「キーワードは泥」
男が水球から逃げ回る彼の様子を見て、まるで泥仕合だと皮肉ったあの場面。彼は男のセリフの中から攻略のヒントを見つけ出し、自身を拘束していた水球の呪縛を解いたのだ。
「今までのお前の水球全部が、不自然なくらいに綺麗過ぎたわな」
彼の口元を覆った水。足音を演出していた水。それから、彼を襲ったあの水球。その全てが、無色透明だった。最後の水たまりから直接発生した水壁さえもである。
「別に敵に気を使う必要はないはずだよな。これだけどろどろの地面の水たまりから、わざわざ綺麗な所だけ探して使ってやるこたぁない訳よ。泥とか混ざってた方が目潰しになったりするし、なによりそこら辺から適当な泥水を集めて使っちまった方が、迅速に水球を作れるじゃねえか」
そして彼は、核心部分を男に突きつけた。
「だから俺は思ったんだわ。もしかしたらこいつは、“綺麗な水しか操れない”んじゃねえかってな」
仮にそうだった場合。続けて、彼は自身の考えを述べていく。
雨が止めば、濁っていた水たまりにも上澄みが出来て、上層は比較的綺麗な水になる。それを集めて水球を作っていたのだろう。逆に雨が降っている時はもっと簡単で、雨を直接集めればいいだけ。
彼は男に、こう説明した。
筋は通っているはずであった。しかし彼のそれに対して、男は何も返さなかった。表情を読み取ろうにも、掛けているゴーグルのせいでそれも難しかった。
歯を食いしばっているのは、自身の力を暴かれた悔しさからだろうか。それとも、単に彼の攻撃を耐え忍んでいるからなのか。
どちらとも見えた。まだ少し、男にこの事実を認めさせるのには至らないのかもしれない。
「……人間不意を突かれるとよお。とっさに最善策を取っちまうんだよな。それが頭のいい人間だったり、訓練された人間だったりしたらなおさらな」
だが、この話には続きがあった。だんまりを決め込む男に、彼からのダメ押しが為される。
突然何を言い出すのかと、そう言いたげな顔を男に向けられると、彼はニヤリと笑い、こう言った。
「俺が飛んでる水球に泥投げたろ。そん時お前どうした?」
言われてからしばらく、男はやはり何を言っているか分からないという顔を彼に向けていたが、ある時突然何かに気付いたようにハッとして、それから小さく舌打ちをした。
「……思い出したか?そう。お前はなぜかそれを避けさせたんだよ水球に。何でだろうなあ」
いちいち確認するようにそう言う彼に、今度はとってつけたようにギリギリと歯ぎしりをしながら男は悔しがった。どうやら何の事か男には分かったらしい。
「つまり、お前にとってあの時の“最善”は、水球に泥を避けさせる事だったって事なんだよな。まあ一見すりゃただそれだけの事なんだが、でもそれって、よく考えるとおかしいよな」
彼は見逃さなかった。それは本当に僅かな綻びだった。
「お前は得意そうに結構なスピードで水球を操作して、それを俺にぶつけて取り込もうとしていたよな。って事は、ちょっとやそっとの衝撃じゃあの水球は壊れたりしないって事だよな。なのに、お前は何で泥玉は避けさせちまったんだろうな。別に慌てて避ける必要は全然無いはずだが」
男はもはやぐうの音も出ないのか、ただ黙っている。
「綺麗な水球。泥。この2つでピーンと来たぜ。きっとこの水球は、不純物が混ざっちまうとまずいんだろうなって。案の定だったぜ」
彼はそれ以上は男に言わなかったが、ある程度その理由についても当たりをつけていた。
人体のような一定の塊を捕らえるのには何の問題も無いが、泥のような細かい粒子状の物質となると、話は別。その事から考えると、その理由についてはいくつか考えられた。
単に無生物を大量に取り込む事がダメなのかもしれない。もしくは、粒子が全体に広がってしまうと、水を水として認識出来なくなるからだったりするのかもしれない。水に砂を混ぜた時、どの地点までを水と呼ぶか、泥水と呼ぶかは人それぞれだろうが、あの兵器はそれを敏感に感じ取り、ある地点で明確に分けているのかもしれない。可能性としては、この説が有力か……?
