仕打ちをした報いは、必ず受けさせなければならない。お前がかじったのは、決して触れてはならない悪魔の果実だったのだ。美味ではあっても、あとに残る苦味はこの果物の比ではない。そのことを、きっちりと面と向かって教えてやらなければなるまい。
彼はそうして静かに笑い、また街道を歩き出したのだった。
きっと今はまだ甘い時間にいるであろうその愚かな人間を、自らの手で粛清するために……。
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