(……おっと)
と、ふとまた思索にふけりそうになる彼だったが、途中で我に返る。
色々考える事は出来たが、今重要なのは、そんな事ではないのだ。
「もうお前の水球は怖くない」
この事実こそが、重要なのだ。銃という攻撃手段はあれど、男に自分を効果的に縛る手段は無くなった。それさえ無ければ、驚異的な速さと攻撃力を持つ銃からの攻撃も、銃口を向けて放つという一連の動作があるかぎり、避ける事はそんなに難しくはない。
もはや男に出来る事は、この状況では限られていた。銃撃を彼に当てられれば、とりあえず距離を開ける事くらいは、何とか出来るかもしれない。
「ぐう……っ」
そう考えたのかは分からないが、男は動いた。
両腕で水球を制御し、彼の攻撃をやっとの事で受け止めていた男だったが、ここで少し賭けに出る。
片腕を、新しい水球を作るのに費やしたのだ。
「ぐぬうううっ!」
おそらくは銃に装填するための水球を作ろうとしたのだろうと考えられるが、しかしそれはすぐに徒労に終わる。
片腕だけで耐えるのが相当つらいらしい。男は苦悶の表情を浮かべて、すぐさままた両腕での防御に徹し直したのである。
片腕で作った水球はやはり時間が足らなかったのか、十分な大きさになる前に瓦解してしまった。
「ぐっ!なぜだ!水が集まらん!」
思い通りにいかない焦りからか、男は疑問をついそのまま口に出してしまう。
男の口ぶりからすると、水球を作るための時間としては十分だったようである。そうではなくて、ただ単に水の集まりが悪かった。そういう事のように聞こえた。
そんな男の慌てふためく様子を見て、彼の方はニヤニヤと笑っていた。彼は理由を知っていたのだ。
「この辺よぉ……俺がさっき滅茶苦茶に暴れたとこなんだよな」彼は首をひねり、男に促した。「そのゴーグルで暗くても見えるんだろ?周り確認してみろよ」
相当慌てているのか、言われるがままに男は周囲を見渡す。
そしてすぐに、男はそれに気付いた。
「……くっ!」
「気付いたか?“綺麗な水たまり”はこの辺にゃねえって事が」
今彼らが立っている場所は、先程まで彼が水球を避け続けて場を荒らした場所である。彼のせいで地面はすっかりぐちゃぐちゃになっていて、水たまりも泥で濁りきっている。
周囲の水を集めて水球を作り出す男にとって、この場所は死地なのだった。能力を制限された場所と言っていいだろう。彼は男をただ殴り飛ばした訳ではなく、このフィールドに誘導するためにそうしたのだ。
「やっぱ近くに綺麗な水が無いと作るのに時間がかかるみてえだな」
男の能力が発揮出来る距離は広い方である。自身の周囲50メートルといった所だろうか。通常の状態であれば、多少時間がかかっても水球は作り出す事は出来るし、何も問題は起こらない。
しかし、こういった迅速に水球を作らなければならない状況では別である。彼の絶え間ない攻撃で水球は作れない。であれば当然、銃に弾をこめる事も出来ない。
「詰みだよ」
彼は静かに言い放った。
「水球は効かねえ作れねえ。銃も撃てねえ。この戦いは、もうとっくに終わってんだ」
最後に一応、諦めろ、おとなしく捕まれと彼は加えた。例え明確に敵対した相手でも、彼は一応確認する。彼が一度攻撃してしまえば、まず誰もが無事では済まないからだ。
先程攻撃を受けた男が、一番それを理解しているはず。彼は男が降参する可能性も十分あると考えていたのだが、予想に反して、男は諦めなかった。歯を食いしばって、男はずっと彼の攻撃を耐え続けていた。まだ希望があるかのように。
「……終わってなどいないさ」
「ああん?」
「確かに、貴様に勝つ事はもう難しいかもしれん。だがこれからどうするのだ」
怪訝そうに眉を上げる彼に、男は言う。
「この程度の攻撃、私は何時間だって耐える事が出来る。だから私はこのまま、貴様が疲れるのを待てばいいだけだ。さしもの貴様も、この連続攻撃をそれだけ長時間はなっていられる程のスタミナはあるまい」
男はどうやら、持久戦に持ち込むつもりのようだ。彼が男のスライム状の水球を看破出来ないのをいい事に、である。
実際、男のこの水球はよく出来ていた。彼が男と接触した際に、彼はまた握りこんだ泥でその水球を割ってやろうと考えていたが、このスライム状の水球にはそれが通用しなかった。泥が弾かれてしまい、中まで浸透しないのだ。
防御力もこの通り、大したものである。彼からしても、確かにこの水球はなかなかの逸品なのであった。だからこそ、男も諦めないのだ。
「攻撃……攻撃ねえ……」
しかし彼は、静かに笑って言うのだった。そんな事は、全く問題ともしていないように。
「嬉しい事言ってくれるじゃないの。ありがとよ」
今度は男が怪訝な顔を作る番だった。論破したはずの相手からお礼をされる謂れはないはずだから、当然である。
一体お前は何を言っているのか。きっとそう男が言おうとした所で、彼は言った。
「いや、攻撃じゃねえのよ。これ」
「何?」
やはりおかしな事を言い出す彼に男はつい聞き返してしまうが、彼はそれには取り合わなかった。
「いやーこれが攻撃に感じられるって事は、俺の力はやっぱり外界でもつええって事だよなあ。結構嬉しいぜ」
殴り続けながら器用にウンウンと頷く彼だったが、男には何が嬉しいのか、全く見当がつかない。
「……貴様、何を言っている」
苛立ちを含んだ声で男が言うと、そこでようやく、何やら悦に入っていた彼が我に返る。
「おっと、すまねえ。戦闘中だったな」
「これが攻撃じゃないとしたら一体何だと言うのだ。それ以外に何がある」
男の疑問はもっともである。彼はこうして話している間も男の水球をずっと殴り続けている訳だが、傍目にも、彼が男に一方的に攻撃を加え続けている絵にしか見えない。10人居たら10人が、“彼は男に攻撃している”と答えるだろう。
そもそも、戦闘中であるという前提がある時点で、誰にも答えに辿り着く事など出来るはずはないのだった。その解答は、完全にその前提の外にあるものだったからだ。
「筋トレだよ。筋トレ」
彼は男にそう答えてから、少し力を強めて水球を殴り始めた。
「筋……トレ……?」
その力は徐々に上がっていくが、男はそれに気付かない。正常な判断が出来ない程頭に血が昇っているという訳でもないようだったが、とにかく気付かなかった。同じリズムで同じ攻撃をずっと受け続けたせいで、感覚が麻痺していたのかもしれない。
「貴様、強がりもいい加減にしろ」
彼の言わんとしている所を、男はすぐに理解していた。つまりこれは攻撃ではなくて筋トレだから、水球を突破出来ないだけだと言いたいのだろうと。きちんと本気で“攻撃”すればなんて事はない。そう言いたいんだろうと男が言うと、彼はそうだと頷いた。
彼の顔はいたって真面目なもので、少なくとも冗談を言っているような顔では無かったのだが、それでも男はハッ、とそれを鼻で笑い飛ばした。
「苦し紛れにも程があるが……まあいい。面白い。やって見せろ。出来るものならな」
男もこの間、ただ彼にやられていた訳ではなく、しっかりと水面下で万全の状態を作り上げていたのだった。彼に凹まされて分かりにくいが、水球はおそらく、分量としては先程の2倍以上となっているように見えた。男もさすがに抜け目がない。
ここからはどちらの能力が上か、単純な力比べである。
「……お前の能力ばっか見せてもらって悪いからな。俺の力も少し見せてやるよ」
しかしこの局面になってしまった時点で、大勢は決せられていた。彼に物質的な力で対向する。それを選んだ時点で、選ばされた時点で、男の敗北はほぼ決まってしまったようなものだった。
彼に対して力比べを挑むなんて事は、そもそも無謀なのだ。
彼はそのまま、防御されている事などお構いなしに、殴った。ただ殴った。殴り続けた。
やっている事は先程からずっと変わらない。ただ愚直にそうしているだけである。だから、彼自身に少しづつ変化が起こっているのに男が気付かないのも、仕方のない事なのかも知れなかった。
「っく!?…………フハハハ!確かに大した力だが、こんなものか!さっきと大して変わらん……ぞ……?」
最初は余裕を見せていた男の顔が、急速に青ざめていく。男がその変化に気付いたのは、もう既にどうしようもなく、何もかもが手遅れになってからであった。
「貴様……それは……」
彼の変化に呆気にとられる男。口はポカンと開けられたまま、閉じられない。
しばし拮抗していたはずの彼らの力比べは、唐突に終わりを告げた。それまではある点でなんとか形を保っていた水球だったが、徐々に男が押され始め、また引き伸ばされ始めたのだ。
「おう。やっと気付いたか」
そうして大いに見せつけてから、彼は得意そうに、高らかに言った。
「『G・P・U(グレイト・パンプ・アップ)』!!!!」
男は汗をだらだらと流しながら狼狽している。なにか恐ろしい物でも見ているかのようだった。
「……グレ……?」
「グレイト・パンプ・アップだ」
わなわなと震えながら未だ呆けている男に、彼は繰り返した。彼の体に起こった恐るべき変化に、男は言葉が無いのだ。
「何……だそれは……」
男が彼を指差す。否、彼の肥大化した両腕を指差す。
すると彼は、ニッ、と爽やかに笑いながら額の汗を拭い、答えた。まるでひと汗かいたばかりのジムトレーナーのようだった。
「知りたいか?別に教えてやってもいいけど、その代わりちゃんと聞けよ?」
説明しよう!という彼の元気な掛け声から、その解説は始まった。
「パンプアップは、さすがに聞いた事あるだろ」
パンプアップとは、筋肉トレーニング後に筋肉が膨張する現象の事である。疲弊して、熱を帯びた筋肉に体液が集まって、一時的に膨らむのである。
「言ってみりゃ、その場だけの見せかけの筋肉なんだが、俺のパンプアップはそんな普通のものじゃあねえ。グレイトなパンプアップだ」
通常、筋肉はトレーニングを数ヶ月程繰り返して、やっと獲得するものである。筋肉に負荷をかけ、痛めつける事から始まり、そして発生した筋肉痛に悶絶しながら、回復を待つ。痛みがある時はトレーニングを控えた方が良い。筋肉痛が止んだ時、筋肉は超回復と呼ばれる状態を経て、その量を増すからだ。
そして回復したら、また負荷をかけ、痛めつけて……筋肉はそれを繰り返して、やっと獲得するものなのである。
そこまで説明して、しかし彼は言った。
「この筋トレ、筋肉痛、超回復のサイクルを、俺は短縮する事が出来る」
彼の兵器、『サバス』は、特別なものだった。定期摂取すればすぐに筋力操作を出来るという訳ではなく、きちんとトレーニングをしなければならないのだが、その代わり高い潜在性を秘めている。ただ単に持っているだけで力を発揮出来る兵器とは一線を画す。全く新しいタイプの兵器なのだった。
彼の体は、このサバスの力によって通常人間には成し得ないはずの回復力を有していた。それが可能にするのが、この彼が言うグレイト・パンプ・アップ、通称GPUなのだ。
「しっかり集中的に筋トレすれば、俺は一定時間その箇所の筋肉量を増大する事が出来る。見せかけの筋肉じゃねえ本物だ。それがこの、グレイト・パンプ・アップって訳だ」
今や彼の腕は、この『水球殴り筋トレ』のお陰で、通常の2倍……いや、3倍以上にも膨れ上がっていた。いささかアンバランスに見えなくもないが、体幹がしっかりしているおかげか、彼がバランスを崩す事は無かった。
「以上、説明終わり!いやーいい筋トレだった!」
彼のトレーニングは完了した。男にとっては、完了してしまったと言った方がいいだろうか。
「さて……」
彼がぎらりと光る目を男に向けると、一瞬、男に浴びせられる拳の雨が止む。彼が一度、溜めを作るために腰に拳を置いたからだ。
「ま、待て……」
それだけで凄まじい圧力を放つ彼に、男は戦慄していた。
男にももう分かっているのだろう。“これ”に耐える力は、おそらく自分には無いと。
しかし彼は、男のその「待った」を聞き入れなかった。彼が男に与えた持ち時間は、すでに消費されきっていたのだ。
「我流……」
「……待て」
一度動き出した彼が止まる事はなかった。男の命令は、当然のごとく無視される。
「ゴリ押し空手……」
彼がもう止まらないと分かると、男の顔がどんどんと青ざめ、引き攣っていく。
「ま、待て!……いや、待ってくれ!少し話を……」
命令が懇願に変わっても、彼は止まらない。
ひゅう、と彼が大きく息を吸い込むと、いよいよ男の顔は真っ青になり、
「分かった!まいった!!私の負……」
と、降参を叫ぼうとしたが、最後まで言えずに彼に遮られてしまった。
「投了がおせえ!!」
そうして拳を振りかぶった彼の姿は、男にはさながら刀を構えた死刑執行人のように見えた事だろう。
『我流・ゴリ押し空手・刃把波爆裂拳』
彼は丸太のように膨らんだ腕を、先程と何ら変わりない速さで男の水球に打ち込んだ。
「ぐ、ああああ!!!」
男の防御能力は優秀であったが、それでも到底耐えきれるものではなかった。普通なら持て余してしまう筋肉のはずだが、彼のパンチが手打ちになってしまう事はなく、しっかりと腰の入った拳が打ち込まれていた。
水球はどんどんと引き伸ばされていく。そして、やがて……
「待て!!まいった!!まいったあああああ!!」
限界まで薄く伸ばされた水球は、男が恐怖で叫ぶのと同時に、ゴム風船が爆ぜるような音を出して破裂し、霧散した。
水球に最後の一撃を加えた彼の右拳が、そのまま男の腹部に突き刺さる。
「ぐぼぇ!!」
拳の勢いはほぼ水球によって相殺されているはずだったが、それでも男は、軽々ときりもみしながら吹き飛んだ。
「が……っ!」
すぐに男が、どこかに激しく叩きつけられる音がする。彼は追撃を加えようと物凄いスピードで男を追いかけたが、途中で何かに気付き、その足をピタリと止めた。
一本の大きな木。おそらくそこに背中から思い切り叩きつけられたのだろう。男はがっくりと首を落とし、その木に背を預けきっていた。もはや追撃の必要はなかったのだ。
「……ふうむ?」
彼はそれを確認すると、自分の拳を見つめながら、小首を傾げた。
やられたように見せかけ、油断させて襲いかかる。まだそうしたブラフの可能性も無くはない状況であったが、彼はそれには全く構わず、さっさと戦闘態勢を解いてしまった。
それはもう無い。彼はそう確信していたのだ。
「……ずいぶん軽いな。筋トレをお勧めするぜ」
水球による防御の無い男の体は、パワーアップした彼の前では、まるで羽のような軽さだった。もしかすると、通常状態の彼でもそう感じたかもしれない。そう思ってしまう程、彼の拳には手応えが残らなかったのである。
結局、男は兵器に頼りきりの人間だったのだ。持っているだけで簡単に圧倒的な力を得る事の出来るそれに甘えて、本来やるべき鍛錬を怠っていたのだろう。兵器の扱いには長けていたが、ただそれだけだった。
「やっぱりシステマーだよ。お前」
うなだれる男を見下ろしながら言った、再度のこの彼のセリフにより、勝負は完全に決せられた。彼の完全勝利である。時間にして十数分という短い攻防ではあったが、彼が持つ様々な力が、十二分に発揮された戦闘だったと言えよう。
外での初めての戦いであったが、なんとか勝って終わる事が出来た。自分の力は、外でもちゃんと通じるのだ。これなら問題無く、これからも旅を続けられそうである。
「……んっ……くう~!……っとと」
そう思いながら伸びをして、なんとはなしに上を見上げてみた時、彼は突然目の前に広がった光景に軽いめまいを覚え、後ろに倒れ込みそうになった。
吸い込まれそうな夜空とは、こういうものの事を言うのかもしれない。いつの間にやら台風一過のように晴れ渡った夜空に、月がぽっかりと浮かんでいた。あの雨を降らしていた厚い雲はもうすっかりどこかへと消え去っていて、一欠片の後塵さえも残ってはいなかったのだ。
彼は、その澄み切った空気の中、月の光を一身に受けながら、深く深く、息を吐いた。
終わってみれば余裕の戦いだったとは言え、やはり何だかんだで肩肘を張っていたらしい事にそこで気が付く。そのどこかで凝り固まってしまった緊張の塊を解そうと、彼は大きく肩を回した。
今度はもう少し、リラックスして戦いに臨みたい所。再び静けさを取り戻した森の中、ゴキゴキと音を鳴らしながら、しばらくそうして体の具合を見ていた彼だったが、途中で何かを思い出したようにハッとして、男の方に向き直った。
そうゆっくりもしていられないのだった。すぐに確認しなければならない事があったのだ。
「……いけねえいけねえ。忘れてたぜ」
男が兵器を自称し、用いてきた“鏡花水月”と呼ばれるもの。それが、自分の知っているあの鏡花水月なのか、否か。それを直に見て確認しなければならない。
名前と能力が偶然同じなだけの、ただの兵器であるという可能性もある。それならそれで良い。ただ取り上げて使えないようにしてやればいいだけで、難しい事は何も無いからだ。
問題は、これが兵器以上のものだった場合である。そして現時点で、既にその可能性は限りなく高かった。名前と能力が同じというのは、偶然にしては出来過ぎている。
これがもし本物の鏡花水月なら、自分の旅は想像以上に大変なものとなるかもしれない。
と、彼が顔をしかめながら、まさに男に腕を伸ばしかけた、その時だった。
男が水球から逃げ回る彼の様子を見て、まるで泥仕合だと皮肉ったあの場面。彼は男のセリフの中から攻略のヒントを見つけ出し、自身を拘束していた水球の呪縛を解いたのだ。
「今までのお前の水球全部が、不自然なくらいに綺麗過ぎたわな」
彼の口元を覆った水。足音を演出していた水。それから、彼を襲ったあの水球。その全てが、無色透明だった。最後の水たまりから直接発生した水壁さえもである。
「別に敵に気を使う必要はないはずだよな。これだけどろどろの地面の水たまりから、わざわざ綺麗な所だけ探して使ってやるこたぁない訳よ。泥とか混ざってた方が目潰しになったりするし、なによりそこら辺から適当な泥水を集めて使っちまった方が、迅速に水球を作れるじゃねえか」
そして彼は、核心部分を男に突きつけた。
「だから俺は思ったんだわ。もしかしたらこいつは、“綺麗な水しか操れない”んじゃねえかってな」
仮にそうだった場合。続けて、彼は自身の考えを述べていく。
雨が止めば、濁っていた水たまりにも上澄みが出来て、上層は比較的綺麗な水になる。それを集めて水球を作っていたのだろう。逆に雨が降っている時はもっと簡単で、雨を直接集めればいいだけ。
彼は男に、こう説明した。
筋は通っているはずであった。しかし彼のそれに対して、男は何も返さなかった。表情を読み取ろうにも、掛けているゴーグルのせいでそれも難しかった。
歯を食いしばっているのは、自身の力を暴かれた悔しさからだろうか。それとも、単に彼の攻撃を耐え忍んでいるからなのか。
どちらとも見えた。まだ少し、男にこの事実を認めさせるのには至らないのかもしれない。
「……人間不意を突かれるとよお。とっさに最善策を取っちまうんだよな。それが頭のいい人間だったり、訓練された人間だったりしたらなおさらな」
だが、この話には続きがあった。だんまりを決め込む男に、彼からのダメ押しが為される。
突然何を言い出すのかと、そう言いたげな顔を男に向けられると、彼はニヤリと笑い、こう言った。
「俺が飛んでる水球に泥投げたろ。そん時お前どうした?」
言われてからしばらく、男はやはり何を言っているか分からないという顔を彼に向けていたが、ある時突然何かに気付いたようにハッとして、それから小さく舌打ちをした。
「……思い出したか?そう。お前はなぜかそれを避けさせたんだよ水球に。何でだろうなあ」
いちいち確認するようにそう言う彼に、今度はとってつけたようにギリギリと歯ぎしりをしながら男は悔しがった。どうやら何の事か男には分かったらしい。
「つまり、お前にとってあの時の“最善”は、水球に泥を避けさせる事だったって事なんだよな。まあ一見すりゃただそれだけの事なんだが、でもそれって、よく考えるとおかしいよな」
彼は見逃さなかった。それは本当に僅かな綻びだった。
「お前は得意そうに結構なスピードで水球を操作して、それを俺にぶつけて取り込もうとしていたよな。って事は、ちょっとやそっとの衝撃じゃあの水球は壊れたりしないって事だよな。なのに、お前は何で泥玉は避けさせちまったんだろうな。別に慌てて避ける必要は全然無いはずだが」
男はもはやぐうの音も出ないのか、ただ黙っている。
「綺麗な水球。泥。この2つでピーンと来たぜ。きっとこの水球は、不純物が混ざっちまうとまずいんだろうなって。案の定だったぜ」
彼はそれ以上は男に言わなかったが、ある程度その理由についても当たりをつけていた。
人体のような一定の塊を捕らえるのには何の問題も無いが、泥のような細かい粒子状の物質となると、話は別。その事から考えると、その理由についてはいくつか考えられた。
単に無生物を大量に取り込む事がダメなのかもしれない。もしくは、粒子が全体に広がってしまうと、水を水として認識出来なくなるからだったりするのかもしれない。水に砂を混ぜた時、どの地点までを水と呼ぶか、泥水と呼ぶかは人それぞれだろうが、あの兵器はそれを敏感に感じ取り、ある地点で明確に分けているのかもしれない。可能性としては、この説が有力か……?
(……おっと)
と、ふとまた思索にふけりそうになる彼だったが、途中で我に返る。
色々考える事は出来たが、今重要なのは、そんな事ではないのだ。
「もうお前の水球は怖くない」
この事実こそが、重要なのだ。銃という攻撃手段はあれど、男に自分を効果的に縛る手段は無くなった。それさえ無ければ、驚異的な速さと攻撃力を持つ銃からの攻撃も、銃口を向けて放つという一連の動作があるかぎり、避ける事はそんなに難しくはない。
もはや男に出来る事は、この状況では限られていた。銃撃を彼に当てられれば、とりあえず距離を開ける事くらいは、何とか出来るかもしれない。
「ぐう……っ」
そう考えたのかは分からないが、男は動いた。
両腕で水球を制御し、彼の攻撃をやっとの事で受け止めていた男だったが、ここで少し賭けに出る。
片腕を、新しい水球を作るのに費やしたのだ。
「ぐぬうううっ!」
おそらくは銃に装填するための水球を作ろうとしたのだろうと考えられるが、しかしそれはすぐに徒労に終わる。
片腕だけで耐えるのが相当つらいらしい。男は苦悶の表情を浮かべて、すぐさままた両腕での防御に徹し直したのである。
片腕で作った水球はやはり時間が足らなかったのか、十分な大きさになる前に瓦解してしまった。
「ぐっ!なぜだ!水が集まらん!」
思い通りにいかない焦りからか、男は疑問をついそのまま口に出してしまう。
男の口ぶりからすると、水球を作るための時間としては十分だったようである。そうではなくて、ただ単に水の集まりが悪かった。そういう事のように聞こえた。
そんな男の慌てふためく様子を見て、彼の方はニヤニヤと笑っていた。彼は理由を知っていたのだ。
「この辺よぉ……俺がさっき滅茶苦茶に暴れたとこなんだよな」彼は首をひねり、男に促した。「そのゴーグルで暗くても見えるんだろ?周り確認してみろよ」
相当慌てているのか、言われるがままに男は周囲を見渡す。
そしてすぐに、男はそれに気付いた。
「……くっ!」
「気付いたか?“綺麗な水たまり”はこの辺にゃねえって事が」
今彼らが立っている場所は、先程まで彼が水球を避け続けて場を荒らした場所である。彼のせいで地面はすっかりぐちゃぐちゃになっていて、水たまりも泥で濁りきっている。
周囲の水を集めて水球を作り出す男にとって、この場所は死地なのだった。能力を制限された場所と言っていいだろう。彼は男をただ殴り飛ばした訳ではなく、このフィールドに誘導するためにそうしたのだ。
「やっぱ近くに綺麗な水が無いと作るのに時間がかかるみてえだな」
男の能力が発揮出来る距離は広い方である。自身の周囲50メートルといった所だろうか。通常の状態であれば、多少時間がかかっても水球は作り出す事は出来るし、何も問題は起こらない。
しかし、こういった迅速に水球を作らなければならない状況では別である。彼の絶え間ない攻撃で水球は作れない。であれば当然、銃に弾をこめる事も出来ない。
「詰みだよ」
彼は静かに言い放った。
「水球は効かねえ作れねえ。銃も撃てねえ。この戦いは、もうとっくに終わってんだ」
最後に一応、諦めろ、おとなしく捕まれと彼は加えた。例え明確に敵対した相手でも、彼は一応確認する。彼が一度攻撃してしまえば、まず誰もが無事では済まないからだ。
先程攻撃を受けた男が、一番それを理解しているはず。彼は男が降参する可能性も十分あると考えていたのだが、予想に反して、男は諦めなかった。歯を食いしばって、男はずっと彼の攻撃を耐え続けていた。まだ希望があるかのように。
「……終わってなどいないさ」
「ああん?」
「確かに、貴様に勝つ事はもう難しいかもしれん。だがこれからどうするのだ」
怪訝そうに眉を上げる彼に、男は言う。
「この程度の攻撃、私は何時間だって耐える事が出来る。だから私はこのまま、貴様が疲れるのを待てばいいだけだ。さしもの貴様も、この連続攻撃をそれだけ長時間はなっていられる程のスタミナはあるまい」
男はどうやら、持久戦に持ち込むつもりのようだ。彼が男のスライム状の水球を看破出来ないのをいい事に、である。
実際、男のこの水球はよく出来ていた。彼が男と接触した際に、彼はまた握りこんだ泥でその水球を割ってやろうと考えていたが、このスライム状の水球にはそれが通用しなかった。泥が弾かれてしまい、中まで浸透しないのだ。
防御力もこの通り、大したものである。彼からしても、確かにこの水球はなかなかの逸品なのであった。だからこそ、男も諦めないのだ。
「攻撃……攻撃ねえ……」
しかし彼は、静かに笑って言うのだった。そんな事は、全く問題ともしていないように。
「嬉しい事言ってくれるじゃないの。ありがとよ」
今度は男が怪訝な顔を作る番だった。論破したはずの相手からお礼をされる謂れはないはずだから、当然である。
一体お前は何を言っているのか。きっとそう男が言おうとした所で、彼は言った。
「いや、攻撃じゃねえのよ。これ」
「何?」
やはりおかしな事を言い出す彼に男はつい聞き返してしまうが、彼はそれには取り合わなかった。
「いやーこれが攻撃に感じられるって事は、俺の力はやっぱり外界でもつええって事だよなあ。結構嬉しいぜ」
殴り続けながら器用にウンウンと頷く彼だったが、男には何が嬉しいのか、全く見当がつかない。
「……貴様、何を言っている」
苛立ちを含んだ声で男が言うと、そこでようやく、何やら悦に入っていた彼が我に返る。
「おっと、すまねえ。戦闘中だったな」
「これが攻撃じゃないとしたら一体何だと言うのだ。それ以外に何がある」
男の疑問はもっともである。彼はこうして話している間も男の水球をずっと殴り続けている訳だが、傍目にも、彼が男に一方的に攻撃を加え続けている絵にしか見えない。10人居たら10人が、“彼は男に攻撃している”と答えるだろう。
そもそも、戦闘中であるという前提がある時点で、誰にも答えに辿り着く事など出来るはずはないのだった。その解答は、完全にその前提の外にあるものだったからだ。
「筋トレだよ。筋トレ」
彼は男にそう答えてから、少し力を強めて水球を殴り始めた。
「筋……トレ……?」
その力は徐々に上がっていくが、男はそれに気付かない。正常な判断が出来ない程頭に血が昇っているという訳でもないようだったが、とにかく気付かなかった。同じリズムで同じ攻撃をずっと受け続けたせいで、感覚が麻痺していたのかもしれない。
「貴様、強がりもいい加減にしろ」
彼の言わんとしている所を、男はすぐに理解していた。つまりこれは攻撃ではなくて筋トレだから、水球を突破出来ないだけだと言いたいのだろうと。きちんと本気で“攻撃”すればなんて事はない。そう言いたいんだろうと男が言うと、彼はそうだと頷いた。
彼の顔はいたって真面目なもので、少なくとも冗談を言っているような顔では無かったのだが、それでも男はハッ、とそれを鼻で笑い飛ばした。
「苦し紛れにも程があるが……まあいい。面白い。やって見せろ。出来るものならな」
男もこの間、ただ彼にやられていた訳ではなく、しっかりと水面下で万全の状態を作り上げていたのだった。彼に凹まされて分かりにくいが、水球はおそらく、分量としては先程の2倍以上となっているように見えた。男もさすがに抜け目がない。
ここからはどちらの能力が上か、単純な力比べである。
「……お前の能力ばっか見せてもらって悪いからな。俺の力も少し見せてやるよ」
しかしこの局面になってしまった時点で、大勢は決せられていた。彼に物質的な力で対向する。それを選んだ時点で、選ばされた時点で、男の敗北はほぼ決まってしまったようなものだった。
彼に対して力比べを挑むなんて事は、そもそも無謀なのだ。
彼はそのまま、防御されている事などお構いなしに、殴った。ただ殴った。殴り続けた。
やっている事は先程からずっと変わらない。ただ愚直にそうしているだけである。だから、彼自身に少しづつ変化が起こっているのに男が気付かないのも、仕方のない事なのかも知れなかった。
「っく!?…………フハハハ!確かに大した力だが、こんなものか!さっきと大して変わらん……ぞ……?」
最初は余裕を見せていた男の顔が、急速に青ざめていく。男がその変化に気付いたのは、もう既にどうしようもなく、何もかもが手遅れになってからであった。
「貴様……それは……」
彼の変化に呆気にとられる男。口はポカンと開けられたまま、閉じられない。
しばし拮抗していたはずの彼らの力比べは、唐突に終わりを告げた。それまではある点でなんとか形を保っていた水球だったが、徐々に男が押され始め、また引き伸ばされ始めたのだ。
「おう。やっと気付いたか」
そうして大いに見せつけてから、彼は得意そうに、高らかに言った。
「『G・P・U(グレイト・パンプ・アップ)』!!!!」
男は汗をだらだらと流しながら狼狽している。なにか恐ろしい物でも見ているかのようだった。
「……グレ……?」
「グレイト・パンプ・アップだ」
わなわなと震えながら未だ呆けている男に、彼は繰り返した。彼の体に起こった恐るべき変化に、男は言葉が無いのだ。
「何……だそれは……」
男が彼を指差す。否、彼の肥大化した両腕を指差す。
すると彼は、ニッ、と爽やかに笑いながら額の汗を拭い、答えた。まるでひと汗かいたばかりのジムトレーナーのようだった。
「知りたいか?別に教えてやってもいいけど、その代わりちゃんと聞けよ?」
説明しよう!という彼の元気な掛け声から、その解説は始まった。
「パンプアップは、さすがに聞いた事あるだろ」
パンプアップとは、筋肉トレーニング後に筋肉が膨張する現象の事である。疲弊して、熱を帯びた筋肉に体液が集まって、一時的に膨らむのである。
「言ってみりゃ、その場だけの見せかけの筋肉なんだが、俺のパンプアップはそんな普通のものじゃあねえ。グレイトなパンプアップだ」
通常、筋肉はトレーニングを数ヶ月程繰り返して、やっと獲得するものである。筋肉に負荷をかけ、痛めつける事から始まり、そして発生した筋肉痛に悶絶しながら、回復を待つ。痛みがある時はトレーニングを控えた方が良い。筋肉痛が止んだ時、筋肉は超回復と呼ばれる状態を経て、その量を増すからだ。
そして回復したら、また負荷をかけ、痛めつけて……筋肉はそれを繰り返して、やっと獲得するものなのである。
そこまで説明して、しかし彼は言った。
「この筋トレ、筋肉痛、超回復のサイクルを、俺は短縮する事が出来る」
彼の兵器、『サバス』は、特別なものだった。定期摂取すればすぐに筋力操作を出来るという訳ではなく、きちんとトレーニングをしなければならないのだが、その代わり高い潜在性を秘めている。ただ単に持っているだけで力を発揮出来る兵器とは一線を画す。全く新しいタイプの兵器なのだった。
彼の体は、このサバスの力によって通常人間には成し得ないはずの回復力を有していた。それが可能にするのが、この彼が言うグレイト・パンプ・アップ、通称GPUなのだ。
「しっかり集中的に筋トレすれば、俺は一定時間その箇所の筋肉量を増大する事が出来る。見せかけの筋肉じゃねえ本物だ。それがこの、グレイト・パンプ・アップって訳だ」
今や彼の腕は、この『水球殴り筋トレ』のお陰で、通常の2倍……いや、3倍以上にも膨れ上がっていた。いささかアンバランスに見えなくもないが、体幹がしっかりしているおかげか、彼がバランスを崩す事は無かった。
「以上、説明終わり!いやーいい筋トレだった!」
彼のトレーニングは完了した。男にとっては、完了してしまったと言った方がいいだろうか。
「さて……」
彼がぎらりと光る目を男に向けると、一瞬、男に浴びせられる拳の雨が止む。彼が一度、溜めを作るために腰に拳を置いたからだ。
「ま、待て……」
それだけで凄まじい圧力を放つ彼に、男は戦慄していた。
男にももう分かっているのだろう。“これ”に耐える力は、おそらく自分には無いと。
しかし彼は、男のその「待った」を聞き入れなかった。彼が男に与えた持ち時間は、すでに消費されきっていたのだ。
「我流……」
「……待て」
一度動き出した彼が止まる事はなかった。男の命令は、当然のごとく無視される。
「ゴリ押し空手……」
彼がもう止まらないと分かると、男の顔がどんどんと青ざめ、引き攣っていく。
「ま、待て!……いや、待ってくれ!少し話を……」
命令が懇願に変わっても、彼は止まらない。
ひゅう、と彼が大きく息を吸い込むと、いよいよ男の顔は真っ青になり、
「分かった!まいった!!私の負……」
と、降参を叫ぼうとしたが、最後まで言えずに彼に遮られてしまった。
「投了がおせえ!!」
そうして拳を振りかぶった彼の姿は、男にはさながら刀を構えた死刑執行人のように見えた事だろう。
『我流・ゴリ押し空手・刃把波爆裂拳』
彼は丸太のように膨らんだ腕を、先程と何ら変わりない速さで男の水球に打ち込んだ。
「ぐ、ああああ!!!」
男の防御能力は優秀であったが、それでも到底耐えきれるものではなかった。普通なら持て余してしまう筋肉のはずだが、彼のパンチが手打ちになってしまう事はなく、しっかりと腰の入った拳が打ち込まれていた。
水球はどんどんと引き伸ばされていく。そして、やがて……
「待て!!まいった!!まいったあああああ!!」
限界まで薄く伸ばされた水球は、男が恐怖で叫ぶのと同時に、ゴム風船が爆ぜるような音を出して破裂し、霧散した。
水球に最後の一撃を加えた彼の右拳が、そのまま男の腹部に突き刺さる。
「ぐぼぇ!!」
拳の勢いはほぼ水球によって相殺されているはずだったが、それでも男は、軽々ときりもみしながら吹き飛んだ。
「が……っ!」
すぐに男が、どこかに激しく叩きつけられる音がする。彼は追撃を加えようと物凄いスピードで男を追いかけたが、途中で何かに気付き、その足をピタリと止めた。
一本の大きな木。おそらくそこに背中から思い切り叩きつけられたのだろう。男はがっくりと首を落とし、その木に背を預けきっていた。もはや追撃の必要はなかったのだ。
「……ふうむ?」
彼はそれを確認すると、自分の拳を見つめながら、小首を傾げた。
やられたように見せかけ、油断させて襲いかかる。まだそうしたブラフの可能性も無くはない状況であったが、彼はそれには全く構わず、さっさと戦闘態勢を解いてしまった。
それはもう無い。彼はそう確信していたのだ。
「……ずいぶん軽いな。筋トレをお勧めするぜ」
水球による防御の無い男の体は、パワーアップした彼の前では、まるで羽のような軽さだった。もしかすると、通常状態の彼でもそう感じたかもしれない。そう思ってしまう程、彼の拳には手応えが残らなかったのである。
結局、男は兵器に頼りきりの人間だったのだ。持っているだけで簡単に圧倒的な力を得る事の出来るそれに甘えて、本来やるべき鍛錬を怠っていたのだろう。兵器の扱いには長けていたが、ただそれだけだった。
「やっぱりシステマーだよ。お前」
うなだれる男を見下ろしながら言った、再度のこの彼のセリフにより、勝負は完全に決せられた。彼の完全勝利である。時間にして十数分という短い攻防ではあったが、彼が持つ様々な力が、十二分に発揮された戦闘だったと言えよう。
外での初めての戦いであったが、なんとか勝って終わる事が出来た。自分の力は、外でもちゃんと通じるのだ。これなら問題無く、これからも旅を続けられそうである。
「……んっ……くう~!……っとと」
そう思いながら伸びをして、なんとはなしに上を見上げてみた時、彼は突然目の前に広がった光景に軽いめまいを覚え、後ろに倒れ込みそうになった。
吸い込まれそうな夜空とは、こういうものの事を言うのかもしれない。いつの間にやら台風一過のように晴れ渡った夜空に、月がぽっかりと浮かんでいた。あの雨を降らしていた厚い雲はもうすっかりどこかへと消え去っていて、一欠片の後塵さえも残ってはいなかったのだ。
彼は、その澄み切った空気の中、月の光を一身に受けながら、深く深く、息を吐いた。
終わってみれば余裕の戦いだったとは言え、やはり何だかんだで肩肘を張っていたらしい事にそこで気が付く。そのどこかで凝り固まってしまった緊張の塊を解そうと、彼は大きく肩を回した。
今度はもう少し、リラックスして戦いに臨みたい所。再び静けさを取り戻した森の中、ゴキゴキと音を鳴らしながら、しばらくそうして体の具合を見ていた彼だったが、途中で何かを思い出したようにハッとして、男の方に向き直った。
そうゆっくりもしていられないのだった。すぐに確認しなければならない事があったのだ。
「……いけねえいけねえ。忘れてたぜ」
男が兵器を自称し、用いてきた“鏡花水月”と呼ばれるもの。それが、自分の知っているあの鏡花水月なのか、否か。それを直に見て確認しなければならない。
名前と能力が偶然同じなだけの、ただの兵器であるという可能性もある。それならそれで良い。ただ取り上げて使えないようにしてやればいいだけで、難しい事は何も無いからだ。
問題は、これが兵器以上のものだった場合である。そして現時点で、既にその可能性は限りなく高かった。名前と能力が同じというのは、偶然にしては出来過ぎている。
これがもし本物の鏡花水月なら、自分の旅は想像以上に大変なものとなるかもしれない。
と、彼が顔をしかめながら、まさに男に腕を伸ばしかけた、その時だった。
